2022年7月30日土曜日

歴史から学ぶこと

 

ここのところ近世(近世をどこからどこまでと定義するのもいろいろな意見があります)に光が当たることが増えています。

 ドイツ出身の経済学者アンドレ・グンダー・フランクの著書『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』(藤原書店2000)によると、1400年ごろから1800年ごろまでの4世紀にわたり、世界経済の中心は東アジア、特に中国であり、西洋は東洋にぶら下がる周辺部だったと主張しました。これは私たち一般人の感覚からすると、少し意外な感じがするのではないでしょうか。おそらく、ヨーロッパを中心とする西洋が大航海時代を含めて、東洋を支配してきたのではないかと思われる方が多いでしょう。

それが、近年の世界経済の状況から世界のものづくり工場はアジア、特に東アジアであり、世界経済の中心は西洋から東洋に移行しつつあるのではないかと。しかし、フランクの考え方によれば、世界の中心はもともと西洋ではなく東洋であり、世界史的に見れば東洋は勃興してきたのではなく、元に戻りつつある『再興』なのだということになります。これは実に大きな視点の転換です。これまでは西洋中心の世界観でものを見てきた人間にとっては(私もその中の一人です)、驚きの見方です。さらに言えば、西洋(進んでいる)VS東洋(遅れている)いう明治以来のものの見方がよかったのかということも言えるわけです。同様に、アジア・太平洋戦争以後の欧米礼賛論にも通じることです。 

峯陽一『2100年の世界地図』(岩波新書2019)には、2100年までには世界人口が100億人を超え、そのうちアジアとアフリカが8割以上を占めるという予測が紹介されています。アフリカが経済的にこれからどうなるかは、見通しとしてはあまり明るくないと思いますが、アジアが人口でも経済でも世界の中心になることは間違いないようです。また、ジェンダーの視点を歴史教育に取り込むことで、従来とは異なる地平が見えてくるものと思います。

このように見てくると、私たちが学校教育で培った歴史観を大きく転換させる必要があることがわかります。この4月から高校1年生の必修科目となった「歴史総合」は学習指導要領に記されているように、「歴史の学び方を修得し、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察、構想する科目」です。この授業を通して、歴史が単なる過去の出来事の羅列を暗記する科目とならずに、現在の私たちの生き方そのものを照射するような価値観を獲得できる授業となることを期待したいものです。

それには、多くの高校の社会科担当の先生方が、このブログに紹介されているような「生徒自らの問いをベースとして授業が進む」「学ぶ内容を選択できる」「決して試験のためにある授業ではない」などを念頭において授業をすることが重要です。

2022年7月24日日曜日

あなたの周りに、不安を抱えた生徒や同僚はいませんか?

 訳者の小岩井僚さん(東京都の私立中高一貫校で国語を教えている)の「訳者まえがき」から、クリスティーン・ラヴィシー-ワインスタイン著『不安な心に寄り添う――教師も生徒も安心できる学校づくり』(新評論)の内容を紹介します。


 

 みなさんは、どのような生徒といつも一緒にいるのでしょうか。

・朝になると急にお腹が痛くなってしまう生徒。

・課題がなかなか提出できない生徒。

・休み時間は活発なのに、授業の直前になると急に「調子が悪い」と言って授業を抜けてしまう生徒。

・課題が出ると、「完璧にしなければ……」と思って、必要以上に質問をしてくる生徒。

・テストの点数が想像よりも悪くて次の日に欠席してしまう生徒。

 

多様な生徒と日々向きあい、なんとか彼らが学校でうまく過ごすことができるようにと頭を悩ませているのではないでしょうか。

 本書の原書を読みはじめた数日後に行われた会議において、あるクラス担任から生徒の情報共有が行われました。それは以下のようなものです。

「保護者からの連絡では、夜には明日は学校に行くと言うけれど、朝になると起きてくることができないということです。学校に行かなければならないということは生徒も分かっているようなのですが……

この教師も、その場にいた同僚たちも、そして保護者もどのように対応していいのか分からず、会議は報告という形で終わりました。私たちは何をすることができるのだろうか、という疑問が残ったまま、前に進めずにいたことがずっと私の頭に残ったままとなりました。

 そんな状況において、期限までにレポートなどの課題が提出できない生徒に対して、「提出しないと成績がつかないよ」と、半ば脅迫ともいえるような形で提出を促すような場面にもよく出くわしていました。教師の間では、「なんで出さないんだろうか? とりあえず出せばいいだけなのに」という会話がなされています。結果的には、この疑問に対しても教師はうまく答えを出すことができず、対処方法もはっきりと分からずにその場をやり過ごしていることが多かったと思います。

 そんな折に読んだ本書が、このような疑問に対する答えを考えるためのヒントを与えてくれたのです。

 原著者であるラヴィシー-ワインスタイン氏は、「教師として、不安という病が学校に存在するという事実を認識するだけでなく、何か行動を起こさなければならないのです。そして、不安に向きあうための方法を手に入れなければなりません」と語り、以下に述べる問いに対して答えを出すとともに、不安を抱えている生徒をサポートするために何ができるのかを教師に伝えることが本書を執筆した目的なのだと言っています。

・教師は生徒が不安を抱えている場面に何度も直面しているはずですが、的確にそれを見極めているでしょうか?

・生徒が不安を感じている場面に対して、どのように対処すればいいのかについて教師は理解しているでしょうか?

・不安はどのような形で現れるのでしょうか?

・どのようにすれば、不安を抱えている生徒の状態を、悪化させることなくサポートできるのでしょうか?

・どのようにすれば不安を抱える生徒のために声を上げ、彼らが不安を克服し、充実した学校生活が送れるようにサポートできるのでしょうか?

 

 これまで、学校における成功は、よい成績を取らせることであったり、よい進学先(偏差値の高い学校)に生徒を送りだすことであったりしてきました。これらは、現在においても、よい学校かどうかを測る指標になっています。そのためでしょう、多くの学校において、教師はよい成績を取らせることや教えるべき内容をカバーすることに意識が向いています。

しかしながら、現在の学校においては、教師が考えるべきことは生徒の学習面だけではなくなっています。アメリカのある調査では、2019年の調査において、「70パーセントの生徒がメンタルヘルスを重要な問題であると回答している」という結果を出しています。これは、イジメなどの回答よりも高い割合なのです。

本書において原著者は、「生徒が重要な課題であると考えていることに対して何ができるのかと考えられなければ、教師として失格なのだ」と述べています。さらに、「生徒は、不安が何なのかをまだ理解できないときに、自分の声となる人を必要としており、それこそが学校の教職員が担わなければならない役割なのだ」としています。そのためには、必ずしも不安を抱えてきた経験をもつ必要はなく、不安を抱える生徒が何を必要としているのかを知ろうとする姿勢が必要だ、と本書を通して訴えています。

 朝になかなか起きられない生徒や、授業の課題提出ができない生徒に対して、単に時間の管理スキルが身についていないだけという考え方があるかもしれませんが、ひょっとしたら不安を抱えていたのかもしれません。

これまで、何らかの問題を抱えた生徒と出会うと、多くの場合、その生徒と関係する教師が集まって、教師自らの経験からその理由を推測して対処しようとしてきました。しかし、現在の学校が向きあわなければならないことは、学校でこれまで経験してきた課題から大きく変化しているのです。つまり、これまでの教師の経験だけでは見えないものが増えてきているということです。そのなかでもっとも重要なものが、生徒のメンタルヘルスであり、生徒の抱える不安なのです。

 本書では、原著者が経験してきた、実際の「不安の物語」が描かれています。そして、そのような場面に出合ったときにヒントとなる、「不安」との向きあい方が述べられています。原著者の願いは、より多くの人に「生徒の不安が小さくなるように、不安との闘いに参加」してもらうことです。多くの生徒がより良い学びを経験し、人として成長できるようにサポートしていきたいものです。

 

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2022年7月17日日曜日

学校運営のあり方を根本的に見直し、私たちに具体的な行動を起こさせてくれる本

訳者の一人の杉本智昭さん(兵庫県の私立中高一貫校で英語と生徒指導を担当している)が、自分にとっての『一人ひとりを大切にする学校』(デニス・リトキー著)とは何かを書いてくれましたので紹介します。


●理想と現実のジレンマを誠実に描いている

『一人ひとりを大切にする学校』は今から約20年前の2004年に出版されたものですが、この本をブッククラブで最初に読んだとき、今の日本の教育に対して書かれているのではないかと思うほど、その内容が新鮮であることに驚かされました。そして翻訳を終えた今、私はこの本がますます好きになっています。その理由は、この本に書かれてある内容はもちろん、私たちが日々感じている!?理想と現実のジレンマを著者であるデニス・リトキーもかかえていることが伝わってくるからであり、「一人ひとりを大切にする学校」をつくろうともがきながら、少しでも「一人ひとりを大切にする教育」をしようとするリトキーの真摯な姿勢や彼の誠実さをこの本を通じて感じることができるからです。例えば、リトキーは成績が主観的で意味がないものであるため成績をなくそうとしましたが、そのときのことをこのように書いています。

私は校長としての在職期間中ずっと、成績をなくそうとしてきました。残念ながら、アメリカでは、成績を廃止しようとすることは、ヤードポンド法を廃止して、メートル法を採用させようとするようなもので、人々は変化を望んでいないのです。保護者に子どもの進歩や状況について、詳細にわたって丁寧に書かれた、物語のようなナラティブを渡しても、「でも、他の生徒と比べてどうなの」とか、「でも、Aをもらえるの」と言い返されてしまいます。私たちはそう考えるよう仕向けられてきたのです。セヤー高校では、成績を廃止しよう努力しましたが、あまりの抵抗に断念し、妥協案を採用しました。成績はそのままに、それにナラティブを加えたのです。

 私が勤務する学校では、教員の多忙化を理由に「働き方改革」と称して、毎学期の成績通知表の所見欄を廃止しました。現在の成績通知表には定期考査の点数と平常点を加味した成績(数字)、評定が書かれてあるだけのものになり、教師からのコメントやメッセージが一切ありません・・・。 これでどのようにして生徒は自分の学びを振り返ることができるのでしょうか? アメリカでは成績をABCDFのアルファベットで成績をつけますが(日本の5段階評定に当たります)、リトキーはこのことについて次のように書いています。

●いましているテストと成績は、怠慢であり、無礼である

これは怠慢であり、無礼であり、私はまったく受け入れられません。教師として、私たちは生徒に何ページも言葉で表現するように求めているにもかかわらず、彼らがどのように進歩したか、そして改善するために何をしなければならないかを伝えるために、A、B、C、D、Fというたった一文字を書くための時間しか費やしていないのです。情けないことです。

また、リトキーはテストについても次のように述べています。

私がとても恐ろしくも、腹立たしく感じていることは、標準学力テストや「成果を出していない」学校への影響について語られる中で、学校が健全な人間を育てているかどうかを誰も測定していないことです。自分の子どもに何を望むのかを人に聞けば、幸せであること、学ぶことが好きなこと、敬意をもっていること、親切なこと、本物のスキルを身につけること、世の中に貢献すること、と答えるでしょう。では、学校が何を教え、どのようにテストを行っているのかを見てください。テストはまったく的外れなことをしています。

 私自身も生徒に、そして私自身の子どもにもリトキーとまったく同じことを望んでいます。そして私だけではなく、多くの人もそのように望んでいるのではないでしょうか? しかし、そのようなことを目的としている学校があまりにも少なすぎます(日本には皆無!? もしあれば、bplearning.japan@gmail.com 宛に教えてください)。今、私たちがテストをしていることで生徒は「健全な人間」に育っているのでしょうか? リトキーはこのテストの弊害について、このように述べています。

本当にひどいのは、ほとんどの学校で、生徒は成績がすべてだと思っていることです。彼らにとって、成績こそが学校の目的なのです。一生懸命取り組んでいる生徒は、「学び」のためというより、「成績」のためにしているのです。努力していない生徒は、あきらめてしまっています。なぜならば、成績が自分の努力に見合っていないからです。そして、Fという成績をもらっても、改善するために必要なことは一切わかりません。

日本の「個別最適な学び」と「協働的な学び」は、もっと大きな視点で見る必要あり!

『一人ひとりを大切にする学校』というタイトルから、今は流行りの!?学校における「個別最適な学び」の方法が書いてあるように思われるかもしれません。しかし、The Big Pictureという原題の通り、本書に書かれてあるのは教師が行う対処的な教育の個別化の方法ではなく、もっと「大きな枠組み」から「一人ひとりの生徒を大切にする学校」のアプローチです。このことは副題のEducation is everyone’s businessにもよく表れていて、そのような理由から、当初私はこの本の副題を「大きな枠組みをもった小さな学校」や「大きく学ぶ小さな学校のつくり方」としていました。(ちなみに、『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実』★などを読むと感じられるかもしれませんが、日本では「個別最適な学び」が教師目線で語られることが多いのに対して、本書は一貫して生徒主体で書かれています。)

●「学校」という枠だと、授業時間やテストの点数、教科書などを考え始めてしまい、生徒のことを考えなくなる

本書はリトキーがthe Metropolitan Regional Career and Technical Center MET)で行った「一人ひとりを大切にする」教育実践が書かれた本ですが、ポイントはMETが「高校」や「学校」という枠組みが当てはめられていない点です。このことは2022619日の「PLC便り」で吉田さんも指摘していましたが、実際、本書の中でもリトキーは次のように書いています。

「高校」という枠に当てはめて考えるのが好きではありません。「高校」という枠にあてはめてしまうと、授業時間やテストの点数、時間割、成績表、教科書、特別支援教育、英才教育などを考え始めてしまい、生徒のことをすぐに考えなくなるからです。

その上で、リトキーは「私たちが考えるべきなのは生徒のこと」であることを強調しています。私たち教師にとって当たり前であるべきことが、私たちはできているのでしょうか? そして、リトキーは次のように私たちに学校のあり方について疑問を投げかけています。

もし、皆さんが学校のことではなく、生徒のことを真剣に考えるなら、どんな枠組みを用意するでしょうか?  

本書を通じて、皆さんと一緒にこのことを考えることができれば幸いです。そして、リトキーの教育に対する真摯な姿勢に触れ、よりよい学校づくりをしよう!と改めて思っていただければうれしいです!

★『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実』は、

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/senseiouen/mext_01317.htmlで読めます。どなたか、これとデニス・リトキー著『一人ひとりを大切にする学校』を比較してみませんか? 何は同じ/似ていて、何は違うのかを。

本ブログ読者への割引情報

1冊(書店およびネット価格)2640円のところ、

 http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1639-6.html

 発売は8/17の予定なので、発送はお盆前後になります。

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2022年7月12日火曜日

新刊案内『あなたの授業力はどのくらい?』

  訳者の一人・雲財寛さん(東海大学児童教育学部)の「訳者まえがき」から、ジェフ・マーシャル著『あなたの授業力はどのくらい? デキる教師の七つの指標』(教育開発研究所)の内容を紹介します。

 私は育成ゲームが好きなのですが、育成ゲームにおいて重要なのは「能力値」の振り分け方です。ゲームによって異なりますが、たとえば、ある野球選手を育成するゲームでは、各選手に「(打球の)弾道」、「ミート(ポイントの広さ)」、「パワー」、「走力」、「肩力」、「守備力」、「捕球」など、野球のプレーに関わる観点ごとの「能力値」が設けられていて、これらの値によって「能力」が決まります。選手育成においては、たとえば「筋トレをすると『パワー』が上がる」というように、それぞれの能力に関連した練習をすることで、特定の観点の「能力値」を上げることができるのです。ただ、期間の制限(練習回数の制限)があるため、すべての能力値を上げるのは極めて難しいことになります。つまり、これらの能力値をどのように振り分けていくのかがプレイヤーに委ねられているのです。もし打撃に特化した選手を育成したいのなら、弾道、ミート、パワーの能力値を重点的に上げることになりますし、守備に特化した選手を育成したいのなら、肩力、守備力、捕球の能力値を重点的に上げることになります。このように、育成ゲームでは自分が設定した目標(育てたい選手像)に沿って能力値の振り分け方を考えていくわけです。

 では、野球ではなく「教師の専門性」で考えた場合はどうなるでしょうか。教師の専門性の内実は「パワー」や「走力」などにあたるものが何なのか、自覚しづらく、また簡単に表すことのできない複雑な概念であり、さらにゲームの「能力値」のように簡単に数値化できるものではありません。

 本書は、このような複雑な概念である教師の専門性を「七つの指標」という観点から整理し、それぞれの指標について解説している本です。七つの指標は本書に何度も登場しますが、以下に示してみます。

指標①――学んでいることとのつながりが明確で、生徒が夢中で取り組める学習の流れをつくる

指標②――生徒中心の学習方法と、リソースやテクノロジーを一体化させる

指標③――失敗が受け入れられ、尊重されていると感じる、よく組織された学習環境をつくる

指標④――やりがいのある、深い学びをもたらす学習経験をつくる

指標⑤――対話的で、よく考えることを大切にした、意味のある学びをつくる

指標⑥――創造的で問題解決を志向する文化をつくる

指標⑦――指導と学習をガイドするモニタリング<進行中の行為についての理解状況を診断すること>、評価、フィードバックを行う

 本書はこれらの指標ごとに章が構成されています。本書の特徴は次の三点です。

 第一に、「七つの指標」という具体的な観点を示したことです。これら七つの観点は独立した観点ではなく相互に関連しあっており、教師の専門性において何が重要なのかを端的に整理しています。これらの指標は著者の実証研究に基づく知見であることから、一定の妥当性が保証されているといえます。

 第二に、七つの指標に基づき、教師の自己点検のためのニーズ・アセスメントを開発したことです。このニーズ・アセスメントを使えば、自身の強みと弱みを把握することができます。何が得意なのか、何が課題なのか、自身の専門性を振り返るための枠組みを提供してくれます。つまり、このニーズ・アセスメントは育成ゲームにおける能力値にあたるものを把握する手段といえるでしょう。(本を購入された方は、オンライン・サイトにアクセスでき、このアセスメントおよび次の「レベル表」もダウンロードすることができます。)

 第三に、それぞれの指標について、表の形式で「レベル」を示してあることです。レベルは三段階(改善する必要がある、うまくやれている、模範的である)が設定されています。このレベル表によって、「自分がそれぞれの観点において今どの段階にいるのか」が把握でき、「次の段階に進むためにはどうしたらいいのか」を理解することができます。

◆割引情報

・本体価格2400円でご提供します(消費税分をサービスします/送料も1冊から無料です)

・教育開発研究所への直接ご注文に限ります(書店は不可)。

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※今年9月いっぱいまでのご注文まで。


2022年7月10日日曜日

デバイスを捨てよ! 自然へ出よう!

スーパーマーケット見学をしている3年生の様子がTVで流れていました。店長さんがスーパーの仕組みを説明し始めると、子どもたち全員がそれぞれの端末を一気に構えピロリロリン!と録画を始め、誰もノートにメモをとっている子がいません。

 

GIGAスクール構想ってこういうことだったっけ? 何か大きな違和感を感じ、その後もずっと、子ども時代にしかできないこと、大切にしたい学びとは一体何なのかを考えてしまいました。

 

さて、夏休みが近づいてきます。小学校では夏の課題に、アサガオやヒマワリ、ホウセンカ、マリーゴールドなどの観察が課題に出されます。このままでは夏の課題は、一人一台の端末で写真を数枚撮って終わり、なんて起こりかねません。

 

これで本当に学びとなっているのでしょうか。記憶に残っているのでしょうか。記憶するには、学習者が意図的に焦点を当てたり、思い出したりしなければ、決して覚えられません。記録だけでは記憶されないのです。

 

ジョン・ミューア・ロウズ(著)・杉本裕代・吉田新一郎(訳)『見て・考えて・描く 自然探求ノート ネイチャー・ジャーナリング』(築地書館)は、このデバイス病にかかってしまっている子どもたちに、改めて観察することの意味を教えてくれる本となってくれるはずです。

 

“興味を惹かれる行動を目撃したら、立ち止まって、そこで起こっていること(それぞれの段階の詳細を含めて)をすぐに言葉にしてみましょう。そうすると、見たものをジャーナルとして仕上げるまで、しっかり記憶に留めておけます。(本書より)

 

 

 

博物学の基礎は、正確なメモを取りながら、丁寧かつ具体的に観察することです。注目すべきものに意識を向けずにいると、ただぼんやりと眺めながら歩き回ってしまいます。ここでは、この本で紹介されている「観察を深める、きっかけづくりの効果的な3フレーズ」を紹介します。

 

①「あれ? 気付いたことは……


観察する対象見つけます。それは小さいものにしましょう。少し時間をかけてゆっくりと落ち着くことです。ゆっくり呼吸をしてリラックスすると、「いま、ここ」へ意識を向けられます。すると、自分の中心を取り戻し、ただ観察することへ、もっと多くの喜びを感じられるはずです。

 

ここで、気付いたこと全てを口に出してみます。観察していることを、口にだして言うのです。声に出すことで、記憶のひだに織り込まれ、考えをより明確にすることできるのです。何も省略せずに、見たモノはそのまま言葉にします。構造、動き、色、相互の関係など、近く、遠くへと視点も変えてみます。詰まったら「あれ?」と声に出して言ってみることで、アイディアが飛び出すまで観察の対象へと注意をはらってみましょう。


「おや? 不思議だな……


しっかりと見た後は、それについての疑問を考え出し、声に出して言ってみます。疑問は、以前におこなった観察に何か関連しているかもしれませんし、観察対象のどんな側面についてでもかまいません。その疑問に答えようとする必要もありません。ただただ疑問を見つけるのです。


「そういえば、連想するのは……」


観察対象から思い起こさせるものを、全て声に出して言います。発想を押さえつけずに自由にしましょう。対象が記憶を刺激し、過去の経験や忘れていた知識の断片を思い出してあり、姿形から何かを思い出すかも知れません。個々の部分をみてから、個々を組み立てひとつのまとまりとして捉えてみます。この連想によってより疑問を育ててくれることとなるでしょう。

 

慣れたらこの順番にこだわる必要はありませんし、この3つの質問をグループでわいわいがやがや行うのも楽しいものです。この声に出す方法はとてもユニークで、かつ強力なツールです。この作業が観察したことや考えたことを、すでに習得していることやこの正解の枠組みや知識に関連付けられ、自分の経験をより鮮明な記憶として刻むことができるのです。ここにiPadなどの端末で写真を記録することとの大きな意味が異なってきます。

 

 


 

この本は一見すると、ネイチャー・ジャーナルの初心者向けの丁寧な書き方ガイドとも読むことができます。しかし、この本のよさは、五感を使って体くぐらせることで、疑問や好奇心といった自然へのセンスオブワンダーの芽を育てようと、子どもが本来もっている力を解放してくれるところです。

 

さて、夏休み、一度、デバイスを脇に置いて、ノートと鉛筆をもって自然に繰り出してみませんか。そこには驚くほど豊かな世界が待っているはずです。

2022年7月3日日曜日

同僚性:学校は教員が共に高め合える場になっているか

同僚性が学校の成功にとって重要な要因であるという意見はよく聞かれます。近年、学校は一つのチームとなって、組織で対応すべしという考え方は強くなっています。今の学校は、同僚性があり、教員同士が高め合える場になっているでしょうか。


私の周辺の校長や教員に話を聞く限りでは、あまりうまくいっているようには思えません。むしろ、同調圧力が強くなり、ものを言いにくい雰囲気がでてきていたり、権威主義的なリーダーシップが横行していたりする学校もまだまだあるようです。

教員の同僚性については、「教科指導や生徒指導など、本来の職務についても多忙感を抱く教員が多く、その結果、教員間で支え合い、協働する力(同僚性)が希薄になっているという指摘もある。」★1 と言われています。確かに、多忙化の中で、同僚性が生まれにくくなっているというのは、要因の一つかもしれませんが、もっと別の本質的な要因があるような気がします。

トーマス・ホア氏は学校リーダーについての著書の中で、一章まるごと割いて、同僚性について議論をしています。★2 その中で、ホア氏は、同僚性の5つの構成要素をあげています。

1 教師が生徒について共に話をしている。
2 教師がカリキュラムについて共に話をしている。
3  教師がお互いの授業を見合っている。
4  教師がお互いに教え合っている。
5  教師と管理職が共に学んでいる。

1から4は、程度の差はあれども、それなりに実現されているのだろうと思います。少なくとも、これらの要素の重要性は認識されていて、共有もされていると思います。

問題は五つ目ではないでしょうか。ここには、下位項目として次のようなものが挙げられています:

・教育に対する考え方(哲学)や学校のビジョンについて話をしている。
・ビジョンや目標について振り返っている。
・問題点や課題について、民主的に対応している。
・教員個々の専門性や役割による見方や考え方の違いについて議論している。
・会議や委員会などで、ともに過去を振り返り、将来のビジョンについて考えている。

これらの項目については、なんとも心もとない。あまり意識されてこなかったのではないかと思います。

最初の四つの項目と最後の一つとでは、どこに違いがあるのでしょうか。

学校づくりの主体者として、教員が、リスペクトされ、権限が移譲され、信頼されているのか。そこに違いがあるような気がするのですが、みなさんはどのように感じられたでしょうか。もちろん、これは生徒たちが主体者として尊重されているかということとも関係していると思います。

学校づくりにおいて、教員として、果たすべきこと、なすべきこと、それらについてはある程度の合意ができていると思います。

残されているのは、それらのことを主体者としてなそうとしているかどうかではないか。今一度、学校という職場の在り方をじっくりと考え直してみたいものです。



★1 文部科学省教員養成部会 教員免許制度ワーキンググループ配布資料「1 教員をめぐる現状」より

★2  Chapter 2  Promoting Collegiality(第2章 同僚性を高める), Thomas Hoer (2005) The Art of School Leadership, ASCD.