2018年12月28日金曜日

メタ認知について

 先週の話題であった「メタ認知」について私も考えてみたいと思います。

「小学校学習指導要領解説・総則」「第3章 教育課程の編成及び実施」においても、次のような文言があります。

 児童一人一人がよりよい社会や幸福な人生を切り拓 ひらいていくためには,主体的に学習に取り組む態度も含めた学びに向かう力や,自己の感情や行動を統制する力,よりよい生活や人間関係を自主的に形成する態度等が必要となる。これらは,自分の思考や行動を客観的に把握し認識する,いわゆる「メタ認知」に関わる力を含むものである。こうした力は,社会や生活の中で児童が様々な困難に直面する可能性を低くしたり,直面した困難への対処方法を見いだしたりできるようにすることにつながる重要な力である。(下線は筆者による)

 「メタ認知」とは自分のことを一つ高い視点から客観視するという感じだと思っています。 「メタ」とは「〜を超えた」と言う意味をもつ言葉であり、自分の置かれた状況や自分の思考や感情について、もう一人の自分がそれを冷静にモニタリングしているイメージのように思います。何かを学んでいる状況で、「ここのところはこんなふうに解釈してみた」「この部分はまだすっきりと理解できていない」など、自分の学びを振り返ることができることがメタ認知能力です。

 メタ認知能力があると、何かトラブルが発生した時などでも、それに巻き込まれてパニックに陥ることなく、直面している課題に対して冷静に適切な判断を下せるようになります。学習指導要領にも記載のあるこの能力にも目を向けていきたいものです。評価の問題はこのブログでも何回も取り上げていますが、形成的評価を今まで以上に充実させていくためにも、子ども自身に学習改善を進める力をつけるという意味で、メタ認知能力の育成は大切なものであると考えます。

『新しい教育評価入門』(西岡加名恵ほか編/有斐閣2015)によると次のような一文があります。(72ページ)

子どもたち同士による相互評価や教師との対話によって評価基準を共有することが、メタ認知能力を育てていくうえで有効であると考えられるようになってきている。

このような学習活動を成立させるためには、学習課題が選択できたり、子どもたちの自主的、自発的な学習が促進されたりする必要があります。どの教科においても、自ら問題を見いだし,解決するための方法を考え,実践し,その結果を評価・改善するという機会が求められます。そのような授業での課題づくりや課題発見のために、自校の学校図書館や地域にある社会教育施設(地域の図書館や博物館,美術館,劇場,音楽堂等の施設など)を活用することが従来以上に大切になると思います。それらの施設が近隣になければ、今はネット社会ですから、様々なIT機器を利用して情報収集も可能です。まさに、このブログのパートナーが常々書いている次の言葉が重要です。

Whatever It Takes !』 「やれることは何でもやる」

1年間、このブログを読んでいただき誠にありがとうございました。
また、来年も引き続きお読みいただければ幸いです。

 

2018年12月23日日曜日

自立した学び手に育てるためにできること


あなたは、生徒たちを自立した学び手(考え手、問題解決者、探究者)に育てるために何をしていますか?
教師がいなくても、教科書がなくても、学校がなくても、学び続けられるようにするために、していることです。

いろいろあり得ますが、今日取り上げるのは「メタ認知」です。
最近聞くことが増えている言葉の一つだと思いますが、「メタ認知」についておさらいをしましょう。
メタ認知とは、自分が考えていることについて考えられることです。
自分は何を学ぶべきなのかや、覚えるべきなのかではなく、
どうしたら自分はそれを一番よく学ぶことができるのか、を明らかにすることです。
自立した学び手になるためには欠かせないスキルと言えます。

でも、それって教えることができるのか、という疑問がわくと思います。
できるのです!!

どうやって?
各自が一番よく学べる時はどんなときかを考えてもらうことで。
●具体的には、次のような7つの質問をすることで、
・最初に何をしたらいいのか?
・まだモヤモヤしていることは何か?
・自分が学んだことを説明できるか?
・助けを求めるべきだったか?
・なぜ、この答えを間違えたのか?
・これは別な状況に応用できるか?
・次にもっとうまくやるにはどうしたらいいか?

(もちろん、7つを一度に全部尋ねる必要はありません。)
こうした質問は、次にする時の助けになり、自分の強みや弱みを理解する(振り返ること)ことで、自分の学び方を改善することができます。

自分の思考/学びをクリティカルに分析し(単に「批判的」に分析するのではありません。何は大切で、何は大切でないのかを見極められるようにするのです!)、それに基づいてよりよい選択/行動ができるようになります。

これを繰り返すことで、効果的な準備/計画、モニタリング(観察/測定)、振り返り/自己評価ができる力を磨くことができるようになっていきます。

●もう一つ参考になるアプローチとして(上記の質問とかぶるところもありますが)、
・すべては分かっていないことを認める
・挑戦しがいがある、現実的な目標を設定する
・取り組みはじめる前に、準備/計画をしっかりする
・自分がよりよい選択をするために、他の人のフィードバックを求める
・提供されたフィードバックをうまく活用する
・自分のパフォーマンスをモニターする(最後で苦しまないように!)
・ジャーナルを付ける
・いい質問を自分自身に投げかける(自問自答する) → 上記の7つの質問など

以上をリストアップして気づいたのは、来年2月に発売予定の『教科書では学べない数学的思考――「ウ~ン!」と「アハ!」から学ぶ』とまったく同じだということです。
私たちは、長年(少なくとも10年ぐらい、私の場合は13年も)算数・数学を学びましたが、残念ながら「数学的思考力」は身につきません。していたのは、ずっと「正解当てっこゲーム」でした。単に、正解を出せればいいのと、数学的思考を身につけることは、まったくの別物です! それではまずいと、(55歳を過ぎて)一念発起して数学的思考力が身につく本を探して見つけたのが、上記の本だったというわけです。
ちなみに、数学的思考力=問題解決能力なので、この本は数学的問題だけでなく、世の中にあるすべての問題を扱う際にも役立ちます。(算数・数学で、そんなふうに教えてもらったこと、ありますか?) 目標設定・実現能力を身につけることも含めて、上記の8つのことが不可欠なのですが、算数・数学の授業でこれらはほとんど丸ごと抜け落ちています。

●話を、「メタ認知」に戻します。その他の重要なポイントとして、以下の点も覚えておいてください。
・授業(作業)中に、しばしの時間(1~2分)をとって振り返る。
・学ぶことと正解を得ることの違いを強調する。 → これは、成長マインドセットと固定マインドセットの違いに発展します。①浅い(表面的で、受け身的な)学びか、それとも②深い学びをつくり出せるかの分かれ目が、メタ認知とも言えます。前者の特徴は、「クラスに遅刻しない」「教師の話しをよく聴く」「板書をノートに取る」「教科書をよく読む」「ノートを見直す」などに表されます。それに対して後者は、「自分の質問を出す」「正解を見るために自分なりの答えを考えてみる」「ノートは閉じて、どれだけ覚えているかテストする」「分かりにくいところは友だちか先生に尋ねる」などの行動に表れます。
・明確かつ意図的に行う。
・やりすぎない。


参考(資料):『増補版「考える力」はこうしてつける』
       『教科書では学べない数学的思考――「ウ~ン!」と「アハ!」から学ぶ』
       『読み聞かせは魔法!』の「考え聞かせ」の章

2018年12月15日土曜日

かちこち学校スタンダードに踊らされない、効果的なしなやか学校スタンダードとは

昨今、学校スタンダードへの批判を目にするようになりました。学校スタンダードとは、全校あげて取り組むべき学校の具体的なスタンダード(基準)です。子ども達が守るべき約束の形式で示されたりもします。どの教室においても教師が同じ指導を徹底できるように、しっかりと子ども達を管理するように示された、いわば学校ルールのようなものです。

下記はある小学校の学校スタンダードです。
・いすにしっかり腰掛け、 背筋を伸ばす
・教室移動は並んで歩き 防災ずきんを持参する★
・日直や係の号令で始まりと終わりを明確にする
・晴れた日はできる限り外遊びをする 

なにか非常に違和感というか息苦しさをもちませんか?

一方、こちらは別の教育委員会が出している小学校の授業スタンダードです。
・発言するときのルールが徹底されている。(挙手、返事、起立) 
・「単元名」、「学習のめあて」を明示している。 
・構造的な板書をしている。 
・「学習のめあて」が達成できたか、児童・生徒の振り返り(自己評価)の場を設定している。 
・児童・生徒を机間指導で評価し、到達度も把握している。 
授業そのものに関することも多くなりましたがまだまだです。★★

こういったガイドラインを一律にそろえることで、だれもがよい授業ができると思っているのでしたら、管理職や教育委員会の考えることの放棄としてか言いようがありません。

最初に結論を述べておくと、学校スタンダードは必要です。それがなければ、学級王国だらけで、学校としての体をなしません。では、なぜこのような学校スタンダードが求められるのでしょうか。昨今、若年層の教師が増加しはじめています。学習経験の浅い教師が学校現場で困らぬよう、先輩教師たちから親心としての学校スタンダードなのでしょう。

経験の浅い教師と熟練の教師では、学習経験の浅い教員が1年かけて教えている横で、熟練の教師はその半年分で学習効果をあげてしまう歴然の差があります。保護者から、学級によって差が生まれないように求められることも多々ありますが、学校スタンダードだけでは学習の差を埋めることはできません。

一方、学校スタンダードをそつなく流せるようになった教師は、指導主事からも称賛されます。それもそのはず、教育委員会がつくった学校スタンダードですから。それさえをやっておけばよいと、教師はその評価に安住してしまいます。授業の意図を考えようとしなくなり、本質や教育理念を考えようともしない「思考停止の管理職や指導主事に忖度する教師」が育ちはじめています。教師の持つ主体性を消し去ってしてしまう機能を持つスタンダード、これは考えることの放棄といった大問題です。まさにかちこちマインドセットを育成してしまう能力無視のかちこち学校スタンダードです。★★★

学校全体を即席にチームとしてみせるためには、上記のようなルールを委員会、管理職より下ろすのがてっとりばやく、また学校がチームとして整っているように見せるには効果覿面です。端から見ると、そろっているように見えますし、なによりも管理職は一時的にはそのコントロール感から安心できます。

ここで抜け落ちているのは、ルールが目的化されてしまい、そこで生で学んでいる教師や子どもの視点が抜け落ちてしまっていることです。さらに問題な点は、このような学校スタンダードが現場の教員たちには歓迎されてはおらず、子どももその時の様子に寄り添いづらくしています。もちろん子どもも歓迎してはいません。

しかし、本当に上記の学校スタンダードのような学習のめあてと、授業のまとめを板書することで、子ども達に何が育っているのでしょうか。教師が板書を書くのを口を開けて待っている子を育てていませんか。きれいにノートへ写せた子どもを褒めてしまってはいませんか。それらは子どもが自分で考えた言葉なのでしょうか。形式的に、指導書を丸写しとなっていませんか。子ども達が高学年になってくれば、そのような教師からの一方的な学校スタンダードをなぞったような授業では、学習の意味を見い出せない子がでてきます。子どもは本来、型にはまりたいのではありません。自分でよりよく考えたいのです。



学校全体で大事にしたいスタンダードとは一体なんでしょうか。細かいスタンダードづくりで外堀を埋めるだけで終わらせず、エビデンスに基づいた学習★★★★に最も効果的な本丸とは一体なんなのでしょうか。

それは、①「学習の意図が明確であること」②「望まれた学習が達成されたかどうかがわかる達成基準があること」であり、③「教師集団がそれについて話し合い続けていること」です。

上記の学校スタンダードにある「学習のめあて」を明示だけではおしいのです。これだけでは、学習者がどうしたらそれを達成できたのか、明確な達成基準を共有してはじめて、ふりかえりに学習者の自己評価が活きてきます。学習の意図、そして達成基準を明確にしない授業では、とりあえずパスをもらってドリブルし続けるサッカーのようなものです。目指すべきゴールもそのレベルも見当たりません。まず、教師自身が教えることをはっきり分かっていなければ、すぐれた評価を開発できないのです。学習の意図(アウトカム)がはっきりしていることは、何をどう教え、学習者がどうなっていってほしいのか、形成的評価の中核なのです。

ライティングワークショップやリーディングワークショップといったワークショップ授業のもつ難しさとは、こういった学習の意図や達成基準を各自でデザインしていくところにあります。教科書のみを頼りに学習している限りは安心ですが、自分で考え授業をつくっていこうとする「しなやかな思考」生まれません。こういった、学習意図や評価を対話しながら、教師集団で練り上げていくのです。

学習の意図、達成基準づくりのポイントとして以下の6点が挙げられます。これらを教員たち同士でよく話し合ってみてください。これらは委員会が提示してる授業のスタンだー痔オとは真逆です!★★★★

①基本的な知識・技能といった浅い理解と、関連や思考を促す深い理解、自分の学びを俯瞰してみるメタ認知をバランスよく取り入れているか?
②教えるべきカリキュラムに適合しているか?
③短期間で成し遂げることなのか?長期間かけて身につけることなのか?
④具体的にやる活動やその難易度を明らかにし、学習者にとって簡単すぎで退屈にならないか、かつ難し過ぎてモチベーションがわかないものになっていないか?
⑤フィードバックを効果的に用いて、形成的に支援し続けられるか?
⑥学んでほしいことを学習者に分かるように伝えているか?

授業では、この学習の意図と達成基準を繰り返し共有していきます。授業の終わりや単元の終わりには、学習の意図の確認し、どれだけ達成できたのか学習者自身が理解できるようにしていきます。これはとても効果的な教え方の一つです。そのふりかえりを学習ジャーナルに継続的に学習者が書き続けていきます。

また、子ども達の学習は決して直線的ではなく、当初、意図していなかった結果を認識させられることもしばしば。そこでは、学習の計画をつくりかえることも重要です。みんなペースやレディネスが違うからです。個に寄り添ったカンファランスアプローチが必要となってくるのです。



子ども達を、規律で縛り続け、時計の針ばかりを見続けさせる退屈な授業でよいのでしょうか? 授業の意図を明確にすること。そしてそれを見とどける評価基準をも明らかにし、学習者と共有していくこと。この授業デザインをもって、学校スタンダードをつくり始めてみるのはどうでしょうか?


★なんのための防災ずきん?

★★ちなみにこのような情報は、学校のホームページに記載されているため、ネットでさがせばいくらでも見つけられます。
http://www.sagamihara-koyo-e.ed.jp/H27koyo_standard.pdf
https://www.city.tachikawa.lg.jp/shido/documents/tachikawa_00.pdf

★★★
かちこちマインドセットとしなやかマインドセットについては、以下の本が参考になります。2冊目の方は、これまで訳されていなかった海外事例の章も新たに訳されています。
『「やればできる!」の研究―能力を開花させるマインドセットの力』キャロル S.ドゥエック (著), 今西 康子 (翻訳) 2008
『マインドセット「やればできる! 」の研究』キャロル・S・ドゥエック  (著), 今西康子 (翻訳)2016

★★★★
「エビデンスに基づく教育」(Evidence-based Education)とは,教育研究によって政策や実践を実証的に裏づけることを意味する言葉。

★★★★★
『学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編◆』原田信之 (著), ジョン・ハッテイ (著)の「5章 授業を始める」を参考にまとめたものです。








2018年12月9日日曜日

あなたは平等派? それとも公正派?

equality equity」で検索すると、この違いを見事に表しているたくさんのイラストを見ることができます。
そのうちの一つを下に貼り付けます。

日本の教育は「平等(equality)」に扱うことを、殊の外、重視していますが、それでは、右側の子たちはいつまでたっても、野球を観戦することすらできない状況に置かれているのです(それで、教育をしていると言えるでしょうか?!)

それに対して、「公平ないし公正(equity)」な対応が右側のイラストです。
これこそが個々のニーズに応じた対応と言えるのではないでしょうか?
まさに、キャロル・トムリンソン著の『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と『一人ひとりをいかす評価』や、『オープニングマインド――子どもの心をひらく授業』のアプローチです。
踏み台は、個々の子どもが必要としているニーズの量を表しており、それに対応すべき教師の量を表しているとも言えます。

一番左側の子(人?)に踏み台を提供していないのは、どのように解釈できるでしょうか? 
背が高い子どもはほったらかしにしておいていいのかというと、そうではありません。背の高い子がさらに伸びるサポートには気を配ります。(最大限に伸びれるように、「楽しく、意味を感じられ、熱中できる」取り組みができるようにします。)


なお、上記の画像には、reality(現実)やliberation(解放)という形で、オリジナルのイラストとは異なるバージョンまで提示してくれています。
この辺も、アメリカ人のユーモア(ブラック・ユーモア?)です。
平等の名の下に努力している結果、実際につくり出している結果は「現実」なのですから。
自分たちのしていることを振り返るには、「現実」がないと本当は気づけないかもしれません。
さらに、「解放」は、教師の支援や枠組みからの解放を意味します。

このように、教師には(常に)選択肢があります。
あなたは、どれを選びますか?

なお、最後の「解放」はひょっとしたら、授業や学校という枠組み自体からの解放すら意味するかもしれません。
でも、ご心配なく、みんなまだ野球場にはいますから(各自が、サッカー場、バレーのコート、水泳のプール、将棋の対戦に好き勝手に行っているわけではありません)!

日本人は、公平/公正のセンスが弱いだけでなく、ユーモアのセンスも残念ながら乏しいです! 多様性が乏しいのが原因でしょうか? この辺が、社会が膠着しやすい要因の一つのような気がします。学校教育の膠着度は、目を覆いたくなるレベルです! その膠着状況から抜け出す最善の方法の一つが、選択肢を意識することだと思います。選択肢が存在しなければ、膠着ないし固定は約束されていますが、選択できる状態であれば、変化や改善が期待できるからです。(このことは、授業を受けている生徒たちにも言えます。ぜひ選択を提供してあげてください!)


2018年12月2日日曜日

どうすればいい!危機にある教師の自主的勉強会

私にとって、自主的な勉強会(様々な呼び名があるようで、英語では、teacher support groups, study groups, teacher networks, learning circlelsなどと呼ばれているようです) は、気の合う仲間で集まって、輪読会をしたり、授業について語り合ったり、時に、先輩と衝突したり、とても刺激的で、楽しみのある場所でした。公的な研修と違い、自分たちでやりたいことを選び、自分たちで運営していく。とてもスリリングで、いつも集まりの日が待ち遠しかったことを記憶しています。

ここ数年、教員が主体的に集まる勉強会やサークルが成立しずらくなっていると感じます。皆さんの周りではどうでしょうか?業務の多忙化により精神的な余裕がなくなっていることや、週末の部活動の影響(これは改善の途上にあると言えるかもしれません)、管理主義の強まりや義務的な研修の増加(それによる自主的な研修を避ける傾向)など、様々な要因が背景にあると思われます。働き方改革が叫ばれる中で、週末に集まるなどもってのほかと思っている人もいるかもしれません(自分で選んで集まっているのだから関係ないと思うのですが)。職場を離れてまでも、仕事について熱く語り合うといったことは、時代遅れになってしまったのでしょうか。

自主的(ボランタリー)な集まりであるがゆえの、良さも限界もあると思いますが、今一度、そのような活動の価値を再認識する必要があるのではないかと思います。与えられる研修、与えられる業務だけで、満足していいのか。Richard and Farrel(2005)によれば、このような主体的な集まりは、プロの教師コミュニティーとして機能するようになり、教師としての知識や探究の妥当性を検証する場を提供してれると述べています(p.51)。

うまく行くグループもありますし、途中で空中分解してしまうグループもあります。教師の自主的な勉強会は、どうつくり、どう運営していけばいいのか、Richard and Farrel(2005)を参考に、整理してみます(pp.52-67, 同書では teacher support groupと呼んでいます)。

◉目的や意義
・授業や指導計画の検証、振り返り
・教材開発
・新しい指導法を試す。
・授業を相互観察する。(ビデオ視聴含む)
・雑誌などに共同で投稿する。
・研究プロジェクトを実施する。
・セミナーやワークショップを開催する。
・気づきが生まれる。
・仕事への動機付けが高まる、互いにエンパワーされる。
・協働を生む(教師は教室で一人で働く時間が大半)。
・成果を学校に還元することで、学校改革のイニシアティブを取る。
・成果は生徒に還元される。*  

◉効果的なグループ活動のために
☆グループサイズ
5人から8人が理想的。これを超えると、聞くだけ、参加するだけのメンバーが生まれる。大人数になったら、役割別の小グループをつくる方が良い。

☆役割
リーダーを置くかどうかはグループ次第だが、ファシリテータ役がいる方が、うまくいくことが多い。**

☆グループの目標
グループができた時は、一般的な目標しかない場合が多い。初期の集まりで、全員で話し合い、より明確で具体的な目標を設定する。メンバーが知り合って間もないこともあるので、最初は比較的短期間で達成しやすい目標を設定して取り組むことが成功の秘訣。その後、グループの取り組みを検証し、新しい、長期的な目標設定をする。

☆うまくいかなくなった時
メンバーのコミットメントがあり、良い聞き手であろうとする姿勢をもっているうちは、問題の解決は比較的容易。以下のようなことに留意したい:

1)不平不満(特に個人に対する)に時間を費やさない。目標や成果に時間を費やす。
2)支援的フィードバックを心がける。
3)セラピーが目的ではない(治療的行為は専門家に任せるべき)。
4)おしゃべりの時間ではなく、対話の時間であると捉えておく。
5)実践的であるべき(新しい指導法について議論するだけでなく、実際に試してみることを重視する。)。
6)課題解決に取り組む仲間に対する支援や激励を重視する。
 
忙しくても、私用があっても、なんとかやりくりをして、必ず駆けつけたい、そのような学びの場、学ぶ仲間を持ちたいと思いませんか。


*グループの活動自体が目的化してしまい、これを忘れがちなることはよく起こるものです。私たちのミッションは何だったのか、常に振り返りながら進めることが必要だと言えます。また、この観点で、今ある研修を見直してみる必要もありそうです。

**ファシリテータへの依存は、子どもの教師への依存と同じになってしまうので、ファシリテータなしの方が良いという考え方もあるようです。ウイギンスさんの『最高の授業』で紹介されているスパイダー討論では、教師の介入を否定しています。

[参考文献]
Jack Richards and Thomas Farrell (2005) Professional Development for Language Teachers, Cambridge.

2018年11月23日金曜日

文部省著作教科書「民主主義」

本の帯は、書店で平積みになっている本をPRする点で重要です。
ある日、仕事帰りに書店に立ち寄ると「読み終えて、天を仰いで嘆息した」と帯に書かれている本を見つけました。このPR文の書き手は内田樹さんのようです。そこで、手に取って中身を読むことにしました。本のタイトルは「民主主義」(著作・文部省)角川ソフィア文庫(2018)です。この本は、中高生に「民主主義」を教えるために書かれた教科書とのことです。
もちろん当時はまだGHQが日本にいた時代に書かれたので、GHQの検閲もあり、そうした占領軍への配慮もしながら、民主主義について解説したわけです。

読み進めると面白い発見が次々と出てくるではありませんか。
14章「民主主義の学び方」の第二節「学校教育の刷新」には次のようなくだりがありました。

これまでの日本の教育は、一口でいえば、「上から教え込む」教育であり、「詰め込み教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分では真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のためにするのではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。

これが出版されたのは昭和23年から24年にかけてのことでした。なんとこの70年間、わが国の学校教育はここで指摘された状態がそのまま続いてきたわけです。もちろん、各地で「刷新」と呼ぶにふさわしい実践があったかも知れませんが、大勢はここで指摘されたことが紛れもなく続いてきたと言えるでしょう。

また、次のような一文もあります。

がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。

今の文科省の職員と中教審のメンバーに読ませたいものですね。
小学校英語、プログラミング教育、道徳の教科化と、どれをとっても「そのときどきの政策」が教育に介入してきたものばかりです。また、道徳に関しては、次のような文言もありました。

 ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹きこまれてきた。そのために、日本人には何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。
 公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。

 「縦の道徳」とはうまい表現です。現在の道徳の教科化がこの方向の復活にならないことを切に願いますが、個人としての人格の完成を目指す教育を忘れずに進めたいものです。
歴史に学ぶことは大切ですね。過去の過ちを繰り返さないようにするためにも。

先ほどの「上から教え込む」教育にならないような方法は、この「PLCだより」で数多く取り上げてきたと思いますので、それらを参考に、まずは校内で実践してみましょう。
そして、その情報をオープンにして、知りたいという人にはどんどん情報を提供していきましょう。それが今一人一人ができることの第一歩だと思います。
 


2018年11月18日日曜日

フィードバックは与えて終わり?


以前のPLC便りで「学力向上に効果的なフィードバックとは?」では、フィードバックがカンファランス場面(個別指導)において、生徒の学びに効果が高いことをお伝えしました。

今回は、フィードバックをしたその後についてです。フィードバックは与えて終わりではないということです。

教員初任者の頃、先輩教師に「見とどけ」が大切だと何度も繰り返し指導されました。子ども同士のケンカや下校班でのトラブルなどでは、1週間後にもう一度子ども達を集めてその後の様子を聞いてみる、問題となっていないか確かめ、「見とどけ」ることでした。
つまり、問題が起こったときに、教師のフィードバックしたことが、相手にとってどのように受け取られたか、またどのような効果があったのかを確かめることです。
これは生徒の学びの質を高めるためにおけるフィードバックでも同様に重要なことです。★
フィードバックというと、教師から一方的に与えるものと捉えられがちですが、相手の反応があってこそのフィードバックです。これは、決して教師からの一方的なフィードバック量を増やすことではありません。ですが、一方的にその量を与える授業はよくみられがちです。
体育の授業では1コマあたり、100回以上の教師からの声かけで授業の雰囲気が変わり、その中でも矯正的なフィードバックが効果的であるといった研究授業もあります。ここでは、その矯正的なフィードバック(例えば、バスケットボールをパスするときは一歩足を前に出して投げ、手首のスナップを使おう)が、学習者にどう受け取られ、学習者がどう試みようとされているのか、フィードバックのその後の質が問われているにもかかわらず、与えることに集中してしまうのです。

教師によって与えられるフィードバックの多くは、学級全体に向けられており、そのほとんどをどの学習者も受け取っていません。なぜなら、どの学習者もそのフィードバックが自分に関係あると考えていないからです(カーレス、2006★★)。

一斉講義型の授業において、教師による一方的な全体への説明だけでは、やはり個々の生徒へは届いていません。自分のこととして受け取ってくれていない事実がここにあります。これはワークショップ授業におけるミニレッスンにおいても同じ問題をはらんでいます。だからこそ、個別カンファランスでていねいに見とどけることが必要です。

一般的に教師はいかに効果的にフィードバックを与えるのかという視点では★★★、よく考えています。しかし、それが学習者にどう伝わっているかについてまでは、及んでいないことも多くありそうです。フィードバックは与えて決して終わりではなく、「相手にとって」どう受け取られたのかまでしっかり最後まで見とどけることなのです。

フィードバックとは、学習者が初心者から有能に進歩していく過程で与えられるものです。教師は、学習者の今を見て、フィードバックを効果的に与え、見とどけをするところまで求められます。これはたんにテストの点数を上げるための学力向上ではない、本来の学びの質そのもの上げるために必要なことです。教師が学習者にフィードバックし関わり続けること、支援し続けることこそが、形成的評価に支えられ、学習の質を高めるのです。



★「教師は、学習の中で生徒が今いるポイントに適切にフィードバックを与え、フィードバックが適切に受けとられたことを示すエビデンスを求めている。」『学習に何が最も効果的か メタ分析による学習の可視化教師編』ジョン・ハッティ P.185
より

★★
Carless, D. 2006. Differing perceptions in the feedback process. Studies in Higher Education 31, no. 2: 219–33.

★★★
認知面を伸ばすには、学習の3つのレベル向けてフィードバックすることです。
レベル1 浅い学びとしての基本的な知識・技能(かけ算九九の仕組みを理解しているか、覚えているか)
レベル2 深い学びとしての考え方や学び方(かけ算九九とこれまでの筆算の形式をつかって、2桁×2桁の筆算を自分でつくろうと、問題解決しているか)
レベル3 自分をふりかえるメタ認知(自分の問題解決をふりかえり、取り組み初めの気持ちや自信、どこで解法のアイデアがひらめいたかなど)
目指すべきフィードバックは、レベル1の知識・技能からレベル2の考え方・思考法へ、さらにはレベル3のメタ認知へと、より高度なレベルへと適切に与えていきます。
①「今、どんなかんじかな?(What?)」とその学習の現状の進み具合を確かめます。
②「何ができるといいの?(So what?)」とその学習の目的や到達度を問いかけ、現状とのギャップを見つけます。
③「じゃぁ、何をしようか?(Now what?)」とそのギャップを埋めるために、具体的に次の行動目標を示すことです。この際、レベル1〜3に応じて、知識・技能を理解するためのアドバイスや、問題解決のプロセスの仕方への援助、ふりかえりの視点をフィードバックしていきます。

2018年11月11日日曜日

教育とイノベーション



日本の教育でイノベーションという言葉が使われることは、まだあまりないと思います。★

イノベーション(英: innovation)とは、物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には「新しい技術の発明を指す」と誤解されているが、それだけでなく「新しいアイディアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する」(以上、ウィキペディア)言葉です。

本ブログで紹介してきたengagement https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post_15.html)やagency
https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/02/agencyagent.html)と同じレベルで、教育や授業で大切にされていないといけない言葉/概念(考え方)です。教育や授業を含めて、イノベーションを大切にするとはどういうことかを考えていたら、いい資料を見つけました。それは、次にリストアップしたことを実践することが、イコール「イノベーションを大切にする」だというのですから分かりやすいと思います。

①生徒(学ぶこと)に焦点を当てる。
②疑問があったら、試してみる。
③まずは見本/モデルを作ってみる。
④協力して取り組む。
⑤曖昧さを受け入れる。
⑥常にマインドフルに行動する。
  見える形で進める。

以下に解説を加えます。

① いま行われている教育や授業のほとんどは、残念ながら教師/教えることが中心です。生徒や学ぶことは、それに付随する形で「お付き合い」のレベルで存在していますから、学びの質と量は極めて少ないままが続きます。(これは、上記の「agency」と「engagement」と密接に関係しています。教師主導ないし教科書主導の授業で、これら2つをつくり出すことはほぼ不可能です。)それを生徒/学ぶことに焦点を当てることは、まさに新機軸であり、イノベーションです。ひょっとしたら、すべてを逆さまにやらないといけないぐらいの!

② 疑問や質問がわかないと、何も動き出さないことを意味します。それほど、現状を「おかしいんじゃないか?」「もっと他にいいやり方があるんじゃないか?」と思えることは大切だということです。教育や授業で、ベストの方法は存在しないのですから。

③ これは②と直結していますが、試すためには「見本/モデル」が不可欠です。まずは現状に代わる代替案をつくってみて、試してみるのです。そして、それをドンドン修正・改善していきます。★★

④ その際に、一人でするよりも、最低でも二人、願わくは三人ですることが望ましいです。よりよいアイディアを得るためにも、継続的に取り組むためにも。しかし、最初から人数が多くなりすぎると、イノベーションは起こらなくなってしまいます。今の多くの学校のように。『校長先生という仕事』で詳しく紹介されている「変化の原則」をしっかり認識することが大切です。(本ブログの左上に「変化の原則」を書き込んで検索すると、その一部が紹介されています。)

⑤ 教育と授業に、確実なものなどありません。学習指導要領や教科書ですら、時間と共に「変わります」。一つの指導案が、すべての生徒に対して機能することはありません。★★★ 対象や時間や、その場の環境や関係性次第で、臨機応変に対応することが欠かせません。曖昧さや不確実さを前提にすることが、イノベーションを起こすことに通じています。

⑥ 「マインドフル」という言葉も、「イノベーション」と同じレベルで、まだ教育界では受け入れられていない言葉の一つと言えるかもしれません。とても大切な言葉であるだけでなく、実践されることが求められています。『校長先生という仕事」の中(218~219ページ)では、「いろいろな視点から物事を捉えることができ、新しい情報等に心が開かれており、細かい点をも配慮することができ、従来の枠の中に納まっているよりもはるかに大きな、人々の可能性を信じることができる」ことと定義しています。それに対する「マインドレス」は、「物事への注意を欠いたり、柔軟性や応用力のない心の状態」です。両者を比較した表が掲載されていますので、興味をもたれた方は、ぜひチェックしてみてください。

⑦ 隠れてするのではなく、ブログ等でプロセスを含めて同僚たちには見えるようにしながら、実験を進めていくことが大切です。興味のある人には、常に門は開けておく、ということです。それによって、徐々に興味関心の輪を広げられるかもしれませんし、自分たちの実践のポートフォリオができ、かつ振り返りまでできますから、一石二鳥です。

来春には、教育とイノベーションをテーマにした本(日本の教育風土からは残念ながら出てこないので、翻訳書です)を出します! 楽しみにしていてください。

最後まで書いてきて思ったことは、「innovationengagementagency(+critical thinking)抜きで教育を語れるのかな?」ということです。しかし、そうであり続けているのが日本の教育? それは、真の教育とは言えるでしょうか? 単に、暗記と従順さや忖度を教えているだけではないでしょうか? (この辺について詳しく書いてあるのが、『遊びが学びに欠かせないわけ』です。)


★ 日本でも、ビジネス/産業界ではだいぶ前から、この言葉は当たり前になっています。それなしでは存続できないので。

★★ ①~③を実際にモデルとして示してくれている例が、『成績をハックする』です。

★★★ 悲しいかな、これは歴然とした事実です。