2011年11月27日日曜日

聞くことの大切さ → 読者へのアンケート

前回の「問いかけ」ないし「質問」との関連です。
 「問いかけ」は、「聞くこと」とセットになっているといっても過言ではありません。

 ライティング・ワークショップの創設者の一人のドナルド・マレー(Donald Murray)は、「書くことを教えることは書き手の言うことを聞くことだ」と言い切っていたぐらいです。日本には、そういう書く指導法があるでしょうか?

 教師の職業病といえるのかもしれませんが、多くの教師は教えること、話すことが好きです。(人によっては、子どもたちが何を考えているのか、どんな状況におかれているのかお構いなしに、教え続けたり、説明し続けたりする人もいます。なにせ、自分の仕事を教えることと捉えていますから。)

 しかし、学ぶ(聞く、理解する)のは子どもたちですから、残念ながら教師が教えることイコール子どもたちが学ぶことではありません。教室の中に30人の生徒がいたとしたら、教師が期待しているレベルで学べる(聞ける、理解できる)のは扱うテーマにもよりますが、平均して3分の1~4分の1というところではないでしょうか? 残りの半分~3分の1は“なんとなく”学んでいる・聞いている・理解できるレベルで、最後の3分の1~4分の1は、教師との接点がもてなくて苦労している子たちという感じではないでしょうか?

 学ぶことは、受け身的な行為ではなく、自分なりの意味を作り出す極めて主体的な行為です。教師の話を聞いたり、教科書を読むだけでは、なかなかできない子たちがたくさんいます。

 似たような状況は、校長(管理職)と教職員の関係でも存在しないでしょうか?

 校長になりたてのころや異動した最初のころは、聞いたり、観察をしたりするかもしれませんが、自分の教師時代の経験もあるので、徐々にすべてが「ルーチン化」していきます。「こんなもの」ないし「このぐらいでいいだろう」という意識が定着してしまうことを意味します。

 聞かない・言わないは、会議の席だけでなく、学校中に充満している学校すら少なくなりません。(もちろん、先生たちも、そしてそれを見ている生徒たちも、公式と非公式をうまく使い分けています。あるいは、誰には聞いたり、言ったりできても、誰には聞いたり、言わないという使い分けをする形で。)

 尋ねなければ/聞かなければ/問わなければ、同じことをやり続けることが約束されています。これは、私たちが始めたばかりのPLC通信にも言えることですから、アンケートの形で早速お尋ねします
 授業も、学校も、一方通行のコミュニケーションの時代でないことは確かです。ぜひPLC通信も双方向でお願いします。
 以下のアンケートへの回答は、コメント欄に書いていただいても結構ですし、pro.workshop@gmail.comへ送っていただいても結構です。これが読者とのやりとりのきっかけになればと願っています。アンケートの集計・発表も考えていますので、★ぜひご協力を!!★

アンケート

1) これまでの「PLC便り」で印象的な内容:
2) 学校教育で一番大切なことは?(=あなたが一番大切にしていることは?):
3) 「学校改善」でもっとも関心をもっていること:
4) 「授業改善」でもっとも関心をもっていること:
5) Professional Learning Community(=プロの教師集団として学び続けているコミュニティとしての学校) として自校/自分が属する組織を採点すると100点満点で何点ぐらいですか?
6) PLCということで、すでに実施していること/やろうと考えていること:
7) PLC関連で(あるいは、教育全般で)読むに値する本(タイトルと著者名)は? →たくさんリストアップは大歓迎です:
8) PLCのテーマで扱ってほしいこと/「PLC便り」への期待・要望:
9) あなたが「PLC便り」に貢献できること:

2011年11月20日日曜日

問いかけること

私に教育の世界に入るきっかけをつくってくれた本があります。『ワールド・スタディーズ』(国際理解教育センター翻訳・発行、直販)というタイトルのイギリスで開発された本です。

 この本の中には、たくさんいいことが書いてあるのですが、中でも「教えることは、問いかけること」が秀でています。
 それを読むまでの私は、ご多分のもれず、研修等では9割方自分が話すような進め方だったのですが、86年に読んだ後は、確実に5割以下、研修時間が長くなれば2割以下に減りました。

 あとでわかったことですが、イギリスでワールド・スタディーズの開発に携わった人たちがもっとも影響を受けた一人がカウンセリングで有名なカール・ロジャーズ(本のタイトルは、初版が1963年に出たFreedom to Learn)です。日本でも、この本は訳されています。最新は、カール・ロジャーズが亡くなった後に彼の信奉者が編集した第3版で、日本では2006年に『学習する自由』のタイトルで出ています。

 これら2冊の本は、学ぶことはどういうことか(それは、必然的に教えるということはどういうことか)を考えさせてくれるので、教師には必読書と言ってもいいと思います。

 「問いかけ」と、日本でよく使われる「発問」には、大きな違いがあると思います。
問いかけは、正解のない質問、教師や管理職が相手の考えていることを本気で知りたくて発する質問なのに対して、発問の方は答えがあるニュアンスが濃厚な気がします。あるいは、教師・管理職のシナリオがすでにあって、それを推し進めるのを助ける質問です。

 日本の教師も管理職も、求められているのは「問いかけ」能力です。
 「発問」ではありません。

 質問の仕方が、答えを決めるというか、思考を左右しますから、問いかけ方は極めて重要です。授業の本質的な改善に向けての問いかけ、学校の課題を解決・改善したい時に発する問いかけなど。発する側がすでに答えをもっていると思わせるような問いかけではなく、真に聞かれた側の考えを知りたいと思ってもらえる質問です。「一緒に考えてほしいんだ」という気持ちが伝わる問いかけです。

 質問はまた、相手を「主役」というか、「主体」にする方法でもあります。質問する側がすでに答えをもっているような質問やアドバイスを言ってしまっては、相手を受け身にさせるだけですが、答えのない質問は、主体的に考えて、主体的に行動するきっかけになります。

 あなたは、そんな質問を日ごろどれだけ発していますか?

 私は、教育の質、社会の質は、問いかけの質で決まると思っているぐらいです。
問題を解決する際も、質問が鍵を握っていることが、「問題解決のサイクル」の図からよくわかります。



 問題から直接解決に行ってしまっては、思いもしない副作用を作り出してしまいかねません。鍵は、質問をすることによって、問題をよりよく理解すると同時に、多様な可能性を考慮することです。それらの中からベストを選び出して解決にあたると、必ず新しい課題や問題も見えてきます。延々とは言いませんが、問題解決/改善のサイクルは続くわけです。
 直線的に考える方がおかしいのですが、「原子力発電は安全だ!」のように、私たちは直線思考に陥りがちです。似たような思考が教育の世界でも、かなり幅を利かせているのではないでしょうか? 教科、教科書、時間割、単元、指導案、評価、部活動、教員研修、組織体制、家庭との関係など、授業と学校を構成するものすべてがリストアップされてしまうぐらいです。


★関連情報 → ライティング・ワークショップでのカンファランス
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2011年11月15日火曜日

メンター

前回のテーマを読んで、私が一番気になったのは、「言いたいことが言え、聞きたいことが聞ける関係(=信頼関係)が築けているかどうか」ということであり、一つの正解が求められる学校ではなく、たくさんの考えをやりとりできる場としての学校や授業の存在でした。

 もちろん、すべての教師同士が「言いたいことが言え、聞きたいことが聞ける関係」が築けるわけではありませんから、現実的にはメンターの関係を最低でも1人、願わくは2~3人と築ければ、多くの精神的な問題は解決・改善できると思います。★★★

 メンターは、「気の置けないことも話せる先輩★」「信頼できる先輩」です。日本でも初任者を含めて若手教員育成のために指導教員制度を設けているところが少なくありませんが、大切なのは
① メンティー(若年者、経験の浅い人)がメンターを選べることと、
② 先輩の側がメンターとしての接し方をしっかり身につけていることです。★★
単に年数を重ねているだけでは、メンターにはなれません。接し方を身につけていない人には、それらを身につけられるようにサポートすることが管理職や教育委員会には求められます。(詳しくは、『「学び」で組織は成長する』光文社新書の95~103ページ。)

 白鳥さんといっしょに訪ねた、教師が学び続ける学校(=PLC)づくりに教育委員会ぐるみで取り組んでいるアメリカ・ジョージア州のグウィネット群では、「あなたには何人のメンターが今いますか?」が合言葉のように使われていました。教員の年数に関係なく、あるいは管理職でさえ、メンターとの関係を大切にすることで、常に学び続けることを奨励していました。

 そうした人間関係が以前は日本でも、学年や教科単位のチーム等で、あるいはインフォーマルなつながりであったのかもしれませんが、いまは残念ながらかなり希薄になっています。

 もちろんいい人間関係を築くことで、管理職への必要以上の負担を軽減することにもなります。教師一人ひとりにとって、管理職がメンターとして適役かというと、そうではない場合の方が多いかもしれませんし。


★ 実態は、「先輩」というよりも「同僚」とした方がいいかもしれません。年齢的な問題ではないからです。何か自分が学びたいものや盗みたいものをもっている人に教えてもらう/サポートしてもらう、という感じです。

★★ これは、実は決定的に大切なことなのですが、軽視されているというか無視され続けています。「決定的」以上に「根本的」とさえ言えます。大人を対象に教えることも、子どもを対象に教えることも同じですから。

★★★ 同僚との人間関係が一人も築けない人が教師なっている場合は、本人の問題というよりも、採用/人事の問題と言ったほうがいいでしょう。

2011年11月13日日曜日

心の健康

今「心の健康」はどの職場でも問題になっていることです。



職場での人間関係に起因するストレス、その他様々な要因があるかと思いますが、学校においても同様です。



保護者の対応一つとってみても、難しいことがあります。



これから教員になる人は、コミュニケーション能力に長けている人が向いていることは間違いありません。ここしばらく、教員採用試験が難しくなっていたために、筆記試験に強い人がどうしても合格する比率が高かったように思います。



筆記試験に強い人のすべてがそうだとは言いませんが、他人とのコミュニケーションが案外下手な人が試験に合格して教員になり、いざ現場に配属されて、実は教師に向いていなかったという理由で退職していくケースが見られます。



私が管理職になってから、中途で退職した職員が2名いました。



1人は、地元の大学の大学院を修了して、教員になった人です。しかし、採用されてから1年半後に、学級経営に行き詰って精神的に追い込まれた状態になりました。12月の最後の日の朝、突然「今日限りで辞めます」というFAXが学校に送られてきました。



それまで特に悩んでいる様子もなかったので、最初は何が原因なのかわかりませんでした。その日、校長と私(副校長)はすぐ本人の自宅に駆けつけて、翻意を促しました。しかし、本人の決意は固く、説得は不調に終わりました。悩みの原因が学級の生徒とうまくいかないことにあることをそのとき初めて知りました。自分の経験談なども語りましたが、効果はありませんでした。相談も持ちかけてもらえなかった不甲斐ない管理職であったことを深く反省しました。日ごろから、職員の動向には気を配っていたつもりが、全く何もわかっていなかったのです。



もう1人は、経験10年の中堅教員でした。



その人は、まじめそのものの性格で、能力も高いのですが、自分に対する要求レベルもまたかなり高いものがありました。私から見れば、十分に働いていると思えるのですが、その人の満足レベルには達していないことが度々あったようです。そのような性格が要因だと思いますが、前任校で精神疾患になり、数ヶ月休むことになりました。その後、私の勤務する学校へ異動してきたのですが、また1年半後におかしくなりました。最初の1年は学級担任からはずしていたのですが、次の年は組織の事情もあり、学級担任を任せることにしました。その数ヵ月後です。生徒との関係がうまくいかず、休むようになりました。



何とか仕事を続けられるようにサポートしましたが、結局だめでした。そればかりか、本人は自殺をしかねない精神状態になっていました。何とかそれは食い止めましたが、その年度の終わりで退職することになりました。このときは、私は校長になっていましたが、自分の無力さを再び思い知らされることになりました。





   (メルマガの続き)





 この2人のケースで言えることは、2人とも、とてもまじめな性格な人であるということです。
 まじめさはもちろん教員として大切な資質ですが、それにも増して必要なのは周囲の人とのコミュニケーション力です。どちらのケースも周囲の人たちはかなり本人をサポートしていたと思うのですが、それがうまく通じていなかったようです。
 今、精神疾患によって休職される教員がどこでも増えているようですが、メンタルヘルスは大切な問題です。
 すべての職員がいきいきと働くことのできる職場づくり。この理想に向かって、管理職は職場のマネジメントをやりたいものです。





 「ラーニング・リーダーシップ入門」(牛尾奈緒美他・日本経済新聞出版社)によると、「昨今のメンタル不全の急増は、やりがいや仕事量の問題に加えて、職場の雰囲気や人間関係が原因になっていることが多いそうです。」とのことです。

 人はどんなときに最もいきいきと、仕事に向き合うことができるのでしょうか。
「自分のやりたい仕事が進められる」「成果が表れて、それが周囲から認められる」「仕事に対して達成感を感じることができる」など、様々なケースがあると思いますが、上司や同僚から「認められる」「満足感がある」ことは「いきいきと仕事をする」上で大切な要素であると思います。
 現在ほとんどの都道府県で「教員評価」が実施されており、その際に定期的な面談の機会が設定されていますが、この定期面談以外にも、折に触れて管理職は部下に対して、「賞賛」などの「その人の仕事ぶりを認めてあげる」ことが必要です。

 最後に、校長自身の心の健康も大切です。
 それには、近隣小中学校の校長、あるいは知り合いの校長との情報交換、本音で話のできる人が傍にいるといいですね。校内では相談できないこともあります。そんなときに、気軽にアドバイスをもらえるような人とのつながりがあることがとてもいいと思います。







2011年11月6日日曜日

校長という仕事

先日、中学校校長会の全国規模の大会に参加してきました。


 全国津々浦々から、2,300人の参加者がありました。



 そこで、感じたことをいくつか書きます。


 一つは、同じ日本といっても、地域によってその学校の実情はかなり違います。初日の分科会での話ですが、50代の職員が多い学校のある校長は、その50代をどうやる気にさせるかということで、苦慮していました。また、若手教員が半数以上を占める学校の校長は若手の育成をどうすればいいのか苦労していました。


 ここに、今日の日本の公立中学校の置かれている現状が端的に表されています。


 この数年、団塊の世代の大量退職で多くの新規採用職員が配置されているのが、都市部の現状です。反対に、過疎地域では、まだ大量退職には時間があり、50代の職員が多いということです。私の勤務する県は、後者のに該当します。


 私の現任校でも、50代の職員が全体の職員数の4割を占めています。


 ベテラン揃いで、経験は豊富ですから、何をやっても卒なくこなすことはできます。ただ、それが本当に子どもの心を動かすような活動になっているのか、子どもの心に火をつけるようなことができているのか、というと疑問なところがあります。


若手には、若手のよさがあります。子どもの心をつかむとか、一体感を作り出すとかは若い教員の得意な分野です。ただ、指導法やプロジェクトの進め方などは当然ながら力量不足な点が見られます。ですから、若手がベテランからよいところを学び取り、ベテランのよさをうまく若手に伝えていくようなOJTができればいいと思います。 


 このベテランから若手への指導技術の伝承は、「メンタリング行動」そのものでもあります。以前、メンタリングについて研究しましたが、企業などでもかなり多く取り入れられている研修スタイルです。昔は、学校内に宿直室があり、そこで夜遅くまで先輩から後輩への指導する場面があったようですが、今日の学校はそのような機会を意図的に作り出す必要に迫られているようです。


私自身、教師になって田舎の中学校に赴任しました。20代の同僚は1人しかいませんでした。後は、すべて40代以上の人ばかり。最初はよく先輩たちから叱られることが多かったことを覚えています。でも、実によく面倒を見ていただきました。その恩返しは、私自身が今の後輩たちにしなければなりません。



 (メルマガの続き)



 もう一つ今回の大会に参加して感じたことは、学校経営に関するノウハウを組織として蓄積できていないということです。前回も書きましたが、アメリカの校長会はそのあたりの情報提供が実に丁寧です。会員の職務や活動をサポートするという点では、彼我の差は大きいと思います。まだわが国の場合は、学校経営ではなくて「管理」の色彩が強い印象を受けます。


 だからこそ、「学びの論理」で動く、PLCの存在意義があるのだと思います。特に中学校の場合は、緊急事態のときは別としても、やはり「学びの充実」が学校をよくする最良の手段です。


 ここで、問題になるのは中学校の場合は「部活動」があるということです。部活動の生徒育成への貢献度は大きなものがあり、これによって荒れていた学校を建て直したという事例は枚挙の暇もないくらいです。ですから、決して「部活動」の意義を否定するものではありませんが、それだけでは足りないのだということを改めて言いたいと思います。



「教室での学び」が十分に行われてこそ、部活動も生きてくるのです。よく車の両輪と言いますが、まさにその通りなのです。どちらが不十分であってもいけない。そんな関係なのです。欧米の場合は、「部活動」はありませんから、教師がそれに労力を振り向けなくても済みます。しかし、わが国の場合は、教師のボランティアによってその多くが成立している「部活動」に、かなりの時間とエネルギーを割かれることになります。教員の資質向上論もこの問題を抜きにして語られているから、現実味のない話になってしまうのです。



 今や全国各地で見られるようになった「コミュニティスクール」が本当に「地域にある学校」を標榜するならば、その運営協議会のような組織が中核となって、「部活動」運営を担うような形がいいと思います。そこにも地域の人材や教員のボランティアが指導者として配置されるような「部活動」になれば、システムとしては一番すっきりとした形です。
 そのような方向をしっかりと見据えて、部活動のあり方が改善されるといいと思います。