2013年12月29日日曜日

1年のふりかえり



    ふりかえりは大切です。
それが前に進む/改善のエネルギーになりますから。
 回答は、下記のコメント欄か、吉田(pro.workshop@gmail.com)宛にぜひお願いします。


1)今年1年のPLC便りで、一番印象に残っているのは?
2)一番ダメだったのは? それはどう直せますか?

3)今年あなたが達成できたことは?
4)やりたかったことで実現できなかったことは?

5)あなたが今年1年間に読んだ教育(関係)書のオススメは?
6)今年1年間に見聞きしたいい教育実践は?   

7)来年度も、これまでと同じ授業/研修/研究を続けますか? それとも変えてしてみますか? その際、誰に相談しますか?


 2回続いた「本質的な問い」の「その3」も兼ねていました。

 フィードバックが、前に進む/改善のエネルギーを一層高めますので、よろしくお願いします。

2013年12月22日日曜日

本質的な問い その2


「どうして国々は戦争を始めるのか」という問いが先週紹介した『「教える」ことの覚え書き』シェリー・ヘンドリックス/ラッセル・クライン(フィルムアート社)に掲載されていました。
 

最近、大学生たちと一緒に丸谷才一さんの「思考のレッスン」を読んだのですが、丸谷さんも「なぜ戦争が始まるのか」が子どもの頃からの疑問であったと書いてありました。実は、私も小学生のころからずっと疑問に思っていました。
 

もう還暦にあと二年になった今の私に言えることは、戦争を始める裏側には必ず、金もうけをしようという人間の欲が絡んでいるということです。よく、宗教的な対立とか、民族間の対立が原因でと解説されることもありますが、それだけではないようです。

第二次大戦のとき、ドイツでヒトラーがあれだけ権力を独占していく過程で、アメリカの資本家たちの後押しがありました。その後対立することになったアメリカの資本家たちがなぜヒトラーを支援したのか、そのことだけを取り上げると実に不可解です。しかし、欧州での戦争が拡大するにつれて、アメリカの軍需産業の工場がフル回転し、完成した兵器が欧州に送り込まれました。これによって、アメリカの兵器産業を中心とする資本家たちは莫大な利益を手にすることができたわけです。
 

このようなことも第二次大戦に関係する本をいろいろと読み漁って、初めてわかったことです。「なぜ、戦争が起こるのか」というような問題意識、自分としての課題のようなものがあると、本を読むということは実に楽しい活動です。不思議なことに、一つのことがわかると、次から次へと、新たな疑問がわき、さらにそれを追究していくということになります。
 

このような知的な活動を学校の授業の中で行えれば、子どもたちも夢中になって学習に取り組むことができるのだと思います。ですから、どのような課題・質問を子どもたちに投げかけるかということが重要になってきます。ぜひ、単元の中で、その教科の根幹にかかわる「本質的な課題」、しかもそれが子どもたちの側から出されたアイデアや発想をもとにしたものになるといいですね。
 

そのためには、教師は常に世の中の様々なことに関心をもち、また自分なりの関心事をもち続け、アンテナを高くすることができるとよいと思います。このことは、まさに教師としての生き方の問題でもあります。

今年の私の担当は今回が最後になります。

学力テストの結果公開や、道徳や小学校での英語の教科化など、様々な問題がありますが、これをお読みのみなさんがそれぞれの持ち場で、「本質的な仕事」をされることを心より願っております。

 

 

2013年12月15日日曜日

本質的な問い


仕事帰りによく書店に立ち寄ることがあります。インターネットで買うことも多いのですが、実際に書店に足を運んで直に本に接することで意外な本との出会いがあります。先日も『「教える」ことの覚え書き』シェリー・ヘンドリックス/ラッセル・クライン(フィルムアート社)という本に出会いました。

本の帯には「教師の仕事に終わりがあると思うな」とありました。編集者の人もうまいキャプションを入れるものですね。そのキャプションに目を奪われて、ついつい手に取ってぱらぱらと中味をめくってみたのです。
 

そこで、目に入ったのが今日のタイトルの「本質的な問い」というフレーズです。同書の解説では本質的な問いとは、「その科目の根幹にかかわる問い」(同書40ページ)のことです。この本には丁寧にその例まで巻末につけてありました。

たとえば、科学では「太陽は地球上の生きものにどんな影響を与えているか?」、「生きているとはどういうことか?」、「エネルギーの源はどこにあるのか?」、「脳が知識を構成するしくみはどうなっているのか?」などが例として挙げられていました。
 

実は、私も10年近く前にこの本質的な問いの作成に取り組んでいました。

授業づくりをいろいろとやっていく過程で、課題や問いの重要性を認識したからです。よい授業をするにはどのような問いを子どもたちに提示できるか、それがとても大切だと思うようになっていたからです。残念ながら、この話を若手の先生方にしてもあまり興味をもってくれる人はいませんでした。こんなやり方よりも、教科書通りに教えているほうが楽だからです。

それ以来、しばらく「本質的な問い」については忘れていました。
 

しかし、福島原発の事故以来、理科のカリキュラムはやはり考え直さなければいけないという思いがありました。原発賛成・反対の立場は別にしても、科学と技術と社会のあり方についてもっと考える機会を作ってもよいのではないか、そんな思いです。それには、子どもたちが科学者のように考え、探究する理科の授業の実現を目ざす必要がありそうです。引き続き、自分の研究課題にしていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月8日日曜日

緊急性と重要性のマトリックス



 あなたの1週間(あるいは、1日でも1か月でもOK)に費やしている時間を、緊急性と重要性でふるい分けると、それぞれ何%ずつになりますか?(4つの領域に、あえて分けてみるということです。)
 ぜひ、下のマトリックスに%を書き込んでみてください。
 一方で、理想の時間配分は、どんな%だと思われますか?

  私たちは「忙しい、忙しい」と仕事に流されることが少なくありません。
 仕事に追われるのではなく、仕事を着実に作り出している人は、時間の使い方が違うと示してくれたのは、『7つの習慣』の著者のスティーブン・コヴィーでした。

 このマトリックスを意識することで、仕事に追われ続けるのか、それとも自分なりに納得のいく仕事をするのかの選択ができます。
 まずは、 現状と理想を明らかにすることから始めてください。

2013年12月1日日曜日

校務分掌



 校務分掌は、やりたい仕事? それとも、やらされ仕事?
 もしPTAの委員会と同じなら、確実に後者ですね。
 担当する教師がやりたいように切り替えられないものでしょうか?

 校務分掌は、初任者で学校に配属されてから、「あるのが当たり前」の存在です。
 教師として「しなければならない仕事」のひとつ。

 でも、学校の主体的な運営に参加するものというよりは、文科省・教育委員会の体制の下請け的なウェートの方がはるかに大きいのではないでしょうか?

 こう書いてくると、教師の「主体性」というのは学校という場で発揮できる場面は、いったいどこにあるのかな、とも考えてしまいます。授業のほとんどは、教科書をカバーする授業で追われてしまっては・・・、部活ぐらいしかなくなってしまうでしょうか?(それも、好きな人にとってはの話!)

 授業と学校運営の両面で、主体性を持ってもらうことは極めて大切です。
 子どもたちは、それを日々見ているのですから。

 教師が主体的になれないということは、子どもたちも容易に主体的になれないことを意味します。要するに、教師が「前例主義」「波風を立てない」「服従」「依存」等の雰囲気をプンプン臭わした存在なら、そういう空気が教室中、学校中に充満しているわけですから、とてもではありませんが、「自立した学び手/考え手」に子どもたちになってもらうことなどできるはずがありません。

 たかが「校務分掌」なのですが、されど「校務分掌」です。習慣(=下請け仕事)としてやり続けていては、教師たちが主体的に学校運営に参加する機会として活用できません。
 もし、後者のアプローチが大切だと思われたら、従来の校務分掌的な要素は持たせつつ(役割としては、全体の1~2割程度に押さえて)教師の主体性を発揮できる組織で来年度はチーム編成を考えてみませんか?

 たとえば、以下のようなチームで。
     プロとしての力量形成
     テクノロジー
     相互観察・評価
     カリキュラムと教え方
     雰囲気と文化
     学校運営

 要するに、自分たちが「やりたい」「大切だ」「欠かせない」と思えるテーマ設定で。
 チームというのは、スポーツのチームのように極めて有機的なものです。相乗効果が生まれるものです。個々に主体性があれば。
 「やりたくないのに、割り振られてしかたなくやっている」のではなく、「必要性を感じて、言われなくてもやりたくてやっている」に変えない限りは、プロセスに学びがないし、やることも前例踏襲以外は期待できません。ぜひ、後者の視点で、校務分掌の見直しに挑戦してみてください。

2013年11月24日日曜日

インストラクショナルデザイン


「インストラクショナルデザイン」島宗 理(しまむね さとる)2010産業図書 という本があります。大学での授業で使うために読んでみたのですが、興味深い箇所がありました。

それは、「インストラクション16の鉄則」です。

 その鉄則とは以下のようなものです。

 

   何を教えるのかをはっきりさせる

   学びにコミットする   「教える」=「学ぶ」ではない

   何のために学ぶのかをはっきりさせる

   成功の基準を明確にする

   標的行動を見せてやらせて確認している

   意味のある行動を引き出している

   正答を教える

   誤答を教える

   スペックを明記する

   学び手に関する情報を把握する

   学び手は常に正しいとする視点を忘れない

   教え手に関する情報を把握する

   学ばせて楽しませる工夫をする

   個人差に配慮する

   「わかりました」で安心しない

   改善に役立つ評価をする

 

このブログで取り上げている内容とも共通するものが多いのですが、特に次の二つに注目しました。

 

鉄則�「標的行動を見せてやらせて確認させる」

 分かりやすく教えるには

  標的行動を

(1)   説明する(見せる)

(2)   行動させる(練習させる)

(3)   習得を確認させる

 

鉄則中の鉄則�「学び手は常に正しい」

個人攻撃の罠

子ども(学生)が宿題をやってこない→「こいつら、やる気がなさすぎ」

同じことを繰り返し説明してもわからない→「この子()は適性がない」

 

 自分が教えた子どもができないのは、子どものせいだとする教師は少なくありません。

「私はちゃんと教えたのに、できないのは(忘れてしまうのは)子どもがわるい」
 こんな言い方をする教師に出会ったこともありました。
そんな、「個人攻撃の罠」にはまらないようにして、「学び手は常に正しい」と考えることで教師としての力量向上を図れるのではないでしょうか。

 

この本には次のような演習問題があります。

 

問1          あなたは小学校6年生の学級担任です。いつも宿題を忘れる児童に対して、個人攻撃の罠にはまらないように、なぜこの子は宿題を忘れるのか、考えられる原因をすべて書き出してください。(荒唐無稽の原因でも構いません)

 

  「この子は、いつも宿題を忘れて、やる気がないんだから」と決めつけずに、このような視点から考えてみることも大切です。

そして、この本では「インストラクションとは相手から何かの行動を引き出すための仕掛けである」と結論付けられています。

 

 もう一つ興味深い紹介がこの本にありました。

関連サイトとして、アメリカ・シアトルのモーニングサイドアカデミーの話が書かれています。

シアトル郊外にある私立学校で、インストラクショナルデザインの考え方を取り入れて、学習障害などの子どもたちを指導している学校だそうです。
興味のある方は以下のURLをご覧になってください。
 


 

 

 

2013年11月17日日曜日

授業のあり方


前回の記事の中に次のような指摘がありました。
 

(以下、前回記事の引用)

この論文の中に、教師がしてはいけないことのリスト(=悲惨な授業をつくり出す要因)が以下のように提示されていますが、これらは日本では、いまだに教師が当たり前のようにしていることばかりではないでしょうか?

     情報を提供すること(=教えること)

     質問

     指示

     課題を提示

     課題のチェック

     机間巡視 (警察的な役割)

     テスト

     テストのチェック

     宿題

     宿題のチェック

     生徒指導

     作文の添削

(貼り付け 終わり)

 

ここに書かれていることは、すでにある「正解」を効率よく教えようという教育方法だと言えます。この方向を良しとする考えを持っている教師が今でも少なからずいることは事実です。

「教え込み」はだめだと言うと、すぐに「基礎・基本」はどうするのだという反論に出会います。しかし、このブログでもこれまで何回も取り上げてきたように、「応用」から「基本」への双方向の学びは可能なのです。

 

(以下、再び、前回記事の引用)

それに対して、探究学習(やライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップ)が可能にしてくれるのは(=いい授業をつくり出す要素は):

・生徒たちは、自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ。自分がしていることに価値を見いだせれば、学校や授業をより好意的に捉えることができる。 〜 単に課題をこなしたり、テストや成績のために勉強するのではなく、自分が意味を感じたり、面白いと思って取り組む。

(貼り付け 終わり)

 

「学ぶ意味が感じられる」というのは学習意欲を高める上で非常に重要だと思います。

以前このブログでも紹介した「Nurturing Inquiry(Charles R.Pearce:Heinemann)では、教え込みではない、探究型の理科授業(サイエンス・ワークショップを中心にした授業)が詳細に描かれています。読んでいて、私も次はどうなるのだろうとわくわくして、面白く感じるくらいですから、この先生の教室で学んでいる子どもたちが嬉々として探究活動に取り組んでいる姿が目に浮かびます。

このようなやり方は、子ども自身が関心のあるテーマについて学ぶわけですから、まさに「自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ」ことになっているわけです。ただ、このやり方は子どもにすべてを任せればうまくいくということではなく、教師側の準備や子どもの探究活動を支えるサポートが求められることになります。でもそれほど特別なことではないと思います。どの先生もやる気さえあれば身に付けることができると思いますし、今後日本でも多くの学校で取り入れていけるものだと思います。

最近、子どもたちの「理数離れ」が問題視され、その対策として「科学者による学校での出前授業」あるいは講演会などが企画されていますが、どれもその場しのぎの対策のように感じられてなりません。根本的には、理科の授業を「教科書通りに教える」授業から「子どもの探究活動を中心とした」授業に変える必要があります。

2013年11月10日日曜日

ひさんな授業から、いい授業への移行



 理科、社会、算数・数学、英語などはすべて暗記科目化しています。(国語もでしょうか?)
 それは、テストがあるから??

 そういう自体はおかしいということで、書かれたのがこの記事です。
 なんと、December 1991のことでした。(15~6年前に一度見たことがあったのですが、2週間ほど前に、ある本の参考資料としてあげていたので、再度読みました。)掲載されたのは、アメリカの有名な教育誌の一つのPhi Delta Kappan。(書いた人は、Martin Haberman。論文のタイトルは、The Pedagogy of Poverty Versus Good Teaching
https://www.det.nsw.edu.au/proflearn/docs/pdf/qt_haberman.pdf

 日本と同じように、テストや試験に大きく左右されているような国々でも、できるだけひさんな授業を避け、いい授業に移行しています。

 日本でも、総合的な学習時間はそういう流れに乗ったものではあったわけですが、導入する側に覚悟と知識があったわけではなく、また、導入させられた側も情報や研修等による準備がいい加減だったために、数年もしないうちに中学校ではお荷物化し、小学校でもいまやしっかりやれているところを探す方が大変なのでは、と思います。

 要するには、ひさんな授業しか選択肢がないような状況に日本はずっと置かれていると言えます。これこそが、教育改革の柱であるべきなのに、政治家はもちろん、役人や研究者も、いい授業にはほとんど興味を示しません。その情けなさは、「原子力村」よりも悲劇的存在なのでは、と目を覆うばかりです。

 数年前からは、「習得・活用・探究」をいい始めていますが、どれもままならない状態が続いているのではないでしょうか? そもそも、これらを分けて考えること自体がおかしいのですから。暗記ではなく、考える授業を念頭においたときは、探究をすることで、知識・技能・態度が活動できるレベルで身につきます。それを、基礎・基本がおさえられない限りは、活用も、探究もあり得ないと考えているうちは、いつまでたっても今の状態が続くことを意味しています。順番が逆なのですから。ボタンの掛け違いを最初からやっているのですから。

 この論文の中に、教師がしてはいけないことのリスト(=ひさんな授業をつくり出す要因)が以下のように提示されていますが、これらは日本では、いまだに教師が当たり前のようにしていることばかりではないでしょうか?

     情報を提供すること(=教えること)
     質問
     指示
     課題を提示
     課題のチェック
     机間巡視 (警察的な役割)
     テスト
     テストのチェック
     宿題
     宿題のチェック
     生徒指導
     作文の添削
     成績づけ

 それに対して、探究学習(やライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップ)が可能にしてくれるのは(=いい授業をつくり出す要素は)


    <メルマガからの続き>



・生徒たちは、自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ。自分がしていることに価値を見いだせれば、学校や授業をより好意的に捉えることができる。 ~ 単に課題をこなしたり、テストや成績のために勉強するのではなく、自分が意味を感じたり、面白いと思って取り組む。
・生徒たちは、多様な視点(見方があること)を学ぶ。 ~ 単に情報を受け取るのではなく、広く・深く考える。
・生徒たちは、概念を中心に学ぶ。また、合科的に学ぶことで、個別の知識や情報をより意味を持って学べる。 ~ 単に暗記するのではなく、理解する形で学べる。
・生徒たちは、自分が何をどう学ぶかという計画にかかわる。 ~ 与えられたものを受け取るのではなく、自分たちが主体的かつ自立的な学び手になっていく。
・生徒たちは、ロールプレイやプロジェクトや小グループでの学びに積極的に参加する。~ 生徒相互の教え合い・学び合いが学びの中心ということ。
・生徒たちは、学校や教室の垣根をできるだけ低くして学ぶ。校外に頻繁に出るし、ゲストに頻繁に来てもらう。地域のプロジェクトにも参加する。 ~ 学校や地域で自分の居場所を見出すことになる知識やスキルを身につけていく。
・生徒たちは、習熟度別ではなく、多様なグループで学ぶ。
・生徒たちは、常識と思っていたことや固定観念を疑う形で学ぶ。
・生徒たちは、ネットで情報にアクセスするかたちで学ぶ。 ~ もはや、「教科書だけが情報源」という時代じゃない!!
・生徒たちは、常に振り返りながら、自己評価し、自己修正・改善しながら学ぶ。
+ 生徒たちは、学んだことを共有しながら、モデルから学び続ける。

2013年11月3日日曜日

「朝の読書」=今の学校が抱える課題



いまはかなり広範に行われている「朝の読書」について考えたことを書き出していきます。

1.その前に、いまも1学年10学級というマンモス校は存在するのでしょうか?
  基本的には、校長が生徒たちの顔と名前が一致できるぐらいの規模が理想とされています。子どもたちのことを知らないで管理職は勤まりませんから。(海外のある私立校の校長は、親の顔まで覚えている規模、と言っていました。そこまで対人関係を大切にしています。それに比べて、日本の公立や私立校はいかに保護者を軽視・無視していることでしょうか!!)そうなると、「学校の中の学校」というアプローチが可能です(『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』の239ページで紹介)。10学級の中学校だったら各学年3~4クラスずつ3学年で、300人強という生徒数です。そのぐらいなら、生徒たちにとっても、教師たちにとっても一体感を感じられる規模なのではないでしょうか? さらには、学校をこの一体感の持てる単位にして運営している例は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』★の「いい学校のイメージ」(5~14ページ)の中に紹介しました。

2.「朝の読書」は小学校から高校まで、いまとなってはかなり普及しています。しかし、そもそもその紹介の仕方もあって、朝、登校してから勉強が始まる前のあいだに、静かな時間をもって集中すること、おとなしくすることに重きがあるようです。もちろん、本に親しみ、読む力をつける、ということも目的に掲げられていると思いますが、それはどちらかといえば、二の次の目的です。(よく言えば、一石二鳥。悪く言えば、本音と建前の使い分け、です。)
 もう10年以上前になりますが、秋田のあるグループに招かれたオーストラリアのある州の教育委員会の指導主事が、訪ねた学校のすべてで朝の読書が行われていて、東京に戻って私とその体験を振り返って、怒り出しました。「あれは、教育活動とは言えない!」というのです。「何も教えていないじゃないか。ただ、読ませているだけというのは無責任だ」と。私は、一応、上のようなことを説明しましたが、まったく受け入れてくれませんでした。要するに、学校で行うことは「教育活動」であるべきだ、というわけです。しかし、朝の読書はどう考えてもそういうふうにはなっていないと。

3.私も実際に、朝の読書風景をいくつかの教室で観察したことがありますが、このオーストラリアの指導主事が言うことは否定できないと思います。
 約10分間、読みたい本を読む時間です。教師も一緒に読んでいることは少なかったように記憶しています。
 読むのが好きな子や、朝の読書に慣れて、その価値を見いだせている子たちは、それでもいいのですが、読むのが嫌いな子、苦痛な子、自分にあった本が見いだせていない子(いったい、この種の子たちが何割を占めていると思いますか?)たちにとっては、この約10分間は、ひたすら耐える/我慢する/おとなしくしている時間以外に何物でもありません。いったい、どういう教育的価値があるのでしょうか? これは、最たる「隠れたカリキュラム」です。学校側はよかれと思って子どもたちにやらせているのですが、その意図とは違うことを子どもたちは学んでいるのですから。この場合学んでいるは、「読むのは、退屈、面白くない、我慢する時間、意味のない時間」です。
 そして、それを改善しよう、そういう子たちを救済しようという仕組みがまったくありませんから、「無策」以外の何物でもありません。ただひたすら時間さえ提供すればOKというのです。オーストラリアの教育者が怒り出すのも無理はありません。日本人の教育者で怒り出す人がいないのが不思議なぐらいです。どなたか聞いた方いますか?? この取り組みは、はっきりおかしい、という人を。


   <メルマガからの続き>


4.アメリカなどの欧米でSustained Silent Reading(ひたすら静かに読む)という形で実践されていたことを、日本で導入・普及する段階で朝の授業前の時間に行うというように、すり替えられました。アメリカなどでは、単に読むのではなく、読むことが指導される時間の中にこれが位置づけられて行われている場合がほとんどです。
下の表は、日本の朝の読書と読むことに特化した授業の一つであるリーディング・ワークショップのアプローチの違いを整理したものです。(表を左クリックし、黒い画面が出たら、今度は右クリックを押して「画像だけを表示」を左クリックすると、+のサインが出て、それをもう一度クリックすると画像が拡大されて、見やすくなります。画面左上の元に戻る「←」をクリックするとブログ画面に戻ります。)
あまりの違いに愕然としてしまうのではないでしょうか。オーストラリアの指導主事は、右側が読むことを教えることだと思っていますから、日本で朝の読書を見せられて、「こんなのを教育活動と捉えて実践していることはおかしい」と思い、憤慨したわけです。

5.要するに、朝の読書をやり続けていては、読むのが嫌いな子たちにとっては拷問的な部分が無きにしも非ず、ということです。好きになれる要素や、読む力をつける要素が皆無なのですから。
 それに対して、リーディング・ワークショップではそれがふんだんに設けられています。
 まずは、教師のサポートが得られます。選書の。具体的な読み方の。そして読んだものをどう扱うかの。(この辺については、『「読む力」はこうしてつける』をぜひご覧ください。)
 読むことは、決して個別な作業ではないことも、友だちと読み合ったり、ブッククラブなどをして体感していきます。読むのが得意でない子や嫌いな子ほど、読むという行為をソーシャルなものにした方が好きになる可能性は高まります。一人で黙々と読むアプローチは、最初から好きではないのですから。それを、時間を設定して強いたところで、好きになれるはずがありません。(この辺については、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』をぜひご覧ください。)

6.国語の読む領域(一般的には、読解教育)と、朝の読書や図書の時間をどう関連づけるかが大きく問われています。まったく関係ないもの、別の物と捉えて取り組んでいる限りにおいては、おそらく子どもたちには矛盾したメッセージを送り続けている部分があります。そもそも、国語の読解と読書をわける必要性があるのでしょうか?
 似たようなことは、各教科に読むということがあまりにも少ないこととも関連します。算数・数学、理科、社会の主要教科を考えただけでも、教科書だけでそれらの教科を学んだ時と、教科書以外の多くの関連した本や資料を使って学ぶ時につくられるイメージはまったく異なったものになります。「教科書をカバーするだけで忙しい」などと言っていられるでしょうか? 読むのを好きになり、かつ読む力を身につけるのと同じように、子どもたちがその教科を好きになり、その教科で身につけるべき力を身につけることがテーマなのですから。 教科書をカバーすることに固執することは、目的と手段を捉え違えているとしか思えません。

7.根本は、自立した読み手、学び手に育ってもらうために、朝の読書、読解教育、国語、算数・数学、理科、社会等がどう寄与しているのかを問わなくてはなりませんが、私たちは日々の授業のこなすことに忙しいあまり、そもそもの目的を忘れてしまいがちです。

 以上7点、少しは、習慣でやり過ごしていることを見直すきっかけになったでしょうか?


★ 日本ではまだ、『いい学校のつくり方』というタイトルではニーズがない、ということで、このタイトルにせざるを得ませんでした。出版界では、一番本を読まないのが学校関係者ということになっています。(教科書をカバーしていればいいのですから、読まなくなります。)保護者の方がはるかに本を読むと思っているので、こういうタイトルになってしまいます。