2022年5月28日土曜日

日本の大学は生き残れるのか

 

この3月に9年間在籍した私立大学を退職しました。この9年間を振り返って、日本の大学について考えてみたいと思います。 

この20年近く、わが国の大学の国際競争力が低下しているという話はあちこちで取り上げられていることです。それについては、文科省は一切自分たちの責任ではないという態度を取り続けています。このあたりの事情を内田樹氏は次のように書いています。(『戦後民主主義に僕から一票』SB新書2021,pp.224-225) 

 上位機関から示達される「正しい政策」を、大学がその通りに実行しなかったせいで「こんなざま」になっているわけだから、喫緊の課題は「どうやって大学を上意下達的な組織に再編するか」というものになる。これは論理的必然である。

 事実、文科省は日本の大学の学術的な生産力が低下したことが明らかになってから後、ただ「どうやって大学を上意下達組織にするか」だけにしか関心がない。それ以外のことは何もしていない。 

 これは私の大学での経験に照らしてみても、ほぼその通りであると言えます。近年の教学マネジメントやIR(注)などはまさにこの上意下達組織であるかどうかを判別するために導入した「指標」であると言えます。これに異を唱える人物が学内に多くいれば、なかなかその仕事も進まないでしょう。そうなれば、言うことを聞かない組織として、助成金減額の措置などをして締め上げるわけです。そうはなりたくないので、内心忸怩たるものがあっても、従わざるを得ないということです。

 振り返ってみると、シラバスの公開もその流れの一つでした。実際はシラバスを精読して履修科目を決める学生などほぼいないわけですが、そのようなものの作成に時間をかけているのが現状です。こうした事務仕事を増やしているのも、義務教育段階の学校がおかれた様子と非常に酷似しています。学校には、経営のマネジメントサイクルを回しなさいと言っている文科省自身が自己評価をしてほしいものです。

 これについても、内田樹さんは次のように述べています。

 文科省は大学に対して精密な自己評価を求めているが、私はそれよりも先に文科省自身が自己評価を行い、それを公開すべきだと思う。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうなっているのか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に訊くより先に、文科省自身がPDCAサイクルを回してみてほしいと思う。(同書226ページ) 

 全くその通りです。教育制度をいじればいじるほど、教育のパフォーマンスが悪くなるということが、この30年近くのわが国の教育の歴史から引き出すことのできる教訓ではないでしょうか。

 「こうした不条理なことに耐性ができてしまえば学者ではない」(同書242ページ)は、これもまた内田さんの言葉ですが、仕方がないとあきらめて上意に黙々と従っていることは大学人としてはある意味「敗北」であると思います。最近「実学教育」を売りにしている大学が増えていますが、これもまた同様に、金儲け第一主義である格差社会に対して、自ら「大学としてのプライド」を捨てているようなものです。

 このままの状態が続けば、多くの大学が消えてなくなるのは間違いありません。もっとも、それが文科省の最大の狙いであるとしたら、これほど怖いことはありません。そのとき、この国はどうなっていくのか、何とも心配な未来予想図です。

  

注)        Institutional Researchの略称であり、大学運営や教育改革の効果を検証するために大学内の情報を収集、可視化し、評価指標として管理し、その分析結果を教育・研究、学生支援、大学経営に活用する活動のこと。

2022年5月22日日曜日

「見取り」~ 生徒の学びと教師の教え方を大きく左右するもの

 見取り(および、それとほぼ同じ意味で捉えられることが多い「子ども理解」)の大切さを否定する教師はいないと思います。しかし、それが通常の授業で実際に行われている割合は、どれぐらいでしょうか? 文科省や各教育委員会は、見取り(および子ども理解)の大切さについて、発信していますが、どれだけ教師が実践できる形でそれらの情報を提供できているでしょうか?★ 大学の養成課程では、扱われているでしょうか?

  過去10年以上、見取りと子ども理解に関係する情報を集めてきましたが、つい数日前に、最も的を射た文章に出会えたので紹介します。

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 形成的評価とは、教師が一貫して、持続的に、一瞬一瞬、学んでいる生徒一人ひとりを注意して観察することなのです。どの生徒が学習の目的と本質を理解しているのか? またどの生徒がそうでないのか? 理解できている証拠や理解できていない証拠はどこにあるのか? 新しい学習内容を進めようとしているにもかかわらず、前段階の知識やスキルに関する能力や自信を得るために、後戻りする必要がありそうな生徒は誰か? 十分なチャレンジが得られないまま学習しているのは誰か? 生徒の取り組みのレベルはどうか? 自信は? モチベーションは? どの生徒が学習過程の中で自分自身を成長させることができ、どの生徒が迷ったり、固まったりしているように見えるか? どの生徒が効果的に協働して取り組んでいるか? また、グループ内の他の生徒の成功に貢献することができていない生徒は誰か? 学習の推進を妨げているものがあるとき、教師は、「学習を正しい方向に進めるためには、ここで何を変える必要があるか?」と問いかけています。その際、焦点となるのは、常に一人ひとりの生徒の次の目標です

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  まだ初訳であり、いま翻訳中の本の一節なので、出典は明らかにできませんが、とてもイメージがつきやすくありませんか? どんな授業が行われているか、想像できますか?

 文科省や教育委員会の資料を見ても、形成的評価の大切さに言及しているものもありますが、その具体的な方法は提供されているでしょうか? (ちなみに、文科省は20年以上前に「指導と評価の一体化」も高らかに掲げましたが、その実現からも極めて遠いところにあるのが今の教育現場の実態です。具体的な方法がいまだに提示されませんから。おそらく「指導と評価の一体化」を言い出した人たちや「見取りと子ども理解の大切さ」を書いている人たちは、その具体的な方法をいまだに見出せていないのだと思います。)

 

★常に「正論」的なことは書かれているとは思います。なにせ、間違えられない立場にある人たちですから。しかし、それを読んで「その通り。元気をもらえました。さあ、取り組もう!」という文章は書けないのが、彼らの限界でもあります?! 常に「正論」であると同時に、「上から目線」なのが、その理由でしょうか? それは、自分たちの役割を認識できていないから。同じことは、管理職と教師、教師と生徒、学校と保護者や地域等との関係にまで(ある意味では、すべての教育界に存在する関係に、どうしようもなく、悪い見本として)波及しているので、その(悪)影響は絶大です!

 

2022年5月15日日曜日

学校版「プレイブック」の可能性を考える

プレイブックは、まだまだ日本では馴染みのない言葉です。2021年、東京オリンピックの選手村で使用するプレイブックが作成されたことで、その存在が知られるようになってきました。ビジネスの世界では少しづつ認識されるようになっているようです。

マニュアルやルールブックなど、似たようなものが存在するため、なかなかピタリと定義されたものを見つけるのは難しいのですが、以下の説明が分かりやすいのではないでしょうか。

「マニュアルでもなくルールブックでもなく、プレーブック。こうしたらうまくできるよ≒マニュアルやこうすることがルールだよ≒ルールブック という教えではなく、勝つためにはこうしなさい という、ゲームに勝つための方法を記したもの、それがプレーブックです。<中略>ルールブックが六法全書とすれば、プレーブックは判例集のようなものでしょうか。マニュアルがゲームに参加する初心者向けのモノであるとすれば、プレーブックはプロ向けの実戦テクニック集のようなものかもしれません。」★1

教育コーチングの研究者であり実践家のジム・ナイト氏は、著書の中で、学校版「プレイブック」が、教員の成長をサポートするリーダーに不可欠なツールであると主張しています。教員の実践に役に立つ強力なテクニック集としてのプレイブックです。★2

プレイブックは、いわゆる広く書店で販売される書籍ではありません。学校現場に関わる人たちが関わって、協働で創るのです。ナイト氏は、プレイブック開発チームをつくって、そこで作成することを提案しています。そこには、教育コーチはもちろん、教育行政、教員、生徒などさまざまな人が関わることが推奨されています。

学校版プレイブックは、目次、ワン・ペイジャー、チェックリストで構成されています。「目次」は文字通りプレイブックに含まれる実践テクニックのリストです。それらを、計画、評価、効果的な指導方法、コミュニティーづくりの4つのカテゴリーに分けることが多いようです。「ワン・ペイジャー」は、その名称が示すとおり、紹介されている実践テクニックを1ページに要約したものです。最後の「チェックリスト」は、効果的に実施されたかどうかをチェックするためのものです。

さらに、プレイブックは作成するだけはないという点が重要です。作成され、実践に使用されたプレイブックは、評価し、検証されるべきであるとしています。検証の方法は「実践後の振り返り」と呼ばれています。これは、米陸軍が開発した AAR(After Action Review)をもとにしたもののようで、1 何が起こるべきだったのか  2  実際には何か起こったか  3  1,2の違いのを生んだのはなぜか  4  改善のために次にすべきことは何か の4ステップで行います。

驚くのは、学校版プレイブックは「生きた文書(a living document)」なので、年に2−4回は検証の会議をもつべきであるとまで述べている点です。ものすごい頻度です。毎年、全国で数多くの実践報告集が作成されていると思いますが、それらの多くは、開かれず、本棚に積まれているだけではないでしょうか。まして、検証され、見直されることは少ないはずです。

教育実践に関わる人々の経験と叡智を集めたプレイブック。しかも、検証と更新が止むことなく続けられる。プレイブックの作成と更新そのものが、教師の学びと成長を生むプロセスになっていると言えそうです。


★1 より充実したプレイブックを準備しよう

https://revolver.co.jp/CEO/17469055

★2 出典をお知りになりたい方は、pro.workshop@gmail.comに連絡ください。

2022年5月8日日曜日

PISAテストも、全国学力テストもいらない

先月の19日に全国学力・学習状況調査、いわゆる全国学力テストが実施されました。算数ではプログラミングに関連した論理的思考を問われる問題が出されていましたが、あたかもプログラミング教育の実施状況を問われるかのような出題(その実施の質ではなく!)でもありました。

 

これまでも繰り返し訴えてきましたが、あのようなテストで測れるものはないだけではなく、教育における弊害を改めて指摘しておきます。全国学力テストを実施し続ける限り、新自由主義における公教育の商品化が加速され、数値におけるコントロールによって、様々な地域における特色ある教育が失われてしまいます。目の前の子どもの姿を無視して、テストの数値を挙げようと教育のテクニック化が始まっています。

 

このことは、日本のみにおいてではなく、OECD(経済協力開発機構)が3年ごとに世界規模で実施してきたPISA(国際学習到達度調査)でも同じことがあてはまり、私たちはPISAテストからもすでに同じ失敗をしてしまっています。どうしてこのようなことが繰り返し起こってしまうのでしょうか。PISAテストが、これまで世界規模で公教育に与える負のインパクトについて再検討し、日本における標準テストである全国学力テストについてそのあり方を考え直す必要があります。

 

それを端的に示しているのが鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育』岩波書店であり、そこには経済力を優先とする新自由主義におけるアメリカの公教育の失敗から、日本が学ぶべきことが示唆されています。

 




「知識を実生活に適用する能力」の評価してきたPISAテストは、日本において受験を前提とした詰め込み教育からの一線を画すものとなり、容易に受け入れられてきました。

 

“真の問題はPISAが助長する新自由主義の流れであり、PISAを通してOECDが世界中の公教育システムを遠隔評価し、監視、競争させ、政策誘導し、世界教育市場の拡大化を促進している現在の新自由主義的な構図そのものにあると痛烈に批判されています。

 

市場経済の成長を目的とするOECDが、世界統一学力標準を示すことによって、世界の公教育の権力の中心となりました。そこでは、人種、言語、文化などの多様性の壁を乗り越え、様々な地域の学力標準を統一して世界を一つの規準で見定めようとしてしまっています。

 

教育とは、本来極めて主観的で地域や環境に左右されやすい人間的な営みだったはずです。しかし、PISAテストはその環境の多様性をそぎ落とし、ペーパーテストによって数値を集め、客観的に数値測定し比較することで、教育をPISAテストによって操作することを可能としてきました。数字で要約できるものは非常に少ないにもかかわらず!

 

市場拡大にむけて単位を統一化し、簡略化すること、このことは資本主義の拡大には必須の条件です。テストの点数を通過としてグローバルスケールの教育市場が生まれてきました。世界代々の教育出出版社ピアソンがその権益を得て、PISA関連の教材出版、模擬テスト、データシステム提供、コンサルティングからピアソンが得る利益は果てしなく大きいものとなりました。OECDの教育局次長でありPISAディレクターのシュライヒャーがピアソン社の顧問の地位にあることがそれを物語っています。

 

数値化にともない教育の商品化に現れる問題は、教えるという行為のテクニック化でもあります。数値を挙げるために学校は進学塾化し、教えるという行為はもはや点数を上げるためのテクニックに成り下がってしまいます。「最高の授業」として、最も効率よく点数を上げる実践が取り上げられ、誰でもどこでもすぐに使えるテクニックにスキル化され、動画となり拡散されています。商品化され、販売されていきます。日本では足立区教育委員会が新人教員研修のために大手進学塾のeラーニング教材を導入したことに象徴されているのではないでしょうか。

 




これらの問題をPISAの学力テスト批判のみにとらわれてしまうのではなく、私たちの心の中にゆっくりと浸透してきている経済競争力の増強を目的とした新自由主義を見直すべきときです。全国学力テストで目の前の子どもを測ろうとすればするほど、数値による統一化、教えるスキルに細分化され、子どもと教師が影響試合ながら創造していく教育の姿が失われてしまいます。

 

狭く偏った学力観を無批判に受け入れてしまっている政府、疑う事もせずに受け入れ推進しようとしている教育に、私たち自身の問題として捉え直し、学力とは何かを考え直す機会なのです。PISAテスト、ましてや全国学力テストもいりません。現場に本当に必要なこと、ものは何ですか? ぜひ、みなさんの声をきかせてください。

 

2022年5月1日日曜日

観察(探究)する力を育てる「ネイチャー・ジャーナリング」

 公立中学校で理科を教える井久保先生が、新刊『見て・考えて・描く自然探究ノート~ネイチャー・ジャーナリング』(ジョン・ミューア・ロウズ著、築地書館)の書評を書いてくれましたので、以下に紹介します。


 本書が紹介する「ネイチャー・ジャーナリング」は、観察者が見たものを、絵と文章で記録するための方法です。そういうと、学校の理科の授業で行った生物スケッチを想像するかもしれません。理科の授業でのスケッチは、全員が同じ対象を同じ視点から観察し、絵を描くにも「輪郭は1本の線で」、「影は描かない」などのルールを教わります。そして、出来上がったスケッチを見返すことはほとんど無く、見返したとしても自分がそのとき何を見たのか、どんなことを考えたのか思い返すことは難しいでしょう。もしかすると、学校のスケッチの時間は、誰にとってもあまり創造的な学びの時間ではなかったかもしれません。

しかし、著者のジョン・ミューア・ロウズが記録したジャーナルを見れば、その想像は見事に打ち砕かれます。ノートに自由に描かれた色彩鮮やかなスケッチと、詳細に記録された絵と文章によって、彼が向き合った自然の素晴らしさと、自然を科学的に探究した過程を追体験することができます。ぜひ私もその場所へ行き、一緒に実物を観察/探究してみたい!と思わせてくれる本です。

「ネイチャー・ジャーナリング」は、観察対象を視覚的に捉えた情報だけでなく、観察者の気付きや感情、疑問、連想したことなど、思考の過程を記録します。その記録方法は様々で、科学的な仮説検証のプロセスに基づく記述もあれば、詩や散文など、文学的な表現技法を使うこともあります。観察者はジャーナルを書くことで、好奇心を持続させながら対象と向き合い、目で見る以上に様々な視点から対象を観察することができるのです。

本来、理科の授業で行うスケッチも、このような観察する力を養うものであるべきではないでしょうか。さらには、社会科(生活科)の町探検や学校探検等にも応用が利きそうです。筆者も本書において以下のように述べています。

「あらゆる科学にとって肝心なことは、飽くなき好奇心と深い観察力といった、最良の学びを導く気質なのです。もっと具体的にいえば、不思議だと思う直感から始まった学びや、理解したいという欲求、そして、観察する力のことなのです(p.7)」

本書では、そのような観察する力を高めるためのスキルやノウハウが余す所なく丁寧に解説されており、誰でも「ネイチャー・ジャーナリング」をすぐに始めることができます。

「ネイチャー・ジャーナリング」の方法を実践すれば、自然観察だけにとどまらず、あなたの身の回りにあるものすべてが観察の対象となり、「見て、考えて、描く」学びの場に変わります。本書を読んだ後は、一冊のノートと少しの画材を持って、外に出かけてみてはいかがでしょうか。

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目次等の詳しい情報は、出版社のホームページ(http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1634-1.html)で見られます。

 https://www.youtube.com/watch?v=9ka9CsCb7D4 でインタビューを受けているフィオナ(17歳)は、13歳からネイチャー・ジャーナリングをはじめたそうです。そのインタビューの中で、強調していたのは

・私のメンターは、本の著者であるジョン・ミューア・ロウズであること

・対象は自然なものだけでなく、社会現象にも応用できること

・ネイチャー・ジャーナリングを通して、質問を容易にたくさんできるようになったこと

などです。