2011年12月25日日曜日

学校評価・考

これも、12月14日の「あらためて、問い直すこと」が必要な項目の一つです。
 つまり、いまの学校教育の中で起こってしまっているたくさんの構造的な問題というか、「ボタンの掛け違え」問題の一つです。

 そもそも、教育委員会や文科省が、効果のあるものならモデルを示す形で率先して取り組むべきですが、これらのレベルで見本にできるような「組織評価」の例はまったく聞いたことがありません。文科省や教育委員会は、学校や先生たちにやらせることには忙しくても、自分たちですることはほとんどありません。教育で大切なのは、指示したり、教えたりすることではなく、モデルで示すことなのに。★

 先週の記事では、いまの学校評価が機能していないと現状を明らかにした上で★★、それを機能させるためには「外部の専門家集団」に頼るのがいいと提案しています。確かに、イギリスには長い歴史があり、このアプローチを導入しているアメリカのいくつかの地域もあります。

 しかし、日本で機能するかと言われても、残念ながらその「専門家」が少なすぎます。「いない」と言ったほうがいいかもしれません。
 (ある意味では、教員養成課程を4年から6年に延長=教員全員大学院卒という無謀な提案と同じです。効果的に教えられる「専門家」が大学に少なすぎる/ほとんどいない状況=効果的に「教員養成ができるシステムとして大学が機能していない」状況で、年数を長くして、いったいどういう効果が得られるというのでしょうか?)

 これは、人事考課が機能していなかったり、学校運営協議会が機能していなかったり、教育委員会や指導主事訪問が機能していなかったり、教員研修が機能していなかったり、職員会議が機能していなかったり、そして何よりも日々の多くの授業が機能していなかったり+子どもたちに対する評価・成績が機能していなかったりにつながる構造的な問題です。★★★

 構造的な問題を一つの原因だけに言及し、解決策を考えることは危険ですらありますが、少なくとも上に掲げた問題に共通するのは「評価」です。
 日本の教育界の「評価」に対する理解とその実践のレベルは、あまりにも貧困です。

 一言でいうと、「よくするため/学びや成長を促すための評価」は存在せず、「誰にとってもほとんど意味のない数字や記号で示す成績を出すこと」にすり替えている状況が長年続いています。
 ですから、それに関わる人たちはなかなか達成感を味わえず、残るのは徒労感だけです。(唯一の例外は、受験に関わる人たちだけ?)

 たとえば、生徒の評価を考えた場合、大切なのは以下のようなことです。
1.生徒の多様なニーズに合う多様な評価法を使う
2.学習目標に合った評価法を使う ~ パフォーマンス評価が効果的
3.生徒も関わる形でルーブリック(評価基準表)をつくる。学習目標を満たすいいモデルも見せる
4.教え直したり、評価し直したりする機会を提供する ~ 教えることや学ぶことはイベントではなく、プロセス。総括的な評価(成績)よりも、形成的な評価を重視する
5.自己評価や相互評価を奨励する ~ ポートフォリオ、ジャーナル、生徒主導の三者面談など
★★★★

 これらの評価にまつわる項目を読んで何を感じられたでしょうか?
 私が感じるのは何よりも、「主役の転換」ということです。
 生徒こそが、主役になる評価が実現されています。「自立した学び手」になるために必要不可欠なことです。
 それは、イコール長年の夢であった「指導と評価の一体化」の実現も意味しています。
 評価から出発して、教え方や、教師と生徒の関係や、親との関係まで変えてしまうことも可能です。

 以上の5項目を、学校評価、人事評価、学校運営協議会、教育委員会や指導主事訪問、教員研修、職員会議等にも応用すればいいわけですから、難しいことはありません。

 他人任せでは(他の誰かに期待しても)、何も変わっていきません。
 自分が何かちょっとしたことを変えることからしか! 
 来年、あなたが変えたいことは何ですか? 

 変えなければならないことは山積していますが、一つだけで十分です。
 すべてはつながっていますから。
 先だってのアンケートにも答える形で、ぜひこの年末・年始に考えてみてください。
 そこから、新しい教育をつくり出していきましょう!!


注)
★ 文科省や教育委員会は「マネジメント・システム」を学校(管理職)には押し付けますが、文科省や教育委員会はいっこうにそれを自分たちで導入する気配がありません。大事なことの多くは、論理的かつ戦略的に決まるというよりも、(情報不足の中で、声の大きい人の意見が通るような)政治的に決まる旧態依然とした体質の中にあります。そうでなければ、単なる「習慣」で。 やらされる側のことを考えることもありません。 たとえいいものも、やらされた場合はその効果は半減どころか、ほとんどないのに。 自らの「選択」というのは、それほど大切です。 この選択が、今の教育界にはどれほどあるでしょうか?

★★ 私も、10年ぐらい前から学校評価の情報はそれなりに集めていますが(『テストだけでは測れない!』を書く際に子どもの評価だけでなく、教員評価や学校評価も当初は扱いたかったので・・・構造的にはどれも同じですから)、紹介に値する学校評価も教員評価も日本では見つけられないでいます。ご存知の方は、ぜひ教えてください。

★★★ 構造的な問題ですから、これらを別物として扱い、個別にアプローチするのではなく、どれか1つを徹底的に改善することで、より効果的なやり方が見出せると、それが他にも応用できることに気づけます。しかし、すべてに満遍なく時間と労力を費やし続けると、これまでのようにすべてがいい加減なままが続いてしまいます。

★★★★ これらの各項目について詳しくお知りになりたい方は、『テストだけでは測れない!』をお読みください。(残念ながら品切れですが、まだアマゾン等で定価と同じぐらいで購入できます。)

2011年12月18日日曜日

学校評価そして第三者評価

 もう年末も残りわずかとなってきました。


 多くの学校では、「学校評価」が始まっているものと思います。

 私の勤務する学校でも、教委作成の「マネジメントシステム」に則り、評価作業が始まっています。保護者や生徒、教員からのアンケート調査は終了しました。この結果をもとにして、今年度の活動を振り返り、次年度への改善策を明らかにする作業がこれから始まります。

 このやり方自体は意味のあることだと思いますが、評価アンケートの項目がほとんど教委作成の内容なので、どうも現場のわれわれにはしっくりこない部分があります。

 たとえば、授業評価に関する部分では、保護者や地域の人々に授業のレベルを問いかけているのですが、授業のよしあしを判断できるほど、保護者や地域の人々は学校に出入りしているわけではありません。

せいぜい、子どもから聞いたことを判断材料にするしかないわけです。それですから、多くの保護者は「まあまあ」ではないかということで、それらしいところに○をつけてくれることになります。保護者と学校の関係が緊張状態にある学校では、当然よくない評価が付けられることになります。また、自由記述の欄には、教員個人に対する情け容赦ない批判が書き綴られることになります。


 このような評価が全く無意味であるとは思いませんが、私個人は真剣に今の教育活動を反省して、次年度への改善策を練るという気持ちにはなかなかなれません。

評価項目の内容までほとんど指定されたアンケート結果は、所詮は他人事のように思えてしまいます。それよりも「プロの専門家集団」に批評されたほうがよほど納得できると思うのは私一人だけでしょうか。

 もちろん、教育委員会の学校訪問も本市の場合は数年に1回ありますが、教育委員会の指導主事などもやはり同業の身内なのです。厳しいことを言う人が近年あまりいません。


 やはり、第三者の専門家集団が一週間程度の時間をかけて、じっくりとその学校の実態調査を行い、分析するというやり方のほうがよいと思います。

 イギリスには、OFSTEDという組織がありますが、そのような評価専門の組織が日本にもできればよいと思います。今から5,6年前に、国の組織に在籍されていた方もそのような話をされていましたが、あまりその後進展している様子がありません。


 アカウンタビリティが当たり前になってきているのですから、もっと中身の濃い評価にするために「専門家集団による学校評価」を真剣に考えていく時期に来ていると考えます。

 みなさんは、どうお考えでしょうか。

2011年12月14日水曜日

あらためて、問いかけることの大切さ

「教科書の存在」で気づいたことを、3つほど。


教科書を教えていて、自分が楽しんでいるか、退屈しているか、見極められることがまずあげられます。一人ひとりの教師が、です。③で紹介する事例は、ちゃんとそれができていた事例です。
しかし、教科書はカバーするものという価値観をマスコミも含めて社会が煽り立てていますから(文科省も言うように、教科書は「あくまでも主たる教材」に過ぎず、教師が義務づけられているのは指導要領を押さえることであるにもかかわらず)、多くの教師はすでにマヒしてしまっていて、楽しむとか退屈しているとかの感覚さえもてない状況にあるようです。


従って、すでに11月11日に書いたあえて「問いかけること」が必要になります。
学校の中では、当たり前すぎる教科書という存在を問わない限りは、その利点と欠点に気づけませんし、その存在がもっている利点よりもはるかに多い欠点にも目を向けることができません。
同じように、学校の中で存在し続けている「当たり前なもの」には、時間割、職員室というスペース、部活、教師と生徒の関係、管理職と教師の関係、PTA(学校と親の関係)などなど、数え出したら切りがありません。
一つひとつのプラスとマイナスを明らかにすることは、私たちがどういう授業やどういう学校をつくりたいのかに直結しています。
もちろん、全部を一緒くたに変えることはできませんから、何を優先するかの判断は極めて大事です。(しかし、すべてはつながってもいますから、一つ二つを改善することは、残りの改善に波及します。白鳥さんが書いていたように、数年かけてそれを確実に変えようと踏ん切りがつけば。)


教科書に関して思ったことの3つ目は、『奇跡の教室』(伊藤氏貴著、小学館)を読みました。あの東大受験で有名な灘校で中学校3年間『銀の匙』だけで戦後の30年間、国語を教え続けた橋本武という先生の実践と、その授業を受けた生徒たちを追いかけて著した本です。
その橋本さんが一冊の本だけで、3年間教える決意をするきっかけは、自分が生徒時代も、戦前の国語教師時代を振り返っても、「寄せ集めの教科書では残らない」「生活の糧になるテキストで授業をしなければ」という強い思いでした。要するには、教える側に扱う内容に対する「情熱」と「愛」がないものは、生徒たちに通じるはずがない、というのです。

この本には、教科書のこと以外にもいいことが書いてありますので、ぜひご一読を。
別に、私立の灘校だからできる実践ではありません。
教師一人ひとりの、そして教師集団の「情熱」と「愛」が問われているんだと思います。

2011年12月11日日曜日

教科書という存在

以前、吉田さんと「教科書のプラス面・マイナス面」を考えたことがありました。



プラス面の最大のものは、これがあればある程度のレベルの教育成果が確保できるという点です。



反対に、マイナス面では、次の何点かが指摘されました。






・正解が書いてあるので、それを覚えることが勉強となり、主体的に自分で探り出す学習ができなくなる →「思考停止」状態



・生徒がよく学べるために欠かせない主体的に考える、質問する、探究する、応用するといった要素が極めて弱い



・教科書に書いてあることをなぞる単調な一斉授業になりがち



・教師が学び続けることを妨げる



・教師には、カバーしなければいけないもの、という義務感を生む






 今年から小学校の教科書は新しい教育課程に合わせて、かなりページ数が増えました。



 これまでの多くの保護者の意識は「教科書はカバーすべきもの」という捉え方ですから、そこは保護者会などで授業では教科書のすべてのページを扱うものではないことを説明しておかないと、「うちの担任は教科書をやり残したまま年度を終えてしまった」というようなクレームがつくことになってしまいます。






 教科書を利用すればだれが教えてもそれほど差はないので、ある程度のレベルが確保できるというメリットがあります。ただ、そのようなやり方で身につくものは「学力」のほんの一部だと思います。



 「活用型学力」と呼ばれるものをこれから目指すわけですから、教科書はいろいろある教材・資料の一部に過ぎないのです。このことはだれでも理解はできるのですが、いざ実行しようとすると難しい。ここをどうやって突破するかです。



 



 (メルマガの続き)






結論から先に言えば、やはり「学び続ける教師集団」をどう組織するかという一点に尽きます。

 「教える」ことよりも「学ぶ」ことを優先させる。
 教師という仕事は「子どもたちに教える仕事」であるわけですが、その前に「自分自身が常に学ぶ」ことがなくてはならないわけです。
よく昔から「学び続ける者のみ、教える資格がある」と言われますが、まさにそこだと思います。
それでは、「学び続ける教師集団」を作るにはどうすればいいのでしょうか。

第一に、校長が「学びのリーダー」であることを行動で示す必要があります。教育関係の情報に通じていることはもちろん、それをいつでも周囲に提供する姿勢が大切です。そして、学校にいるときは教室での学びに様々な形でかかわっていくことです。これがないと、だれもついてこないでしょう。

第二に、校内の「互いに学びあう」関係づくりを行う必要があります。
数十年前は意図的にそのような配慮をしなくても、先輩後輩のメンタリング関係が自然とできあがっていました。今は、そこを意図的にやる必要があります。極端なことを言えば、これがあれば、全校体制の校内研修は回数が少なくても資質向上は図れることになります。
「チームでの学び」という形態も今後どんどん取り入れていくようにしたいと思います。

第三に、学びあう集団づくりが可能になるように、「選択と集中」を行います。
「学び合い」に必要のないものを「思い切ってやめる」という勇気が求められるでしょう。あれもこれもと、やらなければならないことがたくさんありますが、線引きする必要もあります。
また、限りある資源(ヒト・モノ・カネ)をビジョン実現のためにできる限り集中することです。
 
以上の取組を行えば、徐々に学校全体が「学びあう集団」に変わっていきます。




私の経験では、このように変えていくのに最低でも3年は必要だと思います。

2011年12月4日日曜日

人材育成について

企業の若手育成のあり方を調べてみました。「ラーニング・リーダーシップ」(牛尾奈緒美他・日本経済新聞出版社)によると、OJT(実践)とOFF−JT(研修)のバランスは9:1とのこと。研修では、実務遂行に必要な知識の獲得やスキルの修得をおこなうと言います。



ある企業では、新入社員を経験10年程度の社員が指導するそうですが、10年経験社員にとっても、いい研修となるようです。



学校の場合は、初任者研修があるので、2〜5年目あたりの若手を対象に経験10年程度の教員が指導員となってマンツーマンで育てていくということが考えられます。



このやり方は全国各地の教育センターですでに行われていると思います。



そこで、「経験6〜9年目教員」についても、育成期間ととらえ、「学びあいの機会」を確保するのがよいのではないでしょうか。



 その際にも、校内において「教え学ぶ文化」を構築することが重要となります。当然、先輩が後輩に教え授けるという一方通行の学びではなく、双方向性のある学びも求められるものと思います。





(メルマガの続き)





 以前、校内の学び合いに関して、次のような論文を書いたことがあります。
 (以下、貼り付け)

 同僚教師との交流が若手教師の専門的力量形成に重要な役割を果たしていたことが油布佐和子(2003)により指摘されている。

 新任教師は、その養成段階で科学的知識や技術を習得しているが、さまざまな要素が混在する複雑で流動的な実際の教育現場では、それを単純に適用しても役に立たないことが多い。経験を積んだ専門家と活動場面を共にし、的確なアドバイスを受けることにより、新任教師は、あらかじめ持っている一般的・抽象的な知識や技術をより具体的で有益なものに不断に再構成し、また、現場で役に立つものに変換し、実行に移せるようになるのである。

岩川直樹(1994)は次のように述べている。

 教師の専門的成長の場は、ひとりひとりの教師の世界に閉ざされたものとして思い描かれるべきではない。自らの実践に根ざしながらも、他の教師との交流に開かれていくことが、教師の専門的成長にとって大きな意味をもつからである。

 これまで見てきたような「同僚性の構築」がいつごろから学校経営の中で話題になってきたのかを少し振り返ってみたい。
実は1980年代にアメリカにおいて、盛んに「学校を基盤とした学校経営」(School Based Management )が叫ばれ、多くの実践がなされた。特に、ハーバード大学のロランド・バースによる「学校を内側から改善する」(Improving Schools from Within)が刊行されて、その流れは加速された。バースはその著書の中で、「同僚性」という用語が「友情的、親しい関係」を意味するCongeniality(親密性)と混同されやすいことを指摘した上で、同僚性とは「ミツバチの箱」のように各構成員が一定の役割文化を保ちつつ、全体として協働している状態だと説明した。そして、同僚性の特性を具体的な場面にあてはめて次のように説明している。つまり、校内の研修において同僚性が発揮される場面とは、次の5点であるとした。

1 授業等の教育実践についての語り合いがしばしば、継続的に見られること
2 教育実践をお互いによく観察しあっている
3 観察の成果が互いの実践に反映されている
4 カリキュラムの計画・実施・評価の過程で教師が仕事を分担しあっている
5 教育実践についてお互いに教えあっている

 このような同僚関係が校内に構築されることにより、教師の専門的力量を伸ばすことができ、それを通して、学校改善が図られるということになる。このような流れの中で、アメリカの学校での校内研修は同僚性・協働化を促進する方向で進められことになった。その流れの次の段階が「ピア・コーチング」である。
 その先駆的な研究を担ったのが、ジョイスらであるが、彼らの仮説は次のようなものである。

1 研修は学校単位で行うのが最も効果的であること。
2 校長は校内研修において最も指導的なリーダーシップを発揮できること。
3 校内で研修プログラムを開発することにより、教師は所属意識と参加への意欲を高められること。
4 教師の専門的な力量は共有することができること。
5 教師に大幅な権限委譲をすることが望ましいこと。
6 教師による研修の計画・実施は教師の成長に役立つ経営資源を提供するきっかけとなること。

 このような仮説に基づいて、ピア・コーチングを利用した校内研修がいくつかの州で実施された。その実践の中で、「観察」一つを取っても、観察する側とされる側がお互いに鏡として作用することを通して、知識や技術を導入するきっかけとなることが成果として確認された。

(貼り付け 終わり)

 OJTとOFF-JTの両輪で行うのが理想です。でも、効果的なOFF-JTの提供は難しいですね。また、校内のOJTでは、大きな学校行事、総合的な学習などをプロジェクト化して、研修対象者をその担当の一人にすることによって、様々な知識やスキルを身につけさせることができると思います。