2012年3月25日日曜日

子どもの声

 最近「子どもの声を社会へ」(桜井智恵子・岩波新書2012)を読みました。


 この本の最初の部分に、「国連・子どもの権利委員会」からの勧告が掲載されています。


 (この文章は外務省のホームページにも掲載されているそうです)



 その部分を貼り付けます。



・高度に競争的な学校環境が、就学年齢にある児童の間で、いじめ、精神障害、不登校、中途退学、自殺を助長している可能性があることを懸念する。


・委員会は、締約国が、質の高い教育と児童を中心に考えた能力の育成を組み合わせること、及び極端に競争的な環境による悪影響を回避することを目的とし、学校及び教育制度を見直すことを勧告する。


・委員会はまた、締約国が同級生の間でのいじめと闘う努力を強化し、及びそのような措置の策定に児童の視点を反映させるよう勧告する。



    貼り付け終わり。


 これは、この本の本文にも書いてあるのですが、このような勧告があったことを教育現場の教員は全く知りません。行政の縦割りの弊害と言ってしまえばそれまでですが、こんな重要なことが教員に知らされていないことは驚きです。


  


「質の高い教育と児童を中心に考えた能力の育成を組み合わせること」「競争的な環境による悪影響を回避すること」を目的として、「学校及び教育制度を見直す」ことを勧告しています。これは、PLC(学びの共同体)のねらいとする方向と軌を一にしていると思います。


  


 ところが、どうでしょうか。


 今、再び「競争」によって学校を改革しようとする潮流が大きな勢いになりつつあります。現状に安穏として、不甲斐ない教員をやる気にさせるには、「競争」と「懲罰」しかないという考え方です。



 これでは、今解決が求められている様々な問題が余計に悪い方向に行くばかりです。


 この本のなかで、子どもたちの声がいくつか紹介されているのですが、その一つに次のようなものがありました。



  「うまく説明できないけれど、学校に行くのが辛い」



 この発言は不登校になったある小学生の男の子の声ですが、この子はいじめや教員との関係がうまくいかなくなって不登校になったのではなくて、自分でもうまく説明できないけれど学校に行きたくないという状態でした。最初のうちは、両親とも本人を学校に行かせようと焦っていましたが、相談員が両親と面談を重ね、子どもの気持ちを説明しながら、これからを探る方法もあることを伝え、それによって保護者の不安が徐々に和らいでいき、自宅で本人を力づける態勢を取ってもらえるようになったということです。



 学校が楽しいものであるなら、何とか我慢して学校に行こうとする気力も湧いてくるでしょう。しかし、学校へ行くことが楽しくなければ、子どもたちは学校から遠ざかっていくものだと思います。



 教育学者の佐藤学さんはかつて、「学びからの逃走」と表現しましたが、学校が社会からの様々な圧力によって「生きづらい環境」になってしまったのならば、それこそ最大の悲劇です。



 教育制度についてここで論じても仕方ありませんが、私たちにできることはそれぞれの現場で、「子どもたちが中心」の「質の高い教育」を創り出すことです。



 それには、PLC(学びの共同体)を創り出すためのノウハウをもっと多くの人が実践し、そのよさを理解して、さらに多くの人たちと共有する必要があります。このような「草の根の改革」が最も待ち望まれているものだと思います。


 

2012年3月18日日曜日

PLCの評価基準表 ・その3

今回は、5つあったPLCの評価規準の項目の1番目の「子どもたちの学びに焦点を当てて授業がされている度合いはどれくらいか?」の評価基準表です。(1回目2回目も大切なもの満載でしたが、今回がすべての基本と言えるかもしれません。)先週に引き続いて、表の形にしていますが、A(初歩的な段階)とD(目指すべき段階)だけで、間のBとCは省いています。 (表をクリックすると、拡大で見られます。)



 A段階で授業が行われる限りは、残念ながら子どもたちの学びの質と量は極めて低いレベルが継続されます。それに対して、D段階まで行くと子どもたちは解放されたように(指導要領や教科書の枠をはるかに越えて!)学びの質と量を獲得し始めます。
 それを妨げるのも、実現するのも、教師次第です。
 そして、その教師の転換を図れるのは、管理職や教育委員会の指導主事のサポート次第です。
 逆に言えば、教育に関わるすべての人は、選択をもっているし、実際選択をしているということです。その事実を意識しない限りは、今していること(=A ?)が続くことが約束されています。

 最後の項目の「学びの原則」は、スペースの都合で表には含められませんでした。私がこれに出会ったのは、90年代の終わりごろです。★認知心理学や人の学びをつかさどっている脳がどう機能しているのかという研究が明らかにしてくれつつあることをまとめたものが「学びの原則」です。(従って、私が言い出したことではありません。認知心理学者や脳の研究者が言っていることです。)

    <以下、メルマガの続き>

 すでに、私が書いた本や訳した本の中では何回も紹介しているので★★、ご覧になった方もいるかと思いますが、もう一度確認してみてください。以下の9つの項目で、あなたが納得できる項目(○)、賛同しかねる項目(×)、どちらとも言いかねる項目(?)をつけながら。

学びの原則

(1) 人は皆、常に学んでいる。ただし、各自の学び方やスピード、もっている能力が違う(動機も違う)だけ →マルチ能力も含めた、多様な教え方が求められる。

(2) 安心して学べること(人は頭だけでなく、心やからだを使って学ぶ)。さらにいえば、楽しいほうがよく学べる →人間関係を含めた、サポーティブな環境や雰囲気づくりの大切さ。

(3) 積極的に参加できること →聞かせるだけでなく、生徒たちにこそ主体的に動いたり、考えてもらったり、体験することが大切(知識は伝えるものではなく、生徒たち自らがつくりだすもの。技能・態度も同じ。そのためには教師の刺激的な投げかけが効果的)。

(4) 意味のある内容/中身を扱うこと(身近に感じられること) →人は白紙の状態から学ぶのではなく、それまでの体験や知識を踏まえて学ぶ。

(5) 選択できること →与えられたものをこなすよりも、自分が選んだものの方がよく学べる(生徒たちは、何を、どう学び、どう評価するかの選択まで参加できるし、実際にそうした時の方がよく学べる。換言すれば、生徒たちを信じて、学びの責任を与える。その際、高い期待を生徒たちに示し、容易にできる選択だけでなく、努力すればできるレベルのものも提示する)。

(6) 十分な時間があること →たくさんのことを短時間でカバーするだけではよく学べない。身につくまで練習できることが大切。

(7) 協力し合えること →競争させたり、バラバラで学ばせるより、相互にやり取りした方がよく学べる(今日、何人かでできたことは、明日、一人でできる)。ただし、一人、二人、チーム、全体での学びのバランスは大切。

(8) 振り返りとフィードバックがあること →自分自身で頻繁に振り返ることと教師や他の生徒からのフィードバックがあるとよく学べる。

(9) 互いに讃え合うこと、教える機会が提供されること →よく学べた時は、祝う、誉める。他の人に教えるチャンスが与えられると(例えば、マルチ能力のように多様な表現の仕方があると)、よりよく学べるし、さらに意欲がわく。


 これら9項目は、上の表(=「子どもたちの学びに焦点を当てて授業がされている度合いはどれくらいか?」の評価基準表)の項目とオーバーラップする部分がほとんどだということに気づかれましたか?



★ 特にインパクトを受けたのは、Human Brain & Human Learning, by Leslie Hartでした。

★★ これほど大切なものはないと思っているので、繰り返し紹介しています。単に知識として理解するのではなく、実践しないと意味のないリストですが。

2012年3月11日日曜日

PLCの評価基準表・その2

すでに、2回目のPLCの評価基準表として「子どもたちの学びに焦点を当てて授業がされている度合いはどれくらいか?」を用意していたのですが、“いま人事評価の真っ最中”というメールをある校長先生からもらい、急きょ5番目の項目の「結果志向の度合いはどれくらいか?」の評価基準表づくりに変更しました。

今はまさに「評価/成績の季節」です。
先生たちは生徒たちの、管理職は先生たちの。
相当の時間を費やしますが、果たしてその努力のどれだけが、生徒や先生たちの学びにつながっているのでしょうか?
答えは、学校のPLC度と同じ、だと思います。(両者は、切っても切れない関係にあるからです。)
もちろん、学びにつながる率が低いのは先生たちや管理職のせいではありません。
費やす努力や時間が足りないのではなく、意味のないことをやらせる制度がおかしいのですから。

今の時期に評価をされても、その結果をもらう側は、どうしようもありません。修正・改善する時間も方法も提供されないのですから。従って、結果を活かせる人は1~2%もいたら、「めっけもん」です。「なんとか次はがんばるぞ~」と思う人も1~2割はいるかもしれませんが、春休みの間に忘れてしまいます。(タイミングの問題も大きいです!)
私自身も、学期末や学年末の評価を活かせたためしがありません。それは、「もらうもの」以外の何物でもありませんでした。その結果から何かを始めるものではありませんでした。
要するには、結果的に記録に残るもの(=単なる副産物にすぎないもの)が、いつのまにか目的化して、本来の目的である「生徒や教師の学びをよくするため」の方は完全にどこかに吹き飛んでしまっています。生徒たちの評価に関しては、その状態が、もう何十年も続いています。ということは、「評価とは何ぞや」がそもそも理解されていないし、実践もされていないことを意味してしまいます。

日本でも、「アカウンタビリティ」という言葉が「説明責任」に訳されて結構普及してからもう10年ぐらいにはなるでしょうか? アカウンタビリティには確かに説明責任の部分もありますが、より大きなウェイトは「結果責任」のほうにあります。日本では、そのより重要な部分が丸ごと無視され続けています。
学期末や年度末に先生たちや管理職が成績をつけることを「結果責任」と捉えると、今しているような評価はできなくなってしまいます。
教師は生徒たちの学力/能力★を伸ばす役割を、管理職は教職員の能力・資質★を伸ばすことで、生徒たちの学力/能力を伸ばす役割を担っています。今のままでは、ほとんどの教師と管理職は責任を放棄しているとしか言いようがありません。生徒たちも教師たちも、能力や資質をしっかり伸ばせるような仕組みになっていないのですから。

それでは、「結果志向の度合いはどれくらいか?」の評価基準表はどんなものになるか考えてみましょう。今回は、表の形で提示しますが、A(初歩的な段階)とD(目指すべき段階)だけで、間のBとCは省きます。(表をクリックすると、拡大して見られます。)



結果志向のイメージ、つかめたでしょうか?
詳しく知りたい方は、『テストだけでは測れない! ~ 人を伸ばす「評価」とは』(NHK生活人新書)と『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』(PHP新書、特に第4章の「評価が変わると授業が変わる、学校が変わる!」)を参照ください。
疑問や質問がありましたら、ぜひ聞いてください。

   <以下、メルマガの続き>

★身につけないといけない学力や能力・資質

学校の教育目標は、「考える子、思いやる子、鍛える子」に象徴されます。
しかし、残念ながらそれを忠実に実践している学校は、ほとんどないのが現状です。

「考える子」だけをとっても、思考の6段階がすでに50年以上前に提示されているのですが(下の表を参照)、日本の授業で大切にされ続けているのは、いいところ最初の2段階です。最近は、「習得」だけでなく、「活用」「探究」と言われ始めていますが、総合的な学習が散り去ってしまったように、先生たちの中にそれらを取り込める授業のイメージがついている人は一握りもいません。右側の、「理解するとは?」のレベルで実践ができている人も、どれほどいるでしょうか? 教育や、学力や能力には、そういうものも含んだものであるはずなのに。(常に、テストで測れる学力や能力のみに流されています。)

表: 思考力の6段階(ブルームの思考力)
  ・ 暗記力
  ・ 理解   ⇒  理解するとは?
  ・ 応用力       ① 説明する
  ・ 分析力       ② 解釈する
  ・ 統合力       ③ 応用する
  ・ 判断力       ④ 自分なりの視点をもつ
               ⑤ 他者の立場に立てる
               ⑥ 自分を知る
                  (出典: Understanding by Design)
→ さらに刺激的なリストをお求めの方は、To Understand, by Ellin Keeneを参照ください。

以上は、知識の獲得を中心にした思考力について見ましたが、残りの2つの「思いやる子、鍛える子」も似たような状況にあります。
たとえば広い意味での「思いやる子」や「鍛える子」ともオーバーラップするところのあるEQ、ライフスキル、社会人基礎力といった資質や態度は、いったいいつ磨いたり、練習されたりしているのでしょうか? ちなみに、これらは子どもたちが身につけることを求められているだけでなく、教師や管理職にも不可欠なスキルや資質です。
結果志向という観点から、小学校低学年段階でも2年ぐらい取り組めばEQとライフスキルのほとんどが身についてしまう方法はあるのです


★★SMARTなゴール(目標)とは、
S = Specific 明確である
M = Measurable測れる ~ 評価の基準が示されている(大切なのは、最終評価ではなく、継続的なモニタリングと修正・改善をすることによって、目標を達成できること)
A = Attainable 努力すれば実現できる
R = Result-oriented 結果志向である
T = Time-bound スケジュールが示されている
      (出典: 『校長先生という仕事』平凡社新書、154ページ)

2012年3月4日日曜日

義務教育段階の留年

最近、橋下大阪市長が大阪市の教育委員との懇談の中で、「義務教育の児童生徒の留年」に言及しました。



2月23日のNHKニュースによると以下のとおりです。


以下、その記事の貼り付けです。



「大阪市の橋下市長は、22日夜、市の教育委員らと意見交換し、小学校や中学校の義務教育で学力が追いつかない児童・生徒について、留年させることも含めて検討するよう求めました。


意見交換の中で、大阪市の橋下市長は、小学校や中学校の義務教育で学力が追いつかない児童・生徒については、留年させることが必要だと主張しました。


これに対し、大阪市の矢野教育委員長は、「フランスでは小学校で留年する制度を取り入れてきたが、子どもにとっては逆効果で、学力への意欲をそいでしまった。学力に課題のある子どもには個別に対応して、学力を上げるようにしている」と否定的な意見を述べました。


こうした意見を受けて、橋下市長は「学年を落とすのが難しいなら、学力の追いついていない子どもを一定期間集めて、特別学級を設け、集中的に指導するとか、学校ごとに習熟度別の指導を行ってもらいたい」と述べ、まずは習熟度別の指導などの対策を取ったうえで、将来的には留年も含めて検討するよう、教育委員に求めました。


文部科学省によりますと、義務教育での留年は、現在の法律でも校長の権限でできますが、適用されるのは長期間にわたって欠席した場合など、極めてまれだということです。」


※貼り付け終わり



 ここで取り上げられているように、「一定の学力が身についていない児童生徒はその学力があるレベルまで到達するように補充すべきだ」ということは義務教育の目標から考えればそのとおりです。


 しかし、文部科学省のコメントにもあるように、現在でも制度としては「原級留置」という措置が取れるにもかかわらず、ごく少数の例外を除いては小中学校で行われていません。


 やはりそこには、多くの日本人の「横並び意識」というメンタリティが影響していると考えます。実際、習熟度学習をやる場合でも、教師側からの一方的なクラス分けでは保護者からの反発があり、生徒からの希望制も取り入れた措置を取らざるを得ない現実があります。


 「原級留置=留年」はどうしても同学年の児童生徒から「置いていかれた」というイメージがつきまとうのだと思います。欧米のように個人主義が浸透しているならともかく、「和をもって貴しとなす」わが国ではどうしても「みんな一緒」なのです。


 そのメンタリティを変えるべきなのかどうかはわかりません。


 ただはっきりしていることは「これまで通り」が通用しない時代になっていることです。


 文部科学省の様々な施策をみても、これまでの施策を少し路線変更した、つぎはぎだらけのものばかりです。



 先日、本市の校長会議で教育長が「学校はなぜ変われないのか」ということをいくつも実例を挙げて説明していました。私から言わせれば「日本社会の様々なシステムが変われない、変わらない」のだと思います。唯一の例外は、海外に進出したり、海外と取引のあったりする企業ではないでしょうか。


 企業は好むと好まざるとにかかわらず、変わらなければ生き残れないので、涙ぐましい努力をして「変わります」。


 だから、「企業の優れたシステムを学校も取り入れるべきだ」と学校評価や教職員評価がここ10年くらいの間に、矢継ぎ早に導入されました。これらの施策はそれなりの意味があることも認めますが、それでも王道ではありません。


 やはり、学校改革の王道はPLCによる改革です。



 「教師も子どももいつでも学んでいる学校づくり」を最優先させるべきなのです。


 それには、前々回の吉田さんの「教員研修の評価基準」が有力な手掛かりとなります。


 多くの校長がこのことを理解し、実践すればわが国の学校教育は大きく変わるでしょう。


 もはや欧米や東アジアの国々より、周回遅れになってしまったわが国の教育をもう一度しっかりと見つめなおし、新たな一歩を始めることが何よりも求められています。