2019年10月27日日曜日

評価について考える

評価の問題はこのブログでも度々取り上げた話題ですが、学習指導要領の改訂に伴い、また評価について考えたいと思います。 
今年の329日付で文部科学省から「小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について」という通知が出されました。そのなかで、基本的な考え方として「カリキュラム・マネジメントの一環としての指導と評価」「主体的・対話的で深い学びの視点からの授業改善と評価」が取り上げられています。そして、学習評価改善の基本的な方向性として、次の3点が指摘されています。

  児童生徒の学習改善につながるものにしていくこと
  教師の指導改善につながるものにしていくこと
  これまで慣行として行われてきたことでも、必要性・妥当性が認められないものは見直していくこと 

 ①と②についてはこれまでも言われてきたことですが、なかなか現実にはできていないこともありました。特に②の「教師の指導改善」は頭では理解していても、実現できていないことも多かったように思います。
 注目すべきは③です。慣行を見直してもいいというわけです。
 たとえば、この慣行の一つに「テストでしか生徒たちの理解は測れない」という思い込みがなかったでしょうか。この慣行こそ見直しの第一にすべきです。

 この慣行のトップにあるのが大学入試です。その発想に立っている大学入試は、いくら努力しても、偽物を究める努力に過ぎないのではないでしょうか。頭のいい受験生たちも、「あれは本当の勉強ではない」と知りつつ、付き合っているわけです。何という時間の無駄でしょうか。
残念ながら上からの改革を待っていたところで、そのようなシステムにうまく乗ってきた人たちが集まる集団ですから改革の視点が当然ながらいつもずれています。 
つまり下からの改革を推し進めない限り何も変わりません。

そこで、本物の評価であるパフォーマンス評価やポートフォリ評価を中心にした評価に、各学校が変えていくことです。それができるのは校長。今回の学習指導要領改訂では前回のように国立教育政策研究所が評価規準例を示しませんでした。ということは、各学校でしっかり作りなさいということですから、これをチャンスと考えられないでしょうか。
このような本物の評価は生徒を主体にしたカンファランス・アプローチの教え方と深く関係しています。主役を教師や教科書ではなく、主役を生徒に設定しているので、教師の役割はカンファランスを通してサポートする役割になります。この主体の転換、これが今一番求められているものです。

学校の授業はまだほとんどが「教科書をカバーする目的」で行われています。わずか数%が、カンファランス・アプローチを志向し始めているのだと思います。しかし、最終目標である「自立した学び手を育てる」アプローチはほとんどないでしょう。 
ところが「学校以外での学び」は、ほぼ100%が最後の「自立した学び手を育てる」アプローチの学びです。したがって、「学校での学び」がいかに社会から乖離しているかがわかります。「自立した学び手を育てる」アプローチの学びをどう進めたらよいか、その参考になるのが『教育のプロがすすめるイノベーション』です。学校をよくするための情報が満載です。 

日本の教育で、「評価」と同様に欠けているものが、生徒がまねをしたい「いいモデル」がほとんどないことです。本来なら教師たちがそのモデルになるべきなのでしょうが、残念ながらモデルになれていません。上記の『教育のプロがすすめるイノベーション』には、この点でも最高のモデルの数々を示す教師たちの姿が描かれています。教師が本を読むことと、ポートフォリオやジャーナル(いまなら、ブログ)等を書いていることが、いい教師になると同時に、いい教師であり続けるための出発点かと思います。

 
この原稿を書いているときにたまたま『東洋経済オンライン』の記事「日本の採用面接が人をちゃんと見抜けない理由」【曽和利光(人材研究所・社長) 2019.3.17】を目にしました。その一部を紹介します。

採用選考の中で最も妥当性が低いとされるフリートーク面接ですが、それでは妥当性が最も高い選考方法は何でしょうか。答えは「ワークサンプル」です。これは実際に仕事をやらせてみて、その作業成績を評価する方法であり、例えば出版社が編集者を採用する場合に、実際に編集作業を行ってもらうような選考方法です。プログラミングやアートなどの職種では、数十年以上前から通常の面接ではなく、成果物を披露しつつ説明してもらう形式の選考が実施されています。~(中略)~ 一部のベンチャー企業では、適性検査や構造化面接、ワークサンプルなど、さまざまな採用手法に切り替える改革が進んでいますが、何万人という志望者が集まる大企業ともなると、全員をインターンとして受け入れるのが現実的に難しいこともあり、ワークサンプルによる選考はあまり広がっていません。ほとんどの日本の企業では、いまだに旧態依然とした面接が行われているのです。
志望者の入社後の活躍を予測するはずの面接が、実はまったく予測できていないというのは、本来あるべき状況からズレています。それどころか日本の採用は、世界のスタンダードからもズレまくっているのです。 

学校の評価も問題ですが、実は社会の第一線にあるはずの企業においてもわが国では「世界のスタンダード」からずれているとは。これはもう構造的な問題です。こうなるとわが国の様々な分野の立て直しは「評価」からと言っても言い過ぎではないと思います。
まず、みなさんの近くにいる人たち一緒に評価についてもう一度考えてみませんか。



2019年10月20日日曜日

「学校の学び vs 学校外の学び」


『教育のプロがすすめるイノベーション』が出版されてから、それを素材にしたブッククラブを展開しています。すでに15ぐらい行っています。参加者数は、それぞれ3~5人です。
参加者が、ハイライトとして挙げるものはたくさんありますが、その筆頭の一つは「学校 vs 学校外の学び」(下の表)です。

 一人は次のように言っていました。「左側から右側に移行しないといけないことは“アクティブ・ラーニング”の導入等でほとんどの教師は理解してきているが、実際の転換となると壁にぶち当たっている。」
表の左側をなぜやめられないのか、その理由を聞いたところ、次のようなものが挙がりました。
・教科書とテストの存在
・子どもに任せることができない
・自分が教えないと気が済まないという教師の体質(職業病)

 これら3つは、密接に結びついています。「テストのために、教科書を教えないといけない」という思い込みから解放されている教師を探すことは、いまの日本ではほとんど不可能なのでは、と思うぐらいです。
 すでにWW便り」の4月5日号、「教科書をカバーする教え方とアクティブ・ラーニングは、真っ向から対立しますから、最初から無理があったと言えます。問題は、それを言い出した人たちがそのことに気づいていないことでした」と書きましたが、まさにそういう現状が証明されたわけです。
「アクティブ・ラーニング=主体的・対話的で、深い学び」は、カバー(cover)することの極にあるuncoverdiscoverを求めます。
後者の意味は、自分ないし自分たちで「発見する、見いだす、明らかにする」ということです。それには必然的に主体的(対話的)で、深い学びが不可欠です。
それに対して前者の「教科書をカバーする授業」は、すでに明らかにされるべきもの/発見されるべきものすべてが教科書に書かれていますから、必要なのは単なる暗記だけです。そこに「主体的・対話的で深い学び」が入る余地はありません。

 教師が「教科書をカバーする授業」を続けるということは、『教育のプロがすすめるイノベーション』のもう一つのハイライトである、「従順・服従→夢中で取り組む(エンゲイジメント)→エンパワーメント」(同書の第6章)の「従順・服従・忖度のモデル」を生徒たちに見せ続けることを意味します★。
生徒たちは、教師が「仕方がないからカバーしている」ことをお見通しです!(結果的に、教科書をがんばってカバーし、テストが終わった数日後にはそのほとんどを忘れるというパターンの繰り返しをやり続けることになります。そんな誰もがわかっている無駄なことをいつまで続けるというのでしょうか?)

視点を変えて、結果的に学習指導要領と教科書の内容を押さえるアプローチを取れた場合に(のみ)、アクティブ・ラーニング=主体的・対話的で、深い学びがその有効性を発揮します。それを実現するための具体的な方法が、以下の本に書かれています。
 ・『読書家の時間』
 ・『作家の時間』
 ・『イン・ザ・ミドル』
 ・『誰でも科学者!―探究力を育む理科の授業―』(12月出版予定)
 ・『数学者の時間』(現在執筆中、来年度出版予定)
 ・『市民・歴史家の時間』(現在執筆中、来年度出版予定)
 ・『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』
 ・『たった一つを変えるだけ』
 ・『PBL 学びの可能性をひらく授業づくり』
 ・『成績をハックする』
 ・『宿題をハックする』
 ・『「考える力」はこうしてつける』


従順/服従/忖度のモデルは、教師が一番生徒たちにモデルとして示したくないものではないでしょうか? 残念ながら、構造的に校長は教師たちに、教育委員会は学校に対して、そして文科省は??に対して、モデルを示し続けています。
 そこから抜け出す方法が具体的に書いてあるのが、すでにhttp://wwletter.blogspot.com/2019/07/blog-post.htmlで紹介した、『教育のプロがすすめるイノベーション』と、その続編的な位置づけの『エンパワーメント』(来春出版予定)です。
 

2019年10月13日日曜日

エビデンスをいかした優れた授業づくりの6つの質問

教育に効果的なエビデンス★を、授業実践にいかしていくにはどうしたらよいのでしょうか? 

自分の教え方を振り返るとき、エビデンスは最も効果的に働きます。その際、単なるリフレクションではなく「うまくいっているものを維持するため、低い効果を高めるため、どのように変える必要があるのか?」と、指導に関するエビデンスに基づいた批判的なリフレクションに活用すべきです。

エビデンスは自分の教え方の影響を、統合的に理解するための道具として利用できます。しかし、いざ授業をエビデンスと照らし合わせて振り返るとき「このエビデンスは自分の実践効果の実証に都合が良さそうだ」と都合のよい解釈をしたり、印籠のごとく「エビデンスでは効果が高いはずである」と理解し、学習成果がでないことを学習者の責任にしてしまう危険性があります。また、昨年もこのとおりやったのでと、自分の経験を拠り所にしてしまう、思い込みも生まれてしまいます。理論が教授行為を決定するといった思い込みや、自分の指導効果に都合のいい性急な結論づけを避けなければなりません。

エビデンスは量的研究の効果的な平均値でしかありません。独自の条件や変数、独自の解釈を考慮し、教師自身が、その教え方の効果の評価者になる必要があります。

「効果の大きさだけを考慮するのではなく、効果量としてどういったものがありうるかや、各々の効果量がどういった因果でもたらされるのかを詳細に検討し、効果量の違いを総合的に検討した上で意思決定を行っていく必要がある。」(ジョン・ハッティ著『学習の効果』P.38

ある指導方法がうまくいっているのはなぜなのでしょうか? また、効果のあるとする指導方法から恩恵をうけていないのはどうしてなのでしょうか? 私たち教師には、エビデンスを振り返りの視点とし、お互いの指導についてリフレクションが必要です。自分の考えや知識に誤りがないかを気にかけることです。そのため、エビデンスを、授業の振り返りポイントとして、同僚と議論をしはじめるために活用することです。そこで、教師のもっている学習者への期待や思い込みを生徒の視点でふりかえり、議論し、修正し、検討の対象としていきます。

その前提には、思いやりの雰囲気があり、互いに助け合う教師間の職員室(激辛カレーをつけたとしても、新人の指導力はあがりませんから)、間違いに対する寛容さや他の視点から学び合おうとする同僚性が求められます。

都合よくエビデンスを利用することでもなく、リフレクションするための視点としてエビデンスを利用するのです。そして、エビデンスをさらに批判的に考え、理論をよりよいものに磨いていくのが教師の役割でもあります。

以下に挙げる、優れた教育を行うための6指針をもとに、リフレクションの視点として、話し合ってみるのはどうでしょうか?

「教師は影響者」
あなたは、学習者の学びに最も強い影響を与えていることを理解していますか? 
※教師は、学習者の学びが深まることも、そうはならないことの影響も与えています。つまり、教師が自分の影響を知り、自分の教え方をよりよく変えようとし、成長することによって、学習者の学びそのものを今よりもっとよりよくしていく希望がここに埋め込まれています。

2「熟達した教師」
あなたは、適切な指示や説明をしたり、一人ひとりへの配慮や思いやりを持ち、自分が教えることへ情熱をもって取り組んでいますか? 

3「授業」
あなたは、学習者一人ひとりがもつ考えや知識を知ろうとし、学級全体の傾向を理解していますか? そして、学習者の知っていることや理解していることを使い、ただ教えるだけではなく、学習者自身が気付いて知識をつくりだす授業をしていますか? 

4「フィードバック」
あなたは、「どこに向かうか」学習目標を明確にし、それらを達成させるため「どのように向かうか」の教授方法をもち、「次へのステップはどこか」の明確な評価基準を持っていますか? あなたが教えるカリキュラムを通して一人ひとりが成長するため、フィードバックしていますか?

5「理解」
あなたは、学習者の学びが浅い理解(計算技能や暗記するだけの知識など)から深い理解(問題解決や批判的思考といった考え方など)へと深まるように促していますか? また、さらに学習者自身が考え、気づき、学んだことを応用、発展させて、知識を自分でつくったりつくりなおしたりするようにしていますか?
6「雰囲気」
管理職やあなたは、間違うことや誤った考えや意見を学習の機会として歓迎し、誰もが安心して学び、学び直せる雰囲気を職場、教室につくっていますか?

(この6つの視点は日本の学校現場で使いやすいように、ブログ筆者が編集しました。邦訳原文は以下に挙げておきます。エビデンスを活用した授業づくりの視点を押さえ、自分たちの職場で扱いやすいようによりよいものつくりなおして使ってみてください。その過程そのものが、議論、ふりかえりを呼び起こし、学びとなるはずです。よりよいまとめができましたら、ぜひお知らせください。★★)



    医療の世界で言われ始め「Evidence Based Medicine :EBM」という言葉があります(名郷1999)。EBMとは、科学的に証明された根拠に、基づいて医療行為を行うこと。昨今のビジネス界では「客観的根拠」「科学的実証」として利用されていますが、教育界では定説の定義はまだはっきりしていないのが現状のようです。

★★
優れた教育を行うための6つの指針(ジョン・ハッティ著『教育の効果』P.254P.255):
    教師は、学習に対して最も強い影響を及ぼすものの一つである。
② 教師は、ときに指示的で、またあるときは影響力と思いやりをもち、指導や学習に情熱を傾けて積極的に取り組む必要がある。
③ 教師は、個々の学習者の見方や考え方、知識に配慮すると同時に、学習者集団全体の傾向に配慮しなければならない。そして、これらの状況をふまえて、学習者が意味そのものや意味のある経験を構築できるようにしなければならない。個々の学習者が教育課程全体を通して能力を伸ばせるように、教師は意味のある適切なフィードバックを与えられるような熟練した知識と考え方を有していなければならない。
④ 教師は、学習の目標と達成基準、できるだけ多くの学習者に基準に到達させるための方法、そして到達目標とそれに対する学習者の到達状況との差を埋めるために何をすべきか、といったことを理解していなければならない。言い換えると、「どこに向かうべきか」「どのように向かうべきか」「次なる段階はどこか」といった評価基準をもちあわせていなければならない。
⑤ 教師は、学習者に提示する考え方を、一面的なものから次第に多面的なものにするように努め、これらを関連した思考を促し、さらに考え方を拡げるように仕向け、学習者が知識や考え方を構築、あるいは再構築できるようにしなければならない。学習者に知識や考え方を与えるのではなく、学習者自身が知識や考え方を構築することが重要なのである。
⑥ 学校の管理職や教師は、次のような学校や職員室、教室の雰囲気を醸成する必要がある。すなわち、間違いが学習の機会として歓迎されたり、放棄されるべき誤った知識や理解も歓迎されたり、その場にいる人々が安心して学び、学び直し、知識や理解力を身につけようとすることができる雰囲気である。


2019年10月6日日曜日

自分の言葉で語ること、意味の創り手になること

皆さんは、小学校の英語の授業を見に行ったことがありますか。疑問点もたくさんあると思うのですが、面白いことも起きています。

少しだけ背景を説明しておきます。小学校に「外国語活動」という少し不思議な名前の授業が導入されたのは2011年度(平成23年度)でした。英語に慣れ親しみ、コミュニケーション能力の素地を作ることが目的で、5、6年生が対象。週1回の授業で簡単な会話や歌、ゲームを通して英語に触れることが重視されています。ただし、これは正式な教科ではなく、テストや成績評価はありません。教員が、外国語としての英語を指導するトレーニングを受けていないことも一つの理由でしょう。2020年(令和2年)度からは、5、6年生が正式な教科となり、3、4年生が外国語活動の授業を受けることに決まっています。

しっかり、母語の基礎を固めることが先決だという意見は根強く、外国語を早期に導入することへの賛否の議論は、止むことなく続いています。

私も、2011年以降、たびたび小学校の外国語活動の授業を参観しています。最初の頃は、先生方も手探りで、よちよち歩きだったように感じましたが、最近、覚悟ができてきました。実に楽しそうに、生き生きと、子どもたちと英語を学んでいる先生が多くなってきました。

最近は、小学校の英語の授業の方が、中学校より面白いと感じることがよくあります。

なぜなのでしょうか?I can(私は〜ができる)を扱った単元で比べて考えて見ましょう。

中学生の場合だと、だいたい生徒たちが言うことは予想できるのです。決まり切った内容しか出てこない。I can play the piano. I can swim. I can play baseball.など、大体皆同じようなことを言うのです。語彙の限られていると言うこともあるでしょうが、何となく不自然さを感じてしまうのです。なぜでしょうか。話し手の意識が「I can を使って何かをのべる」というところに焦点化されているのではないかと感じます。

一方、小学生からは実に様々な「できること」が出てきます。勢い余って日本語が混ざってしまってもお構いなしです。先日、訪問した小学校の子どもは、"I can touch semi." (私、蝉に触れるんだ。)と得意げに語ってくれました。授業の最後の振り返りでも、「Aくんは納豆が食べられる。信じられない。」とか、「Yさんは、一輪車の乗れる。羨ましい。」とか、できること、羨ましいこと。誇らしいこと。楽しいことが出てくる、出てくる!この場合、話し手の意識は、I can..と言う言語形式ではなく、「自分にできること」にあるのです。

この違いは大きいですね。ある程度長い歴史がある中学校の英語教育が、どちらかと言えば言語の「形式」にとらわれてしまいがちになっている一方で、かなり後発と言える小学校の外国語活動の方が、「意味」に焦点を当てて、生き生きとした発言を引き出している。

教科書に隷属することに強い警鐘を鳴らしている Lent(2012、この本は来春に翻訳出版予定です)に次のような一節があります:

「多くの生徒が、何かを知りたいという気持ちもなくテキストを読んでいる。教師を満足させるために情報を探す。プリントの空欄を埋めたら、次のページへ進む。夢中になれず、内容が退屈であることは分かりきっているのに。」(“Too many students read the text without any sense of needing to know; they find enough information to satisfy the teacher, or to fill in the blank on the worksheet and continue to the next page, unengaged and more convinced than ever that the content is boring.”) 

学校が、主体的な学びを創り出しているかどうかの見極めには、生徒が意味の創り手になっているかどうかという視点が必要になるのではないか。さもないと、形式だけの退屈な学習を繰り返すだけの授業に陥ってしまうかもしれません。

[文献]
ReLeah Cossett Lent (2012) Overcoming Textbook Fatigue – 21st Century Tools to Revitalize Teaching and Learning, ASCD, p.24.