2018年12月9日日曜日

あなたは平等派? それとも公正派?

equality equity」で検索すると、この違いを見事に表しているたくさんのイラストを見ることができます。
そのうちの一つを下に貼り付けます。

日本の教育は「平等(equality)」に扱うことを、殊の外、重視していますが、それでは、右側の子たちはいつまでたっても、野球を観戦することすらできない状況に置かれているのです(それで、教育をしていると言えるでしょうか?!)

それに対して、「公平ないし公正(equity)」な対応が右側のイラストです。
これこそが個々のニーズに応じた対応と言えるのではないでしょうか?
まさに、キャロル・トムリンソン著の『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と『一人ひとりをいかす評価』や、『オープニングマインド――子どもの心をひらく授業』のアプローチです。
踏み台は、個々の子どもが必要としているニーズの量を表しており、それに対応すべき教師の量を表しているとも言えます。

一番左側の子(人?)に踏み台を提供していないのは、どのように解釈できるでしょうか? 
背が高い子どもはほったらかしにしておいていいのかというと、そうではありません。背の高い子がさらに伸びるサポートには気を配ります。(最大限に伸びれるように、「楽しく、意味を感じられ、熱中できる」取り組みができるようにします。)


なお、上記の画像には、reality(現実)やliberation(解放)という形で、オリジナルのイラストとは異なるバージョンまで提示してくれています。
この辺も、アメリカ人のユーモア(ブラック・ユーモア?)です。
平等の名の下に努力している結果、実際につくり出している結果は「現実」なのですから。
自分たちのしていることを振り返るには、「現実」がないと本当は気づけないかもしれません。
さらに、「解放」は、教師の支援や枠組みからの解放を意味します。

このように、教師には(常に)選択肢があります。
あなたは、どれを選びますか?

なお、最後の「解放」はひょっとしたら、授業や学校という枠組み自体からの解放すら意味するかもしれません。
でも、ご心配なく、みんなまだ野球場にはいますから(各自が、サッカー場、バレーのコート、水泳のプール、将棋の対戦に好き勝手に行っているわけではありません)!

日本人は、公平/公正のセンスが弱いだけでなく、ユーモアのセンスも残念ながら乏しいです! 多様性が乏しいのが原因でしょうか? この辺が、社会が膠着しやすい要因の一つのような気がします。学校教育の膠着度は、目を覆いたくなるレベルです! その膠着状況から抜け出す最善の方法の一つが、選択肢を意識することだと思います。選択肢が存在しなければ、膠着ないし固定は約束されていますが、選択できる状態であれば、変化や改善が期待できるからです。(このことは、授業を受けている生徒たちにも言えます。ぜひ選択を提供してあげてください!)


1 件のコメント:

  1. 実際は、背の高い大人が小さい子をだっこして見せてあげている。
    皆で支えれば、子ども達も一緒に野球が見える。
    そして、時間が経てば、その子達が年老いた大人をいずれ支えてくれることになる。
    塀は、見えなくするもので障壁でもある。なければいいなと思う。
    でも、向こうからボールが飛んでくるのを、守ってくれる存在でもある。
    今は、塀のこちら側がバラバラに、つまり核家族化している面もある。
    世間全体で支えるという面もあるけれども、それを全体としてルール化するか、近くにいるもので主体的に助け合うか、その辺も国によっても違うし、戦後大きく変化してきて、人々の意識事態も変わってきたと思う。

    教育においては、今、授業のユニバーサル化ということで少しでもequity を実現したいと思っている。

    定時制の高校に勤めていて、生涯学習センターを併設しているので、17才の女子高生と71才の方が一緒に外国人の先生との英語会話の授業に参加している。

    以前は、海外4校に姉妹校のある国際交流科のある学校に11年間勤め、ホームステイも頻繁にあった。その学校には、フィリピン、ロシア、エストニア、ブラジル、台湾やハーフの生徒なども通学していた。

    定時制高校には、中学時代に不登校を体験した生徒も多く含まれている。基礎学力が抜けている生徒もいる。

    外国人の親を持つ生徒達は、親が言葉が通じなくても、本人達が必死に日本語や日本文化について行こうと頑張っていることも多い。古典の授業や日本史の授業が難しいと言ったりする。

    ユニバーサル デザインとは?
    EQUITYとは?

    県の高校入試の時には、外国籍の受験生用に試験問題にふりがなを振ることができるようになった。

    定期考査にも、非常に学力が低い子には、ふりがなをつける方もおられる。
    小学生時代に日本へ来た生徒と中学時代に来た生徒でも大きく違う。以前、中学2年生の時に全く日本語分からず、お母さんに引き取られて日本にやってきたという生徒がいた。初めは先生の話もクラスメイトの話も全く分からず、自分は何のために来たのだろうと悩んだそうだ。でも、毎日勉強し、週末にも基礎から何時間も勉強し、ある日小学生に混じって通っていた公文の先生にも、もう来なくていいよと言われたという。高校に入って、英検やスピーチコンテストにも出て、成績も学年が上がるにつれぐんぐん上がった。生徒会長になった中国人の女の子もいた。中国と台湾と日本の架け橋になりたいと語って進学した台湾人と日本人のハーフの子もいた。英語と国語の古典と国際科で必須の第2外国語の韓国語の学習に負われ、ポルトガル語の筆記能力をあきらめたブラジル人の女の子がいた。実のお父さんとのコミュニケーションに悩み、ポルトガル語の学習を捨てて、学校の授業について行くことに精一杯だったことに悩む姿も見た。

    外国籍の生徒、
    中学で勉強していない生徒
    お年を召していて、耳が聞こえにくかったり目が見えにくくなっている生涯学習のために来ておられる方々。

    皆が学びやすい学校とはどんな学校か?
    不登校で休んでいた生徒もいつでも、また学びたいことを学びやすい学校とは?

    ICTを使ったり、文字で見えるようにしたり、大きな声やマイクを使用したり、
    ふりがなやローマ字を付けたり、教科書なども各社にふりがなバージョンの教科書を依頼することも効果的だと思う。

    最近、県や地域、学校によって外国から来た生徒の対応にも差があると言われる。
    研修でお話を伺った方は長年ボランティアで、そのような子ども達を支えておられる人たちだった。

    これから人手不足で、今まで来ていなかった外国からの労働者も増えるだろうし、その場合その子ども達の問題も出てくる。

    その子の問題ではなく、受け入れるのであれば、これからの日本人全体として支え合っていくことが必要なのだと思う。同じ仲間として受け入れるのなら、労働者だけを切り離して受け入れるという考え方はあり得ないと思う。

    野球を見るためのBOX 皆が、ちょっぴりずつ自分の持っている踏み台を提供し合うだけで、きっと住みやすいお互い気持ちのよい社会が作り上げれるのだと思う。

    そう、EQUALITY(公平)の名の下に、切り捨てたれている弱者がたくさんいると思う。これからの社会に求められているのはEQUITY

    そもそも社会はでこぼこのいろんな人たちで成り立っている。
    多様性を認め、多様性を生かし、多様性を愛でて素敵な社会を築いていけたら素敵だと思う。そもそも一緒なひとなんてどこにもいないんだから。

    それぞれの個性が生かせて、お互いを認め合える社会をみんなで作っていけたらいいなと思う。

    黒い髪をして、同じ肌の色をして、日本語をしゃべり、以心伝心と言葉ではっきりと伝えなくてもお互いの意図をおもんぱかるそんな文化。そろそろ、世界に開けた、でこぼこを認め、多様性を生かす余裕のある社会に進化していけたらいいなと思う。

    変化を受け入れ、よりよい物を生み出す文化は、紋切り型の価値観を受け入れるだけの構成員では生まれない。

    新しい物をどんどん受け入れ、それをどうしていくかを皆で考え、よりよい物を求めて新しい価値観を生み出し、問題を解決するというより、それをきっかけにあよりよい新しい物を生み出すような、そんなフレシキブルな人たちが育っていったらいいな。そんな風に思う。

    20代で吉田さんのワークショップに出会い、国際交流のボランティア団体に出会い、英語の富山県の高校教諭全員が集まる講演会でお話を伺った。そのころマインドマップもタイムラインもいろいろ皆が平等に参加できるワークショップ形式なども習いました。その当時は、まだとっても新しい感じでした。僕は娘をオーストラリアの教育に取られました。日本の先生方頑張ってください、と海外での高校生活を選んだ娘さんのことを引き合いにだして笑顔で語っておられた先生。

    久しぶりに吉田先生の文章を読ませていただいて、うれしくなってえたくさん書いてしましました。あと、10年残っている教員生活。

    自分の授業のUNIVERSAL  DESIGN化を目指して、もう少し頑張ってみようかなと思います。

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