2016年12月25日日曜日

エビデンスとは


Evidenceとは

 
最近あちこちで見かける言葉に「Evidence(エビデンス)があります。たとえば、文部科学省のホームページに掲載されている『次世代の 学校指導体制在り方について(中間まとめ)』(2016/04/22)の中に次のような一節があります。
   
さらに,教育政策について質の向上を目指し,学校やその周辺環境に関する数量データ,事例等を調査・分析し,いわゆる「エビデンス」を活用した政策形成についての取組を一層推進することが重要である。
   
 実は、今月初めにNSTAという全米の理科教師の集まりに参加したのですが、そこであるワークショップに参加しました。参加者は数名のグループに分かれ、簡単な物理実験を通して、「Claim—Evidence—Reasoning」という一連の理科学習の進め方を体験するというものでした。「Claim—Evidence—Reasoning」は、簡単に言えば、仮説を立てて、観察・実験を行い、データを集め、それをもとにして筋道立てた論理構成を行うというものです。

そのとき、講師が強調していたのは、「データとエビデンスの違いは何ですか?」ということでした。そう言われれば、データとエビデンスを混同している例が結構あります。上記の文部科学省の中間まとめの中の一文も、どうみてもエビデンスをデータとしか捉えていません。
   
最近、今井むつみさんの『学びとは何か』(岩波新書2016)を読んでいて、エビデンスを解説している文章に出会いました。次のような解説です。(同書p.164)

evidence」という語は個別の「事実」ではなく、「さまざまなピースを論理的に整合性がとれるように組み立て、構成した論理の不可分な全体」を指すのである。

 
そして、さらに続けて「批判的思考」(critical thinking)についても次のように述べています。(同書p.164)

 
批判的思考とはつまり、前項で述べた科学的思考と基本的に同じで、ある仮説、理論、あるいは言説を、証拠にもとづいて論理的に積み重ねて構築していく思考のしかたのことを言う。単に「感情にとらわれず客観的にものごとを考える」とか「多角的に物事を検討する」ということではないのだ。

 
「深い学び」という言葉もこれからの学習のキーワードとして、さまざまなところで使われていますが、せいぜい「多角的に物事を検討する」レベルを指して使われている場合が多いのではないでしょうか。「深い学び」に直結する「批判的思考」が意味する「証拠にもとづいて論理的に積み重ねて構築していく思考」にはなっていないことが多いように思います。

「批判的思考」については、『「読む力」はこうしてつける』(新評論2010)や『理解するってどういうこと?』(新曜社2014)などを読んでいただくと一層よくわかると思います。
 
この記事が今年最後となりますが、来年は今年以上に多くの先生方が「一人ひとりをいかす教室」づくりに励まれることをお願いしたいと思います。

 

 

 

 

2016年12月18日日曜日

「わくわく理科(特別授業)」の問題点の克服


 2週間前のPLC便りhttp://projectbetterschool.blogspot.jp/2016/12/blog-post.htmlでは、中学校の教科担任の要請に基づいて、地域教育コーディネーターの人たちがコーディネーションした地域の教育資源・人材を生かした「わくわく理科(特別授業)」の成果と問題点について、紹介しました。 

 問題点を解決・克服するために、私が勤務した中学校では、平成24年度から、地域の多くの人材と連携・協同し、子どもたちの「問い」を大切にしながら、1年間をかけて探究的に学習を進めていく環境学習を実施しています。 

 以下は、理科と総合的な学習の時間を使って実施している環境学習の流れ・プロセスです。 

事前準備・企画
 年度末~4月初めに、理科の教科部会で環境学習の年間計画(カリキュラム)を検討・作成します。その後、年間計画(案)を基にして、講師の方々と打ち合わせを行い、子どもたちの探究学習を推進するためにはどうしたらよいか、知恵を出し合い、環境学習のカリキュラムを改善・修正します。

事前学習
ガイダンス1】
 前年度までの環境学習の写真や動画、「報告新聞(レポート)」を用いて、フィールドワークへの動機付けを行い、子どもたちは1年間に及ぶ環境学習全体の見通しをもちます。[1時間]
【ガイダンス2】
 環境学習を行うフィールド・里山に関して、市の職員から市の里山保全に関する様々な取り組みについて学びます。特に、生物多様性回復のための取り組み、コウノトリの野生復帰に向けた取り組みについて深く学びます。[1時間]
【テーマ別学習】
 生徒一人一人が、自分自身の興味・関心に応じて、「野鳥」「昆虫・水辺の小動物」「植物」の3つのテーマの中から、一つを選択します。選択したテーマごとに分かれ、各テーマについて造詣の深い複数の講師から、里山の自然環境について、さらに動植物の具体緒的な観察・調査方法と留意点などについて学びます。[2時間] 

プレ・フィールドワーク
【目的】
.「個人テーマ(生徒一人一人が、約1年をかけて探究する課題・問い)」を設定する。
.「個人テーマ」を解決するために、「何について・どんなこと(観察・調査の内容)」を、「どのように(観察・調査方法)」して観察・調査すればよいのかを明確にする。
.里山の自然に接し、動植物を見る・触れる・においを嗅ぐといった観察体験を通して、フィールドワークへの興味・関心を高める。
.フィールドワークの実際について、具体的なイメージと見通しをもつ。
【実施方法】
 生徒は、25名ほどの3つのグループに分かれ、フィールド・里山を巡りながら、生息している動植物の特徴や生態、それぞれの関係性について、講師から解説をしていただく。生徒は、グループごとに講師からの解説を聞きながら、観察と記録を行います。[1時間]これを「野鳥」→「昆虫・水辺の小動物」→「植物」と、テーマごとにローテーションして3回行うのです。[合計3時間]
【ふりかえり】
 プレ・フィールドワーク終了後に「ふりかえり」を行い、講師や理科の教科担任のアドバイスも得ながら「個人テーマ(探究課題)」の設定と「観察調査の内容」及び「観察・調査方法」の確認を行います。[1時間] 

フィールドワーク(本調査)
 「個人テーマ(探究課題)」を解決するために、春、夏、秋、冬の季節ごと、講師と共にフィールドワーク(観察・調査)を行います。[2.5時間]
【ふりかえり】
 各季節のフィールドワーク終了後にも、毎回「ふりかえり」を行います。そこでは、講師や教科担任からのアドバイスを参考にしながら、「個人テーマ(探究課題)」の解決に向けて、「明らかになったこと」や「わからないこと」「新たな疑問」の確認、「観察・調査計画の修正」などを行います。[1時間]もちろん、「大切な友だち」のやり方でhttp://projectbetterschool.blogspot.jp/2012/08/blog-post_19.html 

報告新聞(レポート)の作成
 春、夏、秋、冬の季節ごとのフィールドワークについて、生徒一人一人が、上記の「ふりかえり」を通して得られたことと写真記録などを中心に、それぞれ新聞形式のレポートとしてまとめます。[1時間+家庭学習]×4回 

環境学習報告会
 生徒一人一人が作成した「報告新聞」に基づいて、1年間に及ぶ環境学習全体の報告会を行います。ポスターセッション方式、「野鳥」「昆虫・水辺の小動物」「植物」の3つのテーマをミックスした6人程度の小グループによるジグソー方式など、試行錯誤しながら「学んだこと・発見したことの共有化」を行っています。[2時間]

 このように、時間と手間をかけ、中学校の教員が地域の人材と連携・協同して「学びの原則」に則ったカリキュラムを開発すれば、学区にある里山という地域の資源・自然環境を活用し、子どもたちの「問い」を大切にした「探究学習」を実現することができるのです。

2016年12月11日日曜日

「比べ読み」のパワー


比べ読みの第2弾で、比較した本は以下の3冊です。
①『崩壊するアメリカの公教育』★
②『公教育をイチから考えよう』
③『逆転の教育: 理想の学びをデザインする』

下に記すのは、あくまでも、私にとっての「元気度」というか、「得られるもの度」です。

①を、「私が得られる元気度/得られる学びや収穫」で、1とすると
②は、3か4で(オランダの復習に)
③は、70~80です。(イヤ、100いっているかもしれません。何を読み取れるかによりますから。いま2回目を読んでいます。上の本2冊は、とても2回読む気にはなれません。)

それほどの中身の違いがあります。

しかし、私の感想と、アマゾンで見られる評価とはまったく違います。逆さまと言った方がいいぐらいです。

①は岩波書店、②は日本評論社、③は緑風出版が出版社です。

私が読んだ3冊の本の質は、その出版社の規模と反比例の関係にあるかのようです。
出版社の規模(というよりも、正確には編集者の質や好み?)が、みごとなぐらいに出す本に現れているということかもしれません。
売れる本と「得られる学びや収穫」がある本かどうかはまったく別物です。規模が大きい出版社が、売れる本を出版できたとしても、その本が「得られる学びや収穫」が小さかったら、あるいはマイナスだったとしたら、結果的にしていることはマイナスの効果になるような本、ということかもしれません。

これも、学校で選書能力を一切教えない弊害の感じがします。
(学校の国語は、良書主義にのっとって行われています。要するに、「権威にお任せ」方式です。権威=大きいものです。他の教科では、本を読むこと自体、放棄しています!)
選書能力=題材選び=問題設定能力を培わない学校は、単に「権威にお任せ」の準備をしているだけ、と言えます。(もちろん、子どもたちに対してよりも、教師自身がそれらを体験し、身につけることが先決なのですが・・・自分が知りも、体験もしていないことを、子どもたちに提供することなど、できるはずがありませんから。)

ちなみに、
人は、自分の読みたいものしか/自分の読めるものしか、読みません/読めません。
そこに書いてあるものを読んだり/読めたりするのではなく。★★

ですから、上の「1、3か4、70~80」というのは、あくまでも私がいまの時点で下す評価であって、他の人は違う可能性があります。
もし、興味がもてたら、ぜひ皆さんの評価を教えてください。

繰り返しますが、確認させてくれるのは「比べ読み」の大切さです。
前回と同じく内容については、触れないことをお詫びします。
興味をった方が、自分の読みを楽しんでいただきたいので。(と同時に、鵜呑みにせずに、ぜひクリティカルに読んでいただきたいので!)

『逆転の教育: 理想の学びをデザインする』だけは、簡単に入手/情報が得られにくそうなので、http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-1605-7n.htmlをご覧ください。


★ これを書いたのは2か月ほど前なので、今となっては『崩壊するアメリカの公教育』の代わりに、http://thegiverisreborn.blogspot.jp/2016/11/116.htmlを紹介したいぐらいかもしれません。
★★別ないい方をすれば、その人がその時点でもっている知識や体験の総体で読みます。従って、同じものを読んでも、得られるものは人によって自ずと違います。「知識や体験(や感受性?)の総体」が違いますから。同じ人など、いるはずがありません。
日本の伝統的な国語の授業は、このことを無視してやられています。教師がいうことに合わせられる子どもたちは、数割(数%?)しかいないのに。
演劇や映画(あるいは音楽会)の鑑賞のように、主体的にお金を払って来館してくれる人たちなら、「知識や体験(や感受性?)の総体」が違っても、人それぞれ楽しんでくれる/理解してくれるわけですが(その内容は極めて幅広いものだと思いますが)、強制的に学ばされる国語の授業では、大半の子どもたちが学んでいることは、「僕は/私は、国語が嫌いだ!」です。私の小中高時代の国語の時間のように。ほとんど拷問でした! 受け入れられない解釈に、テストのために従わざるを得ないのですから。(もちろん、以上のように国語で言えることは、すべての教科でも同じように言えてしまいます。)


2016年12月4日日曜日

地域教育コーディネーターの果たした役割から見えてきたこと★


 今から8年ほど前、平成20年度から文科省の「学校支援地域本部事業」がスタートしました。事業の主な目的は、「多様な教育機会やきめ細やかな教育の実現、教員の負担軽減による子どもと向き合う時間の確保、地域住民の知識や経験を生かす場の拡充」でした。 

 そして、教師の多忙化を少しでも解消し、子どもたちの豊かな学びを実現するために、「地域コーディネーター」あるいは「地域教育コーディネーター」と呼ばれる人たちが、学校に配置されたのです。★★ 

「コーディネーター」の人たちの役割は、その名前のとおり、学校・先生たちや子どもたちのニーズに応じて、学校内外の様々な人材をコーディネートしてくれるというものです。私が勤務した中学校では、以下のようなコーディネーションが行われていました。 

地域の教育資源・人材を生かした「わくわく授業(特別授業)」を実施するための連絡・調整★★★

キャリア教育の一環として行う中学生の「職業体験学習」や「職業人・プロとのトークセッション」などに協力していただく企業や事業所、商店、幼稚園・保育所などの開拓と実施に向けての連絡・調整

図書ボランティア」の人材発掘・確保(図書室の本の整理だけでなく、子どもたちが図書室に行って本を読みたくなるような環境づくり、図書委員会の子どもたちとの連携・協同によるポップづくりと新着図書の展示会の開催、各教科の学習内容と関係の深い本を廊下などに配架、本の読み語りなど)

■「学習支援ボランティア」の人材発掘・確保(数学のティームティーチングや放課後の「補習」での個別指導)

■校庭の樹木の剪定や花壇づくりを行うための人材発掘・確保 

 これらは、「学校支援地域本部」が設置され「地域教育コーディネーター」が配置される前までは、教師や管理職がコーディネーターの役割を担っていました。その意味では、教師にとってはものすごい負担の軽減になりました。正に、コーディネーターは、学校・教師にとって、強力な「応援団」「助っ人」とも呼べるものです。 

 しかし、本質的な問題点もありました。それが、地域の教育資源・人材を生かした教科における「わくわく授業(特別授業)」の中にあったのです。 

理科では、「ゲスト・ティーチャー」として、地元にある理科系の大学の教員や企業の研究所の研究員、博物館・科学館の学芸員、高等学校の理科の教員、昆虫や植物の生態に詳しく「自然観察指導員」の資格をもっている地域在住の方などに学校に来てもらいました。 

企業の研究員による「パイナップル果汁に含まれる酵素のはたらきを調べる実験」、高校の生物の教員による「ほおの内側の粘膜細胞からDNAを抽出する実験」、大学の教員による「燃料電池の実験」や「液体窒素による物質の状態変化と超電導の実験」など、中学校の教員だけでは実施が難しい「発展的な内容」の学習が多く行われてきました。 

 それぞれが、中学校の理科の教科担任からのニーズに応じたもので、単元の学習指導計画に年度初めに位置づけて実施しました。決して、ゲスト・ティーチャーへの「丸投げ」にならないよう、教科担任のニーズを基にして「コーディネーター」が連絡・調整をしました。 

 どの授業も中学生にとっては、理科に対する興味・関心を高める内容であり、正に「わくわく授業」であったと思います。また、「わくわく授業」の実施のプロセスが、教師にとっての学び(「教材研究」)を深める機能も果たしていました。さらに、学校と地域の人材との連携促進、つまり「学びのネットワークづくり」にもつながりました。 

しかし、そのほとんどが、単発のイベント的な学習に過ぎないのです。単元の学習を通して、子どもたちの中から湧き上がってきた「疑問」や「もっと調べたいこと」、すなわち子どもの素朴な「問い」に基づいた主体的で発展的な「探究学習」ではないのです。 

つまり、どのような授業を行ううえでも、教師は、「学びの原則」★★★★を踏まえた「学びのデザイナー」としての役割、すなわち「カリキュラム開発」を行うことが必要なのです。そのカリキュラムに「わくわく授業」が位置づけられていたかが、問題だったのです(教科書会社が作成した「単元指導計画」に位置づけるのではなく)。 

 次の機会に、この問題点をどのように解決・克服したか紹介します。 



★ 今回の内容は、次の機会に、「教師の本来の役割」を見直すための前段的な位置づけです。 

★★ 「地域教育コーディネーター」の多くは、PTAの本部役員経験者や保護者です。 

★★★ 理科を中心に、国語、社会、数学、英語、音楽、美術、家庭科など、ほとんどすべての教科で実施されました。教科書にはない発展的な内容を扱う「特別授業」が多く行われています。 

★★★★ 吉田新一郎・岩瀬直樹『効果10倍の学びの技法』pp.99102PHP新書],http://projectbetterschool.blogspot.jp/2012/03/plc_18.html

2016年11月27日日曜日

これからの教師に求められるものとは


PLCだより』1113日の記事『21世紀の教師の特徴』をお読みになりましたか?

ここに掲げられている項目は、これから教師が目指すべき方向性がとてもわかりやすく書かれていると思いませんか。
   

「学習者中心のクラス」はここで何度も取り上げられてきたことなので、敢えて取り上げませんが、2つ目の「紙からデジタルに」は今後の教育を考える上で、避けて通れない道です。
   

(生徒たちは)「多様なSNS(ツイッター、インスタグラム、フェイスブック、LINEなど)やブログや動画などを使いこなしています。これらをいつまで教室/授業から閉め出しておくことができるでしょうか?」
   

 まさにそうなのです。私がこれまで出会ったアメリカの教師たちはその多くが自身のブログを開設していました。ある小学校の理科教師はそのブログを通じて、授業の様子などを個人情報に配慮しながら、誰が見てもわかるような形で公表していました。保護者も自分の子供が今どんなことを学んでいるのかが一目でわかるようになっているのです。

また、この先生は自分の興味関心のある分野の最新のニュースなども掲載し、子供たちの関心を高めるような工夫もしていました。また、保護者だけでなく、その地域に住む人とのコミュニケーションも積極的に図るような取組もありました。

このように書くと、「一人の教師がそんなことをすると職員の和が乱れる」とか、「ネットの危険性はどうなんだ」という話がすぐに出てきそうです。確かにSNSはリスクがあります。しかし、そのリスクを上回る効果があることに注目してよい時期に来ているのです。
     

「グローバル」と言いながら「教育に関する情報」という点では「鎖国状態にある」というパートナーの指摘はとても的を射た話であると思います。学校教育を良いものにしていくヒントはすでに欧米の研究や実践の中にそのほとんどがあると言っても言い過ぎではないでしょう。教師自身のブログもデジタル・ポートフォリオとして、ぜひ活用すべき時期に来ているのです。 

これからの教室での学びについても、「探究学習やPBLが中心に」という指摘がありました。
   
『情報をもっているのは教師だけ(教科書だけ)という時代の学びと、情報はどこからでもすぐに得られる時代の学びとは、自ずと違います。後者の時代の学びに適しているのが探究学習=PBL(プロジェクトや問題設定&解決学習)です。』

 
 アメリカの理科教育に関する実践記録を読んでいると、さかんに「Inquiry」という言葉が出てきます。Inquiry、すなわち「探究」です。「探究」の意味を広辞苑で調べてみると、「物事の真の姿をさぐって見極めること」とあります。

ここには、二つの行動があります。「探る」ことと「見極める」ことです。

「探る」ことは、形式的には「観察」や「実験」という形で実際の授業でも行われていることと思います。難しいのは、「見極める」ことでしょう。そして、この「見極める」ことが本当に授業として行うのに値するものであるためには、導入部での「問い」の立て方が肝心であるということになります。また、評価のあり方も問題になるでしょう。

 そして、「見極める」段階で、ICTを効果的に利用することも、「紙からデジタルに」の具体策の一つです。

このような特徴を備えた「探究学習」を日々の授業で実践していくことが学び続ける教師に求められているわけです。

 

 

 

 

2016年11月20日日曜日

自分のメンターの選び方


 これは、子どもたちが各自のメンターを見つけるときのモデルとして試してみるといいかもしれません。(でも、実は子どもたちのほうが先をいっているのです。子どもたちは、メンターを探すのが得意です。自分の興味関心があることなら、自分よりもうまくやっている子を見つけて「それどうやるの?」「それどうすればできるの?」「そのやり方、教えて!」と聞けてしまうからです。年齢が上がるに従って、聞くのが確実に下手になります。)

 新任の教師はもちろんのこと、常に向上したいと思っている教師★にとってメンターの存在は欠かせません。(このブログでも、その大切さは繰り返し書いてきました。
 今回は、自分にピッタリあったメンターの選び方に焦点を絞って書きます。

1.教師を楽しんでいる人
 楽しんでいることも、その反対に楽しんでいないこと(=苦痛?)も伝播してしまいますから、どうせなら前者の方がいいに越したことはありません。それは、ちょっと観察すれば分かってしまいます。楽しんでいる人を選んでください。

2.子どもたちが好きで、授業が大好きな人
 教えることは、科学であると同時にアートです。
 科学の部分は、凝縮すると「学びの原則」です。
 さらに一言でいうと、子どもたちが「分かった」や「できる」や誰かに自分が発見したことを教えることで目を輝かせている状況をできるだけたくさんつくり出している、ということです。
 アートの部分は、人間関係の形成、やる気の持たせること、クラスの一体化、サポーティブな教室の雰囲気などです。クラス運営のノウハウは、教師としての仕事を楽にも苦しくもしますから、決定的に重要です。
 これらすべてを一人の人が持ち合わせていることは稀かもしれませんから、子どもたちが本当に好きな人(これのかなりの部分はクラス運営に現れます)と、科学とアートの観点からの授業が好きな人という2つの観点から、何か光るものをもっている人を選んでください。

3.一人に限定する必要はない!
新任の場合、公式なメンターはあくまでも選択肢の一つとして位置づけます。馬が合う合わないは、努力では乗り越えられない領域なので、無理をする必要はなく、ほどほどに付き合ってください。一方で、公式・非公式に如何に関らず、すべての人を自分のメンターの対象として考えてください。要するに、可能性は末広がりだ、ということです。(自分の学校内や市内だけに限定することすらありません。いまやインターネットの時代なのですから。言葉に制約がなければ、メンターは世界にまで求められる時代です!)
 そして、いろいろな人の得意領域から学ぶというスタンスも大切です。(なかなか、一人の人がすべてに秀でているということは稀なので。)これによって、一人に常に相談することで、過剰な負担をかけなくて済むということもあります。

4.学びは双方向! さらには波及効果さえあるもの
 質問をしたり、助けを求めたりすることは容易ではありませんが、尋ねられたり、求められたりしたら、ほとんどの人は喜んで応えます。メンタリングの関係は、メンティー(サポートされる側)にとっての学びがあるのと同じくらいに、メンター(サポートする側)にとっても学びがありますから★★、ドシドシ活用してください! それが、自分や子どもたちを含めて、誰にとってもいいことなのですから。

 以上の他にメンターの人選に当たっての注意点やヒントが考えられる方は、ぜひ教えてください。

 以上は、メンターの選択について書いてきましたが、ある意味では読書する時の選書や、作文を書くときの題材選びと同じと言える気がします。(選書は、自分にピッタリの本を選ぶ。題材選びは、自分にピッタリの各題材を選ぶ、です。) さらに、批判的思考とは訳さないクリティカル・シンキングを磨くチャンスでもあります。クリティカル・シンキングとは、大切なものは何かを見極める/選択する(と同時に、大切でないものも何かを見極める)力ですから。


★ 日本ではあまり紹介されていませんが、教師の違い(教え方の違い)で子どもたちの学力を含めた成長の違いがどれだけあるかということは、欧米では計測されて続けています。(「効果的な教師」や「効果的な教え方」の名の下に、少なくとも40年ぐらいの実績があります。もちろん、この種の研究にどれだけの信憑性があるのかということは、常につきまといますが・・・でも一方で、常識的に誰もが感じていることを数値化してくれているだけとも言えます。)たとえば、より効果的な教え方ができる教師は、そうではない(つまり、自分が子ども時代に体験したような教え方を踏襲したままの=指導案にのっとった授業をする)教師に比べて、約3倍の違いを生み出しているという結果が出ています。
  この種の研究が明らかにしてくれることは、教師と一言でいっても多様であり、教師一人ひとりは常によりよいクラス運営やよりよい教え方を志向できるということだと思います。そして、それは終わりのないプロセスです。
  その意味では、「もうこれでいい/十分」と割り切ってしまっている教師は、早く退職した方が子どもたちのため、ということになります。そう周りから思われないようにするためにも、メンターを確保して成長し続けてください。

★★ 相手が学べていないと思えたら、即メンタリングの関係を解消した方がいいです。お互いにとって時間の無駄を避けられますから。公式な指導教員との関係の場合は、残念ながら解消するわけにはいかないので、我慢してください! (いや、黙って我慢しているよりは、教育委員会の担当者にその旨を伝えてみてください。教育委員会にとって自分たちがどれだけおかしなことをしているのか気づく機会になりますから。しかし、そのアクションを起こす前には自校の校長・教頭を含めて、少なくとも5人に必ず相談してください。)



2016年11月13日日曜日

「21世紀の教師」の特徴


 あなたは、タイトルからどんな特徴を思い浮かべますか?
 特に、「20世紀の教師」と対比して。

タイムマシンがあったとして、50年前、100年前、150年前を瞬時に移動できるとしたら・・・・そして、私たちに身近ないろいろなものの生産現場や消費現場、そして学校などを見て回れるとしたら、おそらく一番変わっていないのが学校ではないでしょうか?(先日、二宮君の「坊ちゃん」を見ましたが、まったくいまと同じでした!!)

でも、ほとんどすべてのものが急激なスピードで変わりゆく中で、学校だけが変わらないというのは、いいことなのでしょうか?(あるいは、許されるのでしょうか?)

そこで見つけたのが、表題の記事でした。「21世紀の教師」がもっていることを期待される特徴にはどのようなものがあるのでしょうか?

1.学習者中心のクラス
 生徒たちは存在するあらゆる情報・知識にアクセスできるのですから、教師が生徒たちの頭の中に情報や知識を順序よく流し込むような教え方をする必要は、もはやありません。そして、すでに個々の生徒の学び方、学ぶスピード、得意・不得意、目標(夢)などが歴然と違うこともわかっていますから、一斉授業をやり続けることもできません。生徒たちには選択肢が提供され(生徒自身が選択肢をつくり出すことも含めて!)、自分の興味関心を活かしながら、主体的に学べる授業が中心です。

2.ワークシートなどの紙からデジタルに
 生徒たち(大学生まで含めて)は、生まれた時からインターネットやパソコンが生活の一部になっているデジタル世代です。多様なSNS(ツイッター、インスタグラム、フェイスブック、LINEなど)やブログや動画などを使いこなしています。これらをいつまで教室/授業から閉め出しておくことができるでしょうか? 教師も、これらを使いこなせないと、生徒たちとのコミュニケーションがとれなくなるかも??
 生徒たちは、TEDhttps://www.ted.com/talks?language=ja)を見るのが大好きですし、フェイスブックなどで授業中だけでなく継続してやり取りをするのも大好きです。

3.グローバル
 日本は明治以降、「国際化」と叫び続けてきた歴史がありますが、150年経った今でも、その実態はほとんど伴っていません。すでに直接つながれる時代であるにもかかわらず、多くをマスコミの情報(それは、偏った情報!?)に頼り続けているのが現状です。(特に、教育に関しては、鎖国時代が続いているといった方がいいかもしれないぐらいです。)
 情報はすでに存在しています。それにアクセスするか否か選択肢を教師一人ひとりはもっています。自分のほしい情報を、自分で得るのが21世紀の教師の大事な柱です。

4.ブログを書く
 ブログを書くか書かないかは、もはや選択肢ではありません。仕事の一部です!! まさに、「デジタル・ポートフォリオ」をつけることですから。生徒たちに、同じことをしてもらうモデルです!(何は情報として掲載することができ、何はできないのかも含めて。さらには、文章力が大切であることも!)

5.協力関係
 ワークシートなどの資料で紙を使い続ける限りは、管理を意味します。それに対して、デジタルは協力です。生徒たちや同僚と(さらには、保護者や地域の人たちとも?)協力して、授業だけでなく様々な活動に取り組めます。紙だとコミュニケーションが途切れてしまうのですが、デジタルだと継続的にも行えます。いいアイディアは一方通行からも、一時のイベントからも生まれません。双方向の途切れることのないやり取りからこそ得られるものです。

6.探究学習やPBLが中心に
 情報をもっているのは教師だけ(教科書だけ)という時代の学びと、情報はどこからでもすぐに得られる時代の学びとは、自ずと違います。後者の時代の学びに適しているのが探究学習=PBL(プロジェクトや問題設定&解決学習)★です。それは、生徒が自ら興味のある質問や題材を設定するところから始まり、専門家に接触することも含めて、多様な媒体を使って調べ、まとめ、そして発見したことや解決策を当事者たちやクラスや学校のみんなに発信する学びです。これまでの調べ学習と違うところは、教師が設定した質問設定ではないことや教室の中で発表して終わりではないことです。本当のフィードバックをその当事者たちからも得られます。それが、次の探究やPBLのサイクルを回していく原動力です。

7.学び続ける
 学ぶことを卒業してしまった人には、21世紀の教師は務まりません。教科書をカバーしていれば済む時代では、もうありませんから。情報と知識は刻々と増えて続けています。それらをやみ雲に追いかけるのではなく、自分に必要なものをわきまえて取捨選択しながら、学び続けることは何よりも大切なことです。(おそらく、そこにこそ生徒たちは一番惹かれますから。)


★ 作家の時間や読書家の時間は、国語における探究学習=PBLと捉えられます。サイクルを回し続けるところも、同じです!

参考:


2016年11月6日日曜日

初任者指導教員の役割~学び続けることの大切さ~


 平成元年から始まった初任者研修制度では、「初任者研修」として、「校内研修(OJT)」を週10時間以上、年間300時間以上、さらに「校外研修(Off-JT)」を25日程度という膨大な時間を費やします。しかし、それによって初任者の力量形成がどれだけ図られているでしょうか?

 大きな問題を抱えている「校外研修」について今回は触れませんが、「校内研修」にも問題があります。まず、初任者が「初任者指導教員」を「選べない」ということです。「選べる」ようにすることは、現実的に不可能です。それでは、この「校内研修」の問題を解決・改善するためには、どうすればよいでしょう? 

それは、「初任者指導教員」が学び続け、職責を全うできるようにするしかありません。「初任者指導教員」は、最新の脳科学や認知心理学などの知見に基づく「学習科学」、「授業デザイン・カリキュラム開発」や「カリキュラムマネジメント」について学び、そして、初任者の人材育成を効果的に進めるための「コーチング」や「メンタリング」の理論と方法論を学び、身につける必要があります(このことは、初任者や管理職を含めた教師全員に当てはまることだと思います)。 

つまり、「初任者指導教員」には、自ら学び続けることが義務づけられているのです。しかし、不思議なことに、このことは「初任者指導教員」を対象とした研修会で、ほとんど強調されません。おかしな話です。初任者指導教員が学び続けることによって、初任者が教師としての力量をアップできる可能性が大きく広がるわけですから、「学び続けること」が、初任者指導教員の「使命・ミッション」であるといえるでしょう。 

 実は、私、この4月からある小学校で「初任者指導教員」をしています。週に2日半の勤務で、二人の初任者を担当しています。 

■初任者の授業を参観して放課後などに行う授業実践の「ふりかえり」は、『作家の時間』(プロジェクト・ワークショップ編、新評論)の4773ページに掲載されている「カンファランス」のスタイルで実施することを基本としています。ここに書かれている実践は、正に、人を育てるための「コーチング」や「メンタリング」で大切にされていることと同じなのです。 

■授業実践の「ふりかえり」の流れ及び初心者指導教員としての「基本的なスタンス」は、以下のとおりです。

1.初任者本人の授業実践の「自己評価」からスタートする。

2.「プラスのフィードバック・勇気づけ」を多くする。→ 「信頼関係」が生まれる。

3.「質問」を通して、本人の「気づき」を促す。
  → ポイントは、「授業が、子どもが主体の学習になっているかどうか」

4.本人が自分自身で考えるために必要な「情報提供」や「提案」、「選択肢」を示す。 情報提供:参考になる本やインターネット上の情報、研究会などを含めて

5.できる限り、本人の考えや希望・やりたいこと・やってみたいことを優先する。

6.一緒に考える。

7.モデルとして示す。→ 「マイクロ・ティーチング」のスタイルで行う。

8.辛抱強く待つ。決して、拙速に一方的に押し付けたりしない。

9.初任者が、気になることや困っていることの確認をし、相談相手になる。
  (授業、学級経営・生徒指導、保護者や教職員との人間関係etc.

10.積極的に校内の先生方に教えを請うたり、アドバイスやフィードバックをもらうことを推奨する。→ 初任者本人が、校内での「メンター」を見つける。 

 初任者指導教員は、初任者の「伴走者」として、初任者本人と学級の子どもたちの状況を注意深く見守り、初任者の主体性と思いや願いを尊重しながら、初任者の教師としての成長と行動や意思決定をサポートするという重要な役割を担っているのです。

2016年10月30日日曜日

魅力ある職場をつくるには


魅力のある職場を作るには
     

学校を訪問して、職員室に入るとだいたいその学校の組織の雰囲気がわかると言われます。今でもときどき学生の教育実習の際に小学校を訪問することがあります。特に、放課後に訪問すると、とても活気のある職員室もあれば、多くの職員が下を向いて黙々と仕事をしているところもあります。

活気のない職場は、お互いがたこつぼに入って、あまり他人に関わりたくないという感情に支配されているケースが多いようです。あるいは人のことに口出しして、余計なトラブルに巻き込まれたくない、そんな気持ちもあるのでしょうか。

 
    組織開発・人材開発に携わる高橋克徳氏によると、「今、日本の職場の五割は明らかな問題を抱えており、七割の職場が活力のないものになっています。」とその著書(『ワクワクする職場をつくる』実業之日本社2015)の中で述べていますが、その数字の妥当性はともかくとして、学校に限らず、かなりの職場が「いきいき」とした状況にはないようです。

さきほどふれたように、「たこつぼ」型の職場は、「言われたことだけやればいい」「余計なことをしてミスして、責任を取らされたら損だ」という雰囲気が蔓延している職場です。

最近はコンプライアンスや個人情報保護など、気をつけなければならないことが以前よりも多くなり、また成果主義が求められるようにもなってきていることもその大きな要因だろうと思います。

 
このブログのタイトルでもある「学びの共同体」というフレーズは、教育関係の書籍や雑誌等にも紹介されることが以前よりも増えていますが、「言うは易く」です。

この国の教育界では、「理想的な美辞麗句」が様々なところで用いられていますが、その現実との落差には目を覆いたくなるものがあります。
     

さて、今回「魅力のある職場」を取り上げるにあたって、「人が働く理由」「モチベーションとは何か」などについてもしばらく考えてみました。

「人は何のために働くのか」

実に古くからの課題であり、様々な人々によって繰り返し語られてきたことです。

「お金のため」「名誉のため」その理由は人それぞれですが、やはり「だれかのために役立ちたい」ということが最終目標でしょうか。学校教育であれば、「子供たちのために」です。

 次世代の社会をつくると言えば大げさですが、教師にとっては「子供たちとのかかわり」が「生きている自分を実感できる」からではないでしょうか。

 そのように個々の教師がイキイキと活動できるためにも、学校という組織もイキイキとする必要があります。そこには、管理職やミドルリーダーのリー―シップが必要ですし、部下職員の立場からはそのリーダーシップについていく「フォロワーシップ」が大切なのだと思います。
   
 これまでも教育の内容を改善しようとして、具体的な仕組みを変えていくことがしばしば行われますが、仕組みだけではその中にいる人間の行動は変わりません。やはり、危機感や思いをもった人たちがどうにかしたいという思いを共有して、動き出すのが一番です。

 先週の『一人ひとりが「変化の担い手」にある方法』も参考になります。もう一度読み返してみてください。
     
また、参考図書として『効果10倍の(学び)の技法 シンプルな方法で学校が変わる! (吉田新一郎・岩瀬直樹PHP新書2007)を具体的に動き出す際のヒントにされるとよいでしょう。

 
※この原稿を書いていた27日に、文科省の2015年度「問題行動調査」の結果が公表されました。それによると「いじめ」の学校による認知件数は過去最高の224,540件とのこと。

28日の毎日新聞の記事に、森田洋司・鳴門教育大特任教授による「自殺などの深刻な事態に発展するケースは教員同士の情報共有がうまくいっていない場合が多い。何か問題を見つけても、教員は責任感から1人で解決しようと考えがちだが、素早く組織的な対応をすることが苦しんでいる子供を救うことにつながる」という発言が掲載されています。

まさに「情報共有」「組織的対応」は、「いじめ」だけでなく、「魅力ある職場づくり」の基礎となる項目です。

2016年10月23日日曜日

一人ひとりが「変化の担い手」になる方法


教育の世界で、改善、変革、改革が必要であることは長年言われ続けてきたことです。
しかし、それが実現される兆しはまったくありません。
それらが言われたり、書かれたりするだけでは、何事も変わりません。
言ったり、書いたりすることではなく、実際の行動を起こすべき時です。

いまの時代(特に、ディジタルな世界)に学校という仕組みや機能がマッチしていないのではないか、という共通認識を多くの人が持ち始めています。これまでの世界ではなく、これからの世界を生きていくのに必要な知識やスキルを学校は扱っていない、ということです。

必要な改善、変革、改革を、文科省や(その下請け機関である)教育委員会が起こせないことは、過去数十年の体験を通して誰もが認識しています。そして、意味のある変化は、個人のレベルでしか起こらないことも。個人の継続的な努力が、学校や教育委員会を動かすことも。一人ひとりの教師(そして、生徒も!)が変化の担い手です。学校や教育委員会レベルのリーダーたちにできることは、教室単位の改善や変革を可能にするために、そのための壁を取り払い、教師たちに新しいことに挑戦することを奨励し、自主性を促し(権限を提供し)、そして元気づけ/サポートすることです。もちろん、教師が相互に元気づけ/サポートし合うことも不可欠です。それこそが、最も大切で、難しく、そして満足の得られることです。

一人でも多くの教師が、教育を改善・変革する担い手となるためにできる具体的なこととしてどんなことが考えられるでしょうか?

     モデルで示すのが一番! 同僚にしてほしいと思うことを率先して示す(言ったり、考えたりするのではなくて、行動する) ~ そのためには、情報収集は大切!
     あなたが求める改善・変革に関する情報を共有する。
     脈のありそうな同僚を、自分と一緒に意味のある研修の場に誘う。来てくれない時は、事後の報告を、行かなくて損をしたように思わせる紹介をする ~ よりベターな方法は、自分が研修で学んだことを実践しているところを実際に見てもらう。
     教員たちが自己規制してしまっていること(結果的に、改善・変革をしないという選択をしてしまっていること)に、果敢に挑戦する。
     自分たちで変化が起こせてしまうことをモデルで示すだけでなく、同僚のサポートをして、変化を起こさせてしまう ~ 「変化の担い手」になってもらう!
     自分たちが当たり前と思ってきたことを改善することで、子どもたちの学びや成績が向上するのをしっかり記録や数字で見せる ~ いい記録を取ることは大切。
     辛抱強く待つ ~ 子どもたちと同じように、同僚たちもスンナリは変われない!
     子どもたちを巻き込む。学校は子どもたちのニーズを満たすところ。子どもたちも変化の担い手になってもらう。教師にいつも動かされている子どもたちではなく、自分たちで考えて行動する主体になってもらう ~ これは、授業でも、行事でも。(言われたら大人しく動く子どもたちの方が楽だが、そういう子どもたちを育てることが学校の目的ではない!)
     いい関係を築くことに努力する ~ 何事も、そこからしか始まらない。相手が、同僚であろうと、子どもたちであろうと。

「変化の担い手」に興味を持たれた方、もっと詳しく知りたい方は、『エンパワーメントの鍵』をご覧ください。

参考: ASCD ExpressJuly 28, 2016”Leaders Can Remove Barriers for Change Agents” by Eric Sheninge


2016年10月15日土曜日

先週の話題へのコメント


先週の話題「『ありがとう、さようなら』を読んで」についてコメントします。

 
私もこの記事を見るまで、この本のことは知りませんでした。

早速、取り寄せて読んでみました。
   

しかし、よくも悪くも、日本人が書く学校というのはこのレベルなんだろうな~、と思わされました。 何も変わっていかない、ということも含めて。

➡読んでみて、パートナーがこのような感想を抱いた理由が理解できました。

 
彼女の目はあくまでも作家の目や、なりたい教師になって満足している教師の目であって、よりよいものを子どもたちに提供することに生きがいを感じる教師の目ではないのです。

➡書かれている内容は、ほとんどすべてが授業以外の話です。体育祭、文化祭、修学旅行といった学校行事の様子や生徒会など。確かに、学校行事等で盛り上がったり、生徒と一緒に何かを作り上げたりするという面白さはあると思います。学校行事が果たす役割も重要です。しかし、授業以外は所詮脇役なのです。やはり主役は日々の授業。この授業の楽しさや面白さが語られなければ、学校教育を語ったことにはならないでしょう。
   

たとえば、理科の授業で目の前で起きた現象の裏側の「目に見えない」原理や法則がわかったときの不思議さや面白さ。歴史の授業で、歴史的な出来事の背景にある人々の苦悩や葛藤、思い、不条理なことなどを知ること。そのような場面を仲間とともに学ぶ喜び。あるいは生徒とともに、また保護者や地域の人々のサポートを得ながら学習活動を展開していく授業づくり。本来ならば、そのような授業の場面こそ、学校をテーマにした物語に相応しいと思います。
   

『ありがとう、さようなら』のような本が、世に出る仕組みや構造(=日本の出版のあり方やそれを取り巻く社会のあり方)まで考えさせられてしまいました。

➡授業づくりに関係する翻訳本などを出版することの難しさを知ると、今の出版業界のあり方について考えさせられます。

 
物理教育に長年携わっていた川勝 博さんが書かれた「理科教育法講義」(海鳴社2016)には、理科のカリキュラムづくりに取り組む教師や教師志望の学生たちの様子が描かれていますが、そのような取組が学校の中でもっと広まっていくといいなと思います。
   

※この文章を書きあげた後に、レイフ・エスキス「教師としていちばん大切なこと」を手にすることができたので、少し読み始めました。こちらはやはり授業の中での子供とのやりとりや子供たちのためにどんなことができるのかを懸命に追究した教師の物語が描かれています。彼我の差は大きいです。

 

2016年10月9日日曜日

瀬尾まいこ著『ありがとう、さようなら』を読んで


どういう経緯でこの本を読むことになったのかは 覚えていません。

現役の中学校の国語の先生をしながら、文学賞を3つもとりながら作家・執筆活動をされている方とか。(これを書いた当時は。いまは、執筆業に専念されているようです。)
ウィキペディアには「日常生活のなかにある温かな気持ちを描くのが秀逸で、いずれの作品も読後に じんわりとした感動を与えてくれる」と書いてあります。(いま探しましたが、この引用箇所は見つかりませんでした!)

しかし、よくも悪くも、日本人が書く学校というのはこのレベルなんだろうな~、と思わされました。
何も変わっていかない、ということも含めて。

彼女の目はあくまでも作家の目や、なりたい教師になって満足している教師の目であって、よりよいものを子どもたちに提供することに生きがいを感じる教師の目ではないのです。

たとえば、2冊の翻訳が出ているレイフ・エスキスが書いている本など比較してしまうと...
(ランディ・パウシュの本もかな?)

『ありがとう、さようなら』のような本が、世に出る仕組みや構造(=日本の出版のあり方やそれを取り巻く社会のあり方)まで考えさせられてしまいました。★★★

上に書いたことって、RW★やPLC★★とは関係ないでしょうか?
それとも、関係ありますか?

ぜひ、反応をお願いします。

★★ http://projectbetterschool.blogspot.jp/ で扱っているテーマのことです。
★★★ 実は、今回紹介している文章のオリジナルを書いたのは6年半前の2010年1月でした。( )は、今回付け足しました。従って、今となっては「『ありがとう、さようなら』のような本」の中には、このブログでも紹介した木村 泰子著の『「みんなの学校」が教えてくれたこと: 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』も含まれる気がします。
でも、売れないのを分かっていながら、イギリスの学校の紹介本を出してくれる出版社がまだ存在していることが救いです。
★★★★ 瀬戸さんは作家としては優れていると思います。たくさんの子どもたち(と大人たちも?)の指示を受けていますから。単に、優れた作家=教育の担い手あるいは変革者ではないということだと思います。(しかし、このズレによってつくり出される間違ったイメージを修正することは、容易ではありません。)