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2017年6月23日金曜日

職場の環境はどうですか


最近、学生の教育実習に合わせて、小学校を訪問する機会が何度かありました。
いつも学校を訪問すると感じることは、学校ごとに職員室の様子が異なるということです。

 明らかに雰囲気が暗い学校もあります。そんな学校では、教師間の連携も上手くいっていないことが多いようです。自分のことさえやっていればいいというタコツボ状態になっていれば、「チーム学校」など絵に描いた餅です。

仕事のストレスが溜まっているのに、聴いてもらえる相手がいない、そんな状況もあるようです。中学校などでは、特に実技教科の教員が1名しか配置されていない学校もありますから、教科の内容について相談したくても相談する相手がいないこともあります。

そのように孤立したり、一緒に勉強したくても近くにその相手もいなかったりする先生方は現実に決して少なくないようです。そこで、必要なものは一緒に学べる仲間です。今はWEBという方法があります。近くに仲間がいない人は、このWEBの力を借りて、学びの機会を作りましょう。(サークル活動や研究会の情報を提供してくれるサイトもあります)

また、自分が主体になって仲間を作ることもできるでしょう。私は20代後半の頃、校内で仲間を募って勉強会をやりました。それぞれの学級経営の実践記録を持ち寄ったり、定期テストの問題作りを一緒にやってみたりしました。そして、勉強ばかりでなく、そのころの学校はまだ余裕がありましたから、地区の同好会などでハイキングに出かけたり、温泉に泊まりに行ったりと、仲間で過ごす時間がたくさんありました。そのようなふれあいの中で、互いの生き方から学ぶことがありました。それらが当然、教師としての仕事にも反映したと思いますし、人としての幅を広げることにも役立ったと感じます。
     

「意志あるところに道あり」です。

「こんなことをしてみたい」「このことについてもっと探究してみたい」と思い続けていると、不思議にそれに関連することが向こうからやってくるものです。そのときに見過ごすことなく、しっかりとつかまえれば、道が開けるのではないでしょうか。
     

AIがさらに進化して、学校も大きく変化すると思われる時代がすぐそこまで来ています。しかし、人間教師が学校という場で、顔をお互いに見合いながら「授業」を通して子供たちと学ぶのも、人としての「意志」の力を子供たちに伝えていくためにあると言ったら言い過ぎでしょうか。

 そのためには、私たちはコミュニケーションを大切にして、仲間づくりをやりながら、それぞれの力を磨き合っていく、そんな地味な努力の上にこそ、これからも教育と言う営みは成り立つのではないでしょうか。私たちは一人ではありません。常に私たちを支えてくれる人たちが周りにたくさんいるはずです。そのような力を結集して、この国の民主主義を担う子供たちを育てていきましょう。

2016年10月30日日曜日

魅力ある職場をつくるには


魅力のある職場を作るには
     

学校を訪問して、職員室に入るとだいたいその学校の組織の雰囲気がわかると言われます。今でもときどき学生の教育実習の際に小学校を訪問することがあります。特に、放課後に訪問すると、とても活気のある職員室もあれば、多くの職員が下を向いて黙々と仕事をしているところもあります。

活気のない職場は、お互いがたこつぼに入って、あまり他人に関わりたくないという感情に支配されているケースが多いようです。あるいは人のことに口出しして、余計なトラブルに巻き込まれたくない、そんな気持ちもあるのでしょうか。

 
    組織開発・人材開発に携わる高橋克徳氏によると、「今、日本の職場の五割は明らかな問題を抱えており、七割の職場が活力のないものになっています。」とその著書(『ワクワクする職場をつくる』実業之日本社2015)の中で述べていますが、その数字の妥当性はともかくとして、学校に限らず、かなりの職場が「いきいき」とした状況にはないようです。

さきほどふれたように、「たこつぼ」型の職場は、「言われたことだけやればいい」「余計なことをしてミスして、責任を取らされたら損だ」という雰囲気が蔓延している職場です。

最近はコンプライアンスや個人情報保護など、気をつけなければならないことが以前よりも多くなり、また成果主義が求められるようにもなってきていることもその大きな要因だろうと思います。

 
このブログのタイトルでもある「学びの共同体」というフレーズは、教育関係の書籍や雑誌等にも紹介されることが以前よりも増えていますが、「言うは易く」です。

この国の教育界では、「理想的な美辞麗句」が様々なところで用いられていますが、その現実との落差には目を覆いたくなるものがあります。
     

さて、今回「魅力のある職場」を取り上げるにあたって、「人が働く理由」「モチベーションとは何か」などについてもしばらく考えてみました。

「人は何のために働くのか」

実に古くからの課題であり、様々な人々によって繰り返し語られてきたことです。

「お金のため」「名誉のため」その理由は人それぞれですが、やはり「だれかのために役立ちたい」ということが最終目標でしょうか。学校教育であれば、「子供たちのために」です。

 次世代の社会をつくると言えば大げさですが、教師にとっては「子供たちとのかかわり」が「生きている自分を実感できる」からではないでしょうか。

 そのように個々の教師がイキイキと活動できるためにも、学校という組織もイキイキとする必要があります。そこには、管理職やミドルリーダーのリー―シップが必要ですし、部下職員の立場からはそのリーダーシップについていく「フォロワーシップ」が大切なのだと思います。
   
 これまでも教育の内容を改善しようとして、具体的な仕組みを変えていくことがしばしば行われますが、仕組みだけではその中にいる人間の行動は変わりません。やはり、危機感や思いをもった人たちがどうにかしたいという思いを共有して、動き出すのが一番です。

 先週の『一人ひとりが「変化の担い手」にある方法』も参考になります。もう一度読み返してみてください。
     
また、参考図書として『効果10倍の(学び)の技法 シンプルな方法で学校が変わる! (吉田新一郎・岩瀬直樹PHP新書2007)を具体的に動き出す際のヒントにされるとよいでしょう。

 
※この原稿を書いていた27日に、文科省の2015年度「問題行動調査」の結果が公表されました。それによると「いじめ」の学校による認知件数は過去最高の224,540件とのこと。

28日の毎日新聞の記事に、森田洋司・鳴門教育大特任教授による「自殺などの深刻な事態に発展するケースは教員同士の情報共有がうまくいっていない場合が多い。何か問題を見つけても、教員は責任感から1人で解決しようと考えがちだが、素早く組織的な対応をすることが苦しんでいる子供を救うことにつながる」という発言が掲載されています。

まさに「情報共有」「組織的対応」は、「いじめ」だけでなく、「魅力ある職場づくり」の基礎となる項目です。

2015年7月26日日曜日

リアルな人間関係の再構築


今年の1月に「平成25年度公立学校教職員の人事行政状況調査について」という調査結果が文部科学省から公表されています。これによると、

「教育職員(※)の精神疾患による病気休職者数(5,078人、全教育職員のうち0.55%)は、19年度以降、5,000人前後で推移しており、依然として高水準。」とあります。

(※)公立の小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校における校長、副校長、教頭、主幹教諭、指導教諭、教諭、助教諭、養護教諭、養護助教諭、栄養教諭、講師、実習助手及び寄宿舎指導員(総計919,717人(平成2551日現在))

◆精神疾患による病気休職者の推移(教育職員)(過去5年間)


    元外務省主任分析官で現在は作家・佐藤優氏が書いた「修羅場の極意」(中公新書ラクレ2014)p.146に、次のような文章があります。
   
「企業では成果主義が強まり、それについていくことができず、悩んでいる人が増えている。また、グローバリゼーションの中で英語を習得しないと落ちこぼれると神経過敏になっているビジネスパーソンも多い。上司と部下、同僚同士の関係が、ぎくしゃくすることが以前よりも多くなった。筆者に対しても職場の人間関係について悩んでいるので助けてほしいという相談が頻繁に寄せられる。

 リアルな人間関係が持てないので、その代わりにネットで絆を強化しようとする人も多い。フェイスブックで友だちが1000人以上いるという人も珍しくない。しかし、ネット空間で、よい顔をするのに疲れている人がほとんどだ。また、匿名のネット空間では罵詈雑言が飛び交う。

 これらの現象を総合すると、どうも人間社会における悪が力を増しているように思える。」

 そこで、佐藤氏は、この悪を克服するヒントを探すために、まず作家の藤原智美氏の次の文章を手掛かりとします。(『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』文藝春秋2014/pp.33-34)
   
「日本語の土台の上に接ぎ木するようにして得た道具程度の英語力は、しょせんそれを母語とする人たちにはかなわない。英語という土俵に上がるまえに決着がついています。つまりその土俵とは思考そのものであり、日本語で考える人は圧倒的に不利なわけです。言語のルールは常に母語を使えるものに有利になっています。このルール上の優劣が英語化への圧力をさらに強めています。

~(中略)~

グローバルネットワーク拡大のもうひとつの側面は「英語」対「他の母語」という言語間の競争なのです。それは静かに、しかし急速に進行しています。」

「書きことばが衰退するということは、読む力も衰退するということです。よって読者の力も同時に衰えていきます。現在、紙に書かれる文章も短文化が進んでいますが、短文しか読まない読み手が増えているからにほかなりません。長文を読めない人が増えているのです。」(前掲書p.208)

 そして、藤原氏は現時点での自分の考えを総括して次のように述べるのです。
   
「閉じられた空間で文字とむきあうという行為はもはや過去のものとなりつつある。他者から自分を切りはなし、個として自立的に考える、あるいは内省するという行為は、古くさい無駄なものとして見られています。しかし個人が個として書きことばにむかいあい、自立的に思考するという、いっけん孤立したように見える行為はけっして無駄ではありません。」(前掲書p.217~218)

これをもとに、佐藤氏は次のように考えます。
   
「人間の特徴は言語を駆使するところにある。悪は人間と人間の関係から生まれる。従って、人間がどのような言葉を用いるかで、悪の濃度は変化するのである。国際関係においても、企業、官庁、学校などの生活においても、言葉の使い方が下手になり、長くて複雑なテキストを読むことができなくなり、思考が粗雑になっている。その結果、社会における悪の力が強まり、閉塞感が強まっているのだ。」(「修羅場の極意」p.150)

 このところのニュースを見聞きしていても、まさにその通りと思うことばかりです。
   そして、最後に佐藤氏は神学者・ボンフェッファーの思想を手掛かりに、次のように説きます。
   
「われわれも正しく言葉を使い、行動するならば、修羅場の危機から抜け出すことができるのである。もう少し、われわれの日常に引き寄せて、このことを言い換えるならば、あなたが他人の気持ちになって考える努力をすると、自然と言葉の使い方も異なってくるようになる。その結果、あなたの行動が変化する。この影響が自然と他人に及ぶ。そして、他人もあなたのことを思いやるようになり言葉遣いと行動が変化する。このようにして、リアルな人間の信頼関係が構築される。」(「修羅場の極意」p.159)

「人は社会的な動物である」とアリストテレスは言ったそうですが、人は人間関係なくして生きていくことはできないのですから、まずは日々自分たちが使う「言葉」を他人の気持ちを理解するという方向から見直してみることが必要です。学校でも、学習指導要領で「言語活動の重視」を謳っているわけですから、クラスの中で教師と子どもが「言葉」を手掛かりに安心な信頼関係を作り出していけるといいと思います。国と国の関係もまさに同じです。

「言葉」を手掛かりとして、この社会を作り直していくためにも、学校教育にかかわるわれわれは、言語リテラシーである、「読み」「書き」「話す」ことを今以上に重視していく必要があります。

2011年11月20日日曜日

問いかけること

私に教育の世界に入るきっかけをつくってくれた本があります。『ワールド・スタディーズ』(国際理解教育センター翻訳・発行、直販)というタイトルのイギリスで開発された本です。

 この本の中には、たくさんいいことが書いてあるのですが、中でも「教えることは、問いかけること」が秀でています。
 それを読むまでの私は、ご多分のもれず、研修等では9割方自分が話すような進め方だったのですが、86年に読んだ後は、確実に5割以下、研修時間が長くなれば2割以下に減りました。

 あとでわかったことですが、イギリスでワールド・スタディーズの開発に携わった人たちがもっとも影響を受けた一人がカウンセリングで有名なカール・ロジャーズ(本のタイトルは、初版が1963年に出たFreedom to Learn)です。日本でも、この本は訳されています。最新は、カール・ロジャーズが亡くなった後に彼の信奉者が編集した第3版で、日本では2006年に『学習する自由』のタイトルで出ています。

 これら2冊の本は、学ぶことはどういうことか(それは、必然的に教えるということはどういうことか)を考えさせてくれるので、教師には必読書と言ってもいいと思います。

 「問いかけ」と、日本でよく使われる「発問」には、大きな違いがあると思います。
問いかけは、正解のない質問、教師や管理職が相手の考えていることを本気で知りたくて発する質問なのに対して、発問の方は答えがあるニュアンスが濃厚な気がします。あるいは、教師・管理職のシナリオがすでにあって、それを推し進めるのを助ける質問です。

 日本の教師も管理職も、求められているのは「問いかけ」能力です。
 「発問」ではありません。

 質問の仕方が、答えを決めるというか、思考を左右しますから、問いかけ方は極めて重要です。授業の本質的な改善に向けての問いかけ、学校の課題を解決・改善したい時に発する問いかけなど。発する側がすでに答えをもっていると思わせるような問いかけではなく、真に聞かれた側の考えを知りたいと思ってもらえる質問です。「一緒に考えてほしいんだ」という気持ちが伝わる問いかけです。

 質問はまた、相手を「主役」というか、「主体」にする方法でもあります。質問する側がすでに答えをもっているような質問やアドバイスを言ってしまっては、相手を受け身にさせるだけですが、答えのない質問は、主体的に考えて、主体的に行動するきっかけになります。

 あなたは、そんな質問を日ごろどれだけ発していますか?

 私は、教育の質、社会の質は、問いかけの質で決まると思っているぐらいです。
問題を解決する際も、質問が鍵を握っていることが、「問題解決のサイクル」の図からよくわかります。



 問題から直接解決に行ってしまっては、思いもしない副作用を作り出してしまいかねません。鍵は、質問をすることによって、問題をよりよく理解すると同時に、多様な可能性を考慮することです。それらの中からベストを選び出して解決にあたると、必ず新しい課題や問題も見えてきます。延々とは言いませんが、問題解決/改善のサイクルは続くわけです。
 直線的に考える方がおかしいのですが、「原子力発電は安全だ!」のように、私たちは直線思考に陥りがちです。似たような思考が教育の世界でも、かなり幅を利かせているのではないでしょうか? 教科、教科書、時間割、単元、指導案、評価、部活動、教員研修、組織体制、家庭との関係など、授業と学校を構成するものすべてがリストアップされてしまうぐらいです。


★関連情報 → ライティング・ワークショップでのカンファランス
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