2025年8月21日木曜日

試験って何?

 ドラマ「僕達はまだその星の校則を知らない」 の第6話 秀才にカンニング疑惑!?

https://tver.jp/episodes/epu7ykc3sr?p=0 の18分あたり(+35分、41分も? 25日(月)までしか見られません!)です。これは、教育界でも受け入れられている捉え方でしょうか? 

2025年8月17日日曜日

頑張らない/力を抜く子育て(教育)のすすめ

 『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』を読んだ熊本県の松永先生(小学校)が感想/紹介文を送ってくれたのでそのまま載せます。

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 みなさんは子育てにおいて、「力を抜く」という視点を持ったことはありますか? 双子の父であるぼくは反対に、力を入れて子育てすることを望んでいました。二人分の子育てを一度にやるのですから、我が子のことを思うと、二倍いや、それ以上に頑張らなくてはいけないと思っていました。しかし、うまくいかないことばかりの毎日に、だんだん疲弊していき、これまで経験したことの無い感情のアップダウンに頭を抱えたことは、一度や二度ではありません

 『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(築地書館)の著者であるマイケリーン・ドゥクレフも、同じように頑張って子育てをしているにも関わらず、子どもの激しい癇癪によって母親としてどん底に落ちる経験をしています。そんな彼女が行きついたのは、狩猟採集民の子育てです。それは、(誤解を恐れずに言うと)頑張らない子育てです。

 頑張らない子育ては、ぼく(のような親)や著者のような人たちを、どう助けてくれるのでしょうか。

 

 本書で紹介されている事例の一つに、家事分担表に関することがあります。

もし家事分担表が、火曜日は皿洗い、水曜日は掃除、金曜日はゴミ出しをするように指示していたら、子どもはこれらの仕事だけが自分にとって必要な仕事だと思い込んでしまうかもしれません。そうなると、子どもはそのとき以外には注意を払う必要がなくなったり、分担表に書かれていない家事を無視するようになったりします。分担表が子どもにアコメディードの正反対を教えてしまうことになるのです。つまり、「あなたの責任は表に書いてあることだけ」ということです。

子どもたちが自分の周りの世界に注意を向け、特定の家事がいつ必要なのかを学ぶこと

 家事分担表をつくって、家事に参加させようと頑張る必要はないのです。子どもたちの心には、「貢献したい気持ち」があることも本書は教えてくれます!

 

 「力を抜く」視点の欠落は、何も子育てに限った話ではありません。学校教育でも同じようなことがよくあります。つまり、よかれと思って生徒たちのために頑張りすぎているということです。その頑張りは一体、誰の何のためになっているのでしょうか。子どもたちの自立を促すものになっているでしょうか。先の家事分担表に関する事例で言えば、本書ではこのように書いてあります。

(狩猟採集文化では)子どもが歩き始めるとすぐに、親は小さなお手伝いを頼み始めます。時が経つと、子どもは家の中で何をしたらいいかを学び、そうして、子どもが大きくなるにつれて頼みごとの数は減っていくのです(増えるのではありません)。子どもが九歳から十二歳になる頃には、すでに何が必要かを知っているので、大人はもはや多くのことを要求する必要はありません。逆に、九歳から十二歳の子どもにお手伝いを頼むことは、かなり失礼だと言えます。それは、彼らが成熟していない、学んでいない、そして、幼稚であることを意味するからです。

 学校教育で、掃除当番表や係活動一覧表などを積極的につくってはいないでしょうか。掃除や係活動をしなかった生徒たちがいたときは、「責任をもって行動できないと、社会に出てから困るよ!」と別のあれこれを頑張るようなこと(別の時間に掃除をさせるなど)をしてしまってはいないでしょうか。これらが子どもたちの自立を阻むことになってしまうと考えないままに!

 つまり、頑張らない/力を抜くということは、これまで正しいと思い込んでいた子どもとの関わり方を手放し、よりよい子どもとの関わり方を知ることです。そして、頑張り続けているのにも関わらず、自分にとっても子どもたちにとっても何も残らない(どころか、子どもの自立を阻害してしまっている!)という負のサイクルから脱出することです。

 

 しかし、実際に家事(や学校の中での様々な仕事)に参加させるとなると、時間も労力も忍耐力も必要です。狩猟採集文化の人たちは、一体どうやっているのでしょうか。その答えの一つはやはり、頑張らないと言えるかもしれません。(ただし、「頑張らない=何もしない」ではないことは、改めて強調しておきます!)具体的な考え方や方法は是非、本書を読んでみてください。そのどれも納得してしまいます。なぜなら、本質的によい関わり方を知ることができるからです。(世界中の六つの大陸で何千年もの間試されてきたことです!)つまり本書は、親だけでなく教師にとっても、読む価値が大きいです!

 

 さて、本書で得られる別の視点も書いておきます。

頑張ってしまっていること

阻んでしまっていること

代わりにすること

ほめる

内発的動機づけ・協力

子どもの貢献を承認するなど

叱る

親子関係・よい行動を教えること・感情のコントロール

口を閉じる・その場から離れる・子どもの行動を捉え直す・待ってから修正するなど

コントロールする

内発的動機づけ・親子関係・自分で考え、決定する機会

子どもを励ます・ストーリーテリング・ドラマなど

 よかれと思って、ほめたり叱ったり、コントロールしたりしていませんか?代わりにすることは、第10章「子育てに役立つツールの紹介」もご参照ください。役立つものばかりです。

 

 親も教師も、頑張り過ぎるほどに頑張っています。日々、必死に闘っています。苦しいのは、こうした頑張りが実を伴わないことです。ですから、少し肩を力を抜いてみませんか?そして、力を入れるところ・入れないところを見直すことで、実を伴うことがあるかもしれません。少なくとも、ぼくにとっては力を抜く機会になりました。そして、親や教師として子どもたちと関わるヒントをもらうことができました。それは、「練習・モデル・承認」と「TEAM」です。「TEAM」はTogetherness(共に過ごすこと)・Encourage(励ますこと)・Autonomy(自立)・Minimal interference(最小限の干渉)の頭文字をとったものです。

 以前ぼくは、お腹が空いて「まんま!まんま!」と泣き叫ぶ我が子たちに「準備してるからあっちで待ってて!」と言っていました。しかし、素直に待ってくれるはずもなく、お互いに声のボリュームは大きくなっていました。しかし、本書を読んでからは(半分騙されたと思って)「これ、もっていこうか!」と提案し、一緒に配膳しました。すると、我が子たちは大喜びです!次から次へと準備を助けてくれましたし、互いに大きな声なんて出さずに済みました。また、時に羽交い絞めまでしていた歯磨きは、「自分からやるように伝えて」と言い、歯磨きをするタイミングを子どもたちに委ねたり一緒に隣で歯磨きをしたりしました。二人とも、泣き叫ぶことはありませんでした。最も驚いたのは妻です。普段、ぼくが本から学ぶことが多いのを知っている妻が、「何かいい本あったの?」と聞くばかりではなく、(読書嫌いにも関わらず)「その本貸して!私も読みたい!」と言ってきました。効果は絶大です。穏やかな就寝を迎えることまでできました!

 

 エピローグからは、著者の我が子に対する捉え方が変わったことが伺えます。きっと、優しさに満たされた親子関係が築かれていくのだろうと、心が温かくなりましたし、ぼく自身もそんな親子関係を築けると実感を伴って感じます。

 間違った方向にエネルギーを使ってエネルギーを奪い合うという負のサイクルを脱し、優しさとあたたかさ、そして尊重を伴ったエネルギーのサイクルを回せるようになれば、それはこの上なくステキなことだと思います。是非、そのきっかけづくりに、本書を読んでみてはいかがでしょうか。

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実は、松永先生、こちらの本の紹介文を先に送ってくれました。これを読んですぐに「頑張らない子育ての授業版というか学校版はどんなものだと思いますか?」という質問をしたところ、8月3日に掲載した「教師が『頑張らない』のは、自分のためだけじゃなく、生徒のためにも!」を早速送ってくれました。それには、夏休み中に先生たちが読める本のおススメ・リストが紹介されていたので、こちらと紹介する順番を変更して先に掲載したという経緯がありました。

2025年8月10日日曜日

子どもの「間違う権利」を尊重した数学的対話のつくり方

 アメリカの教育実践を見ていると、「権利を主張する」場面がよく見られます。授業のはじめに教師と子どもが「権利と責任の契約」を交わし、学習の土台を明文化する光景は珍しくありません。一方、日本の教室では、こうした文化はあまりなじみがありません。私自身も、授業の中で子どもが発言しやすくなるのは、あらかじめ権利を掲げたからというより、むしろ「気付いたらその権利を自然に使えていた」という瞬間だと感じています。子ども同士の対話が成立し、「間違ってもいい」「考えを変えていい」ことを実際に経験したとき、はじめて「あれは自分の権利だったのか」と事後的に理解する。その過程こそが大切なのでは。そう考えて改めて手に取ったのが、Amanda JansenRough Draft Math』(未邦訳)でした。 

答えよりも考え方へ 下書きアイディアを共有するラフドラフト思考

https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html

 

以前のPLC便りの記事でも紹介したように、正解を重視する授業から、思考の過程を重視する授業への転換を提案しています。「ラフドラフト思考」では、子どもが未完成の考えを共有し、比較や議論を通して理解を深め、最終案にまとめるプロセスを重視しています。教師は誤りではなく思考の変化に注目し、安心して意見を出せる協同的な学びの場をつくることで、子どもたちは主体的かつ探究的に学ぶようになるのです。

 

ランディ先生は『Rough Draft Math』第2章で、子どもが「思考途中のドラフト(下書き)」を安心して出せる教室づくりを最も大切にしています。彼女が目指しているのは、子どもたちが自分の考えを出すことを恐れず、他者の考えにも耳を傾け、そこから学び合える場です。ここでは「正解を早く出す」ことよりも、「考えを広げたり深めたりするプロセス」にこそ価値があります。

 

そのために、ランディ先生は授業で次のような環境を整えています。

・意見が異なっても評価的に否定しない。

・途中の推論や不完全な考えを歓迎する。

・相手の意見に質問や提案を重ねて対話を発展させる。

・「間違ってもいい」「考えを変えていい」という権利を子どもが自然に行使できるようにする。

 

このような文化があると、子どもたちは単に答えを求めるだけでなく、数学的な概念をより深く理解するための対話に踏み出せるはずです。この「学習者としての権利」は、紙に書かれた規約として存在するのではなく、まさにこうした日々のやりとりの中で生きていくものだと、ランディ先生は示してくれています。

 

この第2章には、子ども同士が評価的にならず、思考途中のアイデアを出し合う場面が描かれています。

 

【問題】

ある店主は万引きを防ぎたいと考えています。店の天井に防犯カメラを設置することにしました。カメラは360°回転することができます。店主はカメラを店の角にあるPの位置に設置します。上から見た図には、店内に10人の人が立っている場所が示されています。

① Pのカメラから見えない人は誰ですか? その理由を図に示して説明してください。

② 店主は「店の15%はカメラから見えない」と言っています。これが正しいことを、はっきりと示してください。

 





カメラ位置は壁によって死角ができるという設定です。この課題をめぐる対話は、正解を一気に求めるのではなく、途中経過を共有しながら進んでいきました。今、読んでいる読者の皆さんも、ご自分で考えてみてから以下の子どもたちのやりとりを読んでみてください。

 

子ども1:「カメラをここ(角)に置いてあるから、ほとんど全部見えるよ。」

:「ほんと? FHは見えないはず。それはカベが邪魔になっているから」

子ども2:「僕も、同じように考えた。こうやって線をひくと。。。」

先生:「2人に質問はありませんか?」

子ども3:「もしこのカベがガラスのカベだったとしたら?2人はみえるよね。どうやってガラスじゃないって判断したんですか?」

子ども2「もしそこがガラスのカベだとしたら、こんな問題にはならないはずだと、考えたんだ」

先生:「そうだね、このカベは透明で向こうが透けて見えないものではないんだね」

先生:「他に質問はありませんか?」

 





このやりとりの価値は、単にカメラ位置からみえる人物を特定することではありません。子どもたちは互いの考えから問題を整理し始め、修正し合い、現場検証をしながら理解を深めていきます。ここでは「自分の考えを途中でも出せる」「間違ってもいい」「質問してもいい」という権利が自然に機能していました。

 

教師の役割は、このような途中の対話を価値あるものとして認め、教室文化に定着させることです。算数・数学はとくに問題解決の結果をプレゼンテーションのように発表してしまいがちです。完成度や正答の速さではなく、途中の試行錯誤や他者とのやりとりそのものを学びの中心に置くことが大切です。そのために教師は、

・誰かの発言をきっかけに新しい見方が生まれたら、それをクラス全体で共有する

・意見の違いを衝突ではなく発展の種として扱う

・「間違い」を失敗ではなく思考の過程として位置づける

といった姿勢を持つ必要があります。

 

Rough Draft Math』では、このような学びの文化を支えるために「学習者の権利」が示されています。以下はその一例です。

 

・間違う権利

・途中の考えを出す権利

・他者の考えにのって変える権利

・納得いくまで考える権利

・質問する権利

 

ただし、これらは固定的なリストでは決してありません。授業の場で実際に使われ、加筆修正され続けるべきものです。特に、子ども自身が「今日、自分はこの権利をこう使った」と発表することは、権利を形骸化させず、生きたものとして根づかせる上で効果的です。

 

ここで、ぜひ読者の先生方にもお勧めしたいことがあります。セキュリティカメラの問題を実際にやってみてください。途中の段階でも、近くにいる誰かと話し合ってみましょう。その際、正答を求めるための会話ではなく、相手の見方や新しい気づきを引き出すことを意識してみてください。そのプロセスこそが、数学的対話の価値であり、概念理解を深める活動なのです。

 

正答を求めるのではなく、理解に重きを置いた数学的対話を行うこと。その文化があってこそ、子どもたちは安心して途中の考えを共有し、他者とのやりとりを通して学びを豊かにしていきます。そして、そうした場においてこそ、学習者の権利は「あるもの」ではなく、「使われるもの」として輝いていきます。

2025年8月3日日曜日

教師が「頑張らない」のは、自分のためだけじゃなく、生徒のためにも!

『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』を読んだ熊本県の松永先生(小学校)が「頑張らない子育てのすすめ」という内容の感想/紹介文を送ってくれました。それに対して、「頑張らない子育ての授業版というか学校版はどんなものだと思いますか?」という質問をしたところ、早速次の文章を送ってくれたので共有します。

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 子育ての最初は、みな初心者です。何をどう頑張ればよいのか分からぬままただひたすらに頑張り続けた結果、時間的・精神的余裕がなくなり、我が子にあたってしまった経験はありませんか? 一所懸命頑張っているのに…と空回りすることは、とてもつらいです。

 教師も同じく、最初からスーパーティーチャーのような人はいません。だからこそ、よいとされているものに(素直に)従って頑張るものの…それがゆえに時間的・精神的余裕をなくすことになってしまっては、自分も生徒もつらい状況に陥ってしまいます。

  

 教師はしばしば、”生徒のために/よかれと思って”してしまうことがあります。発問・導入・指導案・授業研究会・学級経営・生徒指導・評価などなど、教師はよいとされてきた(本当に)多くのことに、一所懸命に取り組んでいます。

 しかし、こうした頑張りは一体どれほど、誰かの・何かのためになっているでしょうか?


 『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(マイケリーン・ドゥクレフ著、築地書館)では、子育て/教育においてよいとされ続けてきた「叱ること」や「ほめること」すらもしない狩猟採集民の子育てについて書かれています。驚くべきことに、狩猟採集民の子育ては、子どもの自立を促すものになっています!

 つまり、よいとされてきたものの多くは、近代の西洋文化においての話であって、世界的/長い歴史的視点で捉えると、よいとは決して言い切れないのです。同じく、教師として一所懸命に頑張り続けているものも、その全てが生徒の(自立の)ためになっているかどうかは、定かではありません。


 ただ…そうは言われても、(代わりに)何をどう頑張ったらいいの?という疑問が浮かんできます。その答えの1つは、「支援者としての主体性」と言えるかもしれません。『はじめに子どもありき 教育実践の基本』(平野朝久著、東洋館出版社)には、以下のように書かれています。

そもそも人間の真の成長は、どんなに幼い子どもでも、他人(教師)がさせてなるものではなく、他人の支援は受けつつも、自らが築きあげていくものである。人間が人間らしく生き、成長する限りにおいて意思決定の主体者は、あくまでその子ども自身なのである。もちろん教師は、その支援者として為すべきことがある。支援者としての主体性は発揮しなければならない。しかし、支援者なのであるから、子どもに代わって意思決定(判断)し、それに子どもを従わせたり、子どもを操り人形のように操作して子どもになにかをさせるのではない。 


 一つの事例として、宿題について取り上げてみます。

 目指すべきは、教師が宿題を出さなくとも、生徒が自ら学べるようになることです。つまり、生徒の自立です。宿題を出し続けたりやり直しをさせたりすることにエネルギーを割いてしまっていては、自分だけでなく、生徒もエネルギーを奪われます。(しかも、学び嫌いにもさせてしまいます!)言葉を濁さずに言うと、「ムナシイ頑張り」を続けることになりかねません。

 そうは言っても、生徒が自ら学べるようにすること(生徒が自立すること)はそう簡単ではありません。(平野さんの言葉を借りれば、子どもは操り人形なんかではなく、人間なのですから!)しかし、「ムナシイ頑張り」を手放すことはできます。


 日々のくらしを振り返ってみて、「ムナシイ頑張り」だと思うものが1つや2つではなかった場合、一度それらを手放すことで、時間的・精神的余裕が生まれるでしょう。浮いたエネルギーを、生徒の頑張りに寄り添うことに充ててみてください。生徒がいて、生徒に合わせて頑張る※のですから、頑張りがムナシク空を切ることはありません。それは、https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.html の表の一番右側にある「responsive teaching」と言えるでしょう。そして何より、(自分のためだけでなく)”結果として”生徒の(自立の)ためにもなります!


 「ムナシイ頑張り」を手放し、何にどう力を入れたらよいのかについて知るためのヒントとして、(※の2冊以外にも)以下がおススメです。夏休み、時間的・精神的余裕をつくって、読んでみてはいかがでしょうか。


 ・『「しない」が子どもの自力を伸ばす』

 ・『学びの中心はやっぱり生徒だ!「個別化された学び」と「思考の習慣」』

 ・『教育のプロがすすめる選択する学び 教師の指導も、生徒の意欲も向上!』

 ・『あなたの授業が子どもと世界を変える エンパワーメントのチカラ』

 ・『聞くことから始めよう!やる気を引き出し、意欲を高める評価』


※生徒がいて、生徒に合わせる教師の関わり方の一つに、カンファランスがあります。生徒一人ひとりの状況に応じてやり取りをすることです。また、やり取りしたことを評価し、次のやり取りへ活かしていきます。『社会科ワークショップ 自立した学び手を育てる教え方・学び方』や『作家の時間 「書く」ことが好きになる教え方・学び方 実践編』(https://x.gd/v3zaU)をご参照ください。


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 ありがとうございました。

 おススメの本には、次のようなものも含められます。

・『宿題をハックする 学校外でも学びを促進する10の方法』

・『教科書をハックする 21世紀の学びを実現する授業のつくり方』

・『教育のプロがすすめるイノベーション』

・『一人ひとりを大切にする学校』

・『「考える力」はこうしてつける』

2025年7月27日日曜日

核家族での子育てが、親への負担を過剰にした! ➡ 教えるのは教師一人でない方がいい?

 人類は、その歴史の99.9%以上の時間(日本でも、たかだか、100年ぐらい前まで)は、大家族での子育てが当たり前でした。しかも、大多数の男親は子育てにはほとんどかかわっていないし、さらに最近20~30年はシングル(その多くは母親一人の)ペアレントも増えています。

それまでは、おばあちゃん、おじいちゃん、おばさん、おじさん、めいやおい、そして近所のおばさんやおじさん、さらにはちょっと上の子どもたちによって世話されていたのに、いまやひとり親がそれらすべての人たちが担っていた役割まで果たしているのですから、荷が重すぎます。

 そこで本書で紹介しているのが、狩猟採集民のなかでは当たり前のアロAllo(アロ)」はギリシャ語の「ほかの」という意味から来ています)ペアレントの存在です(『「しない」が子どもの自力を伸ばす: 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』の第15章)。

 母親と父親以外で、子どもの世話を手伝ってくれる人なら誰でも、アロペアレントになることができます。親戚、隣人、友人、あるいはほかの子どもでさえ、素晴らしいアロペアレントになることができます。

 人類学者サラ・ブラッファー・ハーディーは、こうした「多くの助け」ないし「追加の親」が人類の進化に不可欠だったと考えています。彼女はキャリアを通じて、この仮説を裏づける膨大な証拠を収集しました。サラは、人類が子育ての責任を集団で分担するように進化してきたと考えています。同時に、人間の子どもは、単に両親二人だけでなく、数人の人々と結びつき、絆を深め、一緒に育てられるように進化したと信じています。

 私はかつて、このアロペアレントの家族が「愛の輪」と呼ばれているのを聞いたことがありますが、それはとても適切な表現だと思いました。(同上、353~4ページ)

 現代の狩猟採集民の一例として、中央アフリカの熱帯雨林に何千年も住んでいるエフェ族の例を紹介してくれています。

母親が出産するとすぐに、ほかの女性たちが彼女の家を訪れて赤ちゃんの「SWATチーム(特殊部隊)」を編成し、赤ちゃんのすすり泣きや泣き声にいつでも対応できるように準備します。彼女たちは生まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめ、寄り添い、揺らし、さらには授乳もします。人類学者のメル・コナーが書いているように、「ぐずる赤ちゃんへの対応は、集団の努力です」。数日後、母親は仕事に戻り、赤ちゃんをアロママに預けることができるのです。

 新生児は生まれて最初の数週間、平均して15分ごとに一人の世話係から次の世話係へと移ります。赤ちゃんが生後3週間になるまでに、アロママによる世話は新生児の身体的な世話の40%を占めます。16週間までには、なんと60%を占めるようになります。さらに2年後には、その子どもは母親と過ごす時間よりも、ほかの人々と過ごす時間のほうが多くなります。(同上、354~5ページ)

 まさに、「母親が赤ちゃんの人生で唯一の存在となり、赤ちゃんの世話に全力を注ぐ西洋の状況とは大きく異なります」(同上、355ページ)

 また、アロペアレントは、他の母親たちだけが担っているわけではありません。子どもの年齢が大きくなるにつれ他の父親たちも、そして6歳~11歳ぐらいの子どもたちも担っています。

フィリピンの狩猟採集民のアグタ族を研究している人類学者アビゲイル・ペイジの報告によると、6歳から11歳のこのミニ・アロペアレンツは、幼い子どもたちのケアの約4分の1を担当していました。彼らは母親たちの手を空けさせ、女性たちは仕事に戻ったり、ただ休んでリラックスしたりすることができました。そして、これらのミニ・アロペアレンツは、単に子守りをしたわけではありません。それ以上のことをしていたのです。彼らはその役割を真剣に受け止め、乳幼児に対しての教育も行いました。

 アビゲイルは、世話が必要な子どもより5歳ほど年上の幼い子どもこそが最高の教師になれると考えています。親よりもずっと優れた教師です。彼女が指摘するところによれば、若い子どもたちには私たち大人にはないいくつかの大きな利点があります。彼らは親よりもエネルギーにあふれています。遊びやごっこ遊びを自然に「教える活動」に取り入れるので、学びがより楽しくなります。そして、課題に対する彼らのスキル・レベルは、より幼い子どものレベルに近いのです。(同上、357ページ)

 こうして世界中の狩猟採集民の経験から学んだ著者は、サンフランシスコに戻って次のような試みを早速し始めみたり、提案してくれています。

・子どもの人生における「補助的な母親」や「補助的な父親」を大切にする。

・ミニ・アロペアレントを育てる。

・おばさんとおじさんのネットワークをつくる。

・MAP(「多年齢プレイグループ(multi-age playgroup)」または「混合年齢プレイグループ(mixed -age playgroup)」の頭文字)をつくる。

・親戚を受け入れる(または彼らの貢献を大切にする)。

 以上、アロペアレントは、本書でたくさん紹介されている子育てのヒントの一つです。子どもとの時間をこれまで以上にもつことになる夏休み中の親にとって必読の書となることでしょう。

 一方でお子さんがいないか、すでに巣立ってしまった教育関係者にも役立つ内容が豊富に含まれています。その中には、先週紹介した「練習+モデル+承認=スキルの習得」という公式や、従来の子育て(と、会社や行政などの組織、さらには学校でも当たり前にやられ続けている)「叱る、ほめる、コントロールする」アプローチとは反対の「共に過ごすこと、励ますこと、自立、最低限の干渉」(4つの頭文字をとってTEAM)アプローチがあります。

 そして、上で紹介したアロペアレントならぬアロエデュケーター(教師とは違う教え手)の可能性を考えることなどです。アロエデュケーターに教室やその他の場で活躍してもらうことで、教師は楽になるだけでなく、関わってもらうアロエデュケーターたちにとって大きな学びがあり、もちろん助けを受ける生徒たちは(時には教師から教わるよりも)はるかに効果的な学びを得ることになりますから、誰にとってもいいこと尽くめです。

2025年7月20日日曜日

『“しない”が子どもの自力を伸ばす』を読んで

 本を読んだ高校の英語の先生Tさん(広島県)が感想を送ってくれたので紹介します。 

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教師として、生徒を「怒る」「叱る」ことは必要だと思っていました。たとえば、生徒が人を傷つけるようなことを言ったとき。何度注意しても授業中におしゃべりを続けるとき。課題や活動に真剣に取り組もうとしないとき。そういう場面では、毅然とした態度で厳しく対応するのが当然であり、場合によっては感情的に怒ったり、「教師も人間であり、傷ついたり腹を立てたりするのだ」と示したりすることが、教育として必要だとさえ思っていたのです。それも、つい最近まで。

しないが子どもの自力を伸ばす――叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(マイケリーン・ドゥクレフ著、築地書館)を読んで、私の考えは大きく揺さぶられました。この本には、イヌイットの大人たちがもつ「感情をコントロールする力」が詳しく記録されています。彼らは、どんなに子どもにイライラさせられる状況でも、決して怒鳴ったりせず、声を荒らげることもなく、穏やかに対応します。小さな子どもに理由もなく顔を引っ掻かれて、血が流れたとしても。子ども同士でふざけ合って、テーブルの上のコーヒーをひっくり返してしまっても。

「イヌイットは、小さな子どもに怒鳴ることを屈辱的だとみなしている、と年長者たちは私(著者ドゥクレフ氏)に話してくれました。大人が子どものレベルにまで身を落としている、つまり大人版の癇癪を起こしているのだ、と。」(185ページ)

これを読んだとき、私は恥ずかしくなりました。私は穏やかに話せば分かり合えるはずの、分別のある高校生に対してさえ、大きな声で叱責することがありました。それは単に「生徒をコントロールできない自分」に苛立ち、癇癪を起こしていたのだと気づいたのです。にもかかわらず、私は「教育の一環」として、「生徒の力を伸ばすため」にあえて叱っているのだと、自分にも周囲にも思い込ませていました。

それ以来、私は生徒に対して感情が湧き上がってきたとき、まず立ち止まるようにしています。「これから私が口にする言葉やとる行動は、何のためなのか? 生徒をコントロールするためか? それとも、生徒を励ますためか? どうやって伝えるのが一番効果的だろうか?」そう問いかけることで、頭ごなしにきつい口調で注意する代わりに、表情だけで「不適切な行動である」ことを伝えたり、必要なら「今、何をする時間かな?」とか、「あなたが○○できるようになるために、一緒に何ができるかな?」と声をかけられるようになってきました。それでも状況が変わらないなら、少し待ったり、距離を置いたりすればいいのです。生徒との関わりは、今この場で勝ち負けを決める闘いではないのですから。

教師が怒りで接すれば、生徒に怒りを学ばせてしまいます(191ページの図)。生徒の班活動でリーダーが班員を怒鳴っていたとしたら、それは怒りの学習がうまくいっているということ。まさにこの本が提示している「練習+モデル+承認=スキルの習得」という公式の通りです。私たち人間は、よいことも悪いことも、こうして学び、習慣にしていきます。だからこそ、私自身が穏やかに対応できる場面を一つでも多くつくることで、生徒たちも日々それを見て学び、穏やかさを身につけていってくれるはずだと信じています。

湧き上がってくる怒りを和らげるためのルールとして本書では三つのルールを紹介しています。「子どもたちが不適切な行動をとることを想定しておく」、「子どもとの言い争いをしない」、そして、もう一つが、本書で提案する普遍的な子育てアプローチ(TEAM子育て)の中核となる「コントロールせず子どもを励ます」です(204ページ)。

教師としての私は、次から次へと生徒に指示を出すことを自分の仕事だと勘違いしていたのかもしれません。つまり、いつも何かを強制していたということです。そのせいで生徒が怒りや不満をもち、反発を示す行動をとります。そして教師がさらにコントロールしようとし、敵対関係ができあがるのです。今こそ、この悪循環を断ち切るために「励ます」ことを学ぶ必要があります。本書を開くと、そのためのさまざまなツールを学ぶことができます。ぜひ、多くの先生たちに本書を読んでいただき、それぞれの日常で活かせるツールから実際に使ってみていただきたいと思います。

2025年7月13日日曜日

鈴木大裕さんが警鐘する新自由主義が教育を壊すとき 「構想と実行の分離」に抗うためにできることとは何か

 先日、「崩壊する公教育」というテーマで、教育研究者であり土佐町議会議員でもある鈴木大裕氏の講演を拝聴する機会がありました。鈴木氏は、新自由主義が教育にもたらしている深刻な影響について強く警鐘を鳴らし、ICT機器の活用や教員の働き方の変化が、経済効率を優先する分業体制へと移行するなかで、教師たちが専門職としての自信を失いつつある現状を指摘されました。今回は、その講演で私が学んだことを共有するとともに、そこから考えをさらに深めていきたいと思います。


講演の内容については、昨年末に出版された鈴木大裕さんの著書『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)に詳しく書かれていますので、ぜひご一読ください。この前著である『崩壊するアメリカの公教育』の姿が今、日本で起こってしまっていることに驚きを隠せません!



「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限した上で、その中で活発な議論をさせることだ」


講演の冒頭で、鈴木さんはノーム・チョムスキーのこの言葉を引用しました。これは、現代の新自由主義がいかにして教育現場を狭い価値観の枠に閉じ込めているかを端的に示しているものです。新自由主義とは、あらゆる物事を市場の価値基準で評価しようとする思想であり、その影響は教育にも深く及んでいます。新自由主義的な価値観が教育に入り込むと、子どもは「将来の労働力」として投資対象となり、学校や教員は「サービス提供者」、児童生徒や保護者は「消費者」として位置づけられるようになります。


こうした構造のもとでは、教育の本来の目的である子どもたちの人格形成や全人的な成長は後回しにされ、「学力向上」といった表面的な成果や、保護者満足度を意識したサービスの質ばかりが重視されるようになってしまいます。その結果、教育の塾化が進み、外部委託が広がる(たとえば、千葉県では塾講師を招いて算数の授業を行うというニュースも記憶に新しい)なかで、教員の役割は「教育者」から「サービス提供者」へと矮小化されている現実が浮かび上がってきました。


鈴木氏がとりわけ強調していたことは、「構想と実行の分離」という問題です。ここでいう「構想」とは、教育内容や指導方法を自ら考え抜く営みを指し、「実行」とは、それを教室で具体的に展開する行為を意味しています。本来、この二つは不可分であるはずですが、いま多くの教員は、自身で授業を設計するゆとりを奪われ、文科省や教育委員会が示すカリキュラムやマニュアルを忠実にこなすだけの「実行者」へと追いやられてしまっています。その結果、教育の本質について深く思索する時間や機会が失われ、仕事に対する疎外感が増し、職業的誇りの喪失が深刻化している。鈴木氏はこの点に強い危機感を示していました。


また、こうした構想と実行の分離を加速させているのがGIGAスクール構想からはじまるICT化などの教育改革であるとも言及されていました。一見、効率的で先進的に見えるタブレットやICT教材の活用が、個別最適化という名の下、実際には教師の子どもを見取る教育的判断や授業作りの構想力を奪い、教育を単なる技術的な作業に変えてしまう危険性があります。教師の役割が機械やシステムに置き換えられることは、子どもの微妙な変化に気付く人間的な関わりや、個々に応じた柔軟な対応が失われる恐れがあるのです。


一見すると、タブレットやICT教材の活用は効率的で先進的に見えます。しかし、「個別最適化」という言葉のもとで進められているこうした改革は、実際には教師が子どもを見取り、授業を構想する力、つまり教育的な判断力や創造性を奪いかねない危うさをはらんでいます。


こうした状況の背景には、政府や行政が進める「働き方改革」の問題点もあります。現在の働き方改革は、主に勤務時間短縮や業務の効率化に重点を置いています。しかし、鈴木氏はこうした改革が、むしろ教員の仕事からの疎外感を増幅させる可能性があると指摘します。残念ながら、この改革の本質が単なる時間の削減に終始しているため、教育の本質的な意義を問い直すことを阻害しているからです。この問題を克服するためには、教育現場に再び「構想」を取り戻すことが不可欠だと提唱されました。教員が自らの教育観に基づいて授業を設計し、実行できる余地を取り戻すことこそが重要なのです。教育委員会や文部科学省が教育の質を「学力向上のパフォーマンス指標」だけで評価するのではなく、教員がどれだけ主体的に子どもと向き合い、全人的に創意工夫しているかという「構想力」を評価する仕組みを取り入れることが求められています。


これには教員が自発的に行うとされる業務の見直しも必要です。勤務時間外に当たり前のように発生している授業準備や生徒指導、保護者対応などの業務を正式な勤務として認め(これらはなんと、教員の自発的行動と見解が文科省によって示されていた!)、それに見合った対価や評価を提供することが重要です。これにより、教員の働きが正当に評価され、仕事への誇りややりがいが回復することが期待できるからです。




新自由主義的な教育観に流されるのではなく、私たち自身が主体性をもって教育を構想し、実践していく姿勢が、今まさに求められています。教員一人ひとりが、学力向上という目先の成果だけにとどまらず、教育の本質的な意義を問い直し、「人格の完成」という教育の究極的な目的に向かって日々の実践を積み重ねていくことが不可欠です。新自由主義に支配される教育の流れに対して、私たちが自らの手で教育を構想し、実行する力を取り戻すことこそが、真に豊かな教育を実現するための第一歩ではないでしょうか。そのためにも、教育現場における「構想と実行」の在り方をともに問い直し、教育が本来持っている多様で豊かな可能性を再発見していく対話を重ねていきたいと思いました。


みなさんの学校現場では、教員が自ら考え、構想し、実行することがどれだけ保障されているでしょうか? 私たち一人ひとりが現場を振り返り、教育の姿をともに描いていく機会にできればと願っています。


2025年7月6日日曜日

エンゲージメントを探し求める旅

これまで、数ヶ月にわたり、学ぶことのエンゲージメントについて考えてきました。★1 ここ数年、注目されてきてもいますし、これからの教育を考えていくうえで、キーとなる考え方だろうと思います。エンゲージメントが生じているかどうかが、主体的な学びの中核にあると言えるでしょう。


4月から二ヶ月くらいかけて、小中高の現職の教員と、ブッククラブをやりました。読んだ本は、サラ・マーサーとゾルタン・ドルニュイさんの著書『外国語学習者のエンゲージメント』★2 。翻訳版を二ヶ月くらいかけて、読みました。週に一章づつ読み、オンラインのドキュメントに記入し、それに対して、お互いがフィードバックを描き込み合う形で進めました。

先日、そのメンバーが集まる「英語教員CAFE」★3 で、この本についての、まとめのブッククラブをやりました。とても、白熱し、話題が尽きませんでした。なぜ、そのように盛り上がったのか、また、現在教壇に立っている先生方は、エンゲージメントについて、何を感じ、何を考えたのでしょうか。その時の議論からまとめてみると:

1点目は、エンゲージメントという観点から授業を見直すことは、自分自身の授業のあり方を根本から見直すきっかけになったということです。日々の業務をこなしながら、ブッククラブをやるのは、なかなか大変そうでしたが、多くの人が、どうしても読み続けたいと感じていたそうです。今やっていることが、本当に子どもたちにとって意味があるのか?長年、続けてきたことに、価値があったのだろうか?自分が信じて続けてきたことを、否定するのは勇気のいることですが、この機会にじっくり考えたいと思ったそうです。

2点目は、これまで学んできた、授業に関することを再確認することができたという点です。この本で、読んだことは、決して新しい考え方ではないと思ったそうです。動機づけや教室環境の問題など、従来、言われ続けてきたことがほとんどだったと感じたそうです★4。それらのことを、エンゲージメントという観点で、考え直してみることに、とても意味があったと感じたようです。

3点目は、子どもたちのリアルな声を聞くことの大切さを実感したそうです。今回、ブッククラブと並行して、出口チケット ★5 や経験サンプリング ★6 といった方法を使って、授業内でエンゲージメントを測定するデータをとる、ミニ・リサーチをやりました。今回は、あくまでパイロット的な調査だったのですが、みなさん、様々な気づきがあったようで、全員で継続してやっていきたいと思ったようです。どのような結果がでると、今から楽しみです。

同書の結びに言葉に「授業に対する学習者のエンゲージメントは決して偶然の産物ではない。」(p.236)とあります。これは、教員に対する厳しい激励でもあると思います。また、同時に、子どもたちが夢中で学ぶ教室を実現することは、不可能ではないという希望の言葉でもあるとも思えます。

筆者らは、エンゲージメントについて考えてきた中で、3つの大きな主題があったことに気づいたと述べています。

1 ポジティブな感情がもつ力
2 教育のパートナーとして学習者に権限を委譲すること
3 学習活動への積極的参加

先生方の探究の旅は、これからです。子どもたちが夢中になれる授業づくり。そのことに、参加した先生方がとても夢中になっているように見えました。それが、とても希望を感じさせてくれました。



★1  「PLC便り」におけるエンゲージメントに関する記事
2025年2月「エンゲージメントの周辺」
2025年3月「エンゲージメントを決定づける要因」
2025年4月「エンゲージメントを実現するための教師の行動」
2025年5月「教師の情熱と冷静のあいだ」
2025年6月「能力と困難の黄金比」

★2 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.)

★3  「英語教員CAFE」は、英語教員が、楽しく、ワクワク探究し続けることによって、子どもたちが、楽しく、ワクワク英語を学び続けることのできる英語教育の実現を目指して、小中高大の英語教員有志によって、2025年2月に創設された研究グループです。

★4   同書の章立ては次のとおり:
    第1章 学習者エンゲージメントを取り巻くもの
    第2章 学習者の促進的マインドセット
    第3章 教師と学習者の信頼関係(ラポール)
    第4章 ポジティブな教室力学(クラスルーム・ダイナミックス)と教室文化
    第5章 タスク・エンゲージメントの喚起
    第6章 タスク・エンゲージメントの維持

★5  1−2つの質問が書かれた、小さな紙や情報カードのこと。

★6  授業時間内で、10分ごとにチャイムを鳴らすなどして、その時点のエンゲージメントの深さを、生徒に自己評価してもらう方法。

2025年6月29日日曜日

教育において「一貫性」(と「平等」に接するの)はいいこと? そして、teachable momentとは? (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom ②)

 学校というところ、一貫性(と平等に接すること)を追い求めがちですが、『教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom』は「一貫性を追い求めるよりも、生徒たちの異なるニーズに対応する方が、むしろ彼らのためになるのかもしれません」(同書Kindle版の位置92)と書いています。そのことから、日本の学校教育で殊の外大事にされている「一貫性」がかなりクセモノであることが分かります。

Consistency」の意味をChatGPTに解説してもらうと、次のようになります。

  • それは、同じやり方や基準をずっと守ろうとすること
  • ぶれない対応や方針を維持しようとすること
  • いろいろな状況や対象に対して、一律のやり方を貫こうとすること

生徒たちに対して同じルールや対応を一貫して適用しようとすることを指します

 

要するに、個々の生徒よりも、全体の方が大切ということです。集団生活には欠かせない要素ではありますが、それを大事にするあまり失うものの多さに目をやる必要があります。一貫性と管理、そして「教える側の論理」は、ほぼ同義? ということは、生徒たちがよく学べない条件?? 下に出てくる「teachable moment」や個々の生徒の異なるZDP(最近接発達領域)を活かせない原因?

この点をさらに深く探ると、以下のような問いかけをする必要があります(同、位置94102)。

もし私たちの教育システムが、生徒それぞれの異なるニーズを念頭に置いて構築されていたら、どんな姿になるでしょうか? ここで言うニーズとは、診断された学習上の違いをもつ生徒だけでなく、さまざまな背景、文化、アイデンティティーをもつすべての生徒のニーズのことです。

もし、生徒が「教師が構築した授業」ではなく、生徒と教師が「共に構築する授業」で学んでいたらどうでしょうか?

もし、カリキュラムを生徒のために創るのではなく、生徒とともに創ることが、生徒たちが生活する世界とつながりを感じる、より力強い学びの体験につながるとしたら?

もし、教え方が柔軟で生徒のニーズを満たすものであり、私たちが働く特定の文脈のなかで生徒のニーズを検討し、彼らのニーズに応じて教えていたら?

もし、すべての生徒が公平に成功と成長にアクセスできるよう、評価が柔軟に変化するものであったら?

もし、生徒たちが自分の学校での経験をよりコントロールできたら、その経験についてどう感じるでしょうか?

もしかすると、彼らは実際に学校生活を楽しめるようになるかもしれません。

 

 これらの問いは、日本でこれまでされたことはあるでしょうか?(あるいは、身近な教育関係者が投げかけていたのを聞いたことがありますか?)

 いまある状況とはことなる教育のあり方をイメージできる力は、とてつもなく大きい(と同時に、大切な)気がします。What if(もし・・・だったら)という問いかけができるかできないかは、大きな違いをもたらします。 一貫性を大事にするあまり同じことをやり続けるか、それとも同じところにとどまらずに別の可能性を追求したり、成長し続けられたりするかを意味しますから。

 

そして、teachable moment(教えるのに最適なタイミング)については、つぎのようにかかれています(同上、位置107114)。

しかし、教師に必要なのは、目の前にいる特定の生徒たちのニーズに応じて、教えている特定の文脈の中で柔軟に対応し反応する自由が与えられることです。

教師は生徒の話に耳を傾け、生徒の世界を理解しようと努め、学びの体験を共に創り上げる過程において、生徒に声をもたせることができなければなりません。

「共に構築する授業」とは、すべての生徒が尊重され、力を与えられる場であり、教師と生徒が一緒に学びの計画を立て、学びを実践し、学びを評価する(学ぶ内容、教え方・学び方、そして評価の仕方を計画・実施する)空間です。

それは、教師が「教えなければならない内容や方法」で教えなければならないという恐れを抱くことなく、その場で訪れる「教えられるのに最適のタイミング(teachable moment)」を最大限に活かすことを可能にします。

 

いまは、生徒のニーズに応じたり、生徒と共に創ったりする自由を教師は与えられているでしょうか? それとも、まだ与えられていないでしょうか? 与えられているのに、活かせていないだけでしょうか(それは、なぜでしょうか)?

Teachable momentは、日本語ではどう訳すのがいいのでしょうか? 同じ概念の日本語はありますか?

要するに、教師が「今こそ教えるべき絶好のタイミングだ!」と感じる、生徒にとっての学びの好機のことです。そのために、「見取り」と「子ども理解」はあるようなものとさえ言えるような!!

ChatGPTteachable momentの意味を尋ねた回答は、次のようなものでした。

具体的には、授業や学習計画に必ずしも含まれていないけれど、日常の出来事や生徒の発言、行動の中で「ここは教えるのにぴったりだ!」と感じられる瞬間のことを指します。

例えば:

  • 生徒がある疑問を口にしたとき
  • 予想外の出来事が起きたとき
  • 生徒の感情や関心が高まったとき

 

以上からも分かるように、事前に準備したわけではなくても、教師の見取りと子ども理解によって、「今こそ〇〇を教えるのに最適なタイミング」と判断する瞬間です。ある意味では、これなしで、子どもに残る形で教えることは困難とも言えます。教室にいる生徒全員のteachable momentが一致することはほとんどあり得ず、違う方が多いわけですから。そういう状況のなかで教師は何を、いつ、そしてどう教えるのが効果的なかを考え続ける必要があるわけです。これは、なかなか大変な仕事であると同時に、やりがいがあります。当然のことながら、教科書に基づいた指導書があるから大丈夫とか、指導案を完成させて終わりとはいきません。

2025年6月22日日曜日

子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業 と 教科書を押さえる退屈な授業 とのうまいバランスはあるのか? (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=The Co-Constructed Classroom ①)

 という悩みを抱えている先生は結構多いのでは? あるいは、後者の授業に疑問をもちつつも、前者の授業にどういう移行できるのかを悩んでいる先生は?

ちょうど、台湾にあるインターナショナル・スクールで教えているAnn Lautrette先生が書いたThe Co-Constructed Classroom: Why agency in curriculum, pedagogy and assessment is the key to an inclusive classroomを読みました。意訳すると、『共に創る授業──カリキュラム・教え方/学び方・評価における教師と生徒のエイジェンシー(主体性)こそがインクルーシブな授業の鍵』というタイトルです。

内容的には、『みんな羽ばたいて』『学びの中心はやっぱり生徒だ!』『あなたの授業が子どもと世界を変える』『プロの教師がすすめるイノベーション』(これらの本は、カナダを含む北米の本)などと似ています。

著者は、イギリス人なので、英語圏では、この方向でかなり進みつつあることが分かります。どの方向かというと、教師(ないし教科書)中心の授業から生徒中心とは言わないまでも、生徒と教師が一緒につくる授業です。それが、まさにこの本のタイトルになっています。そのためには、生徒が(そして当然、教師も!)①カリキュラム(何を学ぶか)、②教え方・学び方、そして③評価の仕方に声を発する/エイジェンシーを発揮する必要がある、ということです。逆に言えば、教科書をカバーする授業である限りは、教師も生徒も声を発する/エイジェンシーを発揮することはできませんから、退屈で残るものの少ない授業が約束されていることを意味します!

本の最初のところには、次のように書かれています(The Co-Constructed Classroom Kindle版の位置: 5365より)。

 

最終的に、私たちは自分たちの教え方に対して自信をもてる地点にたどり着きました。それは、自分たちが「何をしているか」ではなく、生徒たちが何をしているかに焦点を移すことができるようになった地点です。

私たちは、キャリアの初期のある時点で、「教えること」を心配することから「学ぶこと」を心配するように変わりました。

私自身について言えば、当初は、教育(授業)とは教師が「する」ものであり、結果として、生徒に「施される」ものだと理解していました。

20年前には、生徒の主体性(student agency)や、生徒の声や選択(student voice and choice)は、教育の中で大きな位置を占めていなかったように思います。

しかし今では、生徒の学びにとって多様な教育方法(pedagogies)が有効であると理解が進んできたので、このアプローチは依然として「3ステップのプラン」★1として使えるかもしれませんが、探究学習(inquiry-based learning)★2や、I do, you do(まず教師がして見せて、生徒がやる)」モデル★3、あるいはまったく別のもの★4でもいいのです。

 

 日本では、上に書かれているのと似たような状況にすでに来ているでしょうか? それとも、まだでしょうか?(ぜひ、上に引用した箇所をもう一度読み直してください。)

 これから何回かにわたって、教師と生徒が、①カリキュラム(何を学ぶか)、②教え方・学び方、そして③評価の仕方にエイジェンシーを発揮して取り組める授業のつくり方について紹介していきます★5。

 

★1これは、典型的な授業の組み立て方です。(日本では、どのようなものがありますか?)少し長くなりますが、「3ステップのプラン」について書いてあることを下で紹介します。日本の指導案を見ても、同じ気がしますが・・・(でも、真ん中は、教師主導になっていませんか? 最後も、教師がまとめをしていませんか? または、機械的でマンネリ化した振り返りになっていませんか?)

●授業の最初

導入は、何か面白いもので始めましょう。生徒たちの興味を引くこと(釣ること)が絶対に大切です。もしそれができなければ、その時点でもう授業中ずっと生徒の関心は戻ってこないと思ってください。教師の教えたいことが、生徒に届くことはないでしょう。

導入はbell work, a bell ringer, a question of the day, a warm up, a do no(「ベルワーク」「ベルリンガー」「今日の質問」「ウォームアップ」「Do Now」)など、呼び方は何でも構いません。

それと、授業の目的を明確に、はっきり伝えるのを忘れないでください。そうしないと、生徒たちは何を学ぶのか分からないままになってしまいます(同上、位置: 2932

以上は、常に、当てはまりますか? 少なくとも、ライティングやリーディング・ワークショップ(「作家の時間」や「読書家の時間」およびそれらの他教科への応用である「社会科ワークショップ」「数学者の時間」「科学者の時間」あるいは、この下で紹介している★2の探究学習では、毎回の授業では毎回というわけではない気がします。ミニ・レッスン的な形でははじまりますが。

●授業のメインの部分

それから、授業のメインの部分では、生徒に何かを提示する必要があります。新しい概念やトピック、つまり彼らが学ぶべき内容です。授業の目的としてあなたが伝えたものですね。

でも、あまり長く話しすぎないでください。生徒たちは長時間集中できません。彼らに何か作業をさせましょう。話すことも必要ですが、読むことも、書くことも必要です。

この部分では、全員が成長・進歩することが必要です。そして、あなたは一人ひとりをサポートしなければなりません。同時に、全員を常に評価(アセスメント)し続けることも必要です。全員がどういう状況かをちゃんと覚えておいてください。あとでそれが必要になります(同上、位置: 3436

まさに、見取り(見取りをして終わりではなく、それをどう活かすかがないと、見取りをしている意味がない。個別の指導やフィードバック、全体の教え方等に活かす)! それが「指導と評価の一体化」ということそのものなのでは!

●授業の最後の5分間

何をするにしても、授業の最も重要な部分であるPlenary(全体でのふりかえりの時間)のために5分は必ず残しておいてください。もしこれをやらなければ、生徒たちはあなたから学んだことをすべて忘れてしまい、すべてが無駄になってしまいます。

Plenaryでは、目的をもう一度繰り返さなければなりません。絶対に繰り返す必要があります。そして、全員がその目的を理解したかどうかを確認しなければなりません。

生徒が何人いようと関係ありません。あなたに与えられているのは5分だけですから、付箋をちゃんと用意しておいてくださいね。なぜなら、出口チケット(exit ticketsはあなたの味方ですから(同上、位置: 3840

作家や読書家の時間では、最後の5分間は必ず共有の時間として確保されています。その意味では、ミニ・レッスン→ひたすら書く(ないし読む)→共有(作家の椅子ないし読書家に椅子)は、上で紹介されている流れになっています。というか、それの上を行く形で最初のミニ・レッスン以外は、生徒がする(エイジェンシーをもつ)形になっています! 毎回の授業が、パターン化されているので、生徒たちは何を期待されているのか、自分が何をすべきかが容易に予想でき、その分、主体的に行動することができるのです(本物の作家や科学者などのように)。それに対して、教師がその場の成り行きや気分ですることを判断したり、変えたりしていると、生徒たちが自分で考えて、判断して、行動することはできません。

 

★2では、https://docs.google.com/document/d/1Wu_UtIPHoPQQOSbsA_8NNFa1X9W0MN3zxS6gxisks-o/edit?tab=t.0(200%にしてみてください)などがあります。

★3は、『「学びの責任」は誰にあるのか?』で詳しく紹介されているモデルです。教師なら誰もが知っておくべき内容です。元々は、読み方の指導で開発されましたが、いまではすべての教科で応用されています。

★4には、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』で紹介されているアプローチが、よく知られており、欧米ではかなり普及しています。他には、算数・数学教育から生まれたhttps://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E6%95%99%E5%AE%A4 などもあります。これも、算数・数学だけでなく、すべての教科に応用できる方法です!

★5 本のタイトルとブログのタイトルにある「子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業」の条件として、「教師のエイジェンシー(主体性)」は欠かせないです。別な言葉でいうと、「教師が本気でやりたい授業」ということです。教師が忖度してやっている授業は、子どもたちも見抜いてしまい、お付き合いする選択肢しかありませんから。

 「子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業」と、文科省のキャッチコピーの「主体的で対話的な深い学び」ないし「個別最適な学び」と「協働的な学び」を置き換えられるかというと、厳しいです。まず、これらは教え方・学び方しか対象にしていません。カリキュラムと評価は無視しています。文科省は、一方で教科書をカバーする授業を教師に強いながら、「主体的で対話的な深い学び」ないし「個別最適な学び」と「協働的な学び」を教師に期待しているわけですが、両者は相容れないことをご存じないようです。教科書がある限りは、「主体的」も「個別最適」もほぼあり得ませんから! それほど、何を学ぶかと、どう学ぶかは密接に関係しており、切り離せません。

さらに、文科省はほとんど評価にも言及していませんが、https://wwletter.blogspot.com/2023/11/blog-post.html の「主体的に学習に取り組む態度」のところをお読みください。こちらも、生徒の学びの態度や量を評価するというよりも、9割がたは教師の側(教える内容、方法、態度・姿勢)を評価しているとしか言えないでしょう。カリキュラムと教え方・学び方と評価の3者は切り離せないのです!

2025年6月17日火曜日

能力と困難の黄金比

エンゲージメントの問題を考えるときに、個人的に一番難しく感じるのが、難易度とエンゲージメントの関係です。

私は長らく高校の教員をしていて、いくつかのタイプの高校で勤務をしました。実業系の学校に勤務していたときは、できる限り魅力ある授業をして、多くの生徒を惹きつけていきたい。一人も取りこぼさないことを正義として、授業と向き合っていました。一方で、いわゆる進学校といわれる学校に勤めた時は、実業系の学校とは異なる課題に直面しました。全員が達成できるようなゴールを設定すると、事もなく、多くの生徒たちが達成してしまうのです。

英語教育では、目の前に赤いペンがあるのに、”What color is this pen?”のような、自明かつ単純な発話を繰り返すことを、必要な練習としてやってきました。外国語の構造を理解させ、習熟させるには、必要不可欠であると、考えられてきたのです。「明らかなことがらをただ発話させるだけといった知的レベルの低い活動は、学習者に退屈さと苛立ちをもたらす。(p.191)」★1 このようなことを、疑うことなくやってきたのです。★2

「能力と困難の黄金比」という考え方があります。チクセントミハイによると、「困難の度合いとその人間の行動能力との間に程よいバランスがとれたとき、退屈と不安の境界線上に喜びが現れる。」という考え方です。(p.190) 要するに、生徒のもっている力と学ぶことの難易度のバランスがうまくとれたときに、真のエンゲージメントが生まれるというのです。

私は、長年、現職の先生たちと、ブッククラブや研究プロジェクトを一緒にやってきました。その中で、ずっと気になっていることは、生徒たちに負担をかけたくないと考える「やさしすぎる」先生が多くいるということです。

生徒たちにストレスをかけたり、困難を経験させたくない。生徒たちに降りかかる負担や不安を取り除いてあげたいという気持ちは分かるのですが、その姿勢が行きすぎてしまうと、本当にワクワクするような学びから、生徒たちを遠ざけてしまうかもしれないのです。一見、やさしさのように見えて、実は、学びの豊かさや醍醐味を、先生が制限しているのかもしれないのです。

「望ましい困難」はある。このことを、常に意識して、生徒たちに、もっともっとチャレンジさせてみてはどうでしょうか。そこに、学びのエンゲージメントへの一つの突破口がありそうです。


★1 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.

★2 もちろん、今では言語の構造のみに焦点を当てた授業は少なくなってきています。今の高等学校学習指導要領には、「論理・表現」という、外国語の科目とは思えないような名前のものがありますが、象徴的なものかもしれません。

「高校の新しい英語授業「英語コミュニケーション」「論理・表現」とは」

https://eikaiwa.weblio.jp/school/information/education/new-subjects-in-english/#:~:text=


2025年6月8日日曜日

答えのない教室――Thinking Classroomの実践から

昨年度刊行された梅木卓也・有澤和歌子著『答えのない教室 3人で「考える」算数・数学の授業』(新評論)は、カナダの教育研究者リリヤドール教授が15年以上にわたって築き上げてきた「Thinking Classroom」の理論と実践を、日本の現場に紹介する内容となっています。




 

PLC便りでも2023年にすでに「Thinking Classroom」のさわりは紹介してきましたが、本書は実際の授業実践となっています。

 

「考える教室」をつくるには

https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/04/blog-post.html

 

 

「答えのない教室」という日本語訳のタイトルには、正解を求めるのではなく、考えること自体を楽しむ授業への願いが込められています。とてもいいネーミング。教師に頼って正解を教えてもらうのではなく、自分の頭で考え、友だちと一緒に試し、話し合いながら答えを探していく。そんな思考が止まらない授業実践づくりのポイントが、本書では数多く紹介されています。

 

「子どもたちは本当に考えているのか?」

 

リリヤドール教授がカナダで行った調査によると、あるクラスの中で実際に考えていたのは全体のわずか2割。30人のクラスなら6人ほどが、授業中の15分間だけ思考に集中していたという結果が出ています。他の子どもたちは、教師の解説を待ち、問題を解く「ふり」をしていたのです。こうした現状に対する危機感から生まれたのが、「Thinking Classroom=答えのない教室」というアプローチです。

 

この実践では、いくつかの特徴があります。

 

①立って学ぶ

まず「立って学ぶ」という点です。多くの日本の授業では子どもたちは椅子に座ったままですが、この実践では、ホワイトボードの前に立って学びます。リリヤドール教授の研究によれば、座っていると「何かしているふり」がしやすく、教師の目から逃れがちですが、立っていると「何かをしよう」という意識が自然に芽生え、集中力が高まるという結果が出ています。

 

②ホワイトボードに書く

次に「ホワイトボードに書く」という点です。紙に書くと「きちんとまとめてから書こう」と身構えてしまうことがありますが、ホワイトボードは書いてもすぐに消せるため、「とりあえず書いてみよう」という気持ちになりやすくなります。間違ってもすぐに修正できるという安心感が、「考えてみよう」という意欲につながります。実際に使われるボードのサイズは、縦90センチ、横60センチが目安とされています。

3人で学ぶ

さらに「3人で学ぶ」という点も大きな特徴です。日本では4人グループが一般的ですが、Thinking Classroomでは、さまざまな実験を通じて最適な人数が「3人」であることが明らかになっています。2人では行き詰まりやすく、4人以上では受け身になってしまう子が出る傾向があります。3人だと適度な多様性がありつつ、全員が参加しやすくなるという利点があります。

 

また、グループの決め方も大切です。よくありがちな「仲の良い子同士」「同じ学力の子同士」での編成では、偏った役割分担が生まれたり、学びが固定化されたりしやすくなります。ランダムにグループを編成することによって、多様な考え方や立場に触れることを重視しています。

 

④問題はスモールステップ

授業で扱う問題も工夫されています。特徴的なのは「スモールステップの10問程度」を準備することです。教科書の問題は1問ごとのギャップが大きいことがありますが、Thinking Classroomでは、「数字を1つだけ変えた問題」など、小さなステップで無理なく思考を進められるような設計がなされています。最初の問題は誰でも解けるような簡単な内容にしておき、そこから少しずつ難易度を上げていくのがポイントです。

 

尚、生徒がつい考えたくなるような準備運動の問題があり、それについては今年の3月にすでに紹介したので、ぜひ挑戦してください。

PLC便り「この問題、解けますか? 考えるための3種類の良問」

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/03/blog-post_9.html

 

 

これらの1コマあたりの授業は、教師の短い説明(510分)から始まります。最初は「自分たちがすでに知っていること」を確認し合いながら、その日の課題に取り組んでいきます。すぐに子どもたちはホワイトボードの前に立ち、グループで考え始めル時間が2030分。授業の終盤には、子どもたちが出した多様な解法を共有し、学びを深めていきます。他のグループから意見をもらう構造にすることで、思考の広がりが生まれます。

 

このような実践は、特別な環境がなくても、どの教室でも導入が可能です。もちろん、小学校で行う場合にはもう少し具体的な支援や配慮が必要になるかもしれませんが、考えることを中心に据えた授業を実現したい先生にとって、大きなヒントとなるはずです。

 

なお、今月には小学校での実践に特化した続編『答えのない教室 パート2』も刊行されました。答えのない教室の世界をもっと深く知りたい方は、ぜひそちらも読んでみてください。