2018年12月15日土曜日

かちこち学校スタンダードに踊らされない、効果的なしなやか学校スタンダードとは

昨今、学校スタンダードへの批判を目にするようになりました。学校スタンダードとは、全校あげて取り組むべき学校の具体的なスタンダード(基準)です。子ども達が守るべき約束の形式で示されたりもします。どの教室においても教師が同じ指導を徹底できるように、しっかりと子ども達を管理するように示された、いわば学校ルールのようなものです。

下記はある小学校の学校スタンダードです。
・いすにしっかり腰掛け、 背筋を伸ばす
・教室移動は並んで歩き 防災ずきんを持参する★
・日直や係の号令で始まりと終わりを明確にする
・晴れた日はできる限り外遊びをする 

なにか非常に違和感というか息苦しさをもちませんか?

一方、こちらは別の教育委員会が出している小学校の授業スタンダードです。
・発言するときのルールが徹底されている。(挙手、返事、起立) 
・「単元名」、「学習のめあて」を明示している。 
・構造的な板書をしている。 
・「学習のめあて」が達成できたか、児童・生徒の振り返り(自己評価)の場を設定している。 
・児童・生徒を机間指導で評価し、到達度も把握している。 
授業そのものに関することも多くなりましたがまだまだです。★★

こういったガイドラインを一律にそろえることで、だれもがよい授業ができると思っているのでしたら、管理職や教育委員会の考えることの放棄としてか言いようがありません。

最初に結論を述べておくと、学校スタンダードは必要です。それがなければ、学級王国だらけで、学校としての体をなしません。では、なぜこのような学校スタンダードが求められるのでしょうか。昨今、若年層の教師が増加しはじめています。学習経験の浅い教師が学校現場で困らぬよう、先輩教師たちから親心としての学校スタンダードなのでしょう。

経験の浅い教師と熟練の教師では、学習経験の浅い教員が1年かけて教えている横で、熟練の教師はその半年分で学習効果をあげてしまう歴然の差があります。保護者から、学級によって差が生まれないように求められることも多々ありますが、学校スタンダードだけでは学習の差を埋めることはできません。

一方、学校スタンダードをそつなく流せるようになった教師は、指導主事からも称賛されます。それもそのはず、教育委員会がつくった学校スタンダードですから。それさえをやっておけばよいと、教師はその評価に安住してしまいます。授業の意図を考えようとしなくなり、本質や教育理念を考えようともしない「思考停止の管理職や指導主事に忖度する教師」が育ちはじめています。教師の持つ主体性を消し去ってしてしまう機能を持つスタンダード、これは考えることの放棄といった大問題です。まさにかちこちマインドセットを育成してしまう能力無視のかちこち学校スタンダードです。★★★

学校全体を即席にチームとしてみせるためには、上記のようなルールを委員会、管理職より下ろすのがてっとりばやく、また学校がチームとして整っているように見せるには効果覿面です。端から見ると、そろっているように見えますし、なによりも管理職は一時的にはそのコントロール感から安心できます。

ここで抜け落ちているのは、ルールが目的化されてしまい、そこで生で学んでいる教師や子どもの視点が抜け落ちてしまっていることです。さらに問題な点は、このような学校スタンダードが現場の教員たちには歓迎されてはおらず、子どももその時の様子に寄り添いづらくしています。もちろん子どもも歓迎してはいません。

しかし、本当に上記の学校スタンダードのような学習のめあてと、授業のまとめを板書することで、子ども達に何が育っているのでしょうか。教師が板書を書くのを口を開けて待っている子を育てていませんか。きれいにノートへ写せた子どもを褒めてしまってはいませんか。それらは子どもが自分で考えた言葉なのでしょうか。形式的に、指導書を丸写しとなっていませんか。子ども達が高学年になってくれば、そのような教師からの一方的な学校スタンダードをなぞったような授業では、学習の意味を見い出せない子がでてきます。子どもは本来、型にはまりたいのではありません。自分でよりよく考えたいのです。



学校全体で大事にしたいスタンダードとは一体なんでしょうか。細かいスタンダードづくりで外堀を埋めるだけで終わらせず、エビデンスに基づいた学習★★★★に最も効果的な本丸とは一体なんなのでしょうか。

それは、①「学習の意図が明確であること」②「望まれた学習が達成されたかどうかがわかる達成基準があること」であり、③「教師集団がそれについて話し合い続けていること」です。

上記の学校スタンダードにある「学習のめあて」を明示だけではおしいのです。これだけでは、学習者がどうしたらそれを達成できたのか、明確な達成基準を共有してはじめて、ふりかえりに学習者の自己評価が活きてきます。学習の意図、そして達成基準を明確にしない授業では、とりあえずパスをもらってドリブルし続けるサッカーのようなものです。目指すべきゴールもそのレベルも見当たりません。まず、教師自身が教えることをはっきり分かっていなければ、すぐれた評価を開発できないのです。学習の意図(アウトカム)がはっきりしていることは、何をどう教え、学習者がどうなっていってほしいのか、形成的評価の中核なのです。

ライティングワークショップやリーディングワークショップといったワークショップ授業のもつ難しさとは、こういった学習の意図や達成基準を各自でデザインしていくところにあります。教科書のみを頼りに学習している限りは安心ですが、自分で考え授業をつくっていこうとする「しなやかな思考」生まれません。こういった、学習意図や評価を対話しながら、教師集団で練り上げていくのです。

学習の意図、達成基準づくりのポイントとして以下の6点が挙げられます。これらを教員たち同士でよく話し合ってみてください。これらは委員会が提示してる授業のスタンだー痔オとは真逆です!★★★★

①基本的な知識・技能といった浅い理解と、関連や思考を促す深い理解、自分の学びを俯瞰してみるメタ認知をバランスよく取り入れているか?
②教えるべきカリキュラムに適合しているか?
③短期間で成し遂げることなのか?長期間かけて身につけることなのか?
④具体的にやる活動やその難易度を明らかにし、学習者にとって簡単すぎで退屈にならないか、かつ難し過ぎてモチベーションがわかないものになっていないか?
⑤フィードバックを効果的に用いて、形成的に支援し続けられるか?
⑥学んでほしいことを学習者に分かるように伝えているか?

授業では、この学習の意図と達成基準を繰り返し共有していきます。授業の終わりや単元の終わりには、学習の意図の確認し、どれだけ達成できたのか学習者自身が理解できるようにしていきます。これはとても効果的な教え方の一つです。そのふりかえりを学習ジャーナルに継続的に学習者が書き続けていきます。

また、子ども達の学習は決して直線的ではなく、当初、意図していなかった結果を認識させられることもしばしば。そこでは、学習の計画をつくりかえることも重要です。みんなペースやレディネスが違うからです。個に寄り添ったカンファランスアプローチが必要となってくるのです。



子ども達を、規律で縛り続け、時計の針ばかりを見続けさせる退屈な授業でよいのでしょうか? 授業の意図を明確にすること。そしてそれを見とどける評価基準をも明らかにし、学習者と共有していくこと。この授業デザインをもって、学校スタンダードをつくり始めてみるのはどうでしょうか?


★なんのための防災ずきん?

★★ちなみにこのような情報は、学校のホームページに記載されているため、ネットでさがせばいくらでも見つけられます。
http://www.sagamihara-koyo-e.ed.jp/H27koyo_standard.pdf
https://www.city.tachikawa.lg.jp/shido/documents/tachikawa_00.pdf

★★★
かちこちマインドセットとしなやかマインドセットについては、以下の本が参考になります。2冊目の方は、これまで訳されていなかった海外事例の章も新たに訳されています。
『「やればできる!」の研究―能力を開花させるマインドセットの力』キャロル S.ドゥエック (著), 今西 康子 (翻訳) 2008
『マインドセット「やればできる! 」の研究』キャロル・S・ドゥエック  (著), 今西康子 (翻訳)2016

★★★★
「エビデンスに基づく教育」(Evidence-based Education)とは,教育研究によって政策や実践を実証的に裏づけることを意味する言葉。

★★★★★
『学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編◆』原田信之 (著), ジョン・ハッテイ (著)の「5章 授業を始める」を参考にまとめたものです。








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