2014年6月29日日曜日

学びのための評価


次期学習指導要領では「評価」が一つのキーワードになるものと思われます。

 
これまでも「指導と評価の一体化」とか、「形成的評価」が大切なことは繰り返し強調されてきました。研究指定校などでも、評価のあり方については繰り返し研究されてきました。

評価に関しては、今でも忘れられない思い出があります。

2000年に「総合的な学習の時間」がスタートしてから、評価のあり方が明示されていなかったために学校現場は混乱しました。当時、私は教育委員会で指導主事をしていましたので、評価を何とかしたいと考えました。そして、自分なりにいろいろと調べて、「ポートフォリオ評価」が最も有効なのではないかと考えるようになりました。

その成果を持って、管轄の学校に出向き、「ポートフォリオ評価」に取り組むことを勧めました。その中のいくつかの学校では、その後数年に渡って、ポートフォリオ評価の研究に取り組みました。しかし、私が教育委員会を離れると、次第にその研究も先細りになり、数年後には跡形もなく消えてしまいました。

結局、学校の先生方は、私からの指示で、「やらされている」という受け止め方をしていたようです。良かれと思うことでも、「やらされている」のでは長続きしません。その評価の良さを自分自身で納得できて、子どもの指導に活かせなければ、「ほんものの評価」にはなりません。

ですから、私にとっては「ポートフォリオ評価」やその評価の規準であるルーブリックの普及は、ぜひもう一度挑戦してみたいテーマでもあります。また、このポートフォリオ評価と同様に、今後の取組の中心になりそうなのが、「パフォーマンス評価」です。

これはポートフォリオ評価と同様にオーセンティック評価(真正の評価)であり、子どもたちの学びを改善していく「学びのための評価」でもあります。これまでは、「学んだことの評価」(結果の評価)はあっても、学習改善や教師の指導法改善のための「学びのための評価」という面が弱かったのは事実です。これをぜひ今後は改善の大切なポイントにしていく必要があります。

 

 

 

2014年6月22日日曜日

世界は一冊の本


長田 弘さんという詩人が書いた「世界は一冊の本」という詩があります。

 

今年の前半の授業で、「教育方法論」を5クラス担当しているのですが、そのうちの2つは中高の教員免許を取るための必修科目になっています。そこでテキストに使っているのが「「読む力」はこうしてつける」(吉田新一郎・新評論)です。


その第7章「質問する」に、レッスン7「詩を使った質問づくりの練習」があります。ここで使う詩の例として「世界は一冊の本」が著者のおすすめとして紹介されています。

早速授業の中でもその詩を読みました。

学生たちから出された反応は?

 

「『200億光年のなかの小さな星』とは地球のことなのか?」

「『人生という本を、人は胸に抱いている』とはどういう意味なのだろうか?」

「『マヤの雨の神の閉じた二つの眼』とは一体どんなものなのだろう?」

「『黙って死んでゆくガゼルやヌーも本だ』とはどういうこと?」 など

 

様々な質問がありました。

この章のなかに、「Mosaic of Thought」からの引用として、質問の効用がいくつも紹介されています。

たとえば、「質問することで理解が広がる(深まる)ことが分かる。したがって、記憶にも残りやすくなる」とか、「質問には『浅い質問(表面的な・やせた・正解がある)』と『深い質問(深く考える・太った・正解がない)』の2種類があることがわかる」

 

これによって、よく学ぶには「質問する」ことがとても有効であることが実感を通して学生たちは納得できたようです。

また、「「考える力」はこうしてつける」(ジェニ・ウィルソン&レスリー・ウィング・ジャン/吉田新一郎訳・新評論)の「第5章・質問」も質問の種類、質問を効果的に使うことなど、さらに自問、自己評価についても学ぶことができます。ここまでくると、質問が学ぶことに深くかかわり、学校での授業の中核の一つであることがわかります。

 

私の担当する科目は教員免許取得に必須の科目なので、仕方なく受講している学生も多いと思います。しかし、ときどき授業後に「先生の授業が履修している科目の中で一番面白いし、ためになる」と声をかけてくれる学生がいます。

こんな声を聞くと、うれしくなります。

 

微々たる実践ですが、学生たちが「学びの原則」、「マルチ能力」「ほんものの評価」などの話を通して、これまでの暗記優位の20世紀型学力観から抜け出し、未だにそれらに固執している現状を変える力になってほしいと切に願います。

2014年6月15日日曜日

一対一の関係(カンファランス・アプローチ)



 『校長先生という仕事』を書くために、国の内外の校長先生たちの後を影のようにひたすら追いかけていた(シャドーイングという方法です)時に気づいたことがあります。

 日本の校長たちは、一対一での話し合いをもつことがほとんどなかったのに対して、海外の校長たちは、その機会を頻繁に持っていたことです。

 これは人間関係(さらには、組織づくり)のベースですから、日本の学校のほとんどが組織の体をなしてない★理由がわかってしまった気がしました。朝会や、長い時間を職員室で過ごすなど、表面的な(?)コミュニケーションはあるのですが、一歩踏み込んだレベルでのコミュニケーション(人間関係)は築けているようには思えないところが多いのです。言い換えると、それなりに授業や行事などの学校活動はつつがなくこなすレベルのコミュニケーションと人間関係はあるのですが、学校の核である子どもたちのよりよい学びを実現するための授業を改善し続けるためのコミュニケーションと人間関係が気づけているようには思えませんでした。
 それに対して、海外(オーストラリア、アメリカ、デンマーク)で後をつかせてもらった校長たちは、それをしていたのです。もちろん、全員が授業観察をして、そのフィードバックという形だけでやっていたわけではありません。多様な方法が可能です(『校長先生という仕事』、『「学び」で組織は成長する』、『効果10倍の学びの技法』などの新書本をご覧ください)。
 しかも、一対一の場では(日本では、たとえあったとしても、個人的なことなので退出を求められますが、海外ではそんなことは皆無で、校長と一緒に先生の話を聞いて、話に加わることというか、アドバイスまで求められたことすらあるぐらいです。極めてオープンなのです!!)、主な話し手は教師で、聞き手が校長という役回りなのです。関係を築くコツがわかっているな~、と感心させられました。日本の場合は、どうもポジション的に上の者が話してしまうのです。教師との場合は校長が、そして生徒との場合は教師が。親との場合も教師が??
 この辺にコミュニケーション、人間関係、そして組織づくりの鍵があるような気がしました。


★ 集団の中では、いくらでも「あたかもしっかりやっているように装えてしまう」のです。しかし、一対一の関係ではごまかしは効きません。ということは、一対一の関係を築こうとしないということは、最初から「ごまかそう」という選択をしているということ??

★★ 上で紹介した一対一のコミュニケーションは、これまでにこのブログで何度も紹介してきているライティング・ワークショップ(作家の時間)やリーディング・ワークショップ(読書家の時間)の中核をなしているカンファランス・アプローチそのものです。ですから、教師時代から授業で練習を積むことで、管理職になってから容易に教師たちとのやり取りが出来るようになることを意味します。

2014年6月8日日曜日

30年以上も抱え続けている大きな課題


先日、私のマルチ能力に10年前から関心をもち続けている人からメールがありました。
 
ずっとなぜ日本ではマルチ能力(MI)が認知されないのか不思議でしょうがなかったのですが、その原因を書いた論文「H.ガードナーのMI理論のアジアにおける需要と展開」を発見しました。日本で広がらなかった理由として、


1.研究現場をフィールドとする研究者が少ないことと現行の教育課程の硬直性がMIを適用したカリキュラム研究の展開を難しくしている。

2.教育課程編成における学校の自由裁量枠が狭く、学校及び教員のカリキュラム編成経験がない。

3.悉皆的な教員研修の在り方が教員の自立性や柔軟性を発揮することを拒んでいる。★

が挙げられていました。

これに対する、私のフィードバックは、以下の通りでした。

マルチ能力が日本で普及しない3つの理由は、まさにその通りだと思います。
ERICを私が始める準備段階で、文科省の教科調査官などと話して、すでに把握していたことではありましたから★★、もう30年近く(以上?)、まったく改善が図られていません。学校教育に関係する人たちは、改善する気もありません。
要するには、単にマルチ能力の普及を阻む要因になっているだけでなく、「日本の教育が膠着したままである理由」であり、○○さんが尻拭い的にさまざまな活動(不登校やいじめ問題への対応など)をしないといけない要因でもあり続けています。
子どもたちも、教師も、そこに関わるほかの大人たちも元気になれない、自分を出せない世界ですから。みんなで仮面をかぶることを強要された世界ではないでしょうか。それが社会に出る前段階での練習の場になっているわけですから、学校が社会の縮図化しています。凝縮しているというか。(それこそが、『ギヴァー』を再刊し、普及したかった私の理由でした『読書家の時間』も同じ目的で出したので★★★、読まれたらぜひ感想聞かせてください。ということで、私の中ではすべてつながっています。)


★ 中教審の答申のたびに、「教員の資質向上」の必要性には言及していますが、文科省にその方法を知っている人はいません。従って、「それは、都道府県教委の責任です」と逃げてしまいます。それで、自分たちは制度整備(改悪?)と教科書づくりで、教育を管理することが役割だと思い込んでいるようです。 では、都道府県や市教委に教員の資質向上のノウハウをもっている人がいるかというと、いません。それでは大学にいるかというと、教員免許更新制の研修を見てもわかるとおり、いるとは言えません。従って、教員の資質向上はお題目に過ぎない状態が続いています。教員研修のプロが一人もいないのですから。

★★ たとえば、世界史の教科調査官は「フランス革命はいつ始まり、いつ終わったのか?」という一つの質問で年間を通して教えてもらってもいっこうにかまわないのです、と言い切っていました。しかし、その後に以下のように補足しながら、「もちろん、それができる教師がいれば、です。養成課程でも、現職研修でも、カリキュラム開発能力をつけることを日本ではやっていませんから、基本的には無理です。」
 これは、30年前のやり取り(おそらくそれ以前からわかっていたこと)ですが、いっこうに現状を改善する形での努力が行われる気配はありません。要するには、先生たちにカリキュラム開発能力は身につけてほしくないのです。教科書を大人しくカバーしてくれている存在でいいと思っているのですから。

★★★ 年間計画を自分で立てること(=カリキュラム開発能力)は、『読書家の時間』を実践する際に欠かせない力量です。教科書をカバーするやり方ではないので。結果的に教科書の内容をカバーするアプローチではありますが。(教科書をそのままカバーする授業をしていては、少なくとも半分以上の子どもたちがこぼれ落ちてしまうことがわかっていますから。教師にとっても、学びはないし!!)

2014年6月1日日曜日

エレン・ランガーの本



彼女の本は、『校長先生という仕事』の中で紹介しています(218ページ)。「マインドフル」であることの大切さを、長年説いている人です。
それは「いろいろな視点から物事を捉えることができ、新しい情報等に心が開かれており、細かい点をも配慮することができ、従来の枠の中に納まっているよりもはるかに大きな、人々の可能性を信じることができる」ことを指しています。マインドフルの反対は「マインドレス」で、「物事への注意を欠いたり、柔軟性や応用力のない心の状態」をいいます。(219ページには、表で対比させています。)

彼女の日本語になっている本をぜひ読んでみてください。(そのうちの一冊のタイトルには「天才」という言葉が含まれていますが、無視してください。内容とは関係ありません。出版社が売れると思ったのかな? またもう一冊は「やわらか」となっていますが、内容的には「しなやか」の方があっている気がします。両方とも、好みの問題でしょうか? ぜひご判断ください。★)

『「老い」に負けない生き方』も十分参考になります。
老人ホームで起こっていることと、学校(授業)で起こっていることが、同じだ~と思ってしまったことも含めて。
要するには、どちらもマインドフルな関係が築けていない典型的な場と位置づけられてしまうようです。
そのままに放置してしまっては、まずいので、ぜひご一読を!!★★



★前者の『あなたの「天才」の見つけ方』を、5月の連休中に読んだ先生が書いてくれた紹介/感想文の一部を下に貼り付けます。

1章から7章は「7つの神話」が学びをいかに阻害しているかについて書かれています。神話って!!(笑) なんとも読みたくなるような取り上げ方だな~と感心してしまいました。ちなみに「7つの神話」は…

①「基本」は第二の天性となるまでよくよく習得すべし
②「注意を払う」とは、一つのものにじっと集中し続けることである
③「ご褒美はお預け」が肝要である
④機械的な暗記なしに教育はありえない
⑤「忘却」とは何とかしなければならない困った問題である
⑥知能があるとは「何がそこにあるか」がわかることである
⑦答えは、正しいか間違っているかのどちらかである

これら7つの神話は、本当の学びを台無しにしている。私たちの創造力の息の根を止め、疑問を押しつぶし、自尊心を傷つけている…うんぬん。

これだけで読みたくなりませんか? 私は一人読みながらふき出してしまいました。


★★ 自分が70代、80代になってから努力しても、時すでに遅しになりかねません。そうならないためにも、小学校、中学校からしっかり準備をする必要があります!!