2013年7月28日日曜日

学びの原則



今週で大学の授業が終了しました。

金曜日の最後の授業に、特別講師として私の友人の小学校副校長のS先生を招きました。

彼は、以前は中学校で社会科を教えていたのですが、5年前から小学校で教えています。

私の授業を受けている学生の大半は小学校教員を目指しているので、小学校での授業の話も有益だろうと考えて彼を招いたわけです。

 

内容は、一方通行の講義ではなくて、4年生の社会科の地域教材を題材とした「劇」を発表するものでした。栃木県のある地区の、江戸時代に作られた用水がテーマとなっているものですが、シナリオは講師が作成してきました。学生たちは、3グループ、およそ20人程度に分かれて、まず配役を決め、台本の本読みを行い、リハーサルをそれぞれのグループがやりました。当然、司会役が必要なのですが、それも各グループで決めてもらいました。

 

およそ30分間の準備時間を経て、グループごとに発表を行いました。

 

台本はありますが、細かいセリフの言い回しは自由に変えてよいということにしましたので、多少グループによって違いが生まれました。学生の表情を観察していると、ふだんの授業のときよりも生き生きしており、この学生がこんなこともできるのだという新たな発見もありました。「やらされている」のではなく、「自分がやりたい」と思えるものを学習するとき、人は本当に集中できるものです。

 

以前、授業のなかで「パフォーマンス課題」という話をしましたが、まさにこの授業ではそれぞれの学生がよいパフォーマンスを見せてくれました。自分で体験してみると、「なるほどこのような課題を子どもたちに与えて、学習活動をさせれば、子どもたちは生き生きと学ぶことができるのだ」ということを肌で実感することができたようです。

 

多くの学生が嬉々として課題に取り組み、あっという間に90分の授業が終了しました。この経験は学生にとって、将来、自分が教師になったときに必ず役立つものになったと思います。

 

S先生も機会があればまたやってみたいということでしたので、来年またお願いしようと思いました。

2013年7月21日日曜日

評価と学び、評価と指導

1) テストの点数や通知表の記号や短い文章で、子どもたちがよりよく学べると思っている教師はどのくらいの割合でいると思われますか?
2) テストの点数や通知表の記号や短い文章で、自分の教え方が改善すると思っている教師はどのくらいの割合でいると思われますか?
について10人強の先生方に尋ねてみました。

 約半分の人たちの回答は、
1)が、8~9割。
2)が、9割くらい、9割以上 が多かったです。

 私がこの質問を出した時に考えていた数字は、1)が95%で、2)が98%でした。これは、実質的な数字ではなくて、そう思い込んでいる教師がどれくらいいるだろうか、という数字です。

 しかし、数字で答えない人たちが、半分近くいました。
 理由は、「こういう質問・疑問自体をもたない教師が圧倒的だから」や、「やりたくもないのにやらされてやっているのが評価だから」でした。
 これには、1)も2)も、1割ないし0割と答えた人も含まれます。


 いずれにしても、テストの点数や通知表の記号や短い文章で、子どもたちの学びも教師の教え方も改善しません。(従って、実質的な数字は限りになくゼロです。)理由は、単純に「時すでに遅し」だからです。テストの点数や通知表を渡した後で改善する時間はありません。それが総括的評価の宿命です。変えたいと思うなら、形成的評価しかありません。


 あなたは、子どもたちの学びも教師の教え方も改善するために、どんな形成的評価を実施していますか? それともまだ実施していませんか?(前者なら、どんなことをすでにしていますか? 後者なら、形成的評価の実施に興味がもてますか?)


 ちなみに、教員研修に丸ごと欠けているのも、この形成的評価です。従って、教員研修としてやっていることは過去何十年も変わっていません。授業と同じように。両者は、イコールの関係にあります。ちなみに、会議も同じです。さらには組織としての学校や大学や教育委員会までも同じです。
 ある学校の授業か会議か研修を見れば、他のものがどんなレベルか、そしてその組織がどんな組織かはすぐにわかってしまいます。


 その意味でも、7月7日に紹介している「いい授業」や「いい学校」のイメージはとても重要です。それらがないということは、いま持っている悪いイメージをやり続けるしか選択肢がないことを意味しますから。★


 ★ 今日、やらされる「悪い選挙」や、その結果生まれる「役に立たない政治家」や「役に立たない議会」とまったく同じです。ちなみに、テストと「悪い授業」と、「悪い選挙」「役に立たない政治家」「役に立たない議会」は、莫大な税金を費やしているという点でも同じです。両者は、根っこの部分でつながっていると思えませんか?


    <メルマガからの続き>


追伸: 前回の記事の英語の部分は、どんな人たちですか? という質問をもらいました。あの人たちは、アメリカでライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップを実践している人たちです。
 あまりにも効果的な授業なので、読み・書きの授業だけでなく、理科、社会、算数・数学等に広がりつつあります。 


2013年7月14日日曜日

「声」のない日本人の文章と会話

 いま、共訳で「理解するとはいったいどういうことなのか。そしてそれはどういうふうに教えたらいいのか」が主題の本を訳しています。

 「Voice」の訳を、日本の言語学では定訳になっている「態」ではなく、「視点」にしてみました、という共訳者のコメントが事の発端でした。

Voiceは、態でも、視点でもないというのが、私の捉え方です。
「声」でしかない。

「態」などと訳したら、何がなんだかサッパリ分かりません。
「視点」もずれています。

 以下は、私が書いた文章です。「エリンさんの本」というのが、いま訳している本です。

   このエリンさんの本でも、「視点」と「声」の違いは結構明らかな気がします。
   確かに、いろいろな視点は提示してくれています。
   しかし、何よりも、彼女の「生の声」が伝わってくる書き方になっていると思われませんか? 人柄までもが。
   それは、「視点」とは違うわけです。

   日本人が書く文章の多くは(特に、論文は)、その「声」を押し殺して、「視点」だけを提示するものが多いです。その結果、伝わらない部分が多分にあります。視点だけでは、感情的な部分が欠落するので、伝わらないんだと思います。

   この分野で有名なNancie AtwellやLucy CalkinsやShelley HarwayneやRalph FletcherやKatie Wood Rayなど、みんなエリンさんのような書き方をします。きわめて個人的というか、自分のことをさらけ出すような。

   その結果、エリンさんが本の最後のところで書いているように、「共感」の度合いがまったく違うんだと思います。それが、おそらく日本の実践が変わらない大きな要因のような気がしています。 読み手に伝わらない/届かない文章が飛び交っている、という意味で。「共感」の度合いが、限りなく小さいという意味で。

   基本的に、指導案の作成・検討、研究授業、研究協議(それの論文版も同じ)というフォーマルなアプローチでやり続けている限りは、ますます授業が悪くなっていくだけだと思います。(現状維持さえしていないと思います。) 現場の先生や大学の研究者もそれしかしらないので、極めて効果的でないものを、ひたすらやり続けるしかないのが現状です。


 これに対して、共訳者から「書くときに(以下は吉田の付け足し:読む時にも、聞くときにも、話すときにも)「声」=voiceを意識させない、これはご指摘のとおり、日本の国語教育の大きな問題だと思います」というフィードバックをもらいました。

こういうところにも(というか、こういうところから)、日本の国語界というか、教育界が抱えている課題が見えてしまったというわけです。

多くの学校が作成する(あるいは、教育委員会や文科省が配布する)紀要や文章等を読んでも同じことが言えてしまいます。
「声」が聞こえない!
従って、何も伝わらないし、変わらない。

この辺から変えていかないと、先生たち(やそれに引きずられる形で行われている子どもたち)の努力も報われないことを意味します。伝わらない状況で、多くのことが行われているのですから。

 ぜひ、「声」のある文章や発言を!
 (上の文には、「声」がありましたか?)


★ 学級通信や学校(校長)便りには、「声」が聞こえますか?

★★ いま、参院選まっさかりです。
   候補者の「声」伝わってきていますか?


2013年7月7日日曜日

いい授業とは



今、大学で担当している授業のなかで、「いい授業とは何か」をテーマにしてここ何回か続けて学生たちと考えています。

 

 吉田さんが以前、中公新書から出版した「いい学校の選び方」の中に、次のような一節があります。(同書p.129)

 

 「僕たちの学校では持ち上がりなので、四年のクラスも先生が担任になるはずでした。でも、先生が去ってしまってとても残念です。先生は、一つのことを教えたら、すぐに終わらせて、まったく違った新しいことに移っていくというような教え方はしませんでした。・・・」

 

 この文章は、アメリカの小学生の「いい授業」に対する考えをもとにした「いい授業」に対するイメージが書かれているものですが、これを読んだ学生の中で自分もこんな授業を受けてみたかったというコメントが目立ちました。言うまでもないことかも知れませんが、実際は一方通行の授業がほとんどだったと語る学生ばかりです。

 

 将来、小学校教員を目指している学生にとっては、「こんな授業を目指したい」という具体的な目標になります。ある4年生の学生は、「もっと早くこういう考え方を知りたかった」「先生が紹介する資料はとてもためになる」と言ってくれました。自画自賛とお笑いになる方もいらっしゃるでしょうが、教員養成の段階でも「学びの原則」(これも吉田さんの著書のあちらこちらで紹介されているもの)というものを踏まえた教え方を知っている教員があまりいないということです。

 

 また、同書には、「いい学校のイメージ」という文章も載せられています。ここを読むだけでも、学生たちの反応を見ると、これまでの自分たちが受けてきた学校教育に対するイメージが変わるようです。「いいもの」が何なのかを知らないと、向上する目標もつかめません。学生たちのそんな自己変革のきっかけづくりができれば最高です。

 

 まだまだ道のりは遠く険しいなと思いつつも、たとえ大海であっても、粘り強く一石を投じていくことに意味があると思い、日々の授業に向かう毎日です。