2020年7月26日日曜日

教育依存症候群

「プログラミング教育」「外国語教育」「道徳教育」「言語能力の育成」「理数教育」
「伝統や文化に関する教育」「主権者教育」「消費者教育」

これらの用語は文部科学省のホームページに、学習指導要領の解説として載せられたもので、「新たに取り組むこと、これからも重視することは?」というタイトルが付けられています。これを見ると、学校現場の先生方がこれをやっていくためにどれだけ準備の時間を必要とするだろうかというのが率直な思いです。これで、「働き方改革」とはよく言ったものです。このなかで、20年前も存在していたのは、「道徳教育」でしょうか。しかも、その道徳教育も領域ではなく、「特別の教科」になりました。この教科化については、「いじめ問題」への対策という政治からの要請が強くありました。要するに、学校が道徳教育をしっかりやらないから、いじめ問題がいつまでもなくならないという、短絡的な思考が背後にあるのでしょう。

このように、社会における様々な問題の解決のために教育を利用するという状況を「教育依存症候群」とアメリカの教育学者D.ラバリーが名付けています。(『教育依存社会アメリカ』岩波書店2018)アメリカのいろいろな仕組みを取り入れ続けてきたわが国も、まさにそうした状況に陥っているわけです。
「生存競争」教育への反抗(神代健彦・集英社新書2020)にそのあたりの経緯などが述べられています。関心のある方はお読みください。
そのなかの次のような一文を紹介しておきます。

教育改革が喧しいが、英語教育やプログラミング教育、道徳教育をいくら充実しようと、学校教育の負担が増えるだけで、少なくともそれだけで社会が望ましく変わることはあり得ない。このことはいくら強調してもしすぎることはない。たとえ善意からだったとしても、教育に期待しすぎてはいけない。(同書64ページ)

IT技術者が不足するから、小学校からプログラミング教育を導入するという話がありました。しかし、考えてみれば、技術者養成の問題はほとんど高等教育以降の問題です。しかも、技術者の待遇が悪いから、意欲のある人はどんどん海外に出て行ってしまう。わが国の大卒初任給はこの二十年以上ほとんど変わらない状態です。しかも、契約社員・派遣社員と若者を使い捨てにしているこの国の産業構造が変わらなければ何も解決しない問題です。それを最後の砦とばかり教育に、しかも義務教育にそれを押し付けているのが現状です。

大学改革についても、同様です。これについては、以前『大学改革の迷走』(佐藤郁哉・ちくま新書)で紹介したように、矢継ぎ早の改革続きで、十分な結果の検証もできずに、改革自体が目的になってしまっているのが、今日のわが国の教育行政の姿です。

われわれができる改革の一歩目は授業をどうするかということであり、この視点からこれまでも考えてきました。先ほどの『「生存競争」教育への反抗』では、まず何をしたらよいかということで、社会への適応に子どもたちを追い立てることではなく、「世界」に出会わせることであると説いています。

算数・数学の授業を通して、抽象的な数や形の世界に出会わせる。
理科の授業を通して、自然や科学の世界に出会わせる。
社会の授業を通して、子どもたちを人間の歴史的・社会的な営みに出会わせる。~
(同書166ページ)

このような学びを、子どもたちが学びのオウナーシップをもつ機会へとつなげていくことができれば、その成果は単にペーパーテストの点数を上げることに終始している授業を大きく変えていくことになるでしょう。「生徒が自分の学びのオウナーシップをもったとき、何が起こるか?」を知りたい方には、『あなたの授業が子どもと世界を変える』(新評論2020)が参考になります。あなたの進むべき方向が必ず見えてくるはずです。

2020年7月19日日曜日

探究の学びを目指した授業改革


 大学で中・高の国語科教育法などを教えている島根の古賀洋一さんが、 現在チャレンジしている授業改革について寄稿してくれましたので、紹介します。

私が大学で担当している授業には、論説・評論などのノンフィクションを扱う授業があります。「ノンフィクションを読む」というと、ほとんどの学生が嫌な顔をします。これまでの経験のなかで、それらの文章は面白くないと思い込まされているからです。段落ごとに要点を抜き出したり、全体の要旨をまとめたり。そこには、自分で文章を選ぶことも、書き手に疑問や反発を覚えることも、問題を追究していくこともありません。もっとマズいのは、そうした授業を受けていくと、「ノンフィクションには正しいことが書かれてある」という思い込みが作られていくことです。一つの文章は一つの「窓」でしかありません。正面から見ると美しい山も、横から見ると板張りかもしれません。山の反対側には砂漠が広がっているかもしれません。ノンフィクションを読むということは、そうした色々な「窓」を覗いてみて社会の複雑さを知り、自分が追究したい問題を選び取り、探究していくことなのだと思います。そうした学びを、まずは自分の大学の授業で実現したいと思い、授業改革にチャレンジしました。
 その際に参考にしたのは、「クリティカル・シンキング」の考え方です。日本では「相手を論破する力」という偏ったイメージを持たれがちですが、そうではありません。「クリティカル・シンキング」は「他者と共生する力」です。もう少し詳しく言うと、「自分とは違う考えを否定するのではなく、まずは対立のポイントをはっきりさせ、次に相手の良い所と自分の足りない所を見つけ、そのうえで自分も相手も納得できるような判断や行動を作り出していく力」です。ノンフィクションを読むということは、まさにクリティカル・シンキングを発揮しながら、問題を探究してみる行為なのではないでしょうか。
 今日は、こうした学びを目指した授業の進め方や評価の工夫について紹介します。

1.「ホット」なテーマを設定する。
 何よりも、学生自身が探究したいと思えるテーマが必要です。初回の授業では、学生に「考えてみたいテーマ」を挙げてもらい、授業で扱うテーマを決めていきます。ちなみに、2019年度に扱ったテーマは、「原発」「死刑制度」「観光」「環境問題」「生命倫理」でした。原発が大学と同じ市内にあること、学生の多くが観光の仕事に携わりたいという志望を持っていることなどが、良く表れていると思います。

2.反対の考えが書かれた複数の文章を用意する。
 授業ではテーマについての複数の文章、しかも反対の考えが書かれた文章を用意します。「原発」であれば、市民の安全面から原発に反対する文章と、雇用や補助金などの経済面から原発を容認する文章を用意します。「観光」であれば、地方創生の観点から観光を推し進めようとする文章と、「観光公害」の観点から観光を制限しようとする文章を用意します。学生はこれらを同時に読んで、初めて問題の複雑さが分かります。そして、考えが対立しているからこそ、「自分はどう考えるのか?」が問われていきます。自分が賛同できる考えをまずは選び取ってみること。ここから、探究がスタートします。

3.追究したい問題を学生自身が選び取る。
 次に「質問づくり」を行います★★。学生は反対の立場への疑問や質問、意見(「私は…と思いますが、あなたはどう思いますか?」という形に直させます)を一つずつ付箋に書き出していきます。それを同じ立場の学生と共有し、似ている質問をグルーピングしていきます。その中から、自分が追究したいものを選び取っていきます。これが、学生が追究していく問題になります。

4.「偵察」→「取材」→「作戦会議」→「討論」のプロセスで交流する。
 各自が選び取った問題について、次のようなプロセスで交流していきます。
 まずは、それぞれが選び取った問題を自由に見て回る「偵察」です。次に、話を詳しく聞いてみたい相手を選び、耳を傾ける「取材」です。さらに、相手への応答を同じ立場の学生と一緒に考える「作戦会議」です。ここでは、スマホやPCを積極的に活用することも推奨します。最後に、相手との自由な「討論」に入ります。
これらの交流では、席や相手は指定しません。学生によって話を聞いてみたい相手が違うからです。また、教室の中心でワイワイ話すことを好む学生と、教室の隅でコソコソ話すことを好む学生とが居るからです。

5.結論作りを行う
 面白いのは、このように交流を繰り返していくと、「相手の考えにも一理ある」ということが否応なしに見えてくることです。ここまでの土壌を作っておいて、結論作りに移ります。相手との対立点を整理し、それら一つ一つへの判断を下しながら、最終的な結論を作っていきます。

6.探究のサイクルを回しながら徐々にステップアップする
 以上のように、授業では、「複数の文章を読む」→「賛同できる立場を選び取る」→「質問作りを行う」→「交流する(ここにも小さなサイクルがあります)」→「結論作りを行う」というサイクルを回していきます。このサイクルのなかで、教師は「ミニ・レッスン」と「カンファランス」★★★に取り組みます。
 「ミニ・レッスン」では、「質問づくり」や「結論づくり」の方法を教えます。「閉じた質問と開いた質問の違い」や、「違う視点に立った質問の仕方(○○〇の立場から見たら、Aとは言えないのでは?)」「許容範囲を問う質問の仕方(Aが許されるのはどこまで?)」などです。「結論づくり」の場合には、「場合分け(観光を抑止しないといけない場合があるとすれば、どういった場合?)」「両立(原発の安全面と経済面を両立させるにはどうすれば良い?)」など、自分と相手が共に納得できる結論を作るための方法を教えていきます。
 「カンファランス」では、学生に応じて助言を変えます。どちらの考えを選び取るべきか迷っている人には「自分の生活とのつながりを考えてみたらどう?」、相手への応答に苦しんでいる人には「…について調べてみたらどう?」、考えを聴いてみる相手を迷っている人には、「○○さんが、あなたと対立する考えをしていたよ」などです。
 特に「ミニ・レッスン」では、実際に学生が書いたものを紹介しながら、具体的に方法を教えるようにしています。また、少しずつ方法を教え、それを実際に「使って見る」場面を確保するように心がけています。一度に多くのことを教えないことが大切です。最後の授業までに、結果的に全ての方法を教えることが出来ていれば良いのです。

 さて、このような授業を行ってきて、困ったのは評価でした。この度の新型コロナウイルスによる在宅勤務の推奨を受けて、企業でも勤務態度や勤務時間に偏った人事評価を見直す動きが広がっているようです。私も同じ問題に直面しました。学生によって、取り組んでいる内容が違うからです。まず、力を入れて読んでいる文章が違います。話し合いの内容も、規模や場所も違います。こうなってくると、表面的な活発さで学生を評価したり、一つの規準で一律に全員を評価したりは出来ません。また、成績が出たらそこで終わりの評価ではなく、学生の達成感や今後の探究につながっていくような評価にしたいとの思いもありました。そこで、複数の方法を組み合わせて評価を行ってみました。

1.話し合いではなく、書かれたものを評価する。
 評価の対象に定めたのは、話し合いの活発さではなく、それを踏まえて書かれたものです。話し合いの様子を評価してしまうと、活発ではないけれど深く物事を考えている学生が見えなくなってしまうからです。また、評価の観点も、どのような内容を書けているかではなく、「ミニ・レッスン」で教えた方法に即して設定しました。質問づくりや結論づくりの方法として教えたもののうち、「どの」方法を使っているか、「なぜ」それを使っているのかを評価するようにしました。

2.自己評価を評価する。
 もう一つ評価の対象としたのは、学生による自己評価です。授業の最終コマでは、それまでに書いたもの全てを振り返り、自分が成長したと思うことや、まだまだ足りないと思うことをまとめていきます。いわゆるポートフォリオ評価です。自分の成長を実感できているかだけではなく、自分にとっての課題を自覚できているかも評価します。自分の課題を自覚できていることは、裏を返せば、これから学ぶべきことがハッキリしていることの表れだからです。

 もちろん、改善の余地はたくさんあります。授業の進め方で言えば、交流の規模や内容が多岐に渡り過ぎて、全体を把握できないときがあります。現在注目しているのは、チャット機能です。チャット機能を使えば、交流の様子を遡って把握できます。そうすると、もっと一人一人に寄り添った助言ができると考えています。評価に関しても、振り返りの内容について個別に面談する機会を設けることが出来れば、学生の言葉にならない思いを汲み取って評価に生かすことが出来るでしょう。これらの方法についても、今後チャレンジしてみたいと考えています。


★ ここで紹介しているクリティカル・シンキングの考え方を詳しく知りたい方には、リチャード・ポール、リンダ・エルダー著『クリティカル・シンキング』(東洋経済新報社、2003)がおススメです。ビジネスパーソン向けに書かれた本で、読みやすいと思います。
★★ 「質問づくり」の進め方はダン・ロススタイン、ルース・サンタナ著『たった一つを変えるだけ』(新評論、2015)を参考にしています。
★★★ 「ミニ・レッスン」と「カンファランス」は、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップおよびそれを国語以外の教科に応用した実践の中心的な教え方です。ミニ・レッスンは5~15分ぐらいに時間を限定した一斉指導で、カンファランスは生徒や学生たちがひたすら書いていたり、読んでいたり、探究していたり、問題解決していたりする時に、教師が個別ないし小グループを対象に実態を把握しながら相談に乗る形で「指導と評価の一体化」を実現する教え方です。詳しくは、ブログWW/RW便り(http://wwletter.blogspot.com/)の左上にキーワードを入力して検索してください。

2020年7月12日日曜日

学校の中で安心して民主主義を学ぶ「質問づくり」

東京都知事選挙がありました。その投票率は55%。都民の45%が棄権していることは、政治期待への希薄さの現れでしょうか。日々の暮らしの場で民主的に行動する機会をみすみす逃してしまっているそのむなしさは否めません。

時期を同じくして、香港では国家安全維持法が香港にて成立しました。民主化運動を担っていた人々の言論の自由が制限されてしまいました。香港の若い人々は、前の世代の大人たちの政治的無関心がこのような状況を生み出したと痛烈に批判しています。

今、私たちは一人の市民として、ものごとの意思決定に民主的に参加する方法を学ぶことの大切さへ気付く必要があります。そして、未来を担う子どもたちには、民主的に考え行動できるようなその練習を授業で身につけていって欲しいと切に願います。民主主義を学ぶよりよい方法の一つがダン・ロスステインとルース・サンタナの提唱する「質問づくり」です。★

“自分たちで考え、証拠を比較検討し、事実と神話を見分け、話し合い、討論し、分析し、そして優先順位を決めることができる市民の力を育てるための意図的な努力が必要です。” ダン・ロスステイン&ルース・サンタナ著・吉田新一郎訳『たったひとつを変えるだけ』P.238

質問づくりは、これまで教師が発した質問に子どもたちが答えるのではなく、子どもたちが自らの質問を作り出せるように導くことで民主主義の感覚を身につけることができます。互いの質問に耳を傾け、相互に学び合い、話し合い、討論し、必要な異なる種類の譲歩について考え、そして自分たちが必要とする情報の順番を決定します。協力して作業をし続け、投票や合意形成により、最終的には優先順位の高い質問を選び出さなければなりません。

20年に以上にわたる試行錯誤の末、質問づくりの手順は簡素化されて以下の7つの段階で構成されています。

1.      「質問の焦点」は、質問づくりの鍵となる、子ども達が質問を考え出す起点となる言葉や文章などのことで、教師によって事前に設定されます。

2.      質問をつくる際の単純な四つのルールが提示され、子ども達はそれらについて話し合います。
①できるだけたくさんの質問を出す。(質問する許可を与える) 
②(それらの質問について)話し合ったり、評価したり、答えを言ったりはしない。(安心・安全な場が提供される)
③発言のとおりに質問を書き出す。(みんな同じレベルで、全ての質問と声が尊重される)
④肯定文として出されたものは疑問形に転換する。(主張するのではなく、質問すること。そのための表現が大切にされる)

3.      子どもたちはルールを意識しながら短い時間でできるだけたくさんの質問を考え出します。

4.      子どもたちは、「はい」か「いいえ」で答えられる「閉じた質問」と、自由に考えを述べられる「開いた質問」の違いを理解したうえで、それらを相互に書き換える練習をします。そうすることで、この二つの異なるタイプの質問を、目的に応じて使いこなせるようになります。

5.      子どもたちは、優先順位の高い質問を1つ〜3つ選択します。ここが、質問づくりのハイライトといえるかもしれません。

6.      優先順位の高い質問を使って、教師と子どもたちは次にすることを計画します。

7.      ここまで行ってきたことを、子どもたちが振り返ります。「学んだことは何か?」「どのようにして学んだか?」「学んだことをどのように応用できそうか?」などについてです。
同書 Pⅷを参考

子どもたちが質問をつくり、そしてそれらを使いこなすこと、さらに子どもたちが自分の学びに主体的に取り組むことによってどれだけの学びが起こるか想像できますか? このコロナ禍では対話ベースの授業は難しいと言われています。しかしものはやりようです。教室壁面に模造紙やホワイトボードを掲げ、そこに横一列、壁に向かって記録しながら対話を重ねることだって可能です。もしよりよい方法があったらぜひ、教えてください。

質問づくりは、子どもたちに常に民主主義の習慣を練習させ、スキルを磨く機会を提供してくれます。授業の導入にぜひ挑戦してみませんか。


★ダン ロスステイン (), ルース サンタナ (),吉田新一郎(訳)『たった一つを変えるだけクラスも教師も自立する「質問づくり」』新評論

2020年7月5日日曜日

オンライン授業によって気づかされた本質的に重要なこと

オンライン授業(あるいはリモート授業)が世界中で行われている。私も4月から、3ヶ月間にわたって自宅の一室から授業を行なってきた。比較的うまくいっていると思う授業もあれば、課題山積と感じている授業もある。まだ、進行中の実践ではあるが、現時点までに起きたことを、なるべくリアルにご報告できればと思っている。

当たり前過ぎる、陳腐な総括だが、分かったことは、授業は対面でなくてもできるということであった。いや、もしかすると対面形式でまだ実現できていなかったこと、例えば、「対話的で、主体的で深い学び」といったようなことが実現される可能性があることに気づかされた。今回のオンライン授業の実施は、緊急事態への対応だったわけだが、そのドタバタの中から、本質的に重要なことが見えてきたように思う。

それは、日本の学校や教師が一番苦手としていた、児童生徒に学びの責任を委ねるということが、オンライン授業で実現してしまったということだろう。

私の勤め先では、入学式の前日に全学生に帰省せよの通知が送られた。入学したばかりの学部1年生諸君は、どのような祝辞も激励も指示も受けることなく(ホームページには掲載された)、キャンパスをひとまず去った。昨年までは、パソコンやワークステーションの使い方、ログインの仕方や情報の入手の仕方、学生生活に必要なツールや手続きについて丁寧なガイダンスやオリエンテーションを受けていたのにである。今年はゼロだ。

しかし、4月中旬には容赦なくオンライン授業が始まった。「容赦なく」と書いたが、それは教員側の思い込みであって、若者たちには乗り越える力があった。もちろん、苦労した学生もいただろう。それでも、画面を通して、学びを得ようするたくましい姿勢を見ることができた。「なんだ、できるじゃないか」と私は思った。

オンライン授業も終盤に差し掛かった7月上旬、Speech Communication(英語のスピーキング)という授業のメーリングリストに届いた、受講生Fさんからのメールには次のように書かれていた。「長らく続けてきたBookClubもいよいよ最後となって、授業の終わりが近づいていることに寂しさを覚えます。」

一度も直接顔を合わせたこともない若者同士が、共通のゴールに向かって歩む中で、ネット上の交流を通して、絆のようなものを育んできているのだ。なぜだろう?私は、不思議に思った。

この授業では、パブリック・スピーキングについて学ぶためのブック・クラブをメーリングリスト上で行いつつ、週1回のオンライン授業では、学生MCのリードにより3つのスピーチ活動を行う。後半はお互いのパフォーマンスについて振り返り、語りあうカンファレンスの時間を30分以上とっている。

90分間、ほぼ私の出る幕はない。

私がやっていることは、このくらい:
1  その日のagendaをつくること
2  計時(タイム・マネジメント)
3  進行が滞った時の介入
4  最後に全体的な講評(フィードバック)をすること
5  個人の振り返りメールに返信して、フィードバックを返すこと
6  ブッククラブへの反応

これはほぼ教室で対面授業をしていた時もあまり変わらない。基本的には学習者の主体性を大切にした組み立てを心がけている。

それが、今年オンラインでやらざるを得なくなって、対面型の授業よりも、この特徴が強化されたように感じるのだ。

では、オンラインと対面で何が異なるのだろうか、

1  基本的に受け身でいたら何も起こらない。教室に座っていたら、スプーンで口に何かを流し込んでくれるのとは全く異なる。基本的な構えとして、主体的になるのかもしれない。

2  仲間とのカンファレンスが充実しているように感じる。教室では、井戸端会議みたいになる気がしていたのだが、しっかりとspeakerに焦点を当てた議論ができている。画面上なので、対象に焦点が当たりやすくなるのだろうか。

3  ブック・クラブと実践のつながりが見えやすくなる。ブック・クラブで読んだことを実践し、評価し、振り返る、こういったサイクルがシームレスにつながっているように見える。教室でやっていた時は、読んできて、口頭で話しっ放しだった。メーリングリストで自分の読後感を文字化せざるを得なくなると、読み方が変わる。さらに、自分自身のスピーチのパフォーマンスを振り返るメールを書く際も、ブッククラブで取り上げた内容に言及される機会が多い。

大人数の講義形式のものであれば、オンラインでも対面でも大差はないのかもしれない。しかし、よりインタラクティブでアクティブな授業を目指すのであれば、教室でやるよりも、生徒の関与の深さ(engagement)が高まる可能性はあると言えそうだ。そう考えると、今回の騒動が終息した後でも、オンラインと対面のハイブリッド授業というのも、一つの選択肢になるかもしれない。

大変な数ヶ月間であったが、予想外に多くの発見もあった。