2022年6月25日土曜日

新しい資本主義と教育

 

次の文章は毎日新聞デジタルの6/7()22時配信の記事です。

首相「成長と分配、実現への全体像」 骨太方針「参院選後に具体化」 

成長戦略である「新しい資本主義」は、人材や科学技術、新興企業や脱炭素・デジタルという4分野への投資が柱。人材への投資では、社会人の学び直し支援などに3年間で4000億円規模を投じることを盛り込んだ。このほか、「できる限り早期に」最低賃金を1000円以上に引き上げることや、「資産所得倍増プラン」を打ち出した。  同プランは、貯蓄に偏る国民の金融資産を株式など投資にシフトさせるのが狙い。少額投資非課税制度(NISA)の拡充や個人型確定拠出年金(iDeCo)の改革などを進める計画で、年末に具体策を示す。 

「成長と分配」は確か岸田首相の最初の公約の一つでした。それが、この「新しい資本主義」で実現されるのでしょうか。これを読む限りでは、「資産倍増プラン」がその中核となりそうですが、どうも国民の資産を従来の貯蓄から投資へ回していこうというのが大きなねらいのようです。欧米では資産形成が貯蓄よりも大幅に投資に依存しているので、それを見習おうということかと思います。

しかし、冷静に考えれば投資はプラスになる時ばかりではありません。当然リスクが伴います。株式売買ではなく投資信託の購入だと言っても元本が保証されているわけではありません。

しかも、今は金融工学(ブラック・ショールズ方程式に代表される数学と物理がベースにある世界)が金融の世界では幅を利かせている時代ですから、あまり無邪気に信じることのできない世界と言ってもいいかもしれません。このあたりの事情を知りたい方はぜひ『物理学者が解き明かす思考の整理法』(下条竜夫・ビジネス社2017)を参考にしてみてください。  

特に「超高速トレード」を利用した一部の人間によるマイクロ秒単位の超高速トレードを利用した取引は証券会社すらかなわないものとなっています。ある意味では、最初からある程度勝ち負けの決まっているゲームに素人を無理やり参加させるようなものです。そのために、学校では新たに「金融教育」に力を入れて、投資に対する抵抗感をなくしていこうということかもしれません。

教育分野に関連しては、人材への投資ということで、「社会人の学び直し支援などに3年間で4000億円規模を投じる」とのことです。学び直しも結構ですが、その前に小中高の教育にもっとお金を投じてもらいたいものです。

ここのところの円安による影響を考えてみると、日本は今後の経済の方向性を根本的に考え直す時期に来ていると言えるでしょう。

ところが「脱炭素に向けた取組」にしても、先日の内閣府アンケート(国内1,700社回答)を見ても、「排出削減計画」を実行している会社は上場企業で43%、非上場企業で10%ということでした。つまり脱炭素に向けた企業の取組も欧米に比してかなり出遅れているのが現状のようです。脱炭素は費用面のことももちろんありますが、それを推進する人材が不足しているわけです。やはり人は重要なファクターです。

その意味でも、「教育への投資」が今後のこの国の未来を決める大きなカギとなることは間違いないようです。

福沢諭吉は『文明論之概略』において次のように記しています。 

利害得失を論ずるは易しといえども、軽重是非を明にするは甚だ難し。一身の利害を以て天下の事を是非すべからず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤るべからず。多く古今の論説を聞き、博く世界の事情を知り、虚心平気、以て至善の止まる所を明にし、千百の妨碍を犯して、世論に束縛せらるることなく、高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て、後世を先見せざるべからず。(岩波文庫1995年、pp.24-25)

 

  世論に流されず、歴史に学び、世界を知り、百年の戦略を立てなければならない、まさに福沢のこの言葉を政治・経済のリーダーは自覚しなければなりません。

2022年6月19日日曜日

『一人ひとりを大切にする学校』デニス・リトキー著

訳者の一人の谷田美尾さん(広島県の公立高校で英語を教えています)が『一人ひとりを大切にする学校』の紹介文を書いてくれました。

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原著 “The Big Picture: Education Is Everyone's Business”をブッククラブ(グーグル・ドキュメントを用いたオンライン読書会)で読み始めたのは、2020年11月のことです。2019年4月に昼間定時制の高校に赴任し、それまでとは全く異なる学校でただただ一生懸命目の前のことに取り組んでいただけの時期を過ぎ、徐々にやりがいと課題を感じ始めていた時でした。

教育の真の目的とは何だろうか? 目の前の生徒たちにどんな大人へと成長して欲しいだろうか? 生徒たちが充実した幸せな人生を歩むことができるよう、必要なスキルを身につけるためには、どんな学校にしたらいいだろうか? 教師なら誰でも考えたことのあるこれらの問いを、デニス・リトキーという教師は誠実に問い続け、1996年にMET★と呼ばれる小規模な公立高校を(ロードアイランド州のプロビデンスで)立ち上げました。今では六つの公立高校のネットワークとなっており、全米および世界にある100校もの学校のモデルとなったビッグ・ピクチャー・ラーニング(https://www.bigpicture.org/)の基幹校でもあります。

METという学校がもっとも大切にしている「一人ひとりの生徒を大切にする(one student at a time)」という考え方が、教育そのもののはずだと、読み進めていくたびに強く感じるようになりました。学校教育の枠から多くの子どもたちがはみ出してしまっている状況に対して、子どもたちの学力がどんどん下がっているからだ、今の子どもたちはコミュニケーション能力が十分身についていないからだ・・・と以前の私は当然のように思っていたことに気づきました。不登校の生徒や退学を選んでしまう生徒を何とか学校に連れ戻し、他の生徒と同じように学校で過ごせるようになることが大事なことだと信じていました。この本を読んで、それは自分勝手な大人の(教師の)見方だと感じるようになりました。管理、統率、効率を重視した一斉授業が当たり前になっていた従来の教育の常識を脱ぎ捨てて、日本でも、もっと小規模で、生徒と教師、家庭と学校の距離が近い学校が必要です。

この本の中でもう一つ強く印象に残っている言葉は、「学びは個人的なことである(Learning is personal)」です。 外から押し付けられた目標に向かって、小さな教室の中で生徒同士が競いながら同じことをやっていく授業ではなく、一人ひとりの興味や関心を突きつめて、自分が設定した目標に向かってリアルな社会の中で自分だけのカリキュラムを学ぶ経験の方が重要です。生徒が自分の興味や関心を見つけることができるように、私自身は、「一人ひとりを見る」という人間的なやり方を取り戻したいと強く願っています。具体的には、METの実践の柱の一つであるアドバイザリー制度を日本の学校に取り入れることに今一番興味があります。生徒が一番であることはもちろんなのですが、METのやり方を見ていると、教師も保護者も地域の人々もみんながかけがえのない一人の人間として大事にされています。一人ひとりの教師を大事にするためにもアドバイザリーという方法は有効なのではないかと思います。

全体を通して、子どもに対する深い愛情と理解、そして、学びを第一に考える揺らぎのない姿勢を感じる本です。現状の学校に違和感や疑問、さらに、怒りや哀しみを感じている教師に寄り添ってくれるような著者デニス・リトキーの語り口も気に入りました。一方で、私自身、初読の際には、「じゃ、それって、今の学校で、どこから始めて、どうやってやったらいいの?」と途方に暮れたこともありました。だから、この本を手にとってくださる方々には、訳者の私たちがしたように、ぜひ、読書会(どんな形のものでも)を開いて、語り合える仲間を見つけていただきたいです。それが、大きな変化を生み出す初めの小さな一歩になると信じています。

★学校のフルネームは、The Metropolitan Regional Career and Technical Centerです。あえて、学校も、高校も使っていないのです! ここでも、時代を先取りしています。名前からは、職業訓練センター的なイメージをもつかもしれませんが、生徒の9割以上が4年制大学に進学しています(これは、アメリカの公立高校では、かなり突出した数字です!)。

★★この本には、「デニスの本棚」という著者が影響を受けた本の紹介が巻末についています。教育書でも、珍しいです。著者の本好きが表れています。これだけでも価値があります! それに上乗せして「訳者の本棚」で3人の訳者の影響を受けた本も紹介しています。


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2022年6月12日日曜日

PLC便り あなたの教育理念はなんですか?

校内研修で、大切にしている教育活動について振り返り、教育理念を考える時間を設けました。自分の教育実践で大事にしている土台を再確認することは、慌ただしく日々を過ごしていく中でも、安定して邁進できることだと実感できました。また、校内研修でやることで、お互いの価値を可視化できることとなり、職場づくりにも役立つこととなります。

 

教育理念づくりはワークシートを使って日頃の活動を書き出すことから始め、大事にしている方針を言葉にし、それらをまとめて自分自身の教育理念を明らかにしました。この手順をペア活動で行いました。聞き役がいてくれることが、これまで抽象的なビジョンの言語化の手助けとなりました。

 

私たち教師は、日々の教育活動に迫られ、自分自身の実践の価値付けや言語化をついないがしろにしてしまいがちではないでしょうか。そこで、ティーチング・ポートフォリオ(以下TP)という「自らの教育活動について振り返り、その記述を根拠資料(エビデンス)によって裏付けた厳選された記録」に向けて、それをワークシートで小中高先生向けに可視化したTP チャートをつくりました。

 

TPチャートは、東京大学の栗田佳代子さんらが提唱しているものです★★。「理念」「方針」「方法」といった構造化された一貫性をもったワークシートに記入することで、よりよい教育に向けて自分の教育活動について俯瞰的に振り返り、可視化し、軸としての理念を見出します。方針方法を対応づけ、将来の目標を設定するワークシートです。それは、教育業績の根拠となる資料ともなり、初等中等教育においても教育理念や目的を再確認し共有するツールとして浸透しつつあります。

 

公立学校では20年ほど前から続けている各市町村教育委員会が人事管理するための残念な形式的「自己評価シート」がありますが、TPはそれとは大きく異なり、教師自身にとっての成長を促す自己を見つめ直すオーナーシップをもったポートフォリオとなるものです。

 

 


ブログ Kyoko Kurita Lab 2019/8/14 より https://kayokokurita.info/post-752.html 


今回、TPチャートは、ワークシートのそれぞれの項目に沿って、パソコンを使ってフセンにそれぞれ1項目ずつ記述し進めていきました。

 

  1. 自分の校務分掌や担っている仕事を「責任」項目に、それぞれ記述する。
  2. 教育活動における改善したいこと「改善・努力」に、教育活動から得られた成果を「成果・評価」に記述する。
  3. いつも行っている、自分が大事にしている「活動」を書き出し、なぜそれを実践しているのかその「方針」を明らかにし、それぞれ組み合わせながら影響をあたえてくれたエピソードを踏まえて「理念」をまとめあげる。

 

これらの活動を適宜ペアで聴きあいながらすすめます。実際に、自分の取り組みについて大切にしていることをペアに語ったとき、好意的に聴いてもらえることで鏡となり、さらに自己内対話が生まれ、その価値が身に染みたものになるはずです。

 

本来は、これらにエビデンスを紐付け、今後、解決したいと思う「目標」を明確にし、見直しをしていきます。研修時間の都合のため(じっくり作り込むには2日半かかります)、短縮版として実施しましたが、それでもありあまるほどの心の満足感が残りました。それは、理念を支えてくれていたエピソードを見つける中で、自分自身のルーツは尊敬する先生や子どもたちとの出会いが流れていることに気づけたからでもありました。

 

 

 

教育理念づくりとつい構えがちになってしまいますが、日常にやっていることから出発し、そこに通底している「理念」を導き出すために聴きあうこと、この手順はとても心地のよいものでした。そして、やりたいと思っていた教育実践がなぜ上手く進まないのか、それは、自身の理念と深く結びついていないことが分かり、自分の甘さも自覚することができました。今後、定期的にTPチャートをメンテナンスを続けていけるとよいです。

 

自分のコアを大切にして取り組めること、それは自分らしさでもあります。学校現場は異にそぐわないことも数多くあります。その中でも、理念を自覚していることは、様々な意見や出来事にも、自分の納得を持って対応していくための指針ともなるはずです。ちなみに私の教育理念は、「好奇心をもつこと、夢中になれること、考えることの面白さを味わってほしい」「人と共に豊かに生き、文化を育てつくる」となりました。

 

あなたが大切にしている教育理念はなんですか?

 

 

 

★ティーチング・ポートフォリオ研究会HPより抜粋 http://a4tp.info/

HPではTPチャートをダウンロードでき、動画でその作成手順も視聴することができます。

 

★★栗田佳代子・吉田塁・大野智久 (編著) (2018)「教師のための『なりたい教師』になれる本!」学陽書房(先生向けに書かれたTPチャートの作成・見直し・活用についてまとめてあります)



2022年6月5日日曜日

「エビデンスに基づく教育」とどう向き合うか

 近年、「エビデンスに基づく教育」と言う言葉をよく目にするようになりました。デジタル化の進展や教育行政の透明性への要請などが背景にありそうです。元々は、医学界で「エビデンスに基づく医療」が唱えられはじめて、それをモデルとして、教育界にも応用しようとする動きが出てきたことによります。

教育への信頼を担保するためには、客観的で、裏付けのあるデータを用いることは、とても望ましいことだと思いますが、不安がないわけではありません。

まず、エビデンスそのものの信頼性の問題があります。データは取りやすいところから取ろうとする傾向が指摘されることがあります。本当に必要なデータではなく、研究や実験が容易なところか取得されてしまう危険性などです。また、エビデンスに振り回されてしまうと、教育において重要なものを見落としてしまう危険性もあります。教育において、すべてのものが、数値化され、測定できるものではないということは、誰しも了解できることでしょう。学力テストの点数を上げるためだけに、何らかの意思決定がなされるとしたら、本末転倒と言わざるを得ません。

医療における意思決定の考え方の中に、この問題を解決するためのヒントが隠されているかもしれません。医療の意思決定に影響する要因は「根拠」、「価値観」、「資源」の3つであるとしています。★1 この3つの要因は、次のように定義されています。

根拠=その治療が有効で安全とする理由

価値観=自分が解決したいことが望むこと

資源=利用できる費用・時間・労力

効果があるとされる方法でも、あまりに高額な治療費は払えないでしょうし、高い効果があっても副作用が強いという場合は、副作用を避けたいという希望で選択しないということもありうるでしょう。「エビデンス」のみに基づいて、意思決定をすることには危うさがつきまといます。「エビデンスに基づく教育」を考えるうえで、とても参考になる考え方と言えそうです。

教育コーチングの研究者であり実践家のジム・ナイト氏は、著書の中に「データ」という章を設けていて、データは、教員や学校の成長に中心的役割を果たしうると述べています。

同書で、ナイト氏は、教員や教育コーチがデータを活用すべき理由として、以下の4点をあげています:

1 データは、これまで見えなかったものを、見せてくれる。
 (例 形成的評価として集めたデータにより、より深い生徒理解が可能になる。)
2 データは達成可能な目標設定に役立つ。
 (例 達成すべきゴールラインを正確に設定できるようになる。)
3 データは目標達成に向けての進捗状況を示してくれる。
 (例 変容を分かりやすく把握することができる。)
4 データは教員が有用感を実感できる指標となる。
 (例 自分自身が講じた手立てが望ましい変容を生んでいることに気付くことができる。)

データを万能のものとして、それに振り回されるてしまっては、元も子もありません。だからといって、データを遠ざけてしまうことも、正しい意思決定を阻害することになるでしょう。

データは教育実践の質を高めるためのツールととらえて、生徒や教員の成長のために活用されてこそ意味が出てくるものだと言えます。

エビデンスに振り回されることなかれ。これが、「エビデンスに基づく教育」に対する、私たちの向き合い方になりそうです。


★1 「3. 「根拠に基づく医療」(EBM)を理解しよう」
 https://www.ejim.ncgg.go.jp/public/hint2/c03.html

★2 出典をお知りになりたい方は、pro.workshop@gmail.comに連絡ください。