2015年1月25日日曜日

思考停止状態を変える


 先週のこのブログに、以下のように「職員会議」に関する記事がありました。

 
    「三つ目は、ロの字型で行われる職員会議を廃止することです。ロの字型以外なら何でも構いません。願わくは、会議を持つ場所も、形も頻繁に変えた方がいいかもしれません。ハードが変われば、ソフト(人間関係)も変わり、頭の中までも変わりますから。逆に、ハードが同じだと、頭の中もコチコチです。要するに、ロの字型に座った段階で思考停止が始まっています。」

 
   現在でも、ロの字型で会議をやっている学校がほとんどでしょう。毎回別な形でというのはすぐには無理かもしれませんが、ときどき別な形式でやってみるところからはいってみてはどうでしょうか。いくつかのグループに分かれて、丸テーブルを囲む場面があってもよいでしょうし、協議事項を絞り込んで、必要最小限の時間で会議を行うようにすることも大切です。報告・連絡などに長々と時間をかけるような無駄は避けたいものです。

 

 「前例踏襲」は日本社会の悪しき習慣のようなものですが、「変える」ことに対する抵抗はどの組織においても強いようです。この思考停止状況から抜け出すためには、やれる部分から変えていくことです。だれかがやってくれるのを待つのではなく、自分がということですね。特に、学校では管理職がやる気になれば、変えられることは結構あります。
会議のやり方、校内研修のやり方等。
 

 また、管理職でなくても、学級担任、学年主任、一職員としてやれる改善もあります。ある学級担任が始めた「学級通信」の面白さに刺激されて、周りの先生たちにも広がっていき、いつの間にか学校の半分以上の学級で発行されるようになった例。ある学年だけでスタートした「朝の読書」が学校全体で取り組まれるようになった例。
     

 さて、今から23年前に出版された「親と子と教師への手紙」(佐高 信著)において「今の学校にいらないもの」として「1修学旅行 2 PTA 3給食」が例示されていますが、本質的には状況は変わっていませんが、3つとも今でも続いています。

 13に関しては、それぞれ利害関係者の数が多く、経済的にも大きなマーケットになっているので今更やめられないというのが本音のところかもしれません。
     
   また、PTAに関しても、惰性で続いているとしか言いようがありませんが、「地域・保護者」との連携と言うお題目がある以上、これもやめられません。

  ただし、その学校の実情に応じて、その機能の一部を停止するなどの措置は必要です。PTA活動をどの程度までやるか、できるかという選択肢は学校にあることが大切です。それなしに、「みんながやっているからうちの学校も続ける」では、一部の役員だけに過重負担となる実態がいつまでも続くことになります。

 
   もし、変えた方がよいと思われることが自分の目の前にあるならば、みんなで協議して、変えていきたいものです。

 

2015年1月18日日曜日

Why School?



年末・年始の情報収集でもっともインパクトがあったのは、Why School? TEDビデオを見たことでした。★

訳すと、「学校は何のため?」「学校は必要?」
いまは、みごとなぐらいにテストのため、です。
でも、それでは、社会が必要な人間は育てられないでしょう。

テクノロジーが進歩して、いまは誰でも、どこでも、いつでも学べる時代
教科書の中の正解を覚える場所としての学校は、もはや時代遅れ!! という主張です。
グーグル等ですぐに検索できるものを覚えて、テストしていても、何の意味もない!

あなたは、学校が必要な理由ななんだと考えていますか?

たとえば、前回のアンケートの質問について、校内で話し合うようなことができれば(願わくは、親たちも交えて)、学校も少しは変わっていくのではないかと思います。しかし、そういう時間が無視ないし軽視されているのが学校になっています。要するに、本質的なことを棚上げするのが学校というか教育界というところ、です。それで、いいんでしょうか? それで、いい教育ができるのでしょうか? そのためにも、本質的な問いは大切だと思います。 それがないと、思考停止に陥るだけですから。

その思考停止を脱する有効な方法は、少なくとも三つあります。
その一つが上の本質的な問いですが、二つ目は、週1時間のブッククラブです。
これを、最上(にして最低)の教師教育の手段と位置づけている人がいます。(週1時間話し合うためには、少なくとも2時間ぐらいは事前に読む必要があります。)
皆さんの周辺の教師で、これに自主的に参加してもいいという人は何%いるでしょうか?★★

三つ目は、ロの字型で行われる職員会議を廃止することです。ロの字型以外なら何でも構いません。願わくは、会議を持つ場所も、形も頻繁に変えた方がいいかもしれません。ハードが変われば、ソフト(人間関係)も変わり、頭の中までも変わりますから。逆に、ハードが同じだと、頭の中もコチコチです。要するに、ロの字型に座った段階で思考停止が始まっています。

今年は、どれかに挑戦してみませんか?

他に、思考停止を打破する方法も募集します!!


★このビデオ=本で扱っているテーマに関して、実は私が1995~2005年ぐらいの間、大量の本を集めていたことも思い出させてくれました。  学校を(子どもたちだけでなく、関わる者すべてにとって)より学べる場にするにはどうしたらいいのか、というテーマです。それも、主体的に。自立的に。
その辺の興味・関心が、このPLC便りにもつながっています。

★★ この数字を、前回のアンケートの答えと一緒にお送りいただけるとうれしいです。

2015年1月11日日曜日

年初めのアンケート



 以下のの5つ+1つの質問に、ぜひお答えていただき、pro.workshop@gmail.com に返信してください。いずれも複数回答(可)です。
 時間は、5分(長くても10分)です。思いついたことを書き出す形で。思いつきではなく、真剣に考え始めたら、1時間あっても足りないですから。


1) 生徒たちに望むことは?
 (あるいは、何はでき<るようになって卒業し>てほしですか?)
2) 教師/同僚たちに望むことは?
 (生徒たちへの期待を実現するために、何はやれてほしいですか?)
3) 「いい教育」をどう定義しますか? 
 (定義が難しいなら、いい教育に含まれる要素は何ですか?)

4)       学校に通うことで、子どもたちが得ているプラス面は何ですか?
5)       マイナス面は何ですか?

以上の質問に答えることで、

6) 教師としての自分がやりたいと思ったこと/やるべきこととして浮かび上がってきたものがあれば、ぜひ1つでも、2つでも・・・お願いします。

2015年1月4日日曜日

考えるということ


新年おめでとうございます。

 
   この休みの間に何冊かの本を読みましたが、その中の一冊に「路地裏の資本主義」(平川克美・角川SSC新書)があります。平川さんが書く文章はいつも納得してしまうものが多いのですが、今回もそうでした。

108ページに次のようなくだりがあります。
   
「わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、かつて大学院での卒業式の祝辞において、「大学は考える『技法』を習得する場所であり、『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だ」と述べられました。・・・(中略)・・・教育をいじくり回したい人は、人間は教育によって改鋳できると考えているようです。」
   

 小・中・高校の学習指導要領が目指す「思考力・判断力」も、最終的にはこの『考える』という営みにつながるものだと思いますが、中教審や教育再生実行会議の人々からこのような話を聞くことはありません。要するに、今、この国の目指している教育の方向は、「英語ができて、自分の利益にのみ敏感で、他人を出し抜く技に長けた人間を養成する」もしくは「礼儀正しく、安い賃金でも文句も言わずに働く、愛国心に富んだ人間を養成する」ことと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 
もう一か所引用させてもらいます。107ページの後半です。

 
「教育に問題があるとすれば、その教育のカリキュラムや、授業時間や、授業内容よりも、必要以上の競争原理を教室に持ち込んだために、いじめや自殺につながる問題が起きていることのほうを問題視すべきであるように思います。」

    わが国は同調圧力の強い社会です。そこに必要以上の競争原理が教育に持ちこまれことが「いじめ問題」をこれほどまでに深刻化させたと言えるのではないでしょうか。

  ここにきて、「競争原理」の圧力は弱まるどころか、「学力テスト」などの形で強まる一方です。しかも、「説明責任」の名のもとに、結果を公表する自治体も増加中です。中には、平均以上の結果を出した学校の校長名を公表するという自治体まで現れる始末で、こうなるともはや悲劇を通り越して、喜劇にすら見えてきます。

 
   教育者にできることは、子どもとともに、よりよい学びの姿を追究すること、これにつきるでしょう。そのための教師の仕事、研修のあり方、校内の組織など、「学びの共同体」にまつわる様々な課題について今年もまた考えていきたいと思います。