2019年3月31日日曜日

異種混合の発想から生み出されるもの

梶谷真司さんという哲学者の書いた「考えるとはどういうことか」(2018幻冬舎新書)には、哲学対話がわかりやすく解説されています。
その52ページに次のような文章があります。

自由に考えるためには「何を言ってもいい」ということが必要なのだが、この原則からすると、学校は正反対の場所である。そもそも学校では言うべきことが決まっている。それは「正しいこと」「よいこと」「先生の意に沿うこと」である(正確に言えば、「正しいとされていること」「よいとされていること」「先生の意に沿うとされていること」である)

今さら言うことでもありませんが、日本の多くの学校は基本的に教師の言うことに従う従順さ(コンプライアンス)を子どもたちに求める場所となっています。それに反発する子は「悪い子」であり、時には「問題児」「問題生徒」とレッテルを貼られることになります。さらに今ではそれを補強するかのように「道徳」を教科にして、社会秩序からはみ出さない子どもを育てるシステムが出来上がりました。このことは、最終的に上司の言うことを素直に聞く会社人間の養成に行き着くのでしょうか。

アジア・太平洋戦争後、欧米に追いつき追い越せの時代は、この「従順さ」が必要不可欠のものだったと言えるでしょう。しかし、気づけば経済では世界のトップグループに入り、もはや自分たちの進む道は自分たちで切り開かねばならない時代になりました。
いつまでも「従順さ」や「右へ倣え」で他と同じことをやっていればいいという時代ではなくなりました。経済面でのわが国の凋落傾向も徐々に露わになりつつあります。また、教育面での遅れも深刻化しつつあります。

このような時代背景のもと、今後求められる教育の姿が様々なところで語られていますが、先週の当ブログでもこの問題に関して触れました。「学校をよくしていくアプローチ」として次のようなくだりがありました。

・教師が学び続けるための仕組みや方法です。「学び手中心ないし主体の学校や授業づくり」と言ったときに欠かせないのは、楽しく学び続ける存在としての教師だからです。これまでの研修・研究の枠から解放されることが求められています! それこそが本ブログのテーマであり、教師が継続的に学んでいれば、「教科書を教える」問題は起こり得るはずもありません! 学び続けている教師は教科書をカバーする授業で満足できませんから。

私もこの問題の突破口の一つはここにあると思います。
いくらいいことを言っても、授業が変わらなければ次の時代を担う子どもの育成を実現することはできません。しかし、「学び続ける」ことの難しさは「今まで通りでよい」という現状維持の気持ちとの戦いでもあります。学び続けるための方策はぜひ『シンプルな方法で学校は変わる』を参考にしていただきたいと思います。

明日から新年度が始まりますが、学校現場にいる先生方に一つ提案があります。
それは、マンネリを打破する授業をつくるということにも関係しますが、「複数教科」にまたがるクロスカリキュラムの授業に意識的に取り組んでみるということです。

現実の社会に起きている問題は様々な分野に関係するものばかりですから、この「異種混合」の考え方は重要です。このことは先端科学研究にも当てはまることだという指摘があります。

異なる分野の交配が新しい知を生み出す傾向は、科学の最先端でも観察されています。
2010年にワシントンで行われたアメリカ科学振興協会(AAAS=科学雑誌「Science」の発行母体)のカンファレンスで、同会会長であり、また雑誌「Science」の最高経営責任者であるアラン・レシュナーは「専門分野別の科学はもう死んだ」と主張しています。レシュナーによれば「近年の主要な科学の進歩は、複数分野が関わっているケースがほとんどだ。著者が一人だけという論文自体が最近は珍しいし、著者が複数の場合、それぞれが異なる分野の研究者であることが非常に多い」というのです。(『世界で最もイノベーティブな組織の作り方』山口周・光文社新書2013より)

この「異種混合」は組織論においても今後大切なキーワードの一つになると思いますし、多様性が求められる今後の社会においても大きな流れであると感じます。ぜひ、そのような考え方で、多様な授業を作り出していただきたいと思います。

2019年3月24日日曜日

「教科書を教える」は、誰にとってもよくない!


直近のPLC便りRW/WW便りの両方で、「教科書は神様」(カリキュラムの捉え方)についての記事を書きました。しかし、「教科書を教える」ことに満足感が得られない/疑問に思っている教師は多くいます。
単に教科書をカバーするだけの退屈で誰も受けたいとは思えない授業ではなくて、生徒たちはもちろん、教師もワクワクできる授業をしたいと思っている授業をしたいからです。それは、教師も自立する授業であり、教師の仕事をクリエイティブなものにする授業でもあります。(さらには、隠れたカリキュラム★としての「従順、服従、忖度」などから脱する授業です!)
そのような授業をつくり出し、実践するための具体的な情報が詰まっている本が、先週15日に発売が開始された『シンプルな方法で学校は変わる』なので、まだ読まれていない方はぜひ参考にしてください。

 この本は、「教科書を教える(カリキュラムの捉え方)」問題に特化しているわけではありませんが、現場の教師にとっては大きな問題なので、この点に即して紹介します。
 まず何よりも、文科省が求める「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・. ラーニング)」★★を授業で実践するための具体的な事例が多様に紹介されています。それらは、「生徒たちはもちろん、教師もワクワクできる授業であり、教師がクリエイティブになれる授業」です。しかも、「これをしなければならならない」という形ではなくて、「自分はこれならやりたい/やれる」と思えるものを選べる形で提供されています。そしてそれらの方法はすべて、「学びの原則」をおさえた授業であることが明らかにされています(102~104ページ)。
 具体的に紹介されているのは、チーム学習(=協同/協働学習)、テーマワーク(=プロジェクト学習、PBL)、ワークショップ、マルチ能力、思考法を核にした教え方、異学年の学び合い、本当の仕事を使った学習、インターンシップ(=サービス・ラーニング)、授業の展開の前に評価の方法や基準を考える「逆さまデザイン」などです。(他の章は、平均30ページなのに対して、この章のみ約倍のページ数で手厚く紹介しています。)

 以上の教科書を教える/カリキュラムに関連する内容以外に、学校をよくしていくための多様なアプローチが紹介されています。たとえば、
・「指導と評価の一体化」も文科省は2000年前後に唱え始めましたが、残念ながら唱え始めた人たちも、多くの教師も具体的にどうすればそれが実現されるのか分からない状態が続いていますが、実現するための方法を選択できる形で紹介されています。
・教師はすでに十分に忙しすぎます(もちろん、忙しさの質を改善する余地はいくらでもありますが!)。教育の当事者である子どもたち当人や、子どもたちの教育に対して一番の責任をもっている保護者に、もっと活躍してもらう方法もたくさん紹介されています。
・学校/教育にまつわる制度・仕組み・ハードは、https://youtu.be/TPYYOJFwfw8?t=4
を見ていただければ明快なように、長年変わっていません。これは、教育システムがその主役であるはずの子どもたちをいったいどう捉えているかが反映されています。規則、教室というスペース、時間割、図書室を含めて何を情報源として学び★★★、学んだことをどう発信したり表現したりするのか等についても、提案されています。図書室も含めた情報源に関しては、このインターネットの時代に、いまだに教科書のみに限定しては、21世紀を生きる子どもたちのために教育を行っているとは言えません!
そして何よりも、
・教師が学び続けるための仕組みや方法です。「学び手中心ないし主体の学校や授業づくり」と言ったときに欠かせないのは、楽しく学び続ける存在としての教師だからです。これまでの研修・研究の枠から解放されることが求められています! それこそが本ブログのテーマであり、教師が継続的に学んでいれば、「教科書を教える」問題は起こり得るはずもありません! 学び続けている教師は教科書をカバーする授業で満足できませんから。


★隠れたカリキュラムも含めて、カリキュラムについての捉え方および作り方について興味のある方は、いい学校や教室や授業のつくり方を書いている『いい学校の選び方』(中公新書)の126~155ページが参考になります。
★★この言葉は2012年に文科省が使い始めたとされています。この本の初版はその5年前に出版されています。しかも、その後に起きた「アクティブ・ラーニング」ブームでは、この本で大事にされている点の多くが理解されないまま(ということは、実践されないまま)の状態が続いています。その理由のかなりの部分は「学びの原則」を無視し続けていることによります。
★★★「しかし、教科書をカバーし、その中にあることをひたすら暗記し続けるのか、それとも、子どもたちが興味・関心の持てる「本物」や自分が選んだ学習材を使って学ぶのかでは、身につくものが確実に違ってしまうのではないでしょうか。教科書は、あくまでも結果的にカバーされるべき内容の「一つの案」が書き記されているだけです。それにこだわる必要性はどこにもありません。おさえるべきは指導要領であって、教科書ではないのですから。文部科学省や教育委員会は、はっきりそのことを教師や親に伝えるべきです。曖昧な状態が続いているので、「基礎・基本」の名の下に、退屈でおもしろくない、テストが終わったらほとんどすべてを忘れる授業を続けざるを得ない状況が続いています。それは、教師にとっても、生徒たちにとっても、社会全体にとっても不幸なことです。費やしている時間のほとんどが無に帰すのですから。それは、教科書中心の授業が続く限りは約束されています。教科書とは、所詮そのレベルのものでしかありません。」(『シンプルな方法で学校は変わる』の「図書室を学びの基点に」239~240ページより)

2019年3月17日日曜日

どちらが現実? 枠を外す方向、それとも締め付けを厳しくする方向?


最近、千代田区立麹町中学校や田谷区立桜丘中学校の(校長先生たちの)取り組みが脚光を浴びていますが、全体的には学校・授業・教師への締め付けがより一層厳しくなっています。

来月から小学校の先生になる大学生とメールでやり取りした内容を紹介します。(まずは、彼の私の質問への回答から。)

1) カリキュラムに関して
確かに、カリキュラムを自分で作る経験はほぼゼロに近いです。
大学でも実践的な学びを提供してくれるものはありませんでした。
その理由として教科書に管理されているというのが大きいです。
来年度から赴任する都内の某小学校でも
ボランティアをして見てみるとほぼ教科書会社が作った
カリキュラムをなぞっているように感じます。
社会科においてはタブレットが11台ありますがほぼ教科書をなぞって
教えていました。ベテランの先生に
「どこまで児童に学びの内容を譲れるか?」と尋ねたところ
「百歩譲っても、テーマは教師が決める。その中で児童の興味や疑問を
もとに授業をつくるのは可能だ。でもそれだとテストは悲惨になる」
と話されていました。私は「そのテストにこだわる必要はないのでは?」と
さらに尋ねると「それだと成績をつけるのが面倒だ」と言われました。
単元のテーマを教師が決めるのは仕方ないと、1時間くらいいろんな先生に
説得されて、はやくも釘を打たれている気分でした。

2)『子供の夢を奪う学校』の動画を見た感想
まず動画を見終わった後、自分は何のために学校に行っていたのかを考えました。
小学校のときは、親に怒られるから。行くのが当たり前だから。給食がおいしいから。
友だちがいるから。
中学校のときは部活が楽しいから。給食がおいしいから。親が悲しむから。
高校のときは大学に行くため。友だちや恋人がいるから。家にいても暇だから。
振り返って気づいたのは、勉強が楽しいからというのがなかったことです。
それに気づくのに半日かかりました💦
学校で何か面白さや楽しさを期待したときは行事があるときや、部活動。あとは友だちとなにか個別でプロジェクトをやった時でした。小学校のとき縄文時代について学んだとき校庭からもしかしたら土器が出るかもしれないと、1カ月間友達と掘り続けたときは
本当に思い出深いです。そして一カ月かけて土を戻した苦労は今でも鮮明に覚えています。学校はたしかに管理するためという理由で、児童の自由を制限しています。
赴任する学校で、あるクラスで男性教諭が
「自由というのはルールという枠のなかで自分のしたいことをやること。
その枠をこえた自由は単なるわがままだ」と話されていました。
すると女子児童が「その枠は自分たちで決めていいですか?」と尋ねると
「それを許したら無法地帯になるから、基本は自分たち(教師)が決める」と答えていました。児童の『色』が無くなっていくのが見えました。
動画のゴーディン氏が言うように、何も考えない/考えさせない。
先生(教科書)がやると言った内容を、言われた方法で、言われたとおりに解決して。
従順な機械をつくるように。その証拠にノートに書かれてあることはみんな同じ。
まるで囚人のようでした。

3)教科書ベースの社会科で「自立した(自分で考えて行動できる)市民」を育てることは可能でしょうか? という質問に関しては、
私は以前、教科書を執筆に携わった元教師の女性にインタビューをしたことがあります。その先生は教科書を書いて少しでも他の教師の助けになればという思いが一番であると言っていました。
また「教科書を教えるのではなく、一人ひとりの児童の『はてな?』に寄り添い、一人ひとりの色(解釈)を全体につなげてあげてほしい」とも言っていました。はじめは一種の呪いのようなものだと思っていましたが、長い教師人生を歩んで来た先駆者の祈りだったと気づきました。問題はそれに甘えている現教師です。
でもそれを変えるにはどうやら教科書を使った授業で一人前になる必要があるみたいです。ベテラン教師から「やりたいことをやるにはそれ相応の教師になってからにしなさい」とアドバイスされました。私はその「やりたい」の主語は児童であってもと尋ねたところ、話をかわされてしまいました。
やはり長年つづく学校の伝統のような学びのスタイルを変えるつもりはないようです。
「現副校長は教科書をベースに、プラスアルファで教えるなら良し」と話されていました。
教科書はやはり神様のようです。

以上は、この4月から教師になる学生の発言でした。
以上の3つは、このブログで継続して扱ってきたテーマです。
あなたは、「教科書は神様」を受け入れてしまいますか?

私からの学生さんへのフィードバックは(これまでのPLC便りの書き込みを紹介する形で)、以下のようなものでした。

1)カリキュラムについては、

2)『子供の夢を奪う学校』+「教師の夢を奪う学校」ついては、ぜひhttps://projectbetterschool.blogspot.com/2012/04/blog-post_29.html を読んでいただいて、蛾にならずに、蝶でい続けてください。

3)「教科書は神様」を受け入れてしまっては、●●さんの生徒・学生時代を拡大再生産するだけになってしまいます! 面白くない授業/何も記憶に残らない授業が確約されていますから。そんなことのために生徒・学生時代を過ごしたいとは、誰も思っていないはずです。

教師には、選択があります。(というか、意識するしないに関わらず、常に選択をしています。)
教科書通りに面白くない授業をやり続けるのか、それとも子どもたちがワクワクする授業をして結果的に教科書の内容をすべて押さえるのかの。
『読書家の時間』の年間計画の章を、もう一度読み直してみてください。
『一人ひとりをいかす評価』と『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』もおすすめです。

2019年3月10日日曜日

数学的思考はたった二つ。それは、試す「特殊化」と確かめる「一般化」


学年末のこの時期、今年度の学習内容を終えようと教師も子どもたちもやっきになって努力していることでしょう。その中の一つに、のこ勉(居残り勉強)の代表である「計算ドリル」が挙げられます。

「計算ドリルは3周やることで身につきます。しかも家庭からドリル代金をもらい購入したものです。すべて終わらなければ、次の学年にはいけませ~ん!」といった半分脅しのようにせまられることも。

「計算ドリルをやらずに貯めてしまったのは学習者の責任!」と、これまでの教師の継続的な支援を棚上げして、一気に放課後のこ勉でかたをつける。教師も子どもたちもなかなかしんどいものです。

このような繰り返しの計算練習による量をもって、計算が「速く・正しく」できるだけの指導観でとどまっていていいのでしょうか。確かに、子どもたちは計算が好きです。プリントを配布したとき、これまで騒然として教室に静寂がもどり、学習者の誰もが計算を解こうと集中します。

しかし、それは正解を求めることにのみ注力してしまっています。自分にとっての計算の意味や考えることの価値が見いだせてはいません。アルゴリズム練習だけでは、数学的に考える力は身についているとはいえないことを教師もうすうす気づいているのですが、カリキュラムを消化する方にエネルギーを奪われていないでしょうか?

一方、下のような問題をじっくりと考えて解いてみてください★。計算ドリルとは、異なり同じ計算をするにも、学習者にその主体性が発揮され、その解く文脈も意味も生まれてくると思います。



今、試してみてください。結果に、驚くはずです。

きっと、あなたは手始めに100円の商品を使って、値引きから消費税の順で試してみることでしょう。
100円×0.8=80円 80×1.15%=92円

値引きと消費税、どちらかを先に計算することで、最終的な値段はちがうの?といった予想が立ってきます。

消費税からだとどうなるんでしょうか?
100円×1.15%=115円 115円×0.8=92円

アハ(分かったときに出す声)!いっしょだ。では、120円の場合でも同じ事が起こるのでしょうか?

試してみてください!
120×0.8=96   96×1.15=110.4
120×1.15=138 138×0.8=110.4 

アハ!いっしょだ。

きっと、計算機やスマホを使ってやってみると、さらに自分の考えに自信がもてるようになるはずです。いくつかの事例を「試すこと」で、知りたいことや探ってみたい気持ちが増し、問題が自分のものとなってくる感覚が生まれてきます。さらに、「この場合でも成り立つのかな?」と、問題に共通するパターンが気になってくるのではないでしょうか。

このスーパーの問題は、数学的思考について重要な二つの要素を説明してくれます。一つ目は「特殊化」です。問題を実際に解くときや行き詰まったりしたときに「何か試してみたか?」「この特定のケースではどうなるのか?」と実際にやって試してみることです。

スーパーの問題では、商品が100円の場合、値引きから消費税の順で計算をし、92円が求められました。他のパターンはないかを試してみるために、消費税から値引きの順で計算をし、同じく92円が求められました。120円でもそうなるのかを確かめて、より自信をもちはじめました。これらの試してみることが「特殊化」とよばれます。

数学的思考の二つ目が、いくつかの特殊なケースから全体的なケースを予想する「一般化」です。特定のケースから、すべてのケースに当てはまる一般的な結果を導き出すことです。

スーパーの問題では、順番を入れ替えて計算しても、驚いたことに結果が変わりませんでした。ここでうっすらと予想がたってきます。「もしかしたらきまり(パターン)があるのでは?」と。これが一般化への始まりです。それを証明するために、なぜそうなるのか?計算する方法を検討していきます。

商品の値段をPとして、計算すると
最初に値引きを計算すると:P円×0.8×1.15
最初に消費税を計算すると:P円×1.15×0.8
となり、両方は常に等しくなります。これは、4年生で学習する計算のきまりが思い出されます。かけ算は順番が入れ替わっても答えは変わらない(○×□=□×○ )ことに、気がつくはずです★★。

スーパーの問題は数学的思考の大きな部分を占める特殊化と一般化の間を行ったり来たりするという単純な形で示される問題です。つまり特殊化のケースをいくつか集めることで一般化が証明できるということです。答えを知るだけではなく、なぜそうなっているのか?その数学的構造を知るきっかけとなっていきます。



さて、繰り返し計算ドリルだけでは味わうことのできない良問を体験できたのではないでしょうか。習熟の繰り返しの時間だけではなく、このようにじっくりと数学的思考を体験しながら考える時間をバランスよく取り入れてみませんか?ひょっとしたら、数学的思考を身につけるには、一番効果的なように思います。



『教科書では学べない数学的思考 ~「ウ〜ン!」と「アハ!」から学ぶ』
https://www.amazon.co.jp/dp/4794811179/
第1章「だれでも数学ははじめられる」を参照

★★
一般化はここではまだ終わりません。もし値引きと消費税の数値が変わったらどうでしょうか。そのとき、計算する順番が結果に影響するのでしょうか。ここまでは小学校算数だけでは終えられませんが、記号に当てはめて確かめてみます。
値引きをD、消費税をV、元の値段をPで表すと
最初に値引きを計算すると: P×(1ーD)×(1+V)
最初に消費税を計算すると: P×(1+V)×(1ーD)
記号を使うことで全てのケースを一度に処理することができるようになりました。

2019年3月3日日曜日

もっと学校を元気に

引き続き、教師の働き方について考えている。

先月は、学校現場が、勇気を持って声を上げようという提案をした☆1。今でも、その考えは変わっていない。やはり、変革のエネルギーは、学校から生まれると信じている。

一方で、学校の努力だけではどうにもならない状況も生まれてきているようだ。

その一つが、若者の教員離れだ。小学校教員採用試験の競争率は、ピークの2000年度試験では12.5倍だったが、2017年度は3.5倍にまで下がっている。文部科学省「公立学校教員採用選考試験の実施状況について」によると、2019年度の小学校教員の競争倍率が1.2倍になった県もある。もはや「狭き門」とは言えない。

舞田敏彦氏は、これらの結果を受けて、「日本は優秀な人材を教員に引き寄せるのに成功してきた。労働条件や待遇が良くないにもかかわらずだ。個々の教員の熱意ややりがい感情に寄りかかっているわけだが、こういう虫のいいやり方も綻びを見せ始めてきた。教員の専門職性を明確にし、働き方改革を断行しなければ、他国と同様、優秀な人材は他の専門職に流れてしまうだろう。」と述べている☆2。熱意と使命感を持った優秀な人材が教職を目指さなくなったとすれば、これは実に深刻な事態だ。

これからの時代を担う若者たちが、ぜひ教壇に立ちたいと思えるようになるために、私たちにできることはないだろうか。働き方改革や採用試験改革を待たずに、私たちが、学校にいてできることだ。

私たちが、元気に、生き生きと働く姿を見せることがまず第一だろう。深刻そうで、ストレスフルな表情の先生ばかりの学校に魅力は感じないはずだ。次のようなことも必要になるかもしれない。

ー教職の良さや学校の素晴らしさなどを広く伝える場面づくり(ネット上だけではなく、直接語り合う機会など)

ー教師の「元気」を支える専門的支援
(教師対象のコーチングの確立、職場でのマインドフルネス実践など)

また、保護者や地域の人たちが、もっと学校を激励し、応援したいと思うようになってもらうことも大切だろう。学校や教師の応援団やファンになってもらうのだ。学校や教師だけでできないことはたくさんある。抱え込みすぎないことだ。

ー子どもたちの教育に、親や地域が、学校と一緒に関わる、携わる、歩んでいくような取り組み(例えば、ジェイムス・バポット(2002)『ペアレント・プロジェクトー学校と家庭を結ぶ新たなアプローチ』新評論 のような取り組み)。

ーもっと多くの人が学ぶことのよろこびを実感できる社会づくり(生涯学習を通じた学ぶことの再発見など)


サッカーにグリーン・カードというのがあるのをご存知だろうか。通常の大人のサッカーでは、ルール違反に対して、イエロー・カードやレッド・カードを提示して処罰をすることは良く知られている。いわゆる減点法によって、正しい行動を引き出そうとするものだ。グリーン・カードは、主に幼年層のプレーヤーの試合で使用するもので、主審はフェア・プレー精神や競技者同士の助け合いなどの行動を褒め、奨励することを目的として、提示する。負傷選手への(思いやり)対応、規則準拠に対する自己申告、問題行動への抑止行動、チームに対する試合への取り組みなどが評価される。

私たちも、もっと学校にグリーン・カードを出してもいいのかもしれないと思う。ポジティブなマインドの循環が学校の周辺に必要な気がしてならない。


☆1 PLC便り 2019/2/17,「教師の働き方改革 - 現状を当然と思わずに学校現場が声をあげよう」https://projectbetterschool.blogspot.com/2019/02/blog-post_17.html

☆2 舞田敏彦「優秀な若者を教職に引き寄せてきた日本で、とうとう始まった「教員離れ」」https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/post-11650.php