2015年4月26日日曜日

カリキュラム開発力をもった教師こそが求められている



日本の教育にとって「教員の資質向上こそが重要」であると中教審の答申のたびに文科省は書いてきていますが、文科省関連の人で、教員の資質向上のためのノウハウをもっている人はいません。(←これは数年間、まともな教育研修をしてもらうために文科省に私が直接アプローチした経験からも歴然とした事実です。そもそも、資質が向上するとさえ思っていません。)
もちろん、都道府県の教育委員会の役割といいながらも、期待できるとも思っていません。そこで、教員の資質は何で確保するかというと、教科書で管理しようという発想になるわけです。従って、文科省は、教科書の内容に、必要以上に固執し続けます。それが日本の教育の質を保つ防波堤だと信じているので。だから、 マスコミにもそういう風潮を煽るようにけしかけるんだと思います。

教員研修のノウハウをもっているはずの県レベル(や市レベル)の教育委員会ですが、こちらも誰も持っていません。持っていないのに、あれだけたくさんの研修事業をしていることが、受講者に「ありがたがられない」理由です。基本的に、そのやり方は、授業や時間割と同じように「全国画一」です。それがいいからではなく、単純に「それしかこれまでにやられていない」という理由だけで。(そういえば、教育委員会レベルだけでなく、学校レベルでも毎年「同じことの繰り返し」をしています!)★

皆さんは、これまでに自分の実践を変える研修会に参加したことがありますか?
カリキュラム開発力をつけてくれる研修会に参加したことがありますか?
「研修の終わりが、すべての始まり」という研修会に参加したことがありますか?

授業と教員研修は、同じ構造です(実は、会議もそうですし、組織自体もそうなのですが・・・)。教員研修で魅力的なものが行われていないということは、授業でも同じことが行われていることを意味します。関わっている人たちがみんな同じですから、違うことができるはずがありません。

日本の教育の中で、教員の資質向上ほど「宙に浮いた存在」のままはないかもしれません。「いいかげんなまま」というか。

文科省にも、教育委員会にも期待はできません。そもそも、志向していることが違いますから。

それでは学校レベルではどうでしょうか?

学年や教科レベルでは?

さらには、個人レベルでは? (ここまで行ってしまっては、このブログの趣旨であるProfessional Learning Community=PLCとしての「プロの教師集団として学び続けるコミュニティとしての学校」ではなくなってしまうかもしれませんが、個人レベルがすべてのベースではあります!)

文科省にも、教育委員会にも期待できませんから、自分たちでやるしかありません。

読者のカリキュラム開発(=子どもたちのイキイキした学びをつくり出している=教師のイキイキとした学びをつくり出している)実践をぜひ教えてください。


 この問題に答えるために書いた本が、『「学び」で組織は成長する』や『効果10倍の教える技術』でした。(そして部分的には、『校長先生という仕事』や『いい学校の選び方』でした。)しかし、教育委員会にはたとえ情報を入手できても改善できるのかという大きな壁があることを、発見しました。役所的な組織は、一回始めてしまったことは、その効果に関係なくひたすらやり続けるしかないようです。担当者もコロコロ変わりますし、誰も事業に責任を持っていません。さらには、研修事業自体が、議会対策で行われている部分が多分にあります。教育の何も分かっていない議員のための!? (国レベルで起こっていることも、これと同じことがいろいろとありすぎるようです。)


2015年4月19日日曜日

教科書 = カリキュラム ?

これまでに、このブログで「カリキュラム」をテーマに何回も書いてきました

ある意味で、それこそが教師にとってもっとも大切なものだと思っているからです。
と同時に、これこそが日本の教育で弱い部分ではないかと思っているからです。

しかし、
「現 実的に、わたしにとってのカリキュラムは、すでにもう決められてあるものです。どの学校でもそうですが、学年ごとに指導要領と教科書をベースに年間に学習 内容を割り振り、立てた年間計画になります。このカリキュラムは、個人で変えられるものではなく、学校で定めて、当該学年はどのクラスも同じく実行するも のです」

このカリキュラム観をもっている先生が圧倒的だと思います。99%?


私が教育に関わり始めた1980年代の初頭、オーストラリアの指導主事は、「教科書の位置づけは、自分でカリキュラムをつくる能力のない教師のためにあります」と言っていました。
「目の前にいる子どもたちと教えるべき内容や入手できる学習材等を踏まえて、ベストのプログラムを考えるのが教師の仕事で、教科書をカバーする教師は、残念ながら子どもたちがよく学べる授業をできない先生たちだ」とも。
スッキリしますね。

(以前にも紹介した教科調査官と私とのやりとりです)
1980 年代の末、高校の世界史担当の教科調査官は、「いっこうに“フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか”という一つの問いで、年間教えていただいても 結構です」と言い切っていました。もちろん、本人が書いた手前、「学習指導要領に書いてあることを、すべて押さえてくれれば」ですが。

それを受けての私の質問: そんな授業をつくれる教師は日本にいるんですか?
教科調査官: いないでしょうね。
私: できるようになるのですか?
教科調査官: 無理でしょうね。養成過程でも、現職研修でも、教師にカリキュラム開発能力を身につける、という視点が丸ごと欠けていますから。
私: それが分かっていて、文科省は何もやる気がないのですか?
教科調査官: 越権行為になってしまいますから。養成過程は大学の、現職研修は都道府県の教育委員会の役割です。
私: そうなると、いつまでたっても教科書をカバーする授業が続くわけですね?
教科調査官: まあ、そういうことです。

なんという理想と現実のギャップ!!


教育公務員である教師は、学習指導要領を押さえる義務はあっても、教科書をカバーする義務はありません。教科書は、欧米と同じで、あくまでも「主たる教材」でしかありません。しかし、いつのまにか「学習指導要領=教科書」になっています。
マスコミが、それを煽動しています。官僚等とグルになって??

でも、上の教科調査官の言っていたこととは大きなズレがあると思いませんか?
(それとも、教科調査官は、単に「本音と建前」を使い分けていただけ?)


年 間計画(カリキュラム)は、学校レベルで決定できるのですが、実際にしていることは、学習指導要領はほとんど見ないで、教科書会社が作ってくれている年間 計画を教育委員会に提出して、教科書どおりに授業をするという例年通りのお決まりのパターンを繰り返すだけと思います。
子どもたちが主体的に学べるか、ということはあまり気にもせずに。
親たちも、教科書どおりの授業をしてくれているのかは気にしていますから。


次の2つについて
・カリキュラムは、個人で変えられるものではなく
・当該学年はどのクラスも同じく実行するもの
どう思われますか?

教師が主体的に教えるという考え方をどう思いますか?
教師がお付き合いで(仕方なく)教えていたら、それは間違いなく子どもたちに伝わってしまいます。
教師がワクワクしないで教えていて、いいのでしょうか?
ワクワクよりも、教科書をカバーする方が大事なのではないでしょうか?

学習指導要領を押さえるのでいいなら、上記の教科調査官が言っていたように、教師も(そして子どもたちも)ワクワクする授業はいくらでも作り出せます。
でも、それが教科書をカバーする授業になってしまうと、面白いワクワクする授業からは遠ざかってしまいます。暗記することが中心になってしまいかねません。

選択は、誰にありますか?

2015年4月12日日曜日

思考と行動


今の政治の世界は、「翼賛体制」になりつつあるのではないか、という危機感の表明が知識人から時折上がります。

教育の世界はどうでしょうか。もちろん、教育も政治の影響をまともに受けている訳で、道徳の教科化、小中一貫の9年生の義務教育学校制度、教育委員長を廃止して教育長に一本化する新教育委員会制度と、枚挙の暇がないほど、次々と新しい施策が実行に移されています。教育委員会や学校は、考える暇もなく、ただ上から言われたことを実行する、仕方なくやらされる、そんな雰囲気になってきているのではと思います。

よく「粛々と」という文言を使う人がいますが、あれほど人を馬鹿にした言葉もありません。まさに、「本質的なことを考えるのではなく」「思考停止状態で」与えられた職責、仕事を黙々と「こなす」という状況を一番よく表現している言葉だと感じます。

「自分の頭で考えようとする」人が、仕事のやりづらい状況が今の教育委員会であり、学校ではないでしょうか。何も考えずに、上から言われたことだけをやっていればいい、ということであれば、創造的な仕事はできないでしょうし、創造性あふれた、心豊かな子どもたちを育てていくこともできないでしょう。

このままでは、日本人はどうやって生き延びていくのか、人材こそがこの国の唯一の支えであるのに、この状況を考えると、複雑な気持ちになります。


時折、仕事帰りに夕刊紙を買って帰りますが、この間読んだ記事で、劇作家の平田オリザさんがこう書いていました。
   
「これからは、レジスタンスの時代。ゲリラ戦で戦っていくしかありません。」

 ゲリラ戦は所詮一定の限界があると思いますが、要は一人一人が自分の持ち場で、精一杯仕事をしていく、そんな状況なのかも知れません。そして、一人二人と仲間を増やしていくこと。それが、学びの共同体に発展していく、そんな道筋を描きたいものです。

私は時々、『校長先生という仕事』(平凡社新書)と『効果10倍の学びの技法~シンプルな方法で学校が変わる』(PHP新書)を読み返すことにしています。この本は、それぞれ何回読んでも、またこうしてみようというやる気が湧いてくる本の一つなのです。

これらを読みながら、大学での前期の講義・セミナーの内容を、昨年とはまた少し違ったものにしていこうと考えているところです。

 

2015年4月5日日曜日

新年度の諸計画について


 4月になりました。新年度は、最初の職員会議で様々な分野の年間計画や役割分担が決められることと思います。毎年、同じようなことをやっていると新鮮味も薄れて、ただのルーティンワークになってはいないでしょうか。


 3年前のこの「PLC便り」でも、この問題を取り上げています。


 
  その中に次のようなくだりがあります。

 「今からでも間に合います。本当に実現したい/行動を 
 起こしてほしいなら。ぜひ、子どもたちや教師の声と意見を反映したビ 
 ジョン、目標、そして計画に差し替えてください。   
 具体的な反映の仕方は、『校長先生という仕事』(平凡社新書)のビジョンづくりの章(147~161ページ)と『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』(PHP新書)の「親も生徒も参加してつくる学校の教育目標」(188~193ページ)が参考になります。
   ポイントは、絞り込むことです。と同時に、つくる過程こそが大切だという 
 ことです。」 
 
 もう動かしようがないものもあるかもしれませんが、まだやる気さえあれば変えることのできるものもあると思います。「計画は作っておしまい」ではなく、「作る過程も大切に」することが重要です。

 今日は私の勤務する大学でも入学式がありました。

今年のセミナーは1年生を担当するので、彼らとの出会いが楽しみです。小学校教員を志望して入学してきた彼らを精一杯応援していこうと思います。

 入学式が終わってすぐに、教育情報化に関する産学協同セミナーに参加しました。

この中で、「OECD国際教員指導環境調査」の結果概要が紹介されていましたが、「主体的な学びの引き出しに自信をもつ教員」の割合が、参加国平均が80%前後に対して、わが国は20%以下でした。本当にこの問題は早急に改善していきたいものだと改めて思った次第です。   
 

OECD国際教員指導環境調査 http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/Others/1349189.htm