2011年12月25日日曜日

学校評価・考

これも、12月14日の「あらためて、問い直すこと」が必要な項目の一つです。
 つまり、いまの学校教育の中で起こってしまっているたくさんの構造的な問題というか、「ボタンの掛け違え」問題の一つです。

 そもそも、教育委員会や文科省が、効果のあるものならモデルを示す形で率先して取り組むべきですが、これらのレベルで見本にできるような「組織評価」の例はまったく聞いたことがありません。文科省や教育委員会は、学校や先生たちにやらせることには忙しくても、自分たちですることはほとんどありません。教育で大切なのは、指示したり、教えたりすることではなく、モデルで示すことなのに。★

 先週の記事では、いまの学校評価が機能していないと現状を明らかにした上で★★、それを機能させるためには「外部の専門家集団」に頼るのがいいと提案しています。確かに、イギリスには長い歴史があり、このアプローチを導入しているアメリカのいくつかの地域もあります。

 しかし、日本で機能するかと言われても、残念ながらその「専門家」が少なすぎます。「いない」と言ったほうがいいかもしれません。
 (ある意味では、教員養成課程を4年から6年に延長=教員全員大学院卒という無謀な提案と同じです。効果的に教えられる「専門家」が大学に少なすぎる/ほとんどいない状況=効果的に「教員養成ができるシステムとして大学が機能していない」状況で、年数を長くして、いったいどういう効果が得られるというのでしょうか?)

 これは、人事考課が機能していなかったり、学校運営協議会が機能していなかったり、教育委員会や指導主事訪問が機能していなかったり、教員研修が機能していなかったり、職員会議が機能していなかったり、そして何よりも日々の多くの授業が機能していなかったり+子どもたちに対する評価・成績が機能していなかったりにつながる構造的な問題です。★★★

 構造的な問題を一つの原因だけに言及し、解決策を考えることは危険ですらありますが、少なくとも上に掲げた問題に共通するのは「評価」です。
 日本の教育界の「評価」に対する理解とその実践のレベルは、あまりにも貧困です。

 一言でいうと、「よくするため/学びや成長を促すための評価」は存在せず、「誰にとってもほとんど意味のない数字や記号で示す成績を出すこと」にすり替えている状況が長年続いています。
 ですから、それに関わる人たちはなかなか達成感を味わえず、残るのは徒労感だけです。(唯一の例外は、受験に関わる人たちだけ?)

 たとえば、生徒の評価を考えた場合、大切なのは以下のようなことです。
1.生徒の多様なニーズに合う多様な評価法を使う
2.学習目標に合った評価法を使う ~ パフォーマンス評価が効果的
3.生徒も関わる形でルーブリック(評価基準表)をつくる。学習目標を満たすいいモデルも見せる
4.教え直したり、評価し直したりする機会を提供する ~ 教えることや学ぶことはイベントではなく、プロセス。総括的な評価(成績)よりも、形成的な評価を重視する
5.自己評価や相互評価を奨励する ~ ポートフォリオ、ジャーナル、生徒主導の三者面談など
★★★★

 これらの評価にまつわる項目を読んで何を感じられたでしょうか?
 私が感じるのは何よりも、「主役の転換」ということです。
 生徒こそが、主役になる評価が実現されています。「自立した学び手」になるために必要不可欠なことです。
 それは、イコール長年の夢であった「指導と評価の一体化」の実現も意味しています。
 評価から出発して、教え方や、教師と生徒の関係や、親との関係まで変えてしまうことも可能です。

 以上の5項目を、学校評価、人事評価、学校運営協議会、教育委員会や指導主事訪問、教員研修、職員会議等にも応用すればいいわけですから、難しいことはありません。

 他人任せでは(他の誰かに期待しても)、何も変わっていきません。
 自分が何かちょっとしたことを変えることからしか! 
 来年、あなたが変えたいことは何ですか? 

 変えなければならないことは山積していますが、一つだけで十分です。
 すべてはつながっていますから。
 先だってのアンケートにも答える形で、ぜひこの年末・年始に考えてみてください。
 そこから、新しい教育をつくり出していきましょう!!


注)
★ 文科省や教育委員会は「マネジメント・システム」を学校(管理職)には押し付けますが、文科省や教育委員会はいっこうにそれを自分たちで導入する気配がありません。大事なことの多くは、論理的かつ戦略的に決まるというよりも、(情報不足の中で、声の大きい人の意見が通るような)政治的に決まる旧態依然とした体質の中にあります。そうでなければ、単なる「習慣」で。 やらされる側のことを考えることもありません。 たとえいいものも、やらされた場合はその効果は半減どころか、ほとんどないのに。 自らの「選択」というのは、それほど大切です。 この選択が、今の教育界にはどれほどあるでしょうか?

★★ 私も、10年ぐらい前から学校評価の情報はそれなりに集めていますが(『テストだけでは測れない!』を書く際に子どもの評価だけでなく、教員評価や学校評価も当初は扱いたかったので・・・構造的にはどれも同じですから)、紹介に値する学校評価も教員評価も日本では見つけられないでいます。ご存知の方は、ぜひ教えてください。

★★★ 構造的な問題ですから、これらを別物として扱い、個別にアプローチするのではなく、どれか1つを徹底的に改善することで、より効果的なやり方が見出せると、それが他にも応用できることに気づけます。しかし、すべてに満遍なく時間と労力を費やし続けると、これまでのようにすべてがいい加減なままが続いてしまいます。

★★★★ これらの各項目について詳しくお知りになりたい方は、『テストだけでは測れない!』をお読みください。(残念ながら品切れですが、まだアマゾン等で定価と同じぐらいで購入できます。)

2011年12月18日日曜日

学校評価そして第三者評価

 もう年末も残りわずかとなってきました。


 多くの学校では、「学校評価」が始まっているものと思います。

 私の勤務する学校でも、教委作成の「マネジメントシステム」に則り、評価作業が始まっています。保護者や生徒、教員からのアンケート調査は終了しました。この結果をもとにして、今年度の活動を振り返り、次年度への改善策を明らかにする作業がこれから始まります。

 このやり方自体は意味のあることだと思いますが、評価アンケートの項目がほとんど教委作成の内容なので、どうも現場のわれわれにはしっくりこない部分があります。

 たとえば、授業評価に関する部分では、保護者や地域の人々に授業のレベルを問いかけているのですが、授業のよしあしを判断できるほど、保護者や地域の人々は学校に出入りしているわけではありません。

せいぜい、子どもから聞いたことを判断材料にするしかないわけです。それですから、多くの保護者は「まあまあ」ではないかということで、それらしいところに○をつけてくれることになります。保護者と学校の関係が緊張状態にある学校では、当然よくない評価が付けられることになります。また、自由記述の欄には、教員個人に対する情け容赦ない批判が書き綴られることになります。


 このような評価が全く無意味であるとは思いませんが、私個人は真剣に今の教育活動を反省して、次年度への改善策を練るという気持ちにはなかなかなれません。

評価項目の内容までほとんど指定されたアンケート結果は、所詮は他人事のように思えてしまいます。それよりも「プロの専門家集団」に批評されたほうがよほど納得できると思うのは私一人だけでしょうか。

 もちろん、教育委員会の学校訪問も本市の場合は数年に1回ありますが、教育委員会の指導主事などもやはり同業の身内なのです。厳しいことを言う人が近年あまりいません。


 やはり、第三者の専門家集団が一週間程度の時間をかけて、じっくりとその学校の実態調査を行い、分析するというやり方のほうがよいと思います。

 イギリスには、OFSTEDという組織がありますが、そのような評価専門の組織が日本にもできればよいと思います。今から5,6年前に、国の組織に在籍されていた方もそのような話をされていましたが、あまりその後進展している様子がありません。


 アカウンタビリティが当たり前になってきているのですから、もっと中身の濃い評価にするために「専門家集団による学校評価」を真剣に考えていく時期に来ていると考えます。

 みなさんは、どうお考えでしょうか。

2011年12月14日水曜日

あらためて、問いかけることの大切さ

「教科書の存在」で気づいたことを、3つほど。


教科書を教えていて、自分が楽しんでいるか、退屈しているか、見極められることがまずあげられます。一人ひとりの教師が、です。③で紹介する事例は、ちゃんとそれができていた事例です。
しかし、教科書はカバーするものという価値観をマスコミも含めて社会が煽り立てていますから(文科省も言うように、教科書は「あくまでも主たる教材」に過ぎず、教師が義務づけられているのは指導要領を押さえることであるにもかかわらず)、多くの教師はすでにマヒしてしまっていて、楽しむとか退屈しているとかの感覚さえもてない状況にあるようです。


従って、すでに11月11日に書いたあえて「問いかけること」が必要になります。
学校の中では、当たり前すぎる教科書という存在を問わない限りは、その利点と欠点に気づけませんし、その存在がもっている利点よりもはるかに多い欠点にも目を向けることができません。
同じように、学校の中で存在し続けている「当たり前なもの」には、時間割、職員室というスペース、部活、教師と生徒の関係、管理職と教師の関係、PTA(学校と親の関係)などなど、数え出したら切りがありません。
一つひとつのプラスとマイナスを明らかにすることは、私たちがどういう授業やどういう学校をつくりたいのかに直結しています。
もちろん、全部を一緒くたに変えることはできませんから、何を優先するかの判断は極めて大事です。(しかし、すべてはつながってもいますから、一つ二つを改善することは、残りの改善に波及します。白鳥さんが書いていたように、数年かけてそれを確実に変えようと踏ん切りがつけば。)


教科書に関して思ったことの3つ目は、『奇跡の教室』(伊藤氏貴著、小学館)を読みました。あの東大受験で有名な灘校で中学校3年間『銀の匙』だけで戦後の30年間、国語を教え続けた橋本武という先生の実践と、その授業を受けた生徒たちを追いかけて著した本です。
その橋本さんが一冊の本だけで、3年間教える決意をするきっかけは、自分が生徒時代も、戦前の国語教師時代を振り返っても、「寄せ集めの教科書では残らない」「生活の糧になるテキストで授業をしなければ」という強い思いでした。要するには、教える側に扱う内容に対する「情熱」と「愛」がないものは、生徒たちに通じるはずがない、というのです。

この本には、教科書のこと以外にもいいことが書いてありますので、ぜひご一読を。
別に、私立の灘校だからできる実践ではありません。
教師一人ひとりの、そして教師集団の「情熱」と「愛」が問われているんだと思います。

2011年12月11日日曜日

教科書という存在

以前、吉田さんと「教科書のプラス面・マイナス面」を考えたことがありました。



プラス面の最大のものは、これがあればある程度のレベルの教育成果が確保できるという点です。



反対に、マイナス面では、次の何点かが指摘されました。






・正解が書いてあるので、それを覚えることが勉強となり、主体的に自分で探り出す学習ができなくなる →「思考停止」状態



・生徒がよく学べるために欠かせない主体的に考える、質問する、探究する、応用するといった要素が極めて弱い



・教科書に書いてあることをなぞる単調な一斉授業になりがち



・教師が学び続けることを妨げる



・教師には、カバーしなければいけないもの、という義務感を生む






 今年から小学校の教科書は新しい教育課程に合わせて、かなりページ数が増えました。



 これまでの多くの保護者の意識は「教科書はカバーすべきもの」という捉え方ですから、そこは保護者会などで授業では教科書のすべてのページを扱うものではないことを説明しておかないと、「うちの担任は教科書をやり残したまま年度を終えてしまった」というようなクレームがつくことになってしまいます。






 教科書を利用すればだれが教えてもそれほど差はないので、ある程度のレベルが確保できるというメリットがあります。ただ、そのようなやり方で身につくものは「学力」のほんの一部だと思います。



 「活用型学力」と呼ばれるものをこれから目指すわけですから、教科書はいろいろある教材・資料の一部に過ぎないのです。このことはだれでも理解はできるのですが、いざ実行しようとすると難しい。ここをどうやって突破するかです。



 



 (メルマガの続き)






結論から先に言えば、やはり「学び続ける教師集団」をどう組織するかという一点に尽きます。

 「教える」ことよりも「学ぶ」ことを優先させる。
 教師という仕事は「子どもたちに教える仕事」であるわけですが、その前に「自分自身が常に学ぶ」ことがなくてはならないわけです。
よく昔から「学び続ける者のみ、教える資格がある」と言われますが、まさにそこだと思います。
それでは、「学び続ける教師集団」を作るにはどうすればいいのでしょうか。

第一に、校長が「学びのリーダー」であることを行動で示す必要があります。教育関係の情報に通じていることはもちろん、それをいつでも周囲に提供する姿勢が大切です。そして、学校にいるときは教室での学びに様々な形でかかわっていくことです。これがないと、だれもついてこないでしょう。

第二に、校内の「互いに学びあう」関係づくりを行う必要があります。
数十年前は意図的にそのような配慮をしなくても、先輩後輩のメンタリング関係が自然とできあがっていました。今は、そこを意図的にやる必要があります。極端なことを言えば、これがあれば、全校体制の校内研修は回数が少なくても資質向上は図れることになります。
「チームでの学び」という形態も今後どんどん取り入れていくようにしたいと思います。

第三に、学びあう集団づくりが可能になるように、「選択と集中」を行います。
「学び合い」に必要のないものを「思い切ってやめる」という勇気が求められるでしょう。あれもこれもと、やらなければならないことがたくさんありますが、線引きする必要もあります。
また、限りある資源(ヒト・モノ・カネ)をビジョン実現のためにできる限り集中することです。
 
以上の取組を行えば、徐々に学校全体が「学びあう集団」に変わっていきます。




私の経験では、このように変えていくのに最低でも3年は必要だと思います。

2011年12月4日日曜日

人材育成について

企業の若手育成のあり方を調べてみました。「ラーニング・リーダーシップ」(牛尾奈緒美他・日本経済新聞出版社)によると、OJT(実践)とOFF−JT(研修)のバランスは9:1とのこと。研修では、実務遂行に必要な知識の獲得やスキルの修得をおこなうと言います。



ある企業では、新入社員を経験10年程度の社員が指導するそうですが、10年経験社員にとっても、いい研修となるようです。



学校の場合は、初任者研修があるので、2〜5年目あたりの若手を対象に経験10年程度の教員が指導員となってマンツーマンで育てていくということが考えられます。



このやり方は全国各地の教育センターですでに行われていると思います。



そこで、「経験6〜9年目教員」についても、育成期間ととらえ、「学びあいの機会」を確保するのがよいのではないでしょうか。



 その際にも、校内において「教え学ぶ文化」を構築することが重要となります。当然、先輩が後輩に教え授けるという一方通行の学びではなく、双方向性のある学びも求められるものと思います。





(メルマガの続き)





 以前、校内の学び合いに関して、次のような論文を書いたことがあります。
 (以下、貼り付け)

 同僚教師との交流が若手教師の専門的力量形成に重要な役割を果たしていたことが油布佐和子(2003)により指摘されている。

 新任教師は、その養成段階で科学的知識や技術を習得しているが、さまざまな要素が混在する複雑で流動的な実際の教育現場では、それを単純に適用しても役に立たないことが多い。経験を積んだ専門家と活動場面を共にし、的確なアドバイスを受けることにより、新任教師は、あらかじめ持っている一般的・抽象的な知識や技術をより具体的で有益なものに不断に再構成し、また、現場で役に立つものに変換し、実行に移せるようになるのである。

岩川直樹(1994)は次のように述べている。

 教師の専門的成長の場は、ひとりひとりの教師の世界に閉ざされたものとして思い描かれるべきではない。自らの実践に根ざしながらも、他の教師との交流に開かれていくことが、教師の専門的成長にとって大きな意味をもつからである。

 これまで見てきたような「同僚性の構築」がいつごろから学校経営の中で話題になってきたのかを少し振り返ってみたい。
実は1980年代にアメリカにおいて、盛んに「学校を基盤とした学校経営」(School Based Management )が叫ばれ、多くの実践がなされた。特に、ハーバード大学のロランド・バースによる「学校を内側から改善する」(Improving Schools from Within)が刊行されて、その流れは加速された。バースはその著書の中で、「同僚性」という用語が「友情的、親しい関係」を意味するCongeniality(親密性)と混同されやすいことを指摘した上で、同僚性とは「ミツバチの箱」のように各構成員が一定の役割文化を保ちつつ、全体として協働している状態だと説明した。そして、同僚性の特性を具体的な場面にあてはめて次のように説明している。つまり、校内の研修において同僚性が発揮される場面とは、次の5点であるとした。

1 授業等の教育実践についての語り合いがしばしば、継続的に見られること
2 教育実践をお互いによく観察しあっている
3 観察の成果が互いの実践に反映されている
4 カリキュラムの計画・実施・評価の過程で教師が仕事を分担しあっている
5 教育実践についてお互いに教えあっている

 このような同僚関係が校内に構築されることにより、教師の専門的力量を伸ばすことができ、それを通して、学校改善が図られるということになる。このような流れの中で、アメリカの学校での校内研修は同僚性・協働化を促進する方向で進められことになった。その流れの次の段階が「ピア・コーチング」である。
 その先駆的な研究を担ったのが、ジョイスらであるが、彼らの仮説は次のようなものである。

1 研修は学校単位で行うのが最も効果的であること。
2 校長は校内研修において最も指導的なリーダーシップを発揮できること。
3 校内で研修プログラムを開発することにより、教師は所属意識と参加への意欲を高められること。
4 教師の専門的な力量は共有することができること。
5 教師に大幅な権限委譲をすることが望ましいこと。
6 教師による研修の計画・実施は教師の成長に役立つ経営資源を提供するきっかけとなること。

 このような仮説に基づいて、ピア・コーチングを利用した校内研修がいくつかの州で実施された。その実践の中で、「観察」一つを取っても、観察する側とされる側がお互いに鏡として作用することを通して、知識や技術を導入するきっかけとなることが成果として確認された。

(貼り付け 終わり)

 OJTとOFF-JTの両輪で行うのが理想です。でも、効果的なOFF-JTの提供は難しいですね。また、校内のOJTでは、大きな学校行事、総合的な学習などをプロジェクト化して、研修対象者をその担当の一人にすることによって、様々な知識やスキルを身につけさせることができると思います。

2011年11月27日日曜日

聞くことの大切さ → 読者へのアンケート

前回の「問いかけ」ないし「質問」との関連です。
 「問いかけ」は、「聞くこと」とセットになっているといっても過言ではありません。

 ライティング・ワークショップの創設者の一人のドナルド・マレー(Donald Murray)は、「書くことを教えることは書き手の言うことを聞くことだ」と言い切っていたぐらいです。日本には、そういう書く指導法があるでしょうか?

 教師の職業病といえるのかもしれませんが、多くの教師は教えること、話すことが好きです。(人によっては、子どもたちが何を考えているのか、どんな状況におかれているのかお構いなしに、教え続けたり、説明し続けたりする人もいます。なにせ、自分の仕事を教えることと捉えていますから。)

 しかし、学ぶ(聞く、理解する)のは子どもたちですから、残念ながら教師が教えることイコール子どもたちが学ぶことではありません。教室の中に30人の生徒がいたとしたら、教師が期待しているレベルで学べる(聞ける、理解できる)のは扱うテーマにもよりますが、平均して3分の1~4分の1というところではないでしょうか? 残りの半分~3分の1は“なんとなく”学んでいる・聞いている・理解できるレベルで、最後の3分の1~4分の1は、教師との接点がもてなくて苦労している子たちという感じではないでしょうか?

 学ぶことは、受け身的な行為ではなく、自分なりの意味を作り出す極めて主体的な行為です。教師の話を聞いたり、教科書を読むだけでは、なかなかできない子たちがたくさんいます。

 似たような状況は、校長(管理職)と教職員の関係でも存在しないでしょうか?

 校長になりたてのころや異動した最初のころは、聞いたり、観察をしたりするかもしれませんが、自分の教師時代の経験もあるので、徐々にすべてが「ルーチン化」していきます。「こんなもの」ないし「このぐらいでいいだろう」という意識が定着してしまうことを意味します。

 聞かない・言わないは、会議の席だけでなく、学校中に充満している学校すら少なくなりません。(もちろん、先生たちも、そしてそれを見ている生徒たちも、公式と非公式をうまく使い分けています。あるいは、誰には聞いたり、言ったりできても、誰には聞いたり、言わないという使い分けをする形で。)

 尋ねなければ/聞かなければ/問わなければ、同じことをやり続けることが約束されています。これは、私たちが始めたばかりのPLC通信にも言えることですから、アンケートの形で早速お尋ねします
 授業も、学校も、一方通行のコミュニケーションの時代でないことは確かです。ぜひPLC通信も双方向でお願いします。
 以下のアンケートへの回答は、コメント欄に書いていただいても結構ですし、pro.workshop@gmail.comへ送っていただいても結構です。これが読者とのやりとりのきっかけになればと願っています。アンケートの集計・発表も考えていますので、★ぜひご協力を!!★

アンケート

1) これまでの「PLC便り」で印象的な内容:
2) 学校教育で一番大切なことは?(=あなたが一番大切にしていることは?):
3) 「学校改善」でもっとも関心をもっていること:
4) 「授業改善」でもっとも関心をもっていること:
5) Professional Learning Community(=プロの教師集団として学び続けているコミュニティとしての学校) として自校/自分が属する組織を採点すると100点満点で何点ぐらいですか?
6) PLCということで、すでに実施していること/やろうと考えていること:
7) PLC関連で(あるいは、教育全般で)読むに値する本(タイトルと著者名)は? →たくさんリストアップは大歓迎です:
8) PLCのテーマで扱ってほしいこと/「PLC便り」への期待・要望:
9) あなたが「PLC便り」に貢献できること:

2011年11月20日日曜日

問いかけること

私に教育の世界に入るきっかけをつくってくれた本があります。『ワールド・スタディーズ』(国際理解教育センター翻訳・発行、直販)というタイトルのイギリスで開発された本です。

 この本の中には、たくさんいいことが書いてあるのですが、中でも「教えることは、問いかけること」が秀でています。
 それを読むまでの私は、ご多分のもれず、研修等では9割方自分が話すような進め方だったのですが、86年に読んだ後は、確実に5割以下、研修時間が長くなれば2割以下に減りました。

 あとでわかったことですが、イギリスでワールド・スタディーズの開発に携わった人たちがもっとも影響を受けた一人がカウンセリングで有名なカール・ロジャーズ(本のタイトルは、初版が1963年に出たFreedom to Learn)です。日本でも、この本は訳されています。最新は、カール・ロジャーズが亡くなった後に彼の信奉者が編集した第3版で、日本では2006年に『学習する自由』のタイトルで出ています。

 これら2冊の本は、学ぶことはどういうことか(それは、必然的に教えるということはどういうことか)を考えさせてくれるので、教師には必読書と言ってもいいと思います。

 「問いかけ」と、日本でよく使われる「発問」には、大きな違いがあると思います。
問いかけは、正解のない質問、教師や管理職が相手の考えていることを本気で知りたくて発する質問なのに対して、発問の方は答えがあるニュアンスが濃厚な気がします。あるいは、教師・管理職のシナリオがすでにあって、それを推し進めるのを助ける質問です。

 日本の教師も管理職も、求められているのは「問いかけ」能力です。
 「発問」ではありません。

 質問の仕方が、答えを決めるというか、思考を左右しますから、問いかけ方は極めて重要です。授業の本質的な改善に向けての問いかけ、学校の課題を解決・改善したい時に発する問いかけなど。発する側がすでに答えをもっていると思わせるような問いかけではなく、真に聞かれた側の考えを知りたいと思ってもらえる質問です。「一緒に考えてほしいんだ」という気持ちが伝わる問いかけです。

 質問はまた、相手を「主役」というか、「主体」にする方法でもあります。質問する側がすでに答えをもっているような質問やアドバイスを言ってしまっては、相手を受け身にさせるだけですが、答えのない質問は、主体的に考えて、主体的に行動するきっかけになります。

 あなたは、そんな質問を日ごろどれだけ発していますか?

 私は、教育の質、社会の質は、問いかけの質で決まると思っているぐらいです。
問題を解決する際も、質問が鍵を握っていることが、「問題解決のサイクル」の図からよくわかります。



 問題から直接解決に行ってしまっては、思いもしない副作用を作り出してしまいかねません。鍵は、質問をすることによって、問題をよりよく理解すると同時に、多様な可能性を考慮することです。それらの中からベストを選び出して解決にあたると、必ず新しい課題や問題も見えてきます。延々とは言いませんが、問題解決/改善のサイクルは続くわけです。
 直線的に考える方がおかしいのですが、「原子力発電は安全だ!」のように、私たちは直線思考に陥りがちです。似たような思考が教育の世界でも、かなり幅を利かせているのではないでしょうか? 教科、教科書、時間割、単元、指導案、評価、部活動、教員研修、組織体制、家庭との関係など、授業と学校を構成するものすべてがリストアップされてしまうぐらいです。


★関連情報 → ライティング・ワークショップでのカンファランス
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2011年11月15日火曜日

メンター

前回のテーマを読んで、私が一番気になったのは、「言いたいことが言え、聞きたいことが聞ける関係(=信頼関係)が築けているかどうか」ということであり、一つの正解が求められる学校ではなく、たくさんの考えをやりとりできる場としての学校や授業の存在でした。

 もちろん、すべての教師同士が「言いたいことが言え、聞きたいことが聞ける関係」が築けるわけではありませんから、現実的にはメンターの関係を最低でも1人、願わくは2~3人と築ければ、多くの精神的な問題は解決・改善できると思います。★★★

 メンターは、「気の置けないことも話せる先輩★」「信頼できる先輩」です。日本でも初任者を含めて若手教員育成のために指導教員制度を設けているところが少なくありませんが、大切なのは
① メンティー(若年者、経験の浅い人)がメンターを選べることと、
② 先輩の側がメンターとしての接し方をしっかり身につけていることです。★★
単に年数を重ねているだけでは、メンターにはなれません。接し方を身につけていない人には、それらを身につけられるようにサポートすることが管理職や教育委員会には求められます。(詳しくは、『「学び」で組織は成長する』光文社新書の95~103ページ。)

 白鳥さんといっしょに訪ねた、教師が学び続ける学校(=PLC)づくりに教育委員会ぐるみで取り組んでいるアメリカ・ジョージア州のグウィネット群では、「あなたには何人のメンターが今いますか?」が合言葉のように使われていました。教員の年数に関係なく、あるいは管理職でさえ、メンターとの関係を大切にすることで、常に学び続けることを奨励していました。

 そうした人間関係が以前は日本でも、学年や教科単位のチーム等で、あるいはインフォーマルなつながりであったのかもしれませんが、いまは残念ながらかなり希薄になっています。

 もちろんいい人間関係を築くことで、管理職への必要以上の負担を軽減することにもなります。教師一人ひとりにとって、管理職がメンターとして適役かというと、そうではない場合の方が多いかもしれませんし。


★ 実態は、「先輩」というよりも「同僚」とした方がいいかもしれません。年齢的な問題ではないからです。何か自分が学びたいものや盗みたいものをもっている人に教えてもらう/サポートしてもらう、という感じです。

★★ これは、実は決定的に大切なことなのですが、軽視されているというか無視され続けています。「決定的」以上に「根本的」とさえ言えます。大人を対象に教えることも、子どもを対象に教えることも同じですから。

★★★ 同僚との人間関係が一人も築けない人が教師なっている場合は、本人の問題というよりも、採用/人事の問題と言ったほうがいいでしょう。

2011年11月13日日曜日

心の健康

今「心の健康」はどの職場でも問題になっていることです。



職場での人間関係に起因するストレス、その他様々な要因があるかと思いますが、学校においても同様です。



保護者の対応一つとってみても、難しいことがあります。



これから教員になる人は、コミュニケーション能力に長けている人が向いていることは間違いありません。ここしばらく、教員採用試験が難しくなっていたために、筆記試験に強い人がどうしても合格する比率が高かったように思います。



筆記試験に強い人のすべてがそうだとは言いませんが、他人とのコミュニケーションが案外下手な人が試験に合格して教員になり、いざ現場に配属されて、実は教師に向いていなかったという理由で退職していくケースが見られます。



私が管理職になってから、中途で退職した職員が2名いました。



1人は、地元の大学の大学院を修了して、教員になった人です。しかし、採用されてから1年半後に、学級経営に行き詰って精神的に追い込まれた状態になりました。12月の最後の日の朝、突然「今日限りで辞めます」というFAXが学校に送られてきました。



それまで特に悩んでいる様子もなかったので、最初は何が原因なのかわかりませんでした。その日、校長と私(副校長)はすぐ本人の自宅に駆けつけて、翻意を促しました。しかし、本人の決意は固く、説得は不調に終わりました。悩みの原因が学級の生徒とうまくいかないことにあることをそのとき初めて知りました。自分の経験談なども語りましたが、効果はありませんでした。相談も持ちかけてもらえなかった不甲斐ない管理職であったことを深く反省しました。日ごろから、職員の動向には気を配っていたつもりが、全く何もわかっていなかったのです。



もう1人は、経験10年の中堅教員でした。



その人は、まじめそのものの性格で、能力も高いのですが、自分に対する要求レベルもまたかなり高いものがありました。私から見れば、十分に働いていると思えるのですが、その人の満足レベルには達していないことが度々あったようです。そのような性格が要因だと思いますが、前任校で精神疾患になり、数ヶ月休むことになりました。その後、私の勤務する学校へ異動してきたのですが、また1年半後におかしくなりました。最初の1年は学級担任からはずしていたのですが、次の年は組織の事情もあり、学級担任を任せることにしました。その数ヵ月後です。生徒との関係がうまくいかず、休むようになりました。



何とか仕事を続けられるようにサポートしましたが、結局だめでした。そればかりか、本人は自殺をしかねない精神状態になっていました。何とかそれは食い止めましたが、その年度の終わりで退職することになりました。このときは、私は校長になっていましたが、自分の無力さを再び思い知らされることになりました。





   (メルマガの続き)





 この2人のケースで言えることは、2人とも、とてもまじめな性格な人であるということです。
 まじめさはもちろん教員として大切な資質ですが、それにも増して必要なのは周囲の人とのコミュニケーション力です。どちらのケースも周囲の人たちはかなり本人をサポートしていたと思うのですが、それがうまく通じていなかったようです。
 今、精神疾患によって休職される教員がどこでも増えているようですが、メンタルヘルスは大切な問題です。
 すべての職員がいきいきと働くことのできる職場づくり。この理想に向かって、管理職は職場のマネジメントをやりたいものです。





 「ラーニング・リーダーシップ入門」(牛尾奈緒美他・日本経済新聞出版社)によると、「昨今のメンタル不全の急増は、やりがいや仕事量の問題に加えて、職場の雰囲気や人間関係が原因になっていることが多いそうです。」とのことです。

 人はどんなときに最もいきいきと、仕事に向き合うことができるのでしょうか。
「自分のやりたい仕事が進められる」「成果が表れて、それが周囲から認められる」「仕事に対して達成感を感じることができる」など、様々なケースがあると思いますが、上司や同僚から「認められる」「満足感がある」ことは「いきいきと仕事をする」上で大切な要素であると思います。
 現在ほとんどの都道府県で「教員評価」が実施されており、その際に定期的な面談の機会が設定されていますが、この定期面談以外にも、折に触れて管理職は部下に対して、「賞賛」などの「その人の仕事ぶりを認めてあげる」ことが必要です。

 最後に、校長自身の心の健康も大切です。
 それには、近隣小中学校の校長、あるいは知り合いの校長との情報交換、本音で話のできる人が傍にいるといいですね。校内では相談できないこともあります。そんなときに、気軽にアドバイスをもらえるような人とのつながりがあることがとてもいいと思います。







2011年11月6日日曜日

校長という仕事

先日、中学校校長会の全国規模の大会に参加してきました。


 全国津々浦々から、2,300人の参加者がありました。



 そこで、感じたことをいくつか書きます。


 一つは、同じ日本といっても、地域によってその学校の実情はかなり違います。初日の分科会での話ですが、50代の職員が多い学校のある校長は、その50代をどうやる気にさせるかということで、苦慮していました。また、若手教員が半数以上を占める学校の校長は若手の育成をどうすればいいのか苦労していました。


 ここに、今日の日本の公立中学校の置かれている現状が端的に表されています。


 この数年、団塊の世代の大量退職で多くの新規採用職員が配置されているのが、都市部の現状です。反対に、過疎地域では、まだ大量退職には時間があり、50代の職員が多いということです。私の勤務する県は、後者のに該当します。


 私の現任校でも、50代の職員が全体の職員数の4割を占めています。


 ベテラン揃いで、経験は豊富ですから、何をやっても卒なくこなすことはできます。ただ、それが本当に子どもの心を動かすような活動になっているのか、子どもの心に火をつけるようなことができているのか、というと疑問なところがあります。


若手には、若手のよさがあります。子どもの心をつかむとか、一体感を作り出すとかは若い教員の得意な分野です。ただ、指導法やプロジェクトの進め方などは当然ながら力量不足な点が見られます。ですから、若手がベテランからよいところを学び取り、ベテランのよさをうまく若手に伝えていくようなOJTができればいいと思います。 


 このベテランから若手への指導技術の伝承は、「メンタリング行動」そのものでもあります。以前、メンタリングについて研究しましたが、企業などでもかなり多く取り入れられている研修スタイルです。昔は、学校内に宿直室があり、そこで夜遅くまで先輩から後輩への指導する場面があったようですが、今日の学校はそのような機会を意図的に作り出す必要に迫られているようです。


私自身、教師になって田舎の中学校に赴任しました。20代の同僚は1人しかいませんでした。後は、すべて40代以上の人ばかり。最初はよく先輩たちから叱られることが多かったことを覚えています。でも、実によく面倒を見ていただきました。その恩返しは、私自身が今の後輩たちにしなければなりません。



 (メルマガの続き)



 もう一つ今回の大会に参加して感じたことは、学校経営に関するノウハウを組織として蓄積できていないということです。前回も書きましたが、アメリカの校長会はそのあたりの情報提供が実に丁寧です。会員の職務や活動をサポートするという点では、彼我の差は大きいと思います。まだわが国の場合は、学校経営ではなくて「管理」の色彩が強い印象を受けます。


 だからこそ、「学びの論理」で動く、PLCの存在意義があるのだと思います。特に中学校の場合は、緊急事態のときは別としても、やはり「学びの充実」が学校をよくする最良の手段です。


 ここで、問題になるのは中学校の場合は「部活動」があるということです。部活動の生徒育成への貢献度は大きなものがあり、これによって荒れていた学校を建て直したという事例は枚挙の暇もないくらいです。ですから、決して「部活動」の意義を否定するものではありませんが、それだけでは足りないのだということを改めて言いたいと思います。



「教室での学び」が十分に行われてこそ、部活動も生きてくるのです。よく車の両輪と言いますが、まさにその通りなのです。どちらが不十分であってもいけない。そんな関係なのです。欧米の場合は、「部活動」はありませんから、教師がそれに労力を振り向けなくても済みます。しかし、わが国の場合は、教師のボランティアによってその多くが成立している「部活動」に、かなりの時間とエネルギーを割かれることになります。教員の資質向上論もこの問題を抜きにして語られているから、現実味のない話になってしまうのです。



 今や全国各地で見られるようになった「コミュニティスクール」が本当に「地域にある学校」を標榜するならば、その運営協議会のような組織が中核となって、「部活動」運営を担うような形がいいと思います。そこにも地域の人材や教員のボランティアが指導者として配置されるような「部活動」になれば、システムとしては一番すっきりとした形です。
 そのような方向をしっかりと見据えて、部活動のあり方が改善されるといいと思います。


2011年10月30日日曜日

校長会という組織

 「校長は何をしている人?」




 吉田新一郎さんの「校長先生という仕事」においてこのような投げかけがありますが、大方の回答は「デスクワーク」「会議」「出張」「校内巡視」「情報発信」などでしょう。



 その校長が自主的に組織している団体が「校長会」であるが、一体どのような活動をしているのでしょうか。アメリカの校長会のホームページを見てみると、「指導法に関する最新の情報」「学校経営に関する情報」などが満載されています。ここでは、校長という仕事を続けていく上で、大変有益な情報を手に入れることができます。



 これに対するに、わが国の校長会はどうでしょうか。




 これは私見ですが、「組織を維持することが目的となってしまった団体」と言ったら言いすぎでしょうか。


 さらに付け加えれば、「教員という仕事」の上がりのポストが校長であると認識されている人もいるのではないかと思われます。残念ながら、この考え方が通用したのはすでに遠い昔のことです。校長という仕事は一般教員の仕事の延長線上にはありません。



「地域とともにある学校」という理念が当たり前になった今日、「経営理念」は不可欠のものとなっています。ところが、この人材養成がかなり遅れているのが、今日の教育界だと思われます。


 教育委員会もこの点を自覚しているので、ようやく人材育成に取り掛かりつつあります。


 ただ、そのノウハウをどのくらい持っているのでしょうか。


 また、ただ単に企業の人材育成の手法を持ち込んで成功するのでしょうか。


 この点は、大いに欧米の教育界の手法を学ぶべきであると私は考えています。



(メルマガの続き)





 民間企業のマネジメントは大いに参考にすべきと思います。特に学校のマネジメントで気をつけるべきところは、「授業の質」を上げることを最優先にすることです。企業で言えば、顧客サービスでしょうが、それを学校では「授業の質」「個々の学びの質」と捉えてはどうでしょうか。
 「授業の質」を上げるために何をすべきか、これが発想の原点でなくてはならないと思います。この目標を達成するためには、それを担う教師自身が学び続けられることが重要です。もし、それが何らかの理由で妨げられているとすれば、そこは改善しなければなりません。
 「放課後が忙しくて研修などしていられない」「自分が学ぶ余裕などない」という現場の声はたくさんあると思います。だとすれば、「時間の確保」「研修の機会の確保」を何とかしなければなりません。これを解決するには、管理職の知恵と実行力が必要です。
 たとえば、「時間の確保」のためには、一週間の平日のうち、1日は必ず「部活動休みの日」を作ることが考えられます。これによって、放課後のある程度の時間は、余裕の時間を持てることになります。これを教科部会の形でミニ研修会にすることもできるでしょうし、ネットによって最新の教育情報に接する時間にすることもできます。また、同学年の同僚と最近の授業実践について語り合うのもよいと思います。
 また、このような形でなくても、自分の空いている少しの時間を利用して、パソコンの校内ネットワークを利用して、数人でメールのやり取りで読書会もできます。
 さらに、会議の削減や実施方法の見直しなども工夫の余地があるのではないでしょうか。
 一堂に会する会議には、それなりの意味があるのだと思います。その意味を理解して会議を開くのとそうでないのとでは大きな違いがあるでしょう。吉田さんもその著書の中で次のように指摘されています。
「会議の場での教師の学びと、各クラスにおける教師の授業とは、密接につながっています」(吉田新一郎「効果10倍の<学び>の技法」PHP新書・p.64-66)。
 
 また、このような「学びを優先する学校」を作るには、校長自身が「学びの先頭」に立つ必要があります。校長が月に1冊も本を読まずに、いくら「学びが大切です」と言ってもだれが信じるでしょうか。校内の若手・中堅の職員に対して、「お薦めの本」をアドバイスすることも大切だと思います。生徒に対しても同様です。私は週に1回必ず、昼休みに学校図書館に顔を出すことにしています。そこで、本を手にとってどの本を借りようかと迷っている生徒に声をかけたりしています。学校全体で読書を大切にする雰囲気を作ることも「学びの共同体づくり」のための校長の役割ですね。

2011年10月23日日曜日

実は、学校の問題は他にも...

第1号では9つの問題を紹介しましたが、実はリストアップしていたのは他にもありました。ちょっと多すぎるかな/最初から全部を書いたらシンドイかな、と思って遠慮しました。(あのリストだけでも十分すぎるぐらいに深刻ですから。)しかし、以下の3つも学校や授業をよくしていくためには欠かせない重要な要因/問題です。

10) 子どもの学びに関して家庭や地域との協力関係が築けていない
11) 1~10すべてに関する多くの「悪い習慣」や妥協および決定的な情報不足
12) 学校(や授業や教育システム)をさらによくしていこうという意識とアクションの欠如

 11番目はまさに、第1号のコメントとしてトミーさんが、
 「世の中ではこれほど変化に対応する力などと言われているのに
  その根本の学校がそれをおろそかにしています
  または
  わたしたちは永久に変わらない価値を持たなければならないと盲信しています」
と書いてくれていることと大いに関係します。

 国際理解教育や環境教育等をしていた30年前から思っていることなのですが、こと教育に関する英語と日本語の情報ギャップは、100対1か2のレベルです。日本の先生たちや教育関係者は、そんな中でがんばり続けているわけです。しかし、一方で情報を提供する立場にいる人たち(大学の研究者や出版社や文科省?)の怠慢ぶりは目に余るものがあります。1か2が、5や10になるだけでも、ましてや20、30になったらすごいことになることが約束されているのですから。その過程では、たくさんの「悪い習慣」や妥協も明るみになることでしょう。

★ あなたが気づいている/抱えている問題が12個以外にあったら、ぜひ教えてください。

 これらの諸問題に対して、sunflowerさんは自分がやれる/やりたいと心底思うことを、アクションに移し始めていると紹介してくれています。

★ あなたが気づいた対処法、効果的だと思う対処法、起こしたアクションも、ぜひ教えてください。


<以下、メルマガの続き>


 学校は「自分たちがよくしていくところ」ではなくて、「上の誰かが指示して修正してくれる、それを待っているところ」という感覚がまん延しています。しかし、これまでの歴史を振り返ってみても、その誰かがよくしてくれたためしは数えるほどもありません。

 先生方や学校や教育委員会は「忙しい」というかもしれません。実際に、忙しすぎますから。しかし、それが意味のある忙しさかというと、どうもそうは思われません。肝心なところに時間が掛けられず、そうでないところに必要もない時間を割かないといけない忙しさが学校にまん延しています。その理由は、ビジョンのないことです。ビジョンがないと振り回され続けます。優先順位がありませんから。白鳥さんが、このブログの9月11日に書いてくれていたように

 私がビジョンの大切さに気づかされたのは、1991年に読んだピーター・ドラッカーの『非営利組織の経営』という本でした。その中に、「ビジョンのない非営利組織は消えた方がいい」と書いてあったのです。学校は、その非営利組織の一つです。(そうなんです!大切なのは各学校レベルのビジョンです。間違っても教育委員会や文科省レベルではありません。それらは、ほとんど役立つことはありませんから。もちろん、教室レベルというか教師レベルのビジョンは大切です。学校や学年レベルで取り組むことは難しくても、個人レベルで取り組めることは際限なくあり得ますから。)
 残念ながら、その本の中ではビジョンのつくり方までは書いてありませんでした。そこで、ビジョンのつくり方が書いてある本を5年間探し続けて、見つけたのがクリスト・ノーデン-パワーズの『エンパワーメントの鍵』でした(訳して日本で出版するまでにさらに4年もかかってしまいましたが)。組織を元気づけたいと思っている人には必読の書です。「エンパワーする」とは「元気づける/活性化する」という意味です。24時間の物語として書いてあるので、とても読みやすいです。さらには、sunflowerさんが紹介してくれたアプローチ(=「変化の担い手」)そのものとも言えます。

対処法を示した本:
10) いい学校や授業のつくり方について書いた『いい学校の選び方』中公新書
  『効果10倍の学びの技法』PHP新書
  『ペアレント・プロジェクト』ジェイムズ・ボパット著、新評論
11) これまで私が書いたり、訳したりした本は、すべてこれを何とかしようと思ってのことでした。(それは、授業や学校改善に関心を持ち始める前のERIC時代及びその準備期間の1980年代の半ばから始まっていました。)
12) これはひとえにあなたのアクションにかかっています。
  『エンパワーメントの鍵』クリスト・ノーデン-パワーズ著、実務教育出版(品切れ)

2011年10月16日日曜日

職場感情について

前回の最後に、次の文章を紹介しました。


 「こうしたチームを機能させる際に大切なことは、お互いを大切にし合う文化というか習慣を学校に根づかせることで、これこそが校長のもっとも大切な役割の一つといえる。」(吉田新一郎「校長先生という仕事」平凡社新書p.183




 このような組織を作るためにまず校長がやることは、実態の把握です。


 要は「働きやすい職場」を作ることが企業と同様に求められているわけです。


 この点で参考になるのが、「職場は感情で変わる」(高橋克徳・講談社新書2009) 


です。この本の中で著者の高橋さんは次のように述べています。


組織にも感情がある。そう思ったことはないでしょうか。組織は人間ではないし、生物学的な意味での感情というものを持っているわけではありません。でも、組織自体が何か"ある種の感情"を持っているかのように感じたことはないでしょうか。たとえば、職場で見られる具体的な"感情"には、以下のようなパターンがあります。


・皆、元気がなくて、職場全体が暗くなっている。
・お互いにイライラして、攻撃的になっている。

・皆が保守的になっていて、殻に閉じこもっている感じがする。

・皆、イキイキとしていて、新しいことに取り組もうという活気がある。

・お互いを尊重しあい、助け合おうという温かい雰囲気がある。」



 「攻撃的な職場」において私も働いた経験があります。これは精神的にかなりきついですね。


 また、逆に「ぬるま湯的で」お互いに「馴れ合いの関係」になっている職場。確かに、気持ちは楽なのですが、これも人としての進歩がありません。


 そんな関係を、高橋さんはに4つに分類しました。(同書,p.18


・ギスギス感情  ・冷え冷え感情 


・あたたか感情  ・イキイキ感情  


 これは職場の実態を分類するときにとても役に立つと思います。


 「あたたかい」職場が行き過ぎると、「ぬるま湯」になります。


 また、一見すると一番よい「イキイキ感情」が行き過ぎると、その中の成員の一部が「燃え尽き感情」をもつようになってしまいます。


 校長は、職員との日常のコミュニケーションから自校がどのような「感情」に支配されているかをまず知ることが大切だと思います。そして、マイナス感情に支配されているときは、その原因を突き止めて、対処することが求められるでしょう。


 かつて勤務したある学校は、「ぬるま湯感情」に支配されていました。そこで、「あたたかさ」は残しつつも、「ピリッとした相互批判」のある人間関係を作り出すために校内研究会において、「批判的な友だち」という手法を持ち込んで自由にお互いの意見が言える関係を作るようにしてみました。(「批判的な友だち」については、たとえば「効果10倍の<学び>の技法」吉田新一郎・岩瀬直樹,PHP新書p.23を参照してください。)


 これによって次第に「ぬるま湯」状態が改善されていきました。


また、校長自身の人間性も重要な要素です。職員には厳しく言っても、自分自身の勤務態度や日ごろの行動がいい加減ではだれもついてこないでしょう。




 さて、「働きやすい職場」になっただけでは十分ではありません。


 次は、校長のリーダーシップです。これについても若干誤解している方がいるように思います。「リーダーシップ」というと、辣腕のリーダーが部下をぐいぐい引っ張っていくという典型的なイメージがありますが、それだけではないと思います。


企業経営では、「双方向性のリーダーシップ」が注目されているようですが、参考になると思います。(「ラーニング・リーダーシップ入門」牛尾奈緒美他・日本経済新聞出版社)部下が管理職からの一方的な指示で動くだけでなく、部下からの意見や提案も管理職に直接届くような「双方向性」が特徴です。学校は、何と言っても「学びの実現」が主たる目標ですから、校長が「学びを大切にする姿勢」を見せることが、リーダーシップの第一歩であると考えます。つまり、「学びのリーダーとしての校長」です。




「校長は自分が大切にしていることを、絶えずメッセージとして発信し続ける役割も担っています。まさに、動く広告塔でなければなりません。」(「効果10倍の<学び>の技法・吉田新一郎・PHP新書p.58




 つまり、「校長のリーダーシップ」は「自分が大切にしていること」を部下職員、児童生徒に対して、いつでもPRすることからスタートします。この姿勢が学校全体に影響するのだと思います。


 次に、先ほどの「双方向性」の考え方も含めて風通しのよい職場にするために、校長は部下職員とのコミュニケーションを大切にして、よりよい人間関係づくりに努めることが求められます。


 さらに、日々の仕事の中では、部下職員に対して、優先順位を明らかにしておくことが必要です。限られた時間と人材で、年々増加する事務量をこなしつつ、子どもたちへの指導にもあたるわけですから、「優先順位」の提示は大切です。私は年度始めに、たとえば諸計画の中で、これとこれは重要視するとはっきり宣言することにしています。それ以外は、計画がないのは困りますが、書類として揃っていれば「良し」とするということです。


この点をはっきりさせれば、職員は安心して仕事を重点化させられます。


 また、校務分掌の職務遂行にあたって、多くの教員は自分で考えて自主的に進められるか、少しアドバイスをすれば支障なく仕事ができる人がほとんどです。しかし、中には注意して見ていないと、うまく仕事を進められない人がいます。このタイプは放って置くと必ず大きな問題になります。ここは丁寧に助言や支援をしていくことが求められる場面です。この見極めが学校経営のポイントの一つと言ってもいいでしょう。


 最後に、学校は本来とても創造的な場であると思います。ところが、現実にはなかなかそのようにはなっていません。この「創造性」を引き出すには、「職場内で自由に発言できる雰囲気」が重要です。この自由な雰囲気をかもし出すのは学びのリーダーである校長の責任です。特に中学校、高校は概して、良くも悪くも個性的な教員が多いと感じます。その「個性」を生かせるかどうか、この点も校長という仕事の面白さであると思います。


 

2011年10月9日日曜日

Professional Learning Community について


 私(白鳥)がこのPLCという言葉に出会ったのは、2006年のアメリカ・ジョージア州でした。そのstudy tripで、郡の教育委員会、小中高校を見学させてもらいましたが、その行く先々でこの言葉に出会いました。


 それ以前に、吉田さんの著書の中で紹介されていた本の1冊に「Professional Learning Community at Work」(R.DuFour & R.Eaker)がありました。


この本の至るところに学校改善につながるヒントが散りばめられているのですが、特に第10章「Teaching in a Professional Learning Community」の要約の部分がお薦めです。


教員認定・評価にかかわる団体が「プロの教師として認められる条件」として次の項目を紹介しています。



教えることよりも、学ぶことを重視している


意味のある学習内容に子どもが主体的にかかわっていくようなカリキュラムや指導法をデザインする


カリキュラムや評価法を改善していくために、子どもたちのすることや作り出すものに焦点を当てる


学校規模の問題と同様に教室での指導や学びについて同僚と協力している


自分が教えることから学んでいて、教育研究の成果も使いこなしている  など


・・・・・        (参考: 『校長先生という仕事』193〜194ページ)



 私の教員経験からすると、「教えることよりも学ぶことを重視する」ことは難しいことだという実感があります。教員になって5年もすれば、一通りのことはこなせる状態になっています。「教える」ことには慣れてきても、自分自身が「学び続ける」ことは難しいことです。なぜなら、そんな苦労はしなくても、「教える授業」はできてしまうからです。


 ただそんな授業が受け入れられる学校ばかりではありません。中学校では、当然のように生徒の実態を無視した「教える授業」を押し付けている学校は、間違いなく「荒れた学校」になります。私も以前指導主事をしていたときに、「荒れた学校」の授業を参観した経験があります。そのときの授業は、まさに「これでは生徒が荒れるのも無理はない」という、生徒にとって魅力のない授業ばかりでした。


 その後、その学校も「教えることよりも学ぶことを重視する」教員が増えたので、「生徒にとって魅力のある授業」が増えました。もちろん、それだけで学校がよくなったわけではありませんが、教職員が「学び続けること」の大切さをしみじみと感じました。


 また、2番目に掲げられている「意味のある学習内容」は、カリキュラムづくりの大切さを意識する項目です。アメリカの教育学者であるキャサリン・ルイスさんがその研究の中で指摘しているように、日本の教員は「カリキュラムづくり」に関しては概して意識が低いという事実があります。(出典;Lewis,Catherine C,Lesson Study:A Handbook of


Teacher-Led Instructional Change Research for Better Schools,2002


 それは、ナショナル・スタンダードとして「学習指導要領」があり、さらに教科書会社の作成した計画・指導内容の詳細なプランが用意されているという事情があるので、特に工夫しなくてもそれらを利用すれば一応授業はできてしまうということがあると思います。


 それに対して、アメリカの場合は連邦や州の履修基準はあっても、具体的な授業はその学校に任されており、現場の教師は日々の授業の内容を工夫することに熱心だということです。


 ただ、今の子どもたちの持っている情報量は昔の子どものそれとは比較にならないほど多いと思います。それを前提にした上で、その知識を再構築する(いわゆる構成主義の考え方)ことが求められていると思います。それには、「意味のある学習内容」をどのようにして作り上げていけばよいか、ここがポイントです。


 そのためには、やはり「教師が学び続ける学校」をどうやって作り出し、維持していくかが重要です。この目標を達成するには、いろいろな方法が考えられますが、まず手を付けるところは「校内研修」です。



  


(以下、メルマガの続き)



「校内研修」というとだれもがすぐに頭に浮かぶのは、「研究授業 / 授業研究」です。ただ、ここではそれについては触れません。



それでは、どのように研修を進めればいいのでしょうか。



具体的には、以下のようなやり方を考えました。



【具体的な手法】


1 研修形態   2~8人程度までのグループ


        この人数だと「学年教師集団」が最適かもしれな 


        い。学年主任又はそれに代わるリーダーがその学 


        年の中心になることも考えられる。


        年度初めと終わりに全体での研修会をもつ。


        (オープニングとクロージングのワークショップ)



2 活動内容  ・読書会   ・メーリングリスト


        ・メンタリング・ケーススタディ


        ・ジャーナル ・アクションリサーチ


        ・相互授業参観・他校訪問  などから選択



3 進め方   ・自己研修計画に基づいて進める


        ・年3回の定期面談の際に進捗状況を管理職が確認 


         する


        ・年度末に自己評価を行う(できればA4・1枚程度 


         に研修報告をまとめて、提出する。係りはそれ 


         をまとめて印刷して、全員に配布する)



1~2は現在私の勤務校で進行中ですが、3はまだプランのみです。


もっとも、「研究授業/授業研究」が皆無ではなく、若手教員のために学校全体で年2回の全体研修の機会は作りました。


「こんなやり方で本当に大丈夫なのか」と疑問をお持ちになる方も多いと思いますが、前任校での経験をもとに、あえてこのような手法に挑戦することにしました。


学校「全体」という形にこだわるよりも、「学びの内容」で勝負するということでしょうか。


全国どこでも同じでしょうが、年々放課後のゆとりの時間がなくなっています。


また、放課後に研修をしていられる中学校ばかりではありません。生徒指導で走り回る忙しさの中で、学校全体の「研修」がいくら建前としては必要だと思っても、それを前面に出しにくい中学校もあります。


そうした状況下にあって、「全体」よりも「部分」での研修を活性化させるほうが、現実に即した合理的なやり方だと思います。


 吉田さんの著書「校長先生という仕事」のp.183にこういう件があります。


 


 「信頼・協力関係は、何も教職員が一丸となって築く必要はないのである。信頼・協力関係に不可欠な「自分の言いたいことが言える」ことや「自分をさらけ出す」ことを可能にしてくれる二名から数名のチームで、いろいろなプロジェクトや活動に取り組む方がいい。」



 この文章に初めて接したのが、ちょうど校内研修のあり方について悩んでいたときでしたから、まさに「これだ」という気持ちになった覚えがあります。



 それまでは、「研究授業/授業研究」路線しか知りませんでしたので、その取組だけでずっとやってきました。もちろん「研究授業/授業研究」の意味は十分に理解できるのですが、それだけでいいのかというのが私の偽らざる思いです。



チームによる学びあいが校内で日常的に行われることが私の学校経営の目標です。さきほどの吉田さんの文章には続きがあります。



「こうしたチームを機能させる際に大切なことは、お互いを大切にし合う文化というか習慣を学校に根付かせることで、これこそが校長のもっとも大切な役割の一つといえる。」



このような文化を組織に根づかせるために「校長は何をすべきか」については次回触れたいと思います。


 



2011年10月2日日曜日

第1号です

「PLC便り」の第1号をお送りします。
 PLCは、Professional Learning Community(プロの教師集団として学び続けるコミュニティとしての学校)の略です。それこそが、授業改善や学校改善のカギということで名づけました。

 この「学校改善」「教師こそが学び続ける学校づくり」をテーマにしたメール・マガジンを発信するに当たって、若干の経緯を書きます。
 私(吉田新)がこのテーマに関心を持ち始めたのは、1990年代の半ばです。
 それまで、1980年の半ばから約10年間、教員研修に関わりました。校内研修や教育センターや教育委員会主催の研修会に講師として招かれて行きました。
 最初のうちは、ワークショップ形式(参加型)の研修を体験してもらうことに夢中で気がつかなかったのですが、徐々に以下のようなことに気づき始めたのです。

① 圧倒的多数の先生たちは、教科書をカバーする授業はできても、子どもたちが主体的に学ぶ授業はできない。
② 研修がイベントとして行われており、授業を改善するものにはなっていない。(それは、校内研修も、センター研修等も同じです。)
③ 教育委員会レベルで研修を担当している指導主事の方々に「研修に関する情報は、どこから得ていますか?」と質問したところ、「そんなのがあったらぜひ教えてください」という答えが戻ってきた。誰も研修を効果的に行うための情報をもたずに、事業をこなしている。対象を受講者個人レベルに設定しているので、聞いたことを活かすも活かさないも、各人に委ねられている。つまり、「研修が終わった時が、すべての終わり。」
④ 校内研修の柱である研究授業と研究協議の進め方にも疑問を感じた。これで、授業が改善するのか、と。この方法が効果的であることは証明もされていないにもかかわらず、習慣だからという理由だけで続けられている。
⑤ 学校が組織の体をなしていない。(それが言いすぎなら、少なくとも「学び続ける組織」としての体はなしていない。)
⑥ 出会った校長たちのほとんどが、自分の役割をしっかり認識していない。学校をよくしていく方法をもっていない。
⑦ 評価のことを理解し、実践している人がとても少ない。テストは、評価と言わないほうがいいぐらい!!
⑧ 教育行政は、管理することや効果が検証されていない新事業を実施することに忙しく、学校や教師をサポートするという捉え方が極めて希薄。そして、
⑨ 教員養成課程(大学)が抱えるたくさんの大きな問題
など。

 国際理解教育、環境教育、異文化理解教育、人権教育等を普及していた私は、以上のようにたくさんの課題に気づいてしまったので、暢気に国際理解教育等の普及や参加型の研修をしているわけにはいかなくなってしまいました。

 これらの大きな課題についての改善方法を提供していくことが本メルマガの目的です。


 <以下、メルマガの続き>


 ①~⑧の問題については、1995年以降情報収集をはじめ、2000年以降

① 『効果10倍の教える技術 ~ 授業から企業研修まで』PHP新書
  『ワールド・スタディーズ』はじめ私が国際理解教育センターから出した出版物
  『マルチ能力が育む子どもの生きる力』小学館
  『「考える力」はこうしてつける』新評論
  『ライティング・ワークショップ』新評論
  『作家の時間』新評論
  『リーディング・ワークショップ』新評論
  『「読む力」はこうしてつける』新評論
  『会議の技法』中公新書 ~ 参加者が主役の会議や研修は、構造的に授業と同じ!
②と③ 『「学び」で組織は成長する』光文社新書
    『効果10倍の教える技術 ~ 授業から企業研修まで』PHP新書
④ 『「学び」で組織は成長する』光文社新書
⑤と⑥ 『校長先生という仕事』平凡社新書
    『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』PHP新書
    いい学校のつくり方が書いてある『いい学校の選び方』中公新書
⑦ 『テストだけでは測れない! ~ 人を伸ばす評価とは』NHK生活人新書 ~ 子どもの評価、人事評価、学校評価の構造は、すべて同じ!!
⑧ このテーマはマーケットがないので、『校長先生という仕事』の最後に少し情報提供しただけです。
⑨ ここを改めないと、現場レベルでの尻拭いが続くので何とかしたいですし、情報は結構集めていますが・・・

などを書くことで、集めた情報のかなりの部分はすでに紹介しています。

 しかし、私が本を書いたぐらいで問題が解決するような次元の問題ではありません。いずれも、極めて根深い問題ばかりです。

 そこで、2006年に「学校改善」「教師こそが学び続ける学校づくり」「授業改善」のテーマで、アメリカのジョージア州を一緒に訪ねた現職公立中学校校長の白鳥信義さんと二人で数年の準備期間を経て、このメルマガを出し、継続的に情報提供をしていくことにしました。それぞれ違う視点からの情報提供にご期待ください。

 なお、ご希望、疑問・質問、感想、実践紹介、各種情報提供、テーマに関するお勧めの本の紹介等は、下のコメント欄を使っていただくか、あるいはpro.workshop●gmail.comに直接お送りください。必ず反応/フィードバックします。

2011年9月11日日曜日

ビジョンについて

 学校では「多忙感」が語られることが多いが、以前「いい学校の選び方」(吉田新一郎・中公新書)の中で次のように述べられていたことを思い出す。
「しかし、ビジョンはないのに、みんな忙しい。〝気の毒なほど〟忙しい。・・・・なぜ忙しいのか考えてみた。私は何度考えても「ビジョンがないから」という結論に達してしまった。」(p.241~242)
 まさにこのことが重要なのだと思う。

 しっかりとした見通し、組織としてのビジョンがあれば、その組織の成員は「多忙感」を肉体的、物理的には感じていても、精神的にはほとんど感じないのである。このことは自分自身の経験からも言える。

 それほどビジョンは大切なものだと思う。
 今年度も、もうすぐその半分が終わろうとしている。
 年度初めに職員に示したビジョンがどの程度浸透し、また実現されているかを振り返り、必要ならば修正したい。

 また、自分の学校がどのような方向を目指しているか、生徒たちや保護者にもわかるようにしたい。これが「学びの共同体づくり」
の出発点であると思う。そして、当然このことは最初のビジョンづくりに、これら学校関係者すべての思いが盛り込まれる必要があることを示している。

 今の自分の勤務する学校がそのような状態になっているのかどうかをしっかりと振り返りたいと思う。実に教育という仕事は創造的な仕事である。
 
 

2011年9月3日土曜日

小中一貫教育

 ここ数年、小中一貫教育を取り入れる自治体が増えている。
 もちろん、少子化による学校統廃合という観点からの導入も少なからずあるようだ。
 それ以外の導入理由は、不登校、いじめが中学1年になると急増するという、いわゆる中1ギャップ解消の切り札としての期待であろう。
 つまり、学校文化の異なる小学校と中学校の接続を滑らかにしようというねらいである。ただ、これまでにも「小中連携」の活動はあった。そのあたりの違いが明確にできるのかどうか。そこを意識してのことだと思われるが、小中教員による交流授業(小学校教員が中学校に出向き、中学校教員が小学校に行き授業をする)を取り入れる自治体が多いようだ。
 ただ、これは当該小中学校の教員にとっては大きな負担である。
 本務である自分の勤務校を離れて、交流先の学校に出かけていき、それでお互いの学力はどうなるのか、という心配は当然である。そこのところをどううまくやっていくのか、ここが実施する自治体、教育委員会の腕の見せどころかと思う。もっとも、授業改善につながらない一貫教育は最初からやらない方がいいに決まっているのだ。