2020年1月24日金曜日

教科書は教材のひとつ

最近ある本の「あとがき」に次のようなことを書きました

 「学校」という言葉から連想されるものとして多くの人は「教科書」を第一に挙げるのではないでしょうか。ただ「教科書」には一般的なイメージとして、退屈で面白くないという印象もともなうように思います。

 そのような退屈な教科書もわが国では、その宿命として、学習指導要領が変わるたびに一新され(ほぼ10年周期)、その間、改訂版が出されるとしてもそのときどきの社会情勢や新たな知見とは3,4年のずれが生じることになります。特に大きな影響があるのが理科、社会科だろうと思います。
 最近、『「鎖国」を見直す』荒野泰典/岩波現代文庫2019を読みました。
 この本は、現在でも我が国の多くの人が、江戸時代は「鎖国」状態にあったと信じている常識が「実はそうではありませんでした」と史料をもとに解説しています。長崎におかれた出島を通じてオランダなどとの交易があったことは私たちも学生時代に学んだことですが、実は長崎以外にも、対馬、琉球(これは主に薩摩藩)、松前の3か所が交易の窓口として開かれていたというのです。筆者の荒野さん曰く、「江戸時代にはこれら4つの口」があり、そこから海外の産品や情報が出入りしていたようです。私たちのイメージとしては、厳しく海外との交易は制限されていたのが江戸時代だという感じではないでしょうか。
 その原因の一つとして、荒野さんは次のように指摘しています。

江戸幕府の正史である『徳川実記』という資料のなかに書かれていた「異国渡海之禁」を日本史研究者の山本博文さん(東京大学大学院情報学環教授、史料編纂所教授)の指摘があるまで、多くの研究者がすべての日本人の海外渡航を禁じていたと誤読していたため、それが長らく私たちの発想を縛ってきたというのです。

また、別な要因として、明治政府が自らの立場の正当性を主張するために、ことさら江戸幕府の施策を貶め、「鎖国」→「開国」の流れこそ、新しい国造りという「坂の上の雲」的な精神に合致すると考えたことも影響しているようです。
このように「鎖国」という歴史上の一つの出来事をとってみても、研究の成果によってその解釈が変わってくることがあります。教科書の記述はその制作された時点での事実に基づいたものであり、絶対ではないということです。

また、「鎖国」を暗記すべき項目として捉えるならば、何の面白みもない学習になります。ところが、「鎖国」を問いの出発点として、ダイナミックな人間社会の営みを描き出すこともできるのです。しかし、教科書の限られたスペースでは、このような面白い人間ドラマを描くことは不可能です。ですから、教科書の語句だけを追う授業では無味乾燥なものになってしまうのは当たり前です。他の教科にしても、重要な部分だけを決められたスペースに入れ込むために、どうしても「退屈で面白くない」ものになってしまいます。
したがって、これから求められる授業とは、たとえば、この「鎖国」を出発点として、縦横無尽に人間社会の営みを描き出す広がりのある探究型の授業が基本になるものでしょう。

そのような授業では、教科書はたくさんある資料の一つという扱いであり、単元の学習内容に関連する資料を様々なところから集めてくる必要があります。アメリカの学校での実践事例では「テキストセット」という形式のものがあります。これは、教師(または図書館司書)によって作成されたあるテーマに関するさまざまなリソースで構成された資料のコレクション(セット)のことです。こうした資料をもとに、生徒はそれぞれの探究課題を追究することになります。 

理科においても、すでにこのブログでも紹介されている『だれもが<科学者>になれる』(新評論)のような探究型の授業がスタンダードになる必要があります。

また、教科書は今後も学校教育のなかで、形はどうであれ、引き続き主たる教材として使用されることになると思いますので、それをいかに効果的に利用していくか、その点も忘れてはならないと考えます。その話は次回、私の担当する回ですることにします。

2020年1月19日日曜日

深い学び 再考


 「深い学び」については、https://projectbetterschool.blogspot.com/2017/03/blog-post_19.htmlで触れています。しかし、すでに形骸化してしまったというか、「不変と流行」の流行として洗い流されてしまったのでしょうか?★ 学校現場でその言葉自体聞くことはあるでしょうか? 先生たちは、日々の実践でどれほど意識しているでしょうか?

「主体的、対話的で深い学び」は、このブログが始まったときから、その言葉はあえて使っていませんが、中心テーマの一つであり続けています。
たとえば、先週の「PLC便り」も、それを見事に実践している授業の紹介でした。
そして、「主体的、対話的で深い学び」が起こっている時に、教師がしていることと生徒がしていることの違いを明確にしています。(教科書中心の一斉授業との対比で。)

 これらを別な言葉でいうと、生徒たちがオウナーシップをもった授業であり、エンパワーする授業です。(両方とも、カタカタですみません! 概念自体が、日本の教育では乏しいので、いい日本語にまだなりません。)
 「オウナーシップ」は、「自分のものと思えること」です。「主役意識がもてること」です。「エンパワー」は「力を与える」や「権限を委譲する」と訳されることが多いのですが、「人間のもつ本来の能力を最大限にまで引き出す」ことです。

 これら2つについて言及している資料を二つ紹介します。
 一つは、いま訳していて3月に発売予定の『あなたの授業が子どもと世界を変える ― エンパワーメントのチカラ(仮題)』の中に描かれている図(76~77ページ)です。(たまたま、ゲラ校正をしているのでコピーできました!)

 あなたは、図に納得したでしょうか?
 数学教師の井本さんの授業には、最初の「選択」はありませんでした。井本さんが提示した「良問」を解くことしか、生徒たちは許されていませんでした。しかし、みごとなぐらいに、「オウナーシップ」はもっていましたし、「エンパワー」されていましたし、「深い学び」をつくり出していました。
 しかし、教師の役割は、常に良問を提示することでいいのでしょうか?
 あなたは、他にどのような質問や疑問をもたれましたか?
 図に示されている順番には、納得できますか?

 もう一つは、このブログでだいぶ前に紹介している絵本の『てん』から私が導き出した(というよりも、『エンパワーメントの鍵』で紹介されていた)図です。
 その図も、カタカナばかりですみません。
 このサイクルを回すことによって、人がどんどんエンパワーされることは理解できると思います。
 さらには、最初は「クリティカルな問いかけ」は教師からされるわけですが、サイクルを回し続ける(練習する)ことによって、徐々に自分で(ないしは、クラスメイト相互に)問いかけられるようにもなります。

 教師ないし教材が主役の授業から、生徒たちが主役の授業にはやく転換しないと、いつまでたっても正解におどおどする生徒たちを拡大再生産するだけです。(後者の「生徒たちが主役の授業」が、「主体的・対話的で、深い学び」の中身だと思うのですが、言い始めた人たちはそのことを理解していたでしょうか?)

★ 文科省のすることは、宿命的にそういうところがあります。しっかり普及・定着させるノウハウをもっていないので。もちろん、それは本気度も問われます。自分たちはアドバルーンを上げるのが役目、と考えている節が多分にあります。また、責任者がいないという大きな問題も。言い出した人たちは、数年でどこかに異動してしまいますから。そういえば学校(特に管理職)の人事もそうでした。
少なくとも、文科省や教育委員会が上で書いたようなエンパワーする組織になっていないことは確かです。それをモデルとして示すことが一番大切なのに、そんなことは頭のどこにもありません。そして、エンパワーの真逆の「従順、服従、忖度」をまき散らす組織になっています。困ったものです。学校や授業は大丈夫ですか?

2020年1月12日日曜日

NHKのプロフェッショナル仕事の流儀 数学教師の井本さんの授業を考える


先日、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀をご覧なりましたか? 数学教師の井本さんの紹介でした。
プロフェッショナル 仕事の流儀 答えは、子どもの中に~数学教師・井本陽久~
見逃してしまった方は、再放送 114日火曜日 午前020分〜NHKでご覧ください。

生徒たちが夢中になって学ぶ姿がとても魅力的でしたね。考えることそのこと自体が「自分たちのもの」になっていました。生徒たちは教室内を自由に歩き回り、井本先生がまるでいなかったかのように、問題について夢中になって話し合い、考え合っていました。そう、学習者中心の授業でした。

今回のPLC便りは、なぜあのような姿が生まれるのか? 井本さんの授業づくりについて予想してみます。

従来の一斉授業と比べてみると、その特徴がとてもわかりやすいため、下にリストを作ってみました。すでに放送をご覧になった方は、下のリストを読む前にペンをもって、一斉指導型の授業との違いについて考えてみてから、読んでください。
(リストは、前半は一斉授業にありがちなこと、後半が井本さんの授業でVTRから見取れることを/(スラッシュ)で分けています)

教師について
・教科書の問題を扱っている/先生が教えたい問題を扱っている
・たくさん問題をとく/一つだけ問題をとく
・教えることがいっぱいある/考えさせたいことをしぼりこんでいる
・答えのある問題しか扱わない/答えがない問題を多く扱う
・知識をカバーする/知識を少なくして学びのプロセスをつくっている
・間違いをできるだけ減らす/間違いを歓迎して活かそうとする
・正答を誰が発言するかを予想する準備している/間違えを予想して徹底して準備している
・分からないと進めないから教える/分からないことは夢中になれると考えている
・先生は教えることに忙しい/先生はひまなのでうろうろしている


生徒の様子
・教師に指名されて発表する/勝手に考えを共有しようとする
・自分の席で独りで学ぶしかない/教室内、自由に立ち歩き、どこで誰とでも学び合える
・言われたことをうつす/自分で必要なことを書き出す
・先生が満足/生徒がぷるぷるしている(幸せを感じている)

どうして井本さんのような授業が可能なのでしょうか? 教科書を使わないとこうなるのでしょうか? 多くの教師は教科書を使って(に頼って)よりよく教えようとしています。もし、その教科書をとっぱらって、あなたが本当に教えたいことを教えていいとしたら、一体何を教えますか? それを何で見取って、そのためにどんな教材を選択しますか? あの授業には、教科書はありませんでしたが、生徒の「学びのプロセス」をつくっていました。つまり、何をよりよく教えるのかではなく、人はどのように学ぶのかがよく理解されている授業でした。

この授業のしかけのひとつは、教師が配った問題にあります。一つの授業でたった一問だけ。そのぶん、じっくり考えさせるものです。難しいからこそ誤答をふり返り、修正し、一人では解けないことで仲間同士の交流が自然と生まれ、関係性を引き出し、さらに問題に夢中にさせてしまうんですね。これはうまいやり方です。この授業は何かを教える教師主導型の授業ではなく、生徒に考えさせたい学習者中心の授業なのです。

作家の時間、読書家の時間を算数授業に応用した「数学者の時間」に取り組んでいる先生たちは、このように生徒を夢中にさせてしまい、答えが一つに限らない問題を良問と呼んでいます。同じように1時間でたった1問だけを扱います。ときにはその問題だけに、4時間もかけることだってあります。それでも、子どもたちにとって挑戦しがいのある問題となっています。

きっと、問題を用意している井本先生自身がその問題を本当に好きなのでしょう。その熱量によって、生徒たちは誰もがついうっかりと問題へ誘い込まれてしまいます。だからこそ、井本先生は生徒たちがどのように解いたのか、また間違えたのか、その解答に夢中になれるんですね。VTRでは休日にもかかわらず、朝から晩まで夢中になって授業準備をしている姿がありました。その生徒たちの一見正答のような誤答例を使って、さらに深く考えられるように問題を準備していました。先生自身が自立した学び手であることがなによりも伝わってきます。

「間違えの中にこそ発見がある。その発見が面白い。面白いから生徒は考えることに夢中になれる。その夢中は、人を自然と試行錯誤する人へと高めてくれる」、問題はそんな井本先生の哲学があります。「自分で考えない限り、教師が教えたことは身につかない」と繰り返し訴えていました。言われたことや教えるべき事をカバーするのが先生の仕事と思っていません。生徒に考えさせることが教師の仕事だと、その矜持が伝わってきます。

教科書をカバーすることだけに縛られず、よりよい問題を扱っていくことはできないのでしょうか? 私たち多くの教師は、教科書をいきなり捨てることはできませんし、そう簡単に良問を用意もできそうにありません。どの教室でも、現行のカリキュラムを活かしつつ、よりよい学習者中心の授業を実践する算数ワークショップ「数学者の時間」を、今年中に提案する予定です。「数学者の時間」でも、同じように子どもたちは考えることをもがきながら、楽しんでいます。こういった授業をつくれるように、計画的なミニレッスンで短く教え、試行錯誤できるワークタイム、それを支える教師の個別カンファランス、考えの道筋を記録する数学者ノートを活かし、深く考え、学びを共有し合うことを目指します。今年の出版、期待していてお待ちください。



井本先生は、毎朝、学校で生徒たちに会えるのを楽しみにしていました。先生自身が教えたいことを教えたいように、自由に、ありのままに活きる姿が、生徒たちをもまた魅了しているのかもしれません。数学を通して、自分を信じ、認め合おうと輝こうとする生徒たちに、愛情を伝えているんですね。

皆さんはこの授業のハイライトはどこにあると予想しましたか? よい授業を紹介されると思考が刺激されますね。まだの方は今週の再放送があります。是非ご覧ください。よかったら、ご意見、ご感想をお聞かせください。

2020年1月5日日曜日

2020年。あなたたにできることは何ですか?

新年、あけましておめでとうございます。

2020年。オリンピック・イヤーの幕開けです。

まだ小さかった私には、1964年の東京オリンピックの時の記憶はほとんどありませんが、当時の日本人が抱いていた高揚感のようなものを感じたことを覚えています。なんだかよくは分からないけど、明るい未来が訪れるような、そんなワクワクした気持ちに胸が高鳴ったものです。

戦災からの復興と国際社会への再デビュー。高速道路も新幹線も全て東京オリンピックを目指して作られたインフラでした。いわば、戦後日本の高度経済成長の礎を築いた大会だったと言えるでしょう。

あれから、50年以上の年月が流れて、迎える2020東京オリンピック。1964年当時は、国全体がナイーブに肯定していたのでしょう。オリンピックに対する捉え方もずいぶん変わりました。多様で、複雑な価値観が取り巻くようになってきた。皆さんは、どのような思いを抱いて、この大イベントを迎えますか?

1964東京五輪へのノスタルジーに浸る人もいるでしょう。商業主義のスポーツ大会に何の意味があるのか、強い疑問をもつ人もいるはずです。選手目線で考えると、もっと純粋なものが見えてきます。自分自身の限界への挑戦、努力、チームワーク、絶叫、感動。スポーツには人の心を動かす様々な要素があります。

皆さんは、どのようなスタンスでこの大イベントに接しますか。オリンピック反対の論陣を張って、SNSなども活用しながら、世論に訴えて行きますか?それも一つの方法でしょう。仲間を募って、デモ隊を組織しますか?日々、テレビにかじりついて、日本選手に声を枯らして応援を送るのも、一つの選択です。オリンピック観戦を契機にして、ジョギングを始めて、健康で豊かな人生を送ろうと決意する人もいるでしょう。

しかし、どのような反対意見があろうが、どのような賛成意見があろうが、確実にオリンピックはやってきます。私たちが抗うことができないところで、進んでいく物事はたくさんあるのです。

賛否の議論は大切です。大局を見た議論や学びは不可欠だと思います。一方で、今自分にできることは何か、考えて行動することも、同じように大切だと思います。

「意見が一致しないので、自分は何もやらない。」つまり、ゼロかイチかといったデジタル思考のみでは、この複雑な時代を前に進めることは困難だと思います。

今、学校教育も、複雑で混沌とした時代に入ってきました。

本質を見極める議論はもちろん大切ですが、この大きなうねりの中で、今、私たちにできることは何かを考えて行動していきたいものです。

“Do one thing everyday that makes you happy.” ★

今年もよろしくお願いします。

★Elena Aguilar (2013) The Art of Coaching, Jossey-Bass, p40.