2023年12月30日土曜日

探究力を育む理科の授業とは

 

 今回は2020年出版の『だれもが<科学者>になれる!』(新評論)を手掛かりに「探究力を育む理科の授業」について考えてみたいと思います。

 第1章「探究―次のフロンティア―」の最後に「探究実践例」として「火星に生命は存在するのか?」が紹介されています。1997年にアメリカの火星探査機によって、火星の表面にかつて大量の水が存在したことがそこで撮影された写真から判明しました。実は、この本の著者であるチャールズ・ピアス先生の小学校5年生の教え子の二人が、その5年前に浸食模型を自分たちで作って、その模型の川床の写真とそれ以前に撮影された火星表面の写真の間に類似性があることに気づきました。そればかりでなく、彼らは水があれば堆積岩があると推測し、生命の痕跡があればその堆積岩の中にあることも示唆していたのです。その5年後に探査機が送ってきた写真は太古の川床と堆積岩らしい岩石があることを示していました。まさに本物の科学者の研究と言っても過言ではありません。これが小学校の理科の時間に子どもたちの探究活動によって生み出されたものなのです。

 私も長年、中学校で理科を担当しましたが、中学校理科はどうしても高校入試を意識して、教え込みの授業スタイルが多くなってしまいがちです。今でもこの点は変わらないように思いますが、「本物の科学者」として生徒が探究する授業づくりは机上の空論なのでしょうか。

 理科の時間を探究中心に変えていくためには、それなりの準備が必要になります。

 まず、「問い」づくりから始めるのがよいでしょう。『だれもが<科学者>になれる!』によると、ここで「クエスチョン・ボード」という仕掛けを用意します。これは教室の一角にホワイトボードを用意して、子どもたちがマーカーを使って自由に思いついた「問い」を書けるようにしたものです。こうすることで、ふと思いついた問いをすぐに書きこめるわけですから、そこにはいろいろな問いが集まってくると思います。それをそのままにしておいては宝の持ち腐れです。

 次にやるべきことは、このボードに書かれた問いを「調べてわかる問い」と「実証できる問い」に分けることです。「調べてわかる問い」とは、本やウェブのなかで、その答えを見つけることができるものです。最初はここに分類される問いの方が多いかもしれません。もう一つの「実証できる問い」とは、子どもたちが観察することや簡単な実験で答えが見つかるものです。この二つをきちんと分類できる力を子どもたちが身に付けていくことは、次の段階で「探究活動」を実践していくために、欠くことのできない力となります。これまでの総合的な学習などで行われてきた活動の多くは「調べてわかる問い」が圧倒的に多かったように思います。日本でも優れた教育実践者はこの「問い」の重要性に気づき、大切にしてきた歴史があります。私が若いころに参考にさせてもらった有田和正さんなどの授業はまさにそうした問いから生まれたものでした。

 私も40代のころ、「問い」の研究に夢中になっていた時がありました。教師の仕事の面白さは授業にあると思いますが、特によい「問い」を見つけられ、私も生徒も前のめりの感じで授業が進んでいった時の喜びは何にも替えがたいものでした。

それから20年以上も経ちますが、かつて考えていた「問い」を思い出すことがあります。以前に理科の教師をしていたときからの問いの一つは次のようなものです。

 

「恐竜が繫栄した白亜紀には大量の植物が地球上を覆いつくしていたが、その原料となる炭素はどこから供給されたのか」

 

その問いを解くカギが最近偶然わかりました。東京大学大気海洋研究所名誉教授の川幡穂高(かわばた・ほたか)さんが『週刊ダイヤモンド』(2023/11/25)の「大人のための最先端理科」に寄稿されていた記事のなかで紹介されていました。

その内容はおおよそ次のようなものです。

地球の表面を覆う地殻の下には、マントルという岩石でできている層があります。これは岩石と言いながらも移動するので、それが大規模に上昇すると地表では火山活動が活発になるという関係があります。ちょうど白亜紀中期はこの活動により当時の大気中には火山から噴出した二酸化炭素で充満していたようです。現在は大気中の二酸化炭素は0.04%程度ですが、当時は0.1%を超えており、これが大量の植物の光合成の原材料となっていたようです。結果として、植物が繁茂し、それを餌にする恐竜が大型化したとのことです。

また、この時代の二酸化炭素過剰の現象が「石油」生成へとつながりました。現在の石油資源の半分はこの白亜紀につくられたもののようです。それを現代の私たちが消費し、その結果、二酸化炭素を大気に放出し、温暖化問題を引き起こしているというわけです。そして、川幡さんのこの記事はこのように締めくくられています。

 

カーボンニュートラルとは、「人類による地球白亜紀化」の流れをストップする活動なのだ。

『週刊ダイヤモンド』(2023/11/25号、73ページ)

 

こういう見方もあったのかと改めて科学(理科)の面白さに気づかされます。およそ1億年前のできごとと現在を結びつけるスケールの大きな問いを理科の授業で扱ってみたいものです。一般的には地質時代ごとの特徴的な化石を順番に確認して終りで済ませてしまうのが定番ですが、「中生代の二酸化炭素濃度の上昇」という切り口から、植物と動物、地球環境・資源などいくつもの視点から問いを追究していくことができます。社会科との関連で言えば、石油資源の偏在による経済の非対称性や先進国とグローバル・サウスとの関係など、まさに今日的な課題にも切り込むことが可能です。

このように「問い」は探究活動の出発点です。ふだんから問いを大切にした授業づくりを考えていきたいものです。

今年1年「PLC便り」をお読みいただきありがとうございました。

また、来年もよろしくお願いします。

2023年12月24日日曜日

「変わること/変えること」を理解する!

 「学校はいろいろな意味で変わらなければならない」と言われ続けています。しかし一方で、何をどう変えていいのか分からない状態も続いています。今回は「何を★」はおいて、「どう」の部分についてです。

 何かを変えたいと思ったときに、どのようなことに気をつけたり、どのように進めていったらいいのかのヒントです。

1. 一つの方法がどこにも、誰にも同じように効果を上げることはない。

 構成メンバーが異なれば、たとえどこかほかで成功した事例でも、そのまま持ってきて成功することは期待薄です。自分なりのアレンジを工夫しなければ。

2. 構成メンバー全員がみんな同じスピードで変わることはあり得ない。

 人は一人ひとり受け入れ方、理解や咀嚼の仕方、アクションの起こし方等、違うので、みんなが同じスピードで同じように変われることはあり得ません。しかし、私たちの進め方の多くは、そのあり得ないことを前提にしています。★★

3. 変化は、個人的なものである。

 教育は、単に頭だけを使うのではなく、心も使います。教えることは、内容を教えるだけでなく、その人をも教えます。ということは、変わること/変えることを求められた人は、自分を変えることを意味しますから、抵抗も予想されます。★★★

4. 変化を、小分けする。

 大きな変化は、脅威に思われがちです。小さく分けることで、脅威は減り、より容易に取り組みやすくなります。それによって、最初に取り組む人たちが、後の人のモデルになったり、サポートすることも可能になります。また、なぜ変わることが必要なのかの理由を明確にしたり、変わることで得られるメリットを確認したりすることも大切です。さらに、異なるスピードで取り組むメンバーにどれだけ寄り添える(個別サポートが提供できる)かがポイントです。これがないとうまくいかないでしょう★★★★。そして、達成できたことは「祝う」(褒める)ことの大切さです。それは、みんなの前で発表してもらったり、何かに書いてもらったりする形でもできます。

5. 関わる人全員のウェルネスを重視する。

 ウェルネスは、身体的な健康のみならず、精神的な健康も視野に入れた捉え方です。具体的には、これまで以上に忙しくしないことを意味します。変えるために何かを増やすなら、減らす必要があるということです。しかし、単に時間面だけでなく、身体的にも精神的にも、ワクワクする/元気になることを大事にしてください。

6. 自分も一緒に取り組む。

 リーダー的な人が支持をするだけで、あとはお任せでは、残りの人たちがやる気になれるはずはありません(よく、校内研修等で、管理職に見られる行動?!)。そうではなく、自分が率先して「変化のモデル」であり続けない限りは。

7. 率先して変わる人たちに「変化の担い手」になってもらう。

 リーダー一人で全部できるはずがありませんから(さらには、学びと変化のコミュニティーをつくるためにも)、変化を率先して起こしている人たちを元気づけ、「変化の担い手」★★★★★になってもらいます。


参考:https://www.eschoolnews.com/educational-leadership/2023/09/18/8-lessons-to-help-school-leaders-manage-change/

★「何を」については(そして、それらを具体的に変える方法についても)、このブログでは継続的に扱ってきました。たとえば、https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/07/blog-post_16.htmlなど。

★★この点を含めて、『校長先生という仕事』のパート3「学校の改革の担い手としての校長としての仕事」の第3章に詳しく「変化」ついて書かれていますので、ぜひ参照してください。タイトルは「校長先生」になっていますが、あらゆる集団やチームのリーダー的なポジションにある人が知っておくべき/すべきことが整理されているのがパート3です。

★★★この点については、『SELを成功に導くための五つの要素』がおすすめです。

★★★★この点について、授業で対生徒に行っている『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』で紹介されている「一人ひとりをいかす教え方」と、https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.htmlに書かれている方法が参考になります。別な言葉でいえば、「個別最適な学び」を実現するための具体的な方法です。

★★★★★『「学び」で組織は成長する』の17番目の方法を参照してください。

 

2023年12月17日日曜日

覚えておくと得する「学びの原則」

これまで2回連続で『歴史をする』(の第2章)から紹介した「理論 vs. 実践」のスピンオフです。

 授業をよりよいものにするため、授業を生徒たちにとって忘れられないもの(身につくもの)にするために役立つ理論や原則が紹介されている他の本を紹介します。

 その意味で、3回連続の「学びの原則」の第3弾と言えます。(タイトルは、「覚えておく」だけで実践しなくては徳島線から、「“実践する”と得する学びの原則」がより正しいです!)

①まず、『イン・ザ・ミドル』(特に、第1章)には、著者が「教える(側の)論理」から「学ぶ(側の)論理」に転換した経緯が詳しく紹介されています。教師なら誰もが体験を通してすでに知っていることですが、教師(教科書)が良かれと思って考えたプログラム(一斉指導の指導案や単元案)では、せいぜい教室の3分の1ぐらいの生徒にしか届きません。この本の第2章以降では、著者が「学ぶ(側の)論理」に転換して以降の約30年間の実践が詳しく紹介されています。それに合わせた評価の仕方も(第8章)。

 

②『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』は、教室のなかに座っている生徒たちは、そのレディネスも、もっている興味関心も、学習履歴(もっている知識・情報・体験)も、学び方も学ぶスピード、学んだことの表現の仕方も違うという歴然とした事実からスタートした教育実践です。(これに対して、一斉指導はあたかもこれらすべてが同じと仮定して行われる授業でしょうか?)

 次の図2.2が、このことを分かりやすく描き出しています。あなたが、特に共鳴するものはどれですか? 逆に、反論したくなるものはありますか?


  原則は、図には5つしか書かれていませんが、本文では8つ紹介されており、違いがあるものは次の通りです。

・教師は一人ひとりの違いにしっかり注意を払う

・評価と指導は切り離せない

・生徒の多様性をもとに、内容や方法や成果物を変える ~ 教師が教え、生徒が学ぶ内容や方法、そして学んだ結果を表現する成果物につくり方に選択肢を提供する、という意味です(上の「評価と指導は切り離せない」も実現しています!)

・教師と生徒は学習について協働する

・教師はクラスの到達基準と個人の到達基準のバランスをとる

 

③最後は、これまでこのブログで何回となく紹介したことがある「学びの原則」https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/03/plc_18.htmlです。これは、近年の脳の研究や認知心理学等からわかったことをまとめたものです。

 

他にも、理論、原則、特徴等の観点で、よりよい授業を常に模索し続ける先生におすすめの本には、『学びの中心はやっぱり生徒だ!』と『「学びの責任」は誰にあるのか』に2冊がありますので参考にしてください。

2023年12月10日日曜日

失敗からの飛躍、教育の新しいアプローチ


 

教育において失敗を受け入れるマインドセットの重要性に着目した参考となる一冊の本を紹介します。

 

  Jo BoalerLimitless Mind: Learn, Lead and Live Without Barriers

 

算数・数学の授業では特に間違いを避ける傾向がありますが、スタンフォード大学の数学教授、ジョー・ボアラー氏の著作は、間違いを歓迎する学習を提唱しています。

 

学びのプロセスでは、間違いが歓迎されるべきである一方で、実際には誰もが間違いを犯したくないと感じています。特に、クラスの前での失敗はさらに恐れられがちです。間違いを受け入れる文化をどうやって生徒たちが理解し、浸透していくか、教師にとっての大きな課題です。

 

多くの教室では、生徒がほぼ間違えないように、また失敗しないように教えることに最大限の配慮がされています。しかし、生徒の成長には、理解の限界に挑戦し、間違いと向き合う環境が必要とされます。この本は、そうした学習環境の構築についての洞察を提供してくれます。

 

この本の第3章では、間違いが脳の成長と学習にどのように寄与するかを解説してくれます。神経科学の進歩により、間違いや葛藤が学習プロセスや脳の発達に良い影響を与えるというエビデンスが増えてきています。

 

 

 

1 間違いは脳を成長させる

 

ジェイソン・モーザーらの研究によると、間違いをした際の脳の反応をMRIで観察した結果、間違いがある方が脳の活性化と成長を促すことが明らかになりました。また、アンダース・エリクソンの研究は、専門家が約1万時間の練習を積むことで高いレベルに達することを示しています。これは「10000時間の法則」としても知られていますが、重要なのは単に努力することではなく、正しい方法で努力することなのです。効果的な練習とは、自分の理解の限界に挑戦し、間違いを犯し、それを修正し、さらに努力することを含みます。

 

例えば、学習科学者のエリザベスとロバート・ビョークは、テストを通じて情報を引き出すことが学習に効果的だとしています。このアプローチでは、学習者が自己テストを行い、間違いを犯し、それを修正することで、より深い理解と記憶の強化が促されるのです。

 

また、日本や中国の教育事例も紹介されていました。これらの国では、生徒が深く考え、基本的な概念に挑戦することに重点を置いており、この方法が高い成績につながっています。アメリカと比較して、日本や中国では問題を深く掘り下げ、生徒が難しい課題に直面し、それを克服することで深い学習が促されています。OECDPISAテストの結果をみると、日本のレジリエンスが高いのは、このような教育方法が一因かもしれません。

 

 

2 困難に立ち向かう価値を教える「もがくことの重要性」

 

ジェニファー先生は、生徒たちに「もがきのステップ」という図を用いて、困難に直面することの価値を教えています。彼女は生徒たちが「学習の落とし穴」に陥った際にそれを祝福し、彼らが自力で解決策を見つける手助けをしています。このアプローチは、学生が困難を乗り越えることによって、学習効果と脳の成長が促されるということを示されています。

 




この方法は、困難や葛藤を通じて学ぶことの価値を示し、教師がこのプロセスをどのようにサポートするべきかについて示唆を与えています。

 

 

 

3 失敗を成長のチャンスと捉える「失敗に対する新しい視点」

 

失敗や困難な状況をポジティブに捉え、それを成長と学習の機会として活用することの重要性を強調しています。脳科学に基づいた新しい学習法を採用する教育者の一例として、カレン・ゴーティエの事例が紹介されていました。彼女はかつて自信を失い、失敗を恐れる傾向がありましたが、失敗を成長のチャンスとして捉えるようになり、この考え方を教室にも取り入れました。彼女自身も新しい挑戦を受け入れ、新しい役職にも応募するようになりました。

 

失敗を恐れずに挑戦を受け入れる「成長マインドセット」の重要性を説明し、困難や挑戦的な状況に直面した時にそれを乗り越えることで、脳の成長や学習が促進されると指摘しています。カレンの例のように、失敗や挑戦をチャンスと捉えることができる人は、困難に直面してもポジティブなサインとして捉え、真の能力を発揮することができると述べられています。

 

 

 

 

困難や失敗を成長の機会として捉える「成長マインドセット」の価値が明らかになりました。教育現場では、このマインドセットを生徒たちに伝え、彼らが自信を持って挑戦する環境を整えていけるといいです。失敗を恐れずに新たな挑戦を受け入れることで、生徒は自己の限界を超え、真の能力を発揮することが可能となります。このアプローチは、教育の現場での新たな学習法として、今後もさらに注目されることでしょう。

2023年12月3日日曜日

理論 vs. 実践 その2

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/11/vs.htmlでは、六つの理論(=生徒がよく学べ、学んだことが身につく授業の原則)の四つを紹介したので、今回は残りの二つです。

 

⑤ 教えることは足場をかける(生徒に適切なサポートをする)ことである

ほとんどの場合、学校外での学習はコミュニティーのメンバー間の継続的な協力が必要となります。より多くの知識をもったメンバーが、新しい学び手にとって価値があると思える活動に、本格的に参加できるように支援をしています(『歴史をする』66ページ)。

 この具体例として、幼い子供が話せるようになることと、医師になるために長期間の実習を受けるなどの例が紹介されています。

伝統的な仕事(農作業、料理、キルトづくり、狩猟)や現代的な仕事、またスポーツや芸術などの仕事にかかわらず、通常、学習は一種の見習いのようなものであり、初心者が少しずつ専門知識を身につけることができるように、より知識の豊富な人が「師匠」ないし「よき先輩」として手助けをしています。熟達者は初心者に「足場」となる枠組みを提供しているのです。

残念ながら、生徒は学校でこのような継続的な相互作用に参加する機会がほとんどありません★。ほとんどの場合、教師が情報を伝えている間、生徒は耳を傾けることのみが期待されています。参加方法も、通常は教師が質問し、生徒が答え、教師がその答えが正しかったかどうかを伝えるといったパターンにかぎられています。つまり、その目的は生徒の記憶力を評価することであり、生徒が興味のある問いや課題に対する追究を助けることにはなっていません。もちろん、生徒に自主的な課題が与えられたり、「探究する」ことが期待されたりする場合もありますが、学習(ないし探究)のプロセスをどのように進めていくかについては教えられていません。

教師なら誰もが知っているように、探究していくのに必要とされるスキルをもっている生徒はほとんどいません。探究心は教育に不可欠なものですが、単に課題を与えただけでは意味のある結果は得られません。ほとんどの生徒が自分の経験を最大限に活かすための直接的な支援が必要なので、教師のもっとも重要な責任は、生徒が学習するために必要な枠組み(足場、サポート)を提供することとなります。(中略)生徒は、学びを支援してくれる教師や知識の豊富なクラスメイトと一緒に活動することで最高の学習ができるのです(同、67~9ページ)。

ここでは、四つの足場=サポートの仕方が紹介されています(同、69~72ページ)。

第一に、教師は生徒が課題に興味をもつように努める必要があります。もともと好奇心が旺盛な生徒ですが、教師が生徒の興味を引き出し、維持するように手助けをすれば、彼らは探究を続けるようになります。

第二に、生徒が課題に取り組む際、教師は生徒を積極的に支援し、励まし続ける必要があります。この支援には、課題を生徒が自ら管理できるように分けて示すことも含まれます。

第三に、教師が手順のモデルを示すことです。先に述べたように、生徒が「歴史をする」ためには、教師はそれがどのようなものであるかを見本として示さなければなりません。教師の「読み書き」をまねようとするとき、教師が読んだり書いたりする様子を生徒は見なければなりません。それと同じく、教師が歴史の問いに取り組んだり、情報を収集したり、一般的なケースを引き出したりする様子を生徒は見る必要があります。ある課題を生徒がうまく達成するためには、教師はそのモデルを見せなければならないのです。もし、生徒がモデルを見ることができなければ、自分が行うべきことが分からないでしょう。

第四に、教師は生徒のパフォーマンスに対してクリティカルなフィードバック★★を与えなければなりません。自分の作品が理想的な作品とどのように違うのかについて理解させなければならないということです。

このようなフィードバックがなければ、多くの生徒は自分の課題が成功しているかどうかを知ることができません。これらすべての形態における「足場かけ」の最終的な目標は、生徒が学習計画を立て、自分自身の進歩を客観的に把握できるようにすることで、教師から生徒へと学習の主導権を移し、「自立した学び手」にすることとなります。このような能力は、「メタ認知」と呼ばれることもあります。

 

  建設的な評価で、生徒の学びが絶えず修正・改善され、教師の授業もよくなり続ける

「評価」「評定(成績)」「テスト」の三つは、多くの教育者にとって(生徒にとって)も教育に関する専門用語のなかでもっとも不快な言葉です。(中略)教師の多くにとっては、評価をすることではなく生徒の支援をすること、つまり本書で取り上げているような形成的に「足場かけ」をすることこそが、「真に教えることとはどのようなことなのか」というイメージを与えてくれるのです★★★。好意的な見方をしても、評価というものはユニットの最後に付け加えられる「必要悪」であり、それらを足すことで通知表の評定を決めているにしかすぎません。そして、最悪の場合、教師と生徒の間の良好な関係をその評価が台無しにする可能性もあります。

そのような評価を続ける必要はありません。評価とは、不愉快な【おまけ】のようなものでなく、有意義なものであり、信じられないかもしれませんが、時には教えることと学ぶことの中心にある一連の実践であり、楽しい仕事になり得るものなのです。★★★しかし、このような高尚な期待に応えるためには、私たちが通常想像しているものとは異なる役割を評価が果たさなければなりません。

教室での評価の第一の目的が成績表の評定をつけることだとしたら、生徒も教師もそこから大きな恩恵を見いだすことはできないでしょう。また、生徒のニーズではなく成績表が評価の形を決定している場合は、課題が生徒をつまずかせ、生徒が知らないことを明らかにさせて、成績を正規分布に近づけようとする試みとなるでしょう。生徒の選別にこだわることは、生徒の知識や理解不足を明らかにすることを目的としたものでしかなく、事実上、否定的な経験になることを保証してしまうようなものです(同上、72~4ページ)。

 しかし、このまま続けることは誰にとってもよくありません(受験産業は、儲け続けられるので、いいかもしれませんし、国にとっては、国民総生産の数字を上げるのに役立つかもしれません。しかし、実際にやり続けることは、真の意味での学びが極めて希薄な「点取りゲーム」だけです!)。

生徒がよく学べ、学んだことが身につく授業においては、評価の特徴を次の四つと捉えています。

第一は、評価は建設的であることです。「建設的な評価」とは、何よりもまず建設的な目的を果たすこと、つまり教えることと学ぶことに有益な効果をもたらすことを意味し、評価課題は、知らないことよりも知っていることを生徒に明らかにさせるものです。(そして)生徒が知っていることを生徒自身が可能なかぎり多くの方法で示せるようにすることで、それは行われます。具体的には、フォーマル・インフォーマルな測定、教師と生徒の両者が選択した課題、話すこと、書くこと、その他の発表形式などとなります。

このように生徒と教師が一緒になって、学んだことを表現できるようにするための最良の手段を探しているとき、生徒は自らの可能性を最大限に発揮するチャンスが得られと感じて、自尊心が高まります。一方、教師は、生徒が何を知っていて、何を学ぶ必要があるのかについてより把握することができるようになりますので、教え方はより良いものになります(同、74~5ページ)。

第二は、生徒の状況をクリティカルに見抜くためには、生徒の達成度を把握するために複数の方法が必要となります。複数の評価方法を組み合わせることで教師は、生徒が知っていることやできることを把握する際に自信をもつことができます。生徒のことを知るためにもっとも有用な方法は、生徒との話し合い、生徒が書いたもの、そしてパフォーマンスによる表現ないしプレゼンテーションの三つとなります。(中略)複数の評価手段を使用することで、それぞれの生徒は知っていることを示す機会が得られます。このアプローチでは、生徒に選択肢を与えることも頻繁に行われます。たとえば、探究プロジェクトの結果を、小論文、ポスター、ビデオ、またはプレゼンテーションにするかどうかなど、生徒は評価の形式を選択することができます(同、75~6ページ)。

第三に、評価活動は現実社会と同じものでなければなりません。つまり、実際に地域社会や企業、学術分野で人々が行っている作業に近いものでなければならないということです。これには、教師以外の聞き役を事前に準備する必要があります。生徒の課題を見たり聞いたりするのが教師だけの場合、生徒は知っていることを発表しようとする動機が小さなものになります(教師はすでに答えを知っている、と思っているからです)。(同、77ページ)

第四に、第三の特徴を大事にすることは、もう一つの特徴の「評価することと教えることの一体化」★★★の側面を強調することになります。

伝統的に教師は、評価を教えたあとに来るものだと考えています。生徒に何かを教えて(あるいは、生徒自身がそれについて読んで)、それを学んだかどうかを確認するためにテストを行います。ほとんどの授業では、教えることと評価することを区別するのは簡単です。実際、学校では、この二つの局面を可能なかぎり異なるものにするために多大な努力をしていることがよくあります。

しかし、「評価することと教えることの一体化」している授業で教師は、生徒が話している間にメモをとったり、プレゼンテーションを観察したり、プロジェクトを見直したり、レポートを読んだりしますが、これらはすべて、つながっている学習評価の一部なのです。評価は常に行われているので、評価のために別の時間が設けられることはほとんどありません。(同上、77~8ページ)

 

★このような場が提供されているのが「作家の時間」「読書家の時間」(および、それらを社会科、理科、算数・数学に応用した「社会科ワークショップ」「科学者の時間」「数学者の時間」)です。http://wwletter.blogspot.com/2010/05/ww.htmlを参照。

★★「クリティカルなフィードバック」で一番効果的な方法は、生徒同士のピア・フィードバックでも使える「大切な友だち」(https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/08/blog-post_19.html)です。

これを教師と生徒の間でしている場合を、作家の時間や読書家の時間では「カンファランス」と言っています。カンファランスの目的は、成果物や作品をよくするためではなく、書き手や学び手をより自立した書き手/学び手にするために行われます。クリティカルなフィードバックの最もいい形が『イン・ザ・ミドル』の第8章で描かれています。

★★★文科省が20年以上前に言いだして、いまだに実現できていない「指導と評価の一体化」です。『あなたの授業が子どもと世界を変える』の第8章に書かれている、「評価は楽しいものであるべき――そんなこと、ありえないでしょ。本当です。私たちは真面目です」も参考になります。この後の評価の四番目の特徴も参照。

2023年11月25日土曜日

評価を考える(総括的評価)

 

ここ3回ほど評価について考えてきましたが、今回は総括的評価について取り上げたいと思います。 

『成績をハックする』(新評論・2018)6ページで、著者のスター・サックシュタインはスタンフォード大学のキャロル・ドゥエックがその著書『マインドセット―「やればできる!」―の研究』で述べている成長マインドセットを紹介し、それを踏まえることで、生徒は学び続ける学び手に成長していくと述べています。

 

生徒たちが「C」という成績を手にしたとき、彼らは一方的な評価を下されたこともあって、自分自身に「C」というレッテルを貼ってしまいがちです。もし、この一方的な評価をなくせば、生徒たちは自分に貼られた文字や記号などといったレッテルではなく、自分の内側にある学び手の意識に目を向けるようになるでしょう。(『成績をハックする』6ページ)

 

一般的に学期末に通知表・成績表を生徒に渡す学校が多いと思いますが、5段階評定で12の成績を付けられた生徒はまさに自分自身に「C」というレッテルを貼ってしまいます。この否定的な評価が続けば、学びから逃げ出したくなるのは当たり前です。これは自己肯定感の醸成とは真逆の方向です。そうしたことから、これまでの日本の学校制度は劣等感を抱いた子どもたちを多数生み出してきたと言っても、過言ではありません。

私が今かかわっている学習塾の生徒たちの中にも、こうした「C」というレッテルを貼り続けられて、自分にまったく自信のもてない生徒もいます。彼らの一方的につけられたレッテルをはがしていくのは並大抵ではないことです。必要なことは、まず「成績の考え方・見方」についてもう一度よく考え、できることから変えていくことです。この点については、先ほどの『成績をハックする』(新評論・2018)が参考になります。

 

さて、総括的評価に話を進めましょう。

『一人ひとりをいかす評価』(北大路書房・2018)では総括的評価を次のように定義しています。(135ページ)

 

 総括的評価は、診断的評価や形成的評価よりも、よりフォーマルで「公式」なものです。それは、中間試験、章の終わりの試験、ユニット末試験、期末試験、プロジェクト、レポートなどの形で、指導したことの結果を評価するものとして使われています。

 

この内容には、多くの先生方が同意されるものと思います。また、このような記述もあります。(同書136ページ)

 

一つの授業やユニットの中のいくつかの区切りが終了した時点で総括的評価を行うことは、これから先の授業をする際の基盤となる力を生徒たちが獲得したか否かを教師が把握する助けになります。

 

まとめると、総括的評価とは目標として設定した知識・理解・スキルなどを生徒が身に付けることができたかどうかを診断して、その証拠(エビデンス)を生徒と教師に提供するものであると言うことができるでしょう。教師にとっては、自身の指導が効果的であったのか否か、生徒にとっては自身の学びにおいてまだ何が足りないのか、どの部分が不充分だったのかを振り返る絶好の機会となるわけです。したがって、総括的評価を行って、その結果を数字で生徒に(通知表などの形態で)伝えて、「ハイ、おしまい」では教師と生徒それぞれの成長のチャンスをみすみす失っていることになります。これは若い先生方に、あるいは教職に就こうと教職課程で学んでいる学生たちに特に伝えたいことです。

 

最後に総括的評価の形態をまとめておきましょう。

それは次のようなものです。(『一人ひとりをいかす評価』137ページ)

 

     伝統的な筆記試験あるいは閉じた課題:多肢選択式、短答式、穴埋め式、正誤式、解釈式など

     パフォーマンスを重んじる評価(以下、パフォーマンス評価と略す): 小論文、プロジェクトないし成果物作成、ポートフォリオ、パフォーマンス課題など

 

    このように多種多様な形態があるので、学習目標や学習のねらいに応じて最もふさわしい課題を採用するかを考える必要があります。単元の学習計画を考える際には、その点を考慮して考えておくことがよいでしょう。どの形態を採用すると、そこから生徒の学習の様子について、どのような情報が得られるかという点については、『一人ひとりをいかす評価』の138139ページに一覧表がありますので、参考にしていただくとよいと思います。

 先ほど引用した『成績をハックする』の最後のところに次のような一文があります。(216ページ)

私たちが生徒を評価する方法は、彼らの学びの捉え方に影響を及ぼします。したがって、もし私たちが、生徒たちの体験から否定的なものや表面的には肯定的に見えるものを取り除くことができれば、より多くの生徒が数字や記号で示される成績以外の素晴らしさに目を向けることができるようになるでしょう。

 

このあたりをよく噛みしめて、評価についての実践で、変えられることは何かを考えることが「自分を成長させ続ける評価」の第一歩となることは間違いありません。

 

2023年11月19日日曜日

理論 vs. 実践

研修会に参加した(り、教育書を読んだりする時)教師は、「理論的(抽象的)なことは飛ばして、実践的(具体的)なことだけをお願いします」と言います。

 これは、洋の東西に問わず、同じ傾向があるようです。でも、理論の大切さに気づいた先生たちは以下のように言います。

A先生: 私は、理論を知ることで授業をより良いものにすることができ、何が効果的で、何がダメなのかについて、より鋭い感覚で選択ができるようになりました。私がやっていたことの多くは「運に任せた」ものでした。

以前は、何かを試してみても、それを二度と使わないようなこともありました。今は、新しい教え方を考えるとき、自分が知っている理論でフィルターをかけることができています。また、それが、自分の授業のプラスになるのか、それとも単に自分を忙しくするだけなのかについても判断することができます(『歴史をする』40~41ページ)。

B先生:「理論を知った」ことでどれだけ自分が変わったか、言葉では言い表せません。よい教師になるということは、自分のやっていることに目的があり、何をすべきかを知っている教師になるということです。

あなたがすることは、学級経営に至るまで理論的なベースをもっていなければなりません。多くの教師は自然にやっていると思いますが、事前に理論を知っていれば、とてもやりがいがあります。偶然の出来事ではなく意図的にやっているわけですから。

理論を知っていると、さらに上のレベルへと導かれるのです(『歴史をする』81ページ)。

 ということで、同じところで足踏みをしたい先生には不要かもしれません(それは、子どもたちにとっては悲劇です)が、子どもたちによりよい授業を提供したい、常に成長し続けたい教師には不可欠なようです。

 『歴史をする』の著者たちは、「優れた理論は、教師が自分の経験を理解するうえで役立つもの、と位置づけています。優れた理論を通して、毎日教室で行われていることをより明確に理解することができ、教え方を振り返ることができるようになります。また、優れた理論は、生徒にとってより効果的で、意味のある授業を教師が計画するうえにおいて役立ちます」と書いています(同、42ページ)。

 それでは、優れた理論とはどのようなものでしょうか? しかも、歴史を含む社会科で有効なだけでなく、すべての教科領域で授業をする際に使える理論です。

 全部で、六つあります(同、第2章を参照)。

   教えることと学ぶことには目的が必要不可欠である。

   学ぶことは深い理解を意味する。

   教えることは、生徒がすでにもっている事前知識に基づく必要がある。

   人は探究の真っただ中で学習する。

   教えることは足場をかける(生徒に適切なサポートをする)ことである。

   建設的な評価で、生徒の学びが絶えず修正・改善され、教師の授業もよくなり続ける。

 このリスト、チェックリストとして使えます!

あなたは、どれはすでに押さえられていますか? 一方で、まだ実現できていないのはどれですか? さらに伸ばしたいのは、どれですか?

 それでは、一つずつ見ていきます。『歴史をする』から引用する形で紹介していきます。

 

  教えることと学ぶことには目的が必要不可欠である

目的のない教育は、子どもたちの学習意欲を奪うだけでなく、学習する能力を弱めてしまいます。学習は、生徒が自分の選択や行動に意味を見いだすときに起こります。それに対して、先生を喜ばせることや、合格点を得ることなど、歴史そのものと無関係なことを目的とした行動を生徒がとっていれば、生徒の知的成長は阻害されることになります。

優れた教育は、生徒が学んでいることを包括的な目的と結びつけることに焦点が当てられています。それは、生徒が調査のための問いを示し、深い理解をするための理由を提供し、調査結果を使うことなどによって行われ、彼らの知的成長と市民的な能力がサポートされることになります(同、48ページ)。

 「包括的な目的」とは、単にテストでいい点数を取ったり、教科書をカバーするためではなく、生徒たちがより意味を感じられる目的です。それには、自分のアイデンティティーを形成したり、民主的な社会に選挙以外の方法で参加するための知識・スキル・態度を身につけたり、「公共の利益」のために何が最善かを見極め、それを実現するために情報を分析したり、仲間や他者と協力したりするための方法を身につけたりすることが含まれます。

 

  学ぶことは深い理解を意味する

さまざまな分野の専門家と初心者の違いを調査した心理学的な研究によると、能力の高い人は、単に知識が豊富であったり、一般的な知性や推論する力が必ずしも高かったりするわけではなく、その分野の重要な「概念」をより理解しており、それらの概念を、いつ、どのように適用すればよいのかということについての理解が進んでいることが分かっています。(中略)このような観点から、単に事実を多く知っているだけでは理解が深まるとは言えません。生徒は、それが何を意味しているのか、なぜ重要なのかについて分からないまま事実を学ぶことがあります。(中略)したがって、よい教え方とは、単に大量の事実に基づいた情報を網羅するのではなく、重要で体系的なアイディアとしての「概念」が身につけられることに重点を置いて教えることとなります(同、50~51ページ)

 社会科の概念には、どのようなものがあるでしょうか? 理科は? 算数・数学は? 国語は? その他の教科は?

 

  教えることは、生徒がすでにもっている事前知識に基づく必要がある

生徒が理解を深めるために、教師は生徒が学校にもってくる知識を直接取り上げ、可能なかぎりそれを土台にする必要があります。人が学習するためには、すでにもっている知識と新しい経験を結びつけること(専門用語では、スキーマを再構築すること)が欠かせないのです。(中略)いずれにしても、学習は受動的なものではありません。人は、新しく出合ったものとすでに知っているものを比較しなければならないのです・・・生徒が知っていることを土台にすることができなければ、生徒は学ぶことができないのです。

残念ながら、教科書やその他の教材では、生徒における事前の理解が注目されることはほとんどありません。もちろん、すべての生徒、すべてのクラス、すべてのコミュニティーが異なっているため、どの教科書も生徒の多様な経験や理解の範囲に対応することはできません。教えることと学ぶことに関する研究では、学校での経験が事前の理解と結びついていない場合、生徒はほとんど学習できないということが一貫して示されています。(中略)情報を理解するためには、新しく得た情報をただ再生するのではなく、それを以前の理解と結びつける必要があります。教科書ではそれができません。生徒のことを一番よく知っている教師が、生徒は何を知っているのか、そしてその知識をどのように構築するのかを、生徒に代わって見つけ出さなければなりません。(同、55~57ページ)

 教科書に対する手厳しい指摘が続きますが、それは多くの教師は口にしないだけで、実践を通して強く認識していることだと思います。最後のところの、「知識を構築する」は、知識の捉え方も転換が必要なことを示唆しています。教科書に書いてあることや教師が言うことは、知識ではなくて、あくまでも情報です。知識は、一人ひとりの生徒がそれまでに自分がもっている事前知識を踏まえて、新しい意味をつくり出した結果と捉えられます。情報は忘れられやすいですが、知識はかなりの確率で残るものです。

 

  人は探究の真っただ中で学習する

人間の学習に関する研究と教師としての私たち自身の経験は、学習の「伝達モデル」と矛盾しています。伝達モデルとは、知識はある情報源(教師であれ教科書であれ)から別の情報源(生徒)に直接伝わると仮定するモデルのことです。私たちは、報酬や罰のシステムをどれほど精巧なものにしても、子どもたちを単なる情報でいっぱいにすることはできません。私たちは生徒のために点と点をつなげることはできません。人は、自分にとって重要な意味をもつ問いに対する答えを求めるときに学習するのです(同、60~61ページ)。

 これは、要するに「探究モデル」で学んでいる時を意味します。それは別な言葉でいえば、次のようになります。

生徒は(歴史家や数学者や作家や・筆者補記)科学者や市民、芸術家、ビジネスマンなどと同じような課題に取り組むことで学習の目的をより理解し、学んだことを保持し、応用する可能性が高くなります。クラスメイトや教師、その他のコミュニティーの人々も、自分と同じようにこれらのプロセスに取り組んでいると思えることが、本物の学びに関するアプローチの中心的な特徴となります(同、63ページ)。

 「これらのプロセス」とは、探究や問題解決のサイクルのことで、

社会科は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2022/09/blog-post_18.html

国語はhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.html

算数は、https://wwletter.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

理科は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2019/12/blog-post_22.html をご覧ください。教育で大切なのは、教師が用意した活動やプログラムを生徒にやらせることではなく(それは、単に教師への依存を高めるだけ?)、生徒一人ひとりが自分でこれらのサイクルを回せられるようにサポートすることなのです。

 長くなってきましたので、残りの二つは次回紹介します。

2023年11月12日日曜日

持続可能な社会への「脱成長」

世界は長らく戦争や内紛、経済的格差、地球規模での環境問題といった重大な課題に直面しています。これらの問題に対処するため、私たちが取るべき道は、持続可能な社会を築くことです。

 

現在、私たちが行っている教育活動が、社会の改善にどのように寄与できるかを考えることは重要です。子どもたちと共に築く社会についてのビジョンを持つことは、未来の方向性を確立する第一歩となります。まずは立ち止まり、どのような世界を望むのかを考え、議論してみる必要があります。よりよい世界へ向かうために、ジェイソン・ヒッケルの著書『資本主義の次に来る世界』を参考に、具体的なアプローチを探ってみましょう。



 

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私たちは今、人新世(Anthropocene:アントロポセン、人類の時代)と呼ばれる時代に生きています。この時代は、人類の活動が地球に深刻な影響を与えていることを意味します。気候変動、生態系の回復力の低下、そして私たちの文明そのものが危機に瀕していることが、これらの現象から明らかになっています。この問題の根本にあるのは、私たちが採用している経済システム、すなわち資本主義なのです。

 

資本主義は、絶え間ない拡大、つまり成長を要求し続けるシステムです。世界のGDPは、少なくとも年間2%から3%成長し続ける必要があり、これは23年ごとに経済規模を倍にするということを意味しています。この成長の要求が、地球に対する私たちの影響を増大させ、結果として生態系の崩壊を加速させてしまっているのです。

 

政治家たちは、この成長主義を信奉していますが、それによって生態系崩壊を食い止めるための有意義な行動を起こすことが困難になっています。一方で、技術の進歩はGDPを生態系の影響から切り離す可能性を秘めていますが、現在の成長志向の経済システムでは、この技術進歩がさらなる成長のために利用されてしまっている現状があります。

 

2018年、238名の科学者が、GDP成長を放棄し、人間の幸福と生態系の安定に重点を置く新しい経済システムの必要性を訴えました。彼らは、成長から脱却することで、私たちが何を生産し、人々が生活に必要なものにアクセスできるか、所得がどのように分配されるかに重点を置くべきだと主張しています。

 

高所得国は、さらなる経済成長を必要としていません。むしろ、私たちは経済を資本蓄積のためではなく、人々の幸福のために再構築する必要があるのです。地球温暖化を1.5度以下に抑え、生態系の破壊を阻止するには、資源の消費を減らし、エネルギー消費を削減することが重要なのです。

 

「脱成長」とは、経済を成長させないままで、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できるということです。脱成長は、経済の物質・エネルギー消費を削減し、生物界とのバランスを取り戻すことを意味します。このプロセスでは、所得と資源を公平に分配し、公共財への投資を通じて人々を不必要な労働から解放することが含まれます。

 

脱成長が実現すれば、GDP成長は停止、あるいはマイナスに転じるかもしれませんが、GDPは重要ではありません。脱成長は成長を必要としない新たな経済モデルへの移行であり、その中心は無尽蔵な資源の蓄積ではなく、人類の繁栄と生態系の安定にあります。

 

このアプローチでは、クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境、再生可能農業などの分野の成長を重視し、化石燃料、プライベートジェット、武器、SUV車などの生態系を破壊する部門を縮小する必要があります。大量消費の停止に向けては、以下の5つのステップが提案されています。

 

1. 計画的陳腐化の終了

企業が故意に製品の耐用年数を短く設計する「計画的陳腐化」を止める必要があります。例えば、1920年代にアメリカの電球メーカーが行ったように、製品の寿命を短くすることで販売数を増やす戦略です。これに対抗するためには、保証期間の延長を法律で義務付け、修理の容易さを確保することが求められます。例えば、家電製品の寿命を25年まで伸ばす技術はすでに存在し、これにより製品の消費量を大幅に減らすことができます。

 

2. 広告の削減

広告業界は、過剰な消費を促進する戦略の一環として長年にわたって発展してきました。消費者に不要な商品を購入させるための心理操作が行われています。例えば、ファッション業界では、トレンドに敏感な消費者をターゲットにした短命の製品が市場に溢れています。広告の削減は、不合理な消費決定を減らし、より持続可能な消費行動を促進することに繋がります。

 

3. 所有権から使用権への移行

資本主義社会においては、個人所有が一般的ですが、これが非効率と過剰消費を招いています。例えば、月に一度しか使わないような芝刈り機や工具などを個人が所有するのではなく、地域共有のリソースとして管理することで、製品の必要性を大幅に減らすことができます。また、公共交通の強化やシェアリングエコノミーの促進も重要です。

 

4. 食品廃棄の終了

世界的に見ると、生産される食品の約50%が廃棄されています。高所得国では、スーパーマーケットの厳しい基準や消費者の購買行動が原因です。一方、低所得国では輸送や保管の問題が主な原因です。この問題に対処することで、農業の規模を半分に減らし、CO2排出量を削減することが可能になります。

 

5. 生態系を破壊する産業の縮小

例えば、牛肉産業は大量の土地と資源を消費し、森林破壊の一因となっています。このような資源効率が低い産業を縮小し、より持続可能な代替品への移行を進めることが求められます。牛肉の消費を減らすだけで、大規模な土地が森林再生に利用できるようになり、CO2排出量も大幅に削減できます。

 

これらのステップは、私たちの日常生活や経済システムにおいて、より持続可能な選択を行うための基盤となります。それぞれのステップは、地球環境への負荷を減らし、より良い未来への道を切り開くために重要な役割を担っているのです。

 

 

 

私たちは、人間と自然の関係についての古い二元論から脱却し、アニミズムのような存在論に回帰する必要があります。この考え方は、人間と自然が相互依存の関係にあり、共に生きていることを認識します。現代の科学も、この考え方に追いつきつつあります。最終的に、私たちは経済を成長の必要性から解放し、生態系の安定と人間の幸福に重点を置く新しい経済モデルを採用することが求められています。この新しいパラダイムは、私たち全員にとって持続可能な未来への道を開くことでしょう。

 

改めてありたい社会とはどういうものか、考えてみてください。

 

2023年11月5日日曜日

今こそ、授業を考え直し、新たな実践に踏み出す時!

 訳者の一人の飯村寧史さんが書いてくれた文章を紹介します。扱っている本は、『みんな羽ばたいて 生徒中心の学びのエッセンス』(キャロル・アン・トムリンソン著、新評論、2023年)です。


 日本の教育界は、数年来のコロナウイルス感染症の流行に伴い、授業のやり方、評価の仕方も大きく変化をすることとなりました。そして、ポストコロナの今、教育のあり方を模索しているところだと思います。一方では、ICTを使った授業への問い直し、旧来の在り方への揺り戻しがあり、また一方では、より一層ICTを用いた授業を進展させ、授業を変革していこうという方向性もあります。そして、多くの先生はその中道を行こうとし、従来の授業の良さとICTの良さを組み合わせた授業を模索しているのではないでしょうか。

 こういう時こそ、自分の授業(なおこのなかには、評価の仕方や学習環境のつくり方なども含みます)をもう一度見直し、考え直すことが大切だと思います。一体、生徒にとって何が大事なことなのか、自分が授業をどう考えているかを問い直すちょうどいいタイミングといえるのではないでしょうか。

 今回ご紹介する本書は、まさにあなた自身の授業を見つめ直すのに絶好の本だと思います。著者が長年にわたり実践してきた生徒中心の学びを語ることを通して、著者の教育にかける願いや考え方、そして実践例がふんだんに盛り込まれた著作です。(あまりにページ数が多くなってしまうため、一部を割愛せざるを得なくなるほどのボリュームでした。)この本の面白いところは、著者自身が、旧来の教育に疑問を持ち、悩み、生徒中心の学びに転換し、その正しさに確信を得てきたという、教師としての苦悩と変化の遍歴が読み取れるところです。本書を読めば、きっとあなたもご自分の教師人生と比較しながら、授業を考えることができるでしょう。

 私にとっては、特に第6章「評価」が印象に残っています。

 冒頭では、著者自身の悩みが描かれています。

 「私が生徒だった頃から変わらずにある、学校の代名詞とも言える「テスト・成績・通知表制度」は恐ろしいほどまちがったものに思えます。しかし、教師になった私はこの制度を継続していました。なぜなら、私にはそれに代わるだけの、筋の通った代案がなかったからです。」(228ページ)

 この文章を読んでいるあなたはどう思いますか?

 私は公立中学校教員なのですが、いまだに、この状態を抜け出せません。テストが嫌で学校を休んでしまう生徒、保護者に「テストで○○点とったらスマホを買ってあげる」などと言われている生徒、学校内の順位が気になる生徒、通知表の評定が高校入試に響くことを恐れている生徒など、この制度の犠牲になって嫌な思いをしている生徒を数多く見てきました。その都度、慰めの声をかけることはできても、この制度を変えることはできませんでした。なんとも空しい気持ちです。

 しかし、本書では、学問的にも、実践的にもこのような評価の仕方は百害あって一利なし、シフトするべきであると述べています。読んでいる私自身の「テスト・成績・通知表制度」に対するモヤモヤとした気持ちが晴れて、自分の疑問はやはり妥当なことだったのだ、と思えます。

 そして、真の意味での評価とは何か、そしてその方法はどんなものか、ということについて、十分に整理して説明を重ねていきます。特に、評価の種類の中でも、特に大事なのは形成的評価としています。日本では授業の際の「見取り」が大切だとよく言われます。そのことと共通する内容が書かれています。以下に抜粋します。

 「したがって、教師の関心は、「クラス全体の生徒」ではなく、一人ひとりの成長と幸福にあります。要するに、形成的評価とは、一貫して、持続的に、そして一瞬一瞬、学び続ける生徒たち一人ひとりを、教師が注意深く観察することなのです。」(249ページ)

 とはいっても、私などは、見取りというものについては、ぼんやりとしたイメージしか持っていません。実際に何をするべきかはピンとこないものでした。せいぜい、この生徒はできているな、この生徒はよくわかっていないな、といった、雰囲気で判断するくらいのものだと思っていました。

 しかし、本書を読めば、このような雰囲気の判断は、「非公式(インフォーマル)な形成的評価」という、評価の一部分にすぎない、ということがわかります。大事なのは、それを補う「公式(フォーマル)な形成的評価」、そして、教師、生徒からのフィードバックなのです。この辺りは、日本の学校でもぜひ補うべきものなのではないでしょうか。

 公式な形成的評価の例として、本書では「出口チケット」や「カンファランス」について説明されています。雰囲気だけではなく、一人ひとりの生徒にとって本当に必要なものは何かということをはっきりさせるためです。本当の意味での「見取り」をしたいというならば、ここまでやらなくては、と思わされます。しかも、これらは決して難しいことではなく、すぐに取り入れられるものです。(もちろん、手続きや声かけの方法については教師の側の理解と練習が必要ですが。)

 また、評価をしたとしても、その後の授業があまり変わらないのでは意味がありません。一人ひとりの生徒へのフィードバックが大切です。これについては、教師からのフィードバック、生徒同士のフィードバック(ピア・フィードバック)の方法が紹介されています。

 近年、「学び合い」が大切であり、有効な方法だということは、日本の学校でも浸透しつつあります。しかし、恐ろしいことに、次のような記述もありました。

 「もちろん、生徒間のピア・フィードバックが自動的に効果を発揮するわけではありません。ある研究によると、授業中に受けた口頭でのフィードバックの80%はクラスメイトからのものであるということがわかりました。また、この研究では、そのフィードバック情報のほとんどがまちがっている、と結論づけています。」(262ページ、ピア・フィードバックについては、本書以外に『ピア・フィードバック』を参照してください。)

 こうしてみると、生徒を見取ることや、学び合いを重視することといった、私たちが当然のものとして、信じて行っていることの危うさも見えてきます。私の場合は、本書を通して、評価についての考え方がより明確になりました。ぜひ、自分の実践に組み込んでいきたいものです。

 本書は、教師、生徒、学習環境、カリキュラム、評価、教え方、と、授業の幹となる要素から目を逸らすことなく、真っ向から取り組み、描こうとした、まさに著者の授業についての考え方を著したものといえます。

 表題にある「みんな羽ばたいて」は、生徒にも、教師にも向けられたメッセージです。どうか、本書を読んで、ご自分の授業を見つめ、明日からの授業で、あなた自身も、そしてあなたが目の前にする生徒も羽ばたけるように、考えてみてください!

2023年10月28日土曜日

一人ひとりをいかす学習を考える(評価について)

今月第2週でも取り上げられた『一人ひとりをいかす評価』を今回も参考資料とします。

さて、そのときも話題になったフィードバック(feedback)とは、生徒の考え方や実際の行動に対して評価を行うことです。

もともとフィードバックという言葉は、ITや工学の分野で使われていた用語で、入出力のあるシステムで、「一度出力されたものを入力側に戻して、その後の出力の制御を行う」という意味が、ほかの分野でも広く使われるようになりました(私が教師になった1970年代の終りには、教育工学に注目が集まり、「フィードバック」という用語が使われた記憶があります)

 授業に関連する評価には、単元の初めに行う診断的評価、単元の学習中に行う形成的評価、そして単元の終りに行う総括的評価の3種類の評価が知られています。診断的評価では、生徒がその単元を学習する前にどの程度の予備知識があるのかを把握して、適切な学習計画を立てるために必要なものです。これについては、『教科書をハックする』(新評論)を参考にしていただくとよいと思います。

さて、「形成的評価」をここでは取り上げます。形成的評価がもつ特徴と目標について専門家の共通の見解として『一人ひとりをいかす評価』で次のように紹介されています。(同書90ページ)

 ディラン・ウィリアムは、評価は、指導の次のステップを決めるために、教師が生徒のパフォーマンスについての証拠を集め、解釈し、そして使ったときの方が、証拠もなしに決めたときよりもどれだけ好ましいかという程度に応じて、形成的である度合いも決まるとしています。言い換えると、評価は「証拠が生徒のニーズに見合った指導に使われた場合に」形成的になるのです。 

 この最後の「証拠が生徒のニーズに見合った指導に使われた場合に」の文言はじっくりと噛みしめたいものです。たとえ教師がフィードバックしたつもりでも、生徒のニーズに合わず、学習が改善されなければ「形成的評価」とは言えないという点が重要です。さらに生徒の到達度を向上させるツールとして大切であることが同書91ページに記載されています。

 多くの専門家たちが、形成的評価の効果的な使用は、生徒の到達度を向上する最も強力な授業で使えるツールであると言っています。ハッティは、800以上の項目のメタ分析の結果、「形成的評価の設定」が分散値0.90でランキングの最上位にあるとしています。

ちなみに、「習熟度別グループ編成」は0.12で、0.30以下はほとんど価値がないとのことです。もういい加減に日本も習熟度別編成という役に立たない制度はやめて、形成的評価をさらに徹底させるような施策を考えたほうがよいように思います。

 教師と生徒の両方に役立つ形成的評価はそのフィードバックが両者にとって効果的なものである必要があります。その点について、『一人ひとりをいかす評価』(C.A.トムリンソンほか/北大路書房・2018)96ページには、効果的なフィードバックがもつ特徴として次の点をあげられています。

・明瞭である

・信頼関係を築いている

・具体的である

・焦点が絞られている

・一人ひとりの違いをいかす

・タイムリーである

・フォローアップを引き出す 

こうした特徴をいかす形成的評価の方法として、「見える化シート」「出口チケット」「小テスト」などがあげられます。(同書105-106ページ)宿題もこの手法のなかの一つと言えますが、そこにはこう書かれています。 

「一般的に宿題は生徒たちがまだ習得していない知識や理解やスキルを練習する機会を提供するものでなければならない。」 

この宿題に関しては、『宿題をハックする』(新評論・2019)が参考になります。同書の79ページから始まる「ハック4」では、「生徒のニーズにあわせた特別仕様にする」として次のように述べられています。 

「生徒が理解している少し上のレベルを教師が提供することによって、生徒は飛躍的に伸びます。もし、理解のギャップが大きすぎると、生徒はフラストレーションを起こしてしまい、すぐにやる気をなくしてしまいます。」 

宿題がよい結果をもたらすか、その逆になってしまうかは、授業中の形成的評価によって、どの程度生徒の学習の様子を的確に把握しているかによるわけです。個々の生徒のニーズを無視して、どの生徒にも同じ宿題を与えていては、「学びから逃避する」生徒を生み出すだけです。

宿題は小中学校ではまだ当たり前のように日常的に出されることが多いようですが、形成的評価の観点からも、その効果的活用という点からも再考されるべき課題です。

ここまで、形成的評価について書いてきましたが、単元(ユニット)の最後の評価である総括的評価については、次回(11/26)に譲ることにします。 

2023年10月22日日曜日

『みんな羽ばたいて 生徒中心の学びのエッセンス』キャロル・トムリンソン著を読んで

 私立桐朋学園小学校(東京都国立市)の有馬佑介先生が送ってくれたので、紹介します。

 この本の「はじめに」の冒頭にはこう書かれている。

「本書は、生徒を中心に据えて、教師が思考、計画、実行、振り返り、修正のサイクルを回す、意図的で継続的な授業づくりを目標にしたもの」。

この本を説明するのには、この冒頭の言葉がしっくりくる。つまりこの本は「生徒を中心にする」ことについて、いったいそれがどういう意味なのか、それをすることで生徒はどうなるのか、そして、それをするには教師はどうしたらいいのか、それが書かれている本だと言える。

 「生徒を中心にする」ということは、多くの教員にとって、目標であり願いだろう。おそらく多くの教員が、自分の置かれた環境のなかで、それに向かおうともがいているのではないだろうか。私もそのひとりだ。

しかし、自分の現状を振り返ったときに、「自分は生徒を中心とした学びを作っている」と自信をもって言えるかというと、大いに迷いが生じる。本書はそんな教員に丁寧に寄り添ってくれる一冊だと感じた。 

私が良いと感じた本書の特徴を3点挙げたい。


 まず1点目は、本書が網羅的な内容になっていることだ。本書の章の構成は以下のようになっている。

1.「生徒中心」とは何か?

2.教師 生徒を尊重し、学びを整える

3.生徒 生徒ひとり一人の成長を促す

4.学習環境 生徒中心のクラスをつくる

5.カリキュラム 夢中で取り組める学びを提供する

6.評価 学びと成長のために評価を活用する

7.教え方 生徒中心の授業をつくる

 いかがだろうか。この一冊を読むことによって、どのように考えるか(マインドセット)から、具体的に授業や評価をどのようにしていけばいいのか、「生徒中心の学び」を実現するための道筋がひととおり書かれている。

マインドセットやカリキュラム、評価それぞれについて書かれている本は多くあるが、これだけ網羅的に書かれている本は多くはないように思う。

本書を丁寧に読み解いていくことで、多くのことを確認し、教員としての自分自身を多面的に更新できると感じた。

 

2点目は、本書の書かれ方だ。1点目に書いたように、本書は生徒を中心とするための教員の営みについて、様々な面からそれを説明しており、多くの引用がなされている。そのため、巻末の参考文献には多くの本が列挙されており、その数は実に100冊をこえている。つまりこの本は、子どもの学習に関する最新の理論のエッセンスを抽出して書かれていると言える。なんと贅沢なことだろうか。さらに、日本語訳の訳注にも50冊をこえる本の紹介がなされている。もし、この本を読んで、さらに自分が特定のことを深めようと思った時に、たとえば私はカリキュラムと評価についてさらに理解を深めたいと感じたが、この参考文献のリストが力を貸してくれると感じた。

また、引用が多くなされているものの、もちろんそこに筆者の捉えや考え、さらには実際の学校(小学校や中学校、幼稚園まで様々)での子どもたちの様子のエピソードが平素な文章で書き添えられており、決して簡単なことが書かれているわけではないが、ひとつずつのことをあざやかにイメージすることができた。

 

3点目として、最後に挙げたいことは、この本の持つ柔らかさだ。

正直、教育書、特に訳書を読むときは、どこか「できていない自分」が責められている気になるものが少なくなかった。しかし、この本はそう感じなかった。

リストの掲げ方からにもそれを感じた。例えばP.86-88「一人ひとりの生徒を肯定するための方法」のリストの最後にはこう書き添えられている。「あなたは、このほかに何を加えますか?」

冒頭にも書いたが、おそらく多くの教員にとって「生徒中心の学び」は目標である。本書では狭い瓶に例えられていたが、不自由な現場のなかで、それでも何とかそれに向かおうともがいているのではないだろうか。本書はそんな教員のできていないことを責めるのではなく、認めてくれている気がする。だからこそ、私は今自分ができていることを立ち止まって確認できた。そのうえで、経験や勘に頼っていて体系立てられていないこと、そしてこれからこの本を参考にやっていきたいことを落ち着いて考えることができた。この本のすごく素敵なところだと思う。

 

「生徒中心の学び」を叶えたい教員には、手にとることをすすめたい。