2016年3月27日日曜日

校内研修のあり方


これまでの校内研修の定番は、研究授業・授業研究という手法でしたし、今でも大半の学校はこのやり方を続けています。この手法は今後も初任者の教師には授業の基本的な進め方を学ぶという点では多少は必要かも知れない。しかし、その経験の浅い時期を過ぎた教師にはそれよりも「カリキュラム開発」がこれまで以上に求められるでしょう。

 
先月パートナーから紹介のあった『イギリス教育の未来を拓く小学校』(マンディ・スワン他 / 大修館書店 )で取り上げられている「限界なき学び」をテーマにしたイギリスでの研究では、校内に「専門領域チーム」を設置しています。このチームは校内のカリキュラムについての責任をもつ役割を担うものです。同書には次のような説明があります。

 
専門職の学びとは、取り組んでいるものの欠陥を明らかにして直すことではなく、子どもの学びに対する理解を深め、その新しい理解に基づいて実践を開発することです。★

このやり方は、学校で独自のカリキュラムを各教科等で開発していくという方向なので、時間もかかるし、手間もかかるものです。それでもこれをやっていくことが重要なのです。かつて中教審答申にも引用されたホワイトヘッドはその著書「教育の目的」のなかで次のように述べています。

 
理論的な諸概念は生徒のカリキュラムのなかで、つねに重要な応用例を見付けねばならないということでした。これを実行するのは容易なことではなく、きわめて困難な原則です。ですが、この原則には知識に生気を保たせ、不活発になることを防止するという問題が内在している訳で、これこそ教育全体の中心問題なのです。★★

 
各学校にはそれぞれ各教科等の年間指導計画が整備されています。各教師はそれを基にして日々の授業を実践しているわけですが、その授業には各教師の個性が反映されたり、それぞれの学級の児童生徒の実態に応じて修正が加えられたりするのは当然のことです。ホワイトヘッドの言葉を借りるならば、「知識に生気を保たせる」ことが授業の中核であり、そのために教師が学ぶことが最も重要であるということです。つまり、校内でカリキュラムをどうするかということを日常的に話し合い、検討し、学校独自のものを作り上げていくことが校内で最も優先されなければならないということになります。そうであれば、校内研修においてもこのことが最優先となるはずです。さきほどのイギリスの小学校のように、校内に「専門領域チーム」を置くかどうかは別にしても、年間の研修計画のなかにカリキュラム開発を位置付けて、時にはこれまでに取り組んだことのない、新しいカリキュラムを開発していくことも必要なのです。

 「知識に生気を保たせる」授業ができれば、子供の学習意欲の問題などは一気に解決です。要は、教師がすべて管理して授業の主導権を握るやり方から、子供たちにかなりの部分を任せ、子供たちとのパートナーシップの下に授業を促進するやり方への転換がまったなしに求められているということです。そして、そのためには子どもたちのそれまでの体験、興味・関心、学び方などが一人ひとりみな違うということを教師がしっかりと、今一度自覚することが出発点となるでしょう。

★マンディ・スワン他(新井浅浩他訳)『イギリス教育の未来を拓く小学校』大修館書店、45頁、2015
★★ホワイトヘッド(森口兼二他訳)『教育の目的』松籟社、

2016年3月20日日曜日

多様な教師のニーズに応える教員研修を!

いま、子どもたちの能力差というか、多様性に応じた教え方の本を訳しています。
この本は、2000年ごろに出版社数社に翻訳のアプローチを持ちかけましたが、まったく興味をもってもらえなかったので、時期が来るのを待つことにし、15年間も置いたままにしたものを、昨年の暮れにある出版社にアプローチしたところ、企画として通りました。(原書の第2版が2014年に出たので、いいタイミングでした。もちろん、訳しているのはこちら。)

その本の最後に、子どもたちの能力差/多様性に対応する教え方を求めるなら、まずは教員研修でそれをしない限りは無理、というのが出てきます。
まったくです!!
子どもたちのもっている「体験、レディネス、興味・関心、知能、学び方、学ぶ動機づけ、得られるサポート」などが一人ひとりみな違うのと同じように、教師たちのもっている「体験、レディネス、興味・関心、知能、学び方(や教え方のアプローチ)、学ぶ動機づけ、得られるサポート」なども一人ひとりみな違います。★

そういう状況であるにもかかわらず、(一つの方法で誰もが同じように成長するという幻想のもとに、)教員研修を実施し続けたところで、効果的であろうはずがありません。従って、圧倒的多数の教師は、研修を「時間の無駄」と捉えています。学べるものや活かせるものが極限的に少ないのです。★★そんな時間に呼び集められるなら、他により意味のあることを過ごせる時間をいくらでもあげられるのです。

でも、これは、子どもたちが日々の授業を受けながら考えていることと同じではないでしょうか?

ということで、まずは教員研修を改善するためのアイディアです。

1.まずはレディネスを重視する
 しっかり扱うテーマに関するレディネスを把握した上で、プログラムを練るのです。そうすることで、どういうグループがいいのかもわかります。講義などで新しい情報を得る必要がある人たちもいる一方で、知識や情報はもう知っているので、それについての具体的な導入の仕方について突っ込んだ話し合いをしたい人たちもいることでしょう。
 (授業で、子どもたちのレディネスを把握した上での進め方やグループ活動などがどれだけできているでしょうか?)

2.各参加者の興味関心を活かす
 研修のほとんどは「上」から降ろされる形で行われます(授業も同じです!!)。まずは、個々の教師が何を改善したいのかこそが大事ではないでしょうか? 自分が取り組みたいテーマに取り組めるなら、より積極になれる人がほとんどではないでしょうか? それは、子どもたちも同じです!!(でも、「授業では教科書をカバーしなければならない」という言い訳が必ず出てきますが、その前提はどこまでが真実でしょうか?)

3.すでに取り組んでいる人や理解している人に指導者役になってもらう
 講師役がすべてを取り仕切る必要などはまったくありません。参加者の中に「すでに取り組んでいる人や理解している人」がいたら、その人たちに指導者役になってもらった方が、誰にとってもいいことです。(同じことは、授業でも成り立つと思われますか?)

4.大切なのは研修の時ではなくて、その後
 すでに、このブログでも繰り返し触れてきたように、より大切なのはフォローアップ、フィードバック、継続的なサポートです
 1回の話を聞いたり、ワークショップに参加してできるようになる人など10人に一人いるかいないかです。そういうイベント的な研修を続けていることが「役に立たない研修」というレッテルを貼られる最大の要因です。(ということは、授業も同じ??)
 ぜひ、最初からフォローアップ、フィードバック、継続的なサポートを組み込んだ形の教員研修プログラムを計画してください。★★★それ以外は、時間の無駄なので。

 教員研修は、教師に成長してもらいたくて行われるものです。授業と学校をよりよくするために。それを実現するためには、そのやり方を変えない限りは無理です。プロセスを教師が楽しみ、そして学べるようにしない限りは。


★ 文科省や各教育センターが当たり前のように実施している「ライフ・ステージ研修」は、このことを認識できれば、いかにおかしなことを行っているかが明らかです。同じ年齢の先生たちだからニーズも同じ、ないし近いだろうという前提は、まったく成り立ちません。(これは、子どもたちの「学年」にも言えそうです!?)単なる、管理のしやすさに過ぎません!

★★ 教員研修を講義形式でやられようものなら、悲惨ですが、ワークショップなどの参加型でも結果はそう変わりません。その時は、参加しましたから印象はいいのですが、各教師たちのもっている「体験、レディネス、興味・関心、知能、学び方(や教え方のアプローチ)、学ぶ動機づけ、得られるサポート」などを無視して行われていることでは、変わりがないからです。

★★★ このために参考になるのは、『「学び」で組織は成長する』(光文社新書)です。


参考:The Differentiated Classroom: Responding to the Needs of All Learners, 2nd Edition, Carol Ann Tomlinson, ASCD, 2014年、(特に第10章)と、



2016年3月13日日曜日

成績をつけることの功罪

いま、1年間の成績を書くピークの時期ではないかと思って・・・考えました。

最初は、「成績をつけることの善し悪し」としましたが、そのレベルではないので「功罪」に変えました。(同じか??)

いったい、「功」(よい点やプラス面)として挙げられるものには、何があるでしょうか?
そして、「罪」(悪い点やマイナス面)は?

ぜひ、一人ブレスト★をして、その結果を吉田(pro.workshop@gmail.com)までお知らせください。

これは、「教科書をカバーする教え方の功罪」とコインの裏表の関係にあるかもしれません。
(その意味では「教科書があることの功罪」と設定した方がいいぐらいかもしれません。)
興味のある方は、ぜひこちらの方にも挑戦して、結果をお知らせください。

もちろん、成績を付け終わった後に、です。

これら2つは学校ないし教育の大きな柱になっていますから、これらをどう捉えるか、どう付き合うかを考えることは、他のことすべてに影響しますから、とても大切なことではないでしょうか?
(そして、それをしないことが、日本の学校=社会の学びの質と量を極めて低いレベルに押さえることにつながっていないでしょうか?)


★ 一人でブレーンストーミングをすること。つまり、頭に浮かんだものをすべてリストやマインドマップの形で書き出す方法です。



2016年3月6日日曜日

関係と誠実が鍵

バルセロナオリンピック野球日本代表監督(銅メダル)・山中正竹氏が、野球殿堂の特別表彰を受けたのを機会に、インタビューを受けていたのをラジオで聞きました。その中で山中さんが強調していたのは、選手たちとの間の「関係と誠実が鍵」ということでした。

まったく同じことが、校長にも、教師にも★言えるのではないでしょうか?

以下は、いま翻訳している『A Mathematician’s Lament(ある数学者の嘆き)』★★の46ページに書いてあることです。(太字は、原書にはありません。私が今回の内容に関連すると思ったところを分かりやすくするために太字にしました。そして、これも原書にはない斜体にも気づいてください。とても大切なことです。)

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 もし教えることが単なる情報の伝達になってしまったら、もし興奮とワクワク感がなかったら、もし教師自身が情報の受身的な受け手で、新しい考えの創出者ではなかったら、どんな期待を生徒たちにもつことができるでしょうか? もし教師にとって、分数を足すことが単なるルールに過ぎず、創造的な過程の結果でも、選択や期待の結果でもなかったら、その教師の生徒たちもまったく同じことを味わうことになるでしょう。
 教えることは、情報ではありません。それは、自分の生徒たちと誠実で理性的な関係をもつことです。それには、方法も、ツールも、トレーニングも必要ありません。ただ誠実であることが求められます。もし誠実になれないなら、素朴な子どもたちに何かをさせるような権利はありません。
 誰かに教え方を教えることはできません。教育学部の存在自体が完全なるまやかし★★★です。もちろん、幼児期の発達などについての授業を受けることはできますし、黒板の効果的な使い方や指導案の書き方のトレーニングを受けることもできます(ちなみに、指導案は事前に計画するものなので、見せ掛けであることを約束したものです)が、もし誠実な人間になれないなら、誠実な教師になることはできません教えるということは、心が開かれており、正直であること、そして興奮や向学心を共有できることを意味します。これらがなかったならば、世界中の教育の学位をもっていても助けにならず、もしあったならば、逆に学位は必要ありません。
 とても単純なのです。生徒たちは、宇宙人ではありません。彼らは、美しさとパターンに反応し、誰もが好奇心をもっています。話してみればいいのです。そしてより大事なのは、彼らが言うことに耳を傾けることです。

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以上を読まれて、どんな印象をもたれましたか?

教師がモデルで示せなくて、人間性など育めるはずがありませんから。
(もちろん、それは、教師たちがどう接せら/遇されているかの反映なわけですが。★)


★ もちろん、教育委員会や文科省の人たちにもです!
★★ 日本での出版時には、『算数・数学はアートだ!』になる予定です。
★★★ 誤った前提によって存在しているもの、という意味。