2025年11月16日日曜日

『ほんものの学びに夢中になる』を読んで

小学校と中学校で教える二人の先生の感想(紹介)文を紹介します。


●白井 雄大 さん(佐賀県 小学校)

この本は、「子どもが夢中になる学びをどうつくるか」を、10の視点から紹介してあります。授業の工夫や教材の選び方だけでなく、子どもと世界との関係をどうデザインするかという大きなテーマが語られます。

 第1章では、教材を「鏡」と「窓」に例え、自分を映し出す学びと他者を知る学びの両方が大切だと説かれています。第6章では、子どもが課題をどう意味づけるかが学びの深まりを決めるとし、第9章では「協働」を分担作業ではなく、共に理解をつくる探究と捉え直してあります。そして、本の最後の「おわりに」では、「業務」と「仕事」の違いを通して、教師の本質的な使命について説かれています。

 私自身、現場で教える身として特に共感したのは、「課題をどう意味づけるか」という視点でした。良い課題を用意しても、子どもが自分事として受け取らなければ深い学びにはなりません。子どもが「自分で選んでいる」「自分の思いを重ねている」と感じられる場面をつくることが、教師の役割だと感じました(第4章と第5章)。

 また、対話を通して互いの考えを育て合う姿勢は、学級づくりにも直結しそうです。グループ活動の中で子どもたちが違いを尊重しながら進む姿は、まさに本書が目指す「夢中になる学び」です(第8章)。忙しい日々の中でも、子どもが心から学びに向かう瞬間を支えることこそ、私達教師の「仕事」なのだと改めて思いました。

 

●寺田 愛子 さん(長崎県 中学校)

今年度、教員3年目として中学校3年生の担任、国語の授業は1、3年生を2クラスずつ受け持たせていただいています。高校入試を控えているはずの3年生。受験へ向けたやる気スイッチはどこにあるのか。どうすれば生徒がもっと主体的に学級を動かしてくれるのか。なかなか思うようにいかない学級経営に頭を抱える毎日です。教科においては、初任の年に国語の授業を担当した1年生(今の3年生)と今年の1年生の生徒の雰囲気の違いに戸惑いながら、なるべく生徒が前のめりになって取り組んでくれるような言語活動を模索しています。そのような最中、幸運にもこの『ほんものの学びに夢中になる』を読みました。その中でも一番の悩みであった、無気力な 3 年生のやる気を引き出す方法について、本書の第7章「生徒と一緒に考える成功の定義」を紹介したいと思います。

「教室では、教師が価値を置くものに対して選択的な注意を向けると、生徒たちが自分の価値観を行動ややりとりにどのように反映させているかに気づかなくなるおそれがあります。」(130ページ)

この文章を読んだとき、授業や学校生活の諸場面における、私自身の「選択的な注意」から生まれた発言が、生徒の主体的な言動を制限してはいないだろうかと不安になりました。

国語の授業で言うと、各単元で提示する学びの目的(目指す国語力)ばかり注目して、生徒自身の考えや価値観などを後回しにしてしまってはいないか。生徒の問題行動を指摘するだけで、行動の原因を軽視してはいないか。知らず知らずのうちに投げかけた言葉が、やる気や自信の低下につながっているのではないか。

手立てとして本書で提案されているのは、教師と生徒の併記されたルーブリックをつくり、それぞれに教師がフィードバックをすることです。本書の「生徒の価値観を尊重しながら教師の期待に応える方法を提示すること」こそが、生徒のモチベーションにつながる方法なのだと気づきました。教師が書いたフィードバックを読んだ生徒が何を思うのか。生徒の立場になって考えることがいかに大切か、痛感した次第です。

これからの生徒との関わりの中で、自分一人では解決できないさまざまな場面に遭遇したとき、解決の糸口を見出だしてくれるような心強い一冊です。

2025年11月9日日曜日

教わることより、一緒に考えたい ピアカンファランスが拓く子どもたちの対話の力

 東京大学の一柳智紀さんは、教室で交わされる子どもたちの言葉を「発表的会話」と「探索的会話」という二つの型で整理しています★。

発表的会話とは、すでに整理された考えを筋道立てて明瞭に伝える対話のことです。「ここは76を足して13になるでしょ」「この式を使えば求められるよ」といったように、結論と根拠を整えて他者に伝えるやりとりです。思考を整理し、他者に伝える力を育てるという点で重要ですが、「思考の過程」よりも「結果の伝達」に焦点が当たりやすい側面があります。

一方の探索的会話は、未完成の考えを出し合いながら共に考える対話です。「ここ、繰り上がりはどうなるんだろう?」「うーん、ちょっと違うかも」「こうしたらできそうかな」といった試行錯誤のやりとりです。そこでは、誤りや迷いも含めて思考の生成そのものが共有されていきます。発表的会話が「整理する思考」だとすれば、探索的会話は「生まれつつある思考」です。どちらが優れているということではなく、この二つの会話が往還しながら授業が展開するとき、子どもたちの学びはもっとも豊かに動いていきます。

 

 しかし実際の授業では、教師も子どもも無意識のうちに発表的会話に寄っていくことが多くあることに気付かされます。「できた人いる?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかける構造の中で、教師の目線は「理解できた子」に集まりがちです。結果として、いままさに迷っている子どもや、途中で考えが止まっている子どもの声が置き去りにされることがあります。授業を前に進めようとする意識が強いほど(教師も子どもも)、探索の時間は短くなり、誤りを資源として活かす余地が減ってしまうのです。

 

 ワークショップ授業では、子ども同士が支え合うやりとりを「ピアカンファランス」と呼びます。私はこれまで、まず教師によるカンファランスがあり、そのあとに子ども同士のピアカンファランスがあると理解していました。つまり、教師が一人ひとりを支えながら「できるようにする」ことを重視し、その姿を手本にして、子どもたちも「できる子がわからない子に教える」ような小さな相談場面をつくっていくものだと考えていたのです。しかし、最近になってそれは本質を捉えきれていなかったのではないかと感じるようになりました。子どもたちは、誰かに教わることを求めているのではありません。むしろ、自分たちで考えたい、一緒に悩みたいと思っているのです。学びが本当に深まる瞬間には、「一緒に迷い、一緒に考える」仲間の存在があります。教師が支えるから学ぶのだけではなく、仲間とともに探るからこそ学びが生まれる、そのことに気づかされました。

 

 先日の「数学者の時間」でも、そのことを実感しました。授業では、「チョコレートバーゲーム」をアレンジした「タコ焼きゲーム」(3×5のマス目上で順番にタコ焼きを食べ、左上の「タコなし」を食べたら負け)を扱いました。最初にルールを説明すると、子どもたちはすぐに盤面を囲んで対話を始めました。何年生でもできますし、もちろん大人でも考えると面白い問題なので、ぜひ挑戦してみてください!




 

 「これ、ただの運じゃないよね?」

 「ううん、きっと何か勝ち方があるはず」

「先行有利ゲーじゃね?」

 「タコをL字に残すと勝てる気がする」

 「いや、待って。最後に取らせる場所をこっちが決めるんだから」

L字にするため、この斜めにある1個をとらせた方がいいのかも!」

「うーん、どっちだ!?」

 

 このとき、子どもたちは誰かに「答えを教わりたい」のではなく「一緒に考えたい」という欲求に突き動かされていました。教師が正解を与えるよりも、友だちと仮説を出し合い、試行錯誤を重ねる過程そのものを楽しんでいるのです。やがて彼らは、「残すタコ焼きの形がL字になること」と「どちらが先にその形を作らせるか」が勝敗の鍵だと突き止めました。答えは教師が与えたものではありません。探索的会話の積み重ねによって、彼ら自身が到達したのです。

 

 このような場面を見ていると、教師によるカンファランスだけでは本質的に補えない領域があることを感じます。教師はすでに答えを知ってしまっています。だからこそ、どれほど問いかけを工夫しても、どこかで「導く」方向に傾いてしまいます。教師のカンファランスは、発表的会話の要素を帯びやすいのです。もちろん、それは学びの過程で不可欠であり、行き詰まりを整理し、次の一歩を見通す支援になります。

 

 それに対して、子ども同士の探索的会話には、教師には担えない実存的な共感があります。教師は「わかってしまっている存在」であり、子どもたちは「まだわからない存在」です。この非対称性ゆえに、教師はどんなに寄り添おうとしても、「わからなさの只中」に並んで立つことはできません。ピアカンファランスは、その「わからない同士」が同じ地点に立ち、手探りで考えをつないでいく営みです。教師がどんなに緻密に設計しても、この瞬間を再現することはできません。

 

 だからこそ、授業では、教師が「支援する人」としてだけでなく、「聴く人」として教室に存在することが大切になります。子どもたちの探索的会話を守るためには、教師が「未完成の考えが歓迎される時間」を意識的に設計する必要があります。そこでは、途中で止まってもいい、間違ってもいい、うまく説明できなくてもいい。そうした文化の中で、子どもたちは安心して考えの途中を言葉にできるようになります。

 

 ピアカンファランスには、教師には実存的に担えない「わからない同士の探索」があって初めて成立するものです。子どもたちは教師に気づかせてもらうよりも、自分たちで発見したいと強く願っています。実はそこに、学びの根源的な喜びがあります。教師はすべてを導く存在ではなく、その喜びが生まれる環境を支える存在でありたいと思うのです。発表的会話と探索的会話の往還のなかで、子どもたちが互いの「わからなさ」を口にしながら、一歩ずつ学びを紡いでいく。その姿に、学びの本質が宿っているのだと感じます。

 

★『これからの授業研究法入門〜23のキーワードから考える〜』第1章「話し言葉の質」より

 

2025年11月2日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則3 学習者の個性を尊重する

サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんの著書『外国語学習者のエンゲージメント』から、教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則を紹介しています。★1 第3回目の今回は、原則3「学習者の個性を尊重する(原著では”Be Responsive to Learner Individuality”)」です。

「学習者の個性を尊重する」というのは、あまりに当たり前過ぎて、具体的には教師のどのような行動を指しているのか、やや漠然としているようにも感じます。原著では、Be responsiveという言葉が使われています。responsiveという言葉の定義を見ると、”responding readily and with interest or enthusiasm”(自ら進んで、そして、興味と情熱をもって応える)とあります。この定義で、少しイメージしやすくなります。★2

同書では、個々の学習者の固有の特徴に注目するということは、「個々の児童・生徒・学生を、教室の外の世界にも生活の場がある一人の人間として、あるいはすでに一定の知識と経験を備えた一人の学習者として理解すること」であると述べています。

また、一人一人と意思疎通を図り、信頼関係を深めるには、さまざまな段階があるとして、その一番の基本は、「学習者の名前を覚える」ことであるとしているのが興味深く感じます。学習者が帰属意識を実感し、大事にされていると思えるからであるとしています。

これ以外にも、個々の学習者との信頼関係を築くための方法がいくつか紹介されています:

  • あいさつを交わし、名前を覚える。
  • 一人ひとりの学習者の個性を把握し、折に触れてそれを伝える。
  • 趣味や学校外での生活について尋ねる。
  • 誕生日を覚える。
  • 授業内容を話し合うときに、個人的な話題や事例を含める。
  • 欠席した学習者にメモや課題を伝達する。

みなさんは、年度当初、生徒たちとの新しい関係を構築するために、どのようなことをされていますか?

私は名前を覚えることが苦手です。顔と名前が一致するまでにとても時間がかかる。直接やりとりをしたり、発言する機会を与えて、それを聞くなど、一人一人と何らかの形で接触する機会をもたないと、記憶に残らないのです。

ここで提案されている方法をみてみても、顔と名前を丸暗記するのではなく、まずは、あいさつを交わして名前を覚えたり、学習者の個性を見極めそれを折に触れて伝えるなど、何らかのやりとりをして、そのプロセスで記憶に残そうとしているように感じます。関与の深さを上げることがキーではないかと思います。

同書には、ルヴィエ=デイヴィスという人の言葉が引用されています。

「時間をかけて、学習者を知り、受け入れ、能力を正しく評価することは、彼ら一人一人との絆を深めるのに大いに役立つ」

この言葉の中に、学習者の個性を尊重することの本質が語られているように思えます。


★1 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.

「教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則」

原則1 近づきやすさ

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律(立)性を支援する

原則6 教師の情熱を示す

注)原則5の「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。

★2. Responsive Teachingについては、これまでもPLC便りで取り上げています。参考になさってください。PLC便り: responsive teachingの検索結果  

2025年10月26日日曜日

いまよりはるかに望ましい道徳教育を実現するための方法がある

 SEL便り(https://selnewsletter.blogspot.com/2025/10/selai.html)で紹介したのとは少し違った切り口で、道徳教育とSELの関係に迫ってみましたので、その生成AIとのやり取りを紹介します。

あなた: 道徳教育をまともにやろうと思っている教師は、残念ながらあまり多くはありません! いまよりははるかに望ましい道徳教育を日本で実現するための方法はありますか?

ChatGPT:

とても本質的な問いですね。
おっしゃるとおり、「まともな道徳教育」を実現しようとする教師が少ないのは、単に意欲や力量の問題ではなく、日本の制度や文化そのものが「まともな道徳教育」を難しくしているからだと思います★。

では、「いまよりははるかに望ましい道徳教育」を日本で実現するには、どんな方向がありうるのか。
私は、次の3つの筋道をはっきりさせることが鍵だと考えます。


「徳目」ではなく「問い」を中心に据える

現在の道徳科は「徳目(価値項目)」中心の設計になっていますが、これは「正しい答え」を前提にしており、子どもたちの内面の探究や葛藤を抑えこみがちです。
望ましい道徳教育は、「この場合、どう生きるのがよいのか?」「なぜそう思うのか?」という**探究的な問い(inquiry**から出発することです。

たとえば、

「正直はいつでもよいことか?」
「人を助けることと、自分を守ることがぶつかったら?」
といった矛盾や葛藤を扱う。


「語り合う場」をコミュニティーとして再構築する

多くの学校では「話し合い活動」は形式的です。
しかし、本当に道徳が育つのは、「異なる考えをもつ仲間と、安心して葛藤を語り合える場」ができたときです。
そのためには:

  • 教師が「正解を導く人」から「聴く人・ともに考える人」になること
  • 発言が評価や指導の材料ではなく、「その人の声」として受けとめられること
    が不可欠です。
    つまり、道徳の授業を民主的対話の実践にすることが核心です。

SEL(社会情動的学習)」との接続

欧米で進んでいるSELSocial and Emotional Learning)は、徳目の押しつけではなく、自己理解・他者理解・関係づくり・意思決定力などを、体験を通して育てます。
日本の「道徳」はこのSELと統合されるべきです。
たとえば:

  • 感情を認識する言葉を学ぶ
  • コンフリクトを扱うロールプレイを行う
  • クラス全体で「安心して話せる文化」を育てる

つまり、「徳の教科」ではなく「人間関係と感情のリテラシー」を育てる学びとして道徳を再設計することです。

🔹まとめ

「徳目」「問い」へ
「指導」「対話」へ
「評価」「省察」へ

この転換が、「まともな道徳教育」への第一歩です。
そしてこれは、教科書や制度を完全に変えなくても、一人の教師の授業づくりから始められます。★

 

あなた: のなかには、は含まれていることをご存じですか?

ChatGPT:

はい、まさにそのとおりです。
SEL(社会情動的学習)には、の要素が本来的に含まれています。

つまり、あなたの言いたいことはこうですね:

SELをしっかり取り入れれば、自然と「問いによる探究()」も「語り合う共同体()」も実現されるので、わざわざ①②を別に考える必要はない。

その通りです。を実践すれば①②は自動的に満たされるので、最も重要なのはSELの本質を理解して授業に取り入れることです。

言い換えると、

「望ましい道徳教育=SELの実践」

と捉えれば、日本での具体的な課題は「SELをどう教師が実行できるか」に集約されます。


★日本に品質改善を紹介した紹介した人で有名なエドワード・デミングという人がいます(1950年代から1960年代の話です。その恩恵もあって、日本はその後の高度成長に突入していきました!★★)。彼は、組織の中の個々人がいいことができないのは、組織の責任と言い切りました。組織の責任85%、個人の責任15%。でも、15%は個々人の責任なので、変われない/変わらない組織を待たないで、15%の責任を全うすることが求められています。

 それはまさに、ChatGPTも提案していた「教科書や制度を完全に変えなくても、一人の教師の授業づくりから始められます」です。具体的には、https://www.amazon.co.jp/dp/4091045197/ とそのオリジナルのhttps://www.eric-next.org/reflect_read.html#texts の6冊目の『わたし、あなた、そしてみんな』が参考になります。もちろん、https://selnewsletter.blogspot.com/2023/06/sel.html の4冊の本も!

★★産業界は、見事なぐらいにデミングの教えを実践しましたが、教育界は彼の存在すら知らない状態がいまだに続いています! いまからでも遅くはありません。教育の質の改善、取り組みはじめましょう! 道徳に限らず、すべての教科・領域、そして学習指導以外の分野でも質の改善は急務の課題であり続けていますから。

2025年10月19日日曜日

定番の学習活動(課題)をさせることから、より創造的で選択のある学習活動(課題)への移行を

以下の表は、「いい授業」の条件/特徴と「悪い授業」の特徴をChatGPTに出してもらった項目を整理したものです。

納得できる内容でしょうか? 修正したいところや、付け加えたい項目はありますか?

あなたの授業は、いい授業の特徴をより多くもった形で行われていますか?

 よりよい授業をつくり出すのに、あなたが特に気をつけたい項目はどれですか?

 「悪い授業」を一言でいうと、見かけは、学びが起こっているようだが、実際は子どもの学びが成立していない授業。教師は「授業をしたつもり」、子どもは「学んだつもり」になっているが、残るものの少ない「薄っぺらな学びしか存在しない」授業のことです(この問題を文科省も知っているからか、いろいろ提案を出しています!)。

 このように悪い授業といい授業の特徴が明らかになっている中で、前者から後者への移行はどのように実現できるかを尋ねてみたところ、ChapGPTは次の5つの視点というか原則を提示してくれました(文科省も、これら全部ではないかもしれませんが、似たような転換を求めています!)。

  1. 教師中心から学習者中心へ
  2. 一斉進行から学びの個別化へ
  3. 形式的な活動(課題)から意味ある活動(課題)へ
  4. 結果重視から学習プロセス重視へ
  5. 教師の「やったつもり」から教師の省察へ

 こちらも、大切なポイントを網羅してくれていると思いますが、あなたは、それぞれの項目だけでピンときますか(つまり、それぞれの項目で何をどうすればいいか分かりますか)?

 5つ全部について補足説明とそれを実現するための情報源の提供が必要と思いますが、今回は3番目の「形式的な活動(課題)から意味ある活動(課題)へ」に焦点を絞ります。

 『ほんものの学びに夢中になる ~ 関わりあい高めあう授業づくり』(ローレン・ポロソフ著、北大路書房)の第4章に、次のようなエピソードが紹介されています。

 (中学校で国語を教えていた著者は)生徒のほとんどが詩を嫌っていることを知りました。そのうちの一人が、詩の授業が抱える問題をまとめてくれました。「学校で読まなければならない詩はどれもつまらないか、意味不明なものばかり。もし意味があって少しは面白いと思えても、つまらなくなるまでその詩について話さなければならない。そのうえ、その詩についてつまらない作文を書かなければならない。」(『ほんものの学びに夢中になる』63ページ)

 ここでは国語の詩が具体的な例として取り上げられていますが、算数・数学、理科、社会、英語など他教科でも共通に抱える問題ではないかと思います。これまでやられてきた方法だから生徒たちの学びが成立するとは限りませんし、生徒たちにその教科やテーマを嫌いにさせてしまうというのは授業をするうえでもっとも避けたいことです。

 著者は、上の状況を脱するために、生徒が選択できるように複数の活動(課題)を考えしました。それぞれの課題には詩を分析して書く要素が含まれていましたが、その課題はエッセイを書くものだけではありません。思ったことや考えたことを表現するのにも様々な形態がありえますし、複数の形態を組み合わせることもできるようにしました。課題の選択肢には次のようなものが含まれました。

同じようなテーマの詩を集めたアンソロジーをつくる。詩の内容をもとに振り付けをして踊る。詩のリミックスを録音する。BuzzFeedスタイルの「あなたはどの詩ですか?」クイズを作成する。生徒たちが最終的なプロジェクトをイメージできるように、私(著者)自身もそれぞれの課題に楽しんで取り組んでみました(同、63~4ページ)。

 「自分が考えた課題に自分で取り組むのも楽しいことでしたが、生徒たちがどのように課題に取り組むかを見るのは、もっと大きな喜びでした」と書いた上で、具体的に3人の生徒の事例も詳しく紹介してくれています。

 著者は、9つの選択肢を用意しましたが、「クリティカルな読解、創造的な解釈、そして分析を含む、詩に反応する課題を自分で考え出すよう生徒にも呼びかけ」たので、それに反応した生徒たちも少なくなく、より一層創造的かつ本人や周りの人たちにより意味のある作品がつくり出されました。

 生徒たちは機会さえ提供されれば、自分の学びを十分につくり出せるのです! ぜひ勇気をもってチャンスを与えてあげてください。著者は、自分の実践を振り返って、次のようにまとめています。

(生徒は)自分の興味、長所、ニーズ、価値観に最もマッチした課題を選ぶことができれば、自分の学習により強い主体性(エイジェンシー)をもつことができます。さらに、生徒が自分で学習課題を考案すれば、学習方法の選択だけでなく、「自分の声」も手に入れることになります。主体性に、声と選択は欠かせません!(中略)「声と選択」は、生徒をエンパワーするためのキャッチフレーズとなっています(同上、73ページ)。

 教師が(そして生徒も)考えられる学習課題には、次のような可能性が含まれます(同上、65ページ)。

・ビデオを見る。

・複数のひとつながりの問題を解決する。

・ジャーナルを書く。

・親戚/関係者にインタビューする。

・絵本を読む。

・模型をつくる。

・動き(パフォーマンス)の流れを考える。

 このリストが、すべての可能性を網羅しているわけではありません。添付の図表4-2(同、69ページ)をご覧ください。それからも分かるように、冒頭の詩の課題として従来生徒たちが取り組まされていた学習課題からは想像もつかないような多岐にわたる可能性がたくさん見えてきませんか?

  テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 なお、『ほんものの学びに夢中になる ~ 関わりあい高めあう授業づくり』には、上で紹介した生徒が夢中で取り組める課題のつくり方以外にも、PARTⅠでは、生徒にとって学習内容が人生における意味の原点となるようにするための教え方の設計について4つの章で紹介されています(その際、もはや教科書教材だけでは不十分であることが第1章で明らかにされています)。PARTⅡでは、学習内容、学習方法、最終成果物(=評価)のつながりについて3つの章で紹介されています。そしてPARTⅢでは、生徒同士が互いに関わり合うことで、学級がコミュニティーの原点となるようにするための方法が3つの章で紹介されていますので、ぜひ、よりよい授業づくりの参考にしてください。

2025年10月12日日曜日

まちがいや途中の考えを歓迎する教室づくり

  アマンダ・ヤンセン博士が提唱する「ラフドラフト思考」は、数学の授業を「正解を出す場所」から「考えを生成し、練り上げていく場所」へと変える新しい視点を与えてくれます。博士はデラウェア大学の教育学者であり、著書『Rough Draft Math(未邦訳)』★の中で、「生徒が未完成の考えを安心して共有できる場」をどうつくるかを問い続けてきました。その背景には、博士自身の経験があります。体育の授業で人前で失敗することを恐れ、恥ずかしさから授業を避けた時期があり、その体験が「間違うことが怖い」数学の授業への見直しにつながったと語っています。博士は、数学の教室を「人が自分らしくいられる場所」に変えたいと願っているのです。

 

ラフドラフトとは、いわば途中の考え「下書き」のことです。まだ完成していない、確信を持てない、自信のない考えをあえて表現する行為そのものが学びの出発点になります。博士は、教育心理学者ダグラス・バーンズの提唱した「exploratory talk(探究的な対話)」に影響を受けたと述べています。この理論は、ラフドラフト思考の根底にも流れています。ラフドラフト思考が「書くことで考える」学びであるならば、探索的会話は「話すことで考える」学びであると言えるでしょう。どちらも「未完成を大切にする」「他者とともに考えを練り上げる」「言葉を媒介にして理解を深める」という共通の哲学をもっています。

 

ヤンセン博士は、教師が「未完成でいいから話してみて」と呼びかけることが大切だと言います。授業のはじめに「今日はみんなのラフドラフトを聞かせて」と呼びかけることで、子どもたちの発言の空気が変わります。正解を言わなければならないという緊張がほぐれ、思考の途中を出すことが歓迎される文化が生まれます。この「安全な空間」は、探究的な対話が成り立つための条件でもあります。間違いや曖昧さを受け入れ、互いの思考を尊重しながら対話を続けることで、学びは「評価する/されること」から「共につくりあげること」へと変わっていくのです。

 

博士の実践では、授業中に「考えの修正(リビジョン)」を組み込むことが重視されています。ある教師は、授業の最初に問題を解かせ、授業の終盤でもう一度同じ問題に取り組ませました。最初は鉛筆で書き、二回目はマーカーで書く。そうすると、生徒は自分の思考の変化を視覚的に確認でき、「できた・できない」ではなく、「考えがどう変わったか」を振り返ることができるようになります。ヤンセン博士はこれを「学びの成長を可視化する営み」と呼びます。理解とは瞬間的に獲得されるものではなく、修正と生成を繰り返す過程そのものだという考え方です。

 

こうした実践は、小学校にも応用できます。博士が紹介する三年生の授業では、「分数とは何だと思う?」という問いから始まりました。子どもたちは「半分に分けること」「二つに分けること」と自由に答え、それを黒板に貼り出します。授業を重ねるうちに、「分数は二つとは限らない」「等しい大きさで分ける必要がある」といった新しい気づきが生まれ、クラス全体で定義を何度も書き換えていきました。教師が初めから「正しい定義」を与えるのではなく、子どもたちが自らの経験をもとに定義を生成していく。まさにラフドラフト思考が探究的会話へと発展していく姿です。

 

博士は、こうした授業によって生徒のアイデンティティが変わると言います。正解を言える子が評価される教室ではなく、「あなたの考えがみんなの理解を助けたね」と教師が言葉をかける教室では、子どもたちは自分の声に価値を感じるようになります。博士の研究プロジェクト「SMILES」では、高校生を対象に、教師が生徒の発言を肯定的に取り上げる場面が多いほど、生徒全体の自信と集中度が高まることが示されています。誰かの思考を認めることは、そのクラス全体のエネルギーを上げる行為なのです。

 

ラフドラフト思考は、「学びを共同的に生成する文化づくり」と深く関係しています。ラフドラフト思考では、個人が書くことで自分の思考を可視化し、整理し、成長させます。その後、クラスで共有されることで、探索的な対話へと発展します。対話を通して他者の視点に触れ、自分の考えを再び書き直す。書くことと話すことの往還が生まれ、学びが循環していくのです。これが、ヤンセン博士のいう「ラフドラフトを歓迎する教室」の核心です。★★

 

人は新しいことを理解すると、それを昔から知っていたように感じてしまいます。けれども、思考の変化を記録し、振り返ることで、学びが時間をかけた成長のプロセスであることを自覚できるのです。未完成の考えを共有する勇気、そして他者の考えを聴く姿勢。その両方があるとき、教室は「間違いを恐れる場所」から「ともに生成する場所」へと変わります。数学の授業におけるラフドラフト思考は、単なる指導法ではなく、学びそのものを捉え直す哲学なのです。ヤンセン博士の言葉を借りれば、「数学の教室を、正解を競う場から、考えを育て合う共同体へ」。その実現の鍵は、声に出す勇気と、書いて考え続ける粘り強さにあるのではないでしょうか。

 

 

    ヤンセンのラフドラフトマスについては、度々、ポストしてきました。

答えよりも考え方へ 下書きアイディアを共有するラフドラフト思考

https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html

 

子どもの「間違う権利」を尊重した数学的対話のつくり方

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/08/blog-post_10.html

 

 ★★

以下のYouTube動画でヤンセンをゲストにラフドラフトマスのマインドについて語られています!

Rough Draft Thinking for the Math Classroom: An interview with Dr. Amanda Janson

https://www.youtube.com/watch?v=N5-i-kitUpQ

 

2025年10月5日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則2 共感的態度で応じる

生成AIは実にパワフルなツールです。多様な考え方を世界中から収集して、それを完全な文章でまとめてくれます。これまで我々が苦心してやっていたことを、瞬時に、こともなげにやってくれるのです。

AIが、秀逸で、完璧な答えを準備してくれるとなると、我々の知的営みのあり方が変わってきそうです。我々人間は、AIの出した回答を受けて、それに対する創造的で、独創的な発想が求められるようになるのかもしれません。人間の思考や考え方そのものを見つめ直すきっかけを与えてくれるのかもしれない。

そして、このようなAI時代においては、人間関係の構築といったテーマも、再び焦点が当たることになると思います。人間的な営みが、逆に焦点化される。

前月から、サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんの著書から、教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則を紹介しています。★ 第2回めの今日は、原則2「共感的態度で応じる(原著では”Be Empathetic”)」です。

共感的というのは、よく使う言葉ですが、具体的にはどのような態度を指すのでしょうか。原語である “empathetic”という単語の定義は、”showing an ability to understand and share the feelings of another”(New Oxford American Dictionary)となっています。「他者の感情を理解し、共有する能力を示していること」となるでしょうか。

前掲書には、「つまり、共感とは、他者に同意することではなく、他者を理解しようとすることにほかならない」と書かれています。しかも、「理解しよう」の部分にはルビが振られています。理解しようとする態度を示そうというニュアンスが含まれていそうです。

次のような、共感的スキルを伸ばす方法も、紹介されています。

・ボディーランゲージやジェスチャを読み取ることを意識的に努力する。

・学習者の年齢層のことが書かれた文学作品を読む。

・判断留保的な態度で傾聴をする。

・コミュニケーションスキル向上に励む。

やはり、共感的であるには、それなりの努力をする必要があると言えそうです。

その重要な一つが傾聴でしょう。学習者の声に耳を傾ける努力をするということです。

同書では、傾聴する能力を高めるためには、「学習者の話をさえぎらないこと」と「教師が待つ時間をもつこと」の二つが必要であると述べています。

生徒の良き理解者でありたいと、いつも心に止め、真面目で、情熱あふれる先生はたくさんいると思いますが、一方で、そのような思いが強すぎるあまり、ついつい、話をきかせ、諭そうとしがちな先生は多いのかもしれません。

話を遮るつもりはなくても、生徒の話を聞いているうちに、アドバイスしたいこと、伝えておきたいことが、次から次に浮かんできて、気がついてみると、先生の独演会が始まっている。そんな場面を目にしたことのある人は多いのではないでしょうか。

共感的であるためには、子どもたちを、受動的に話を聞く存在、大人の言うことを素直に聞いて成長する存在といった捉え方を、根本から改める必要があるのかもしれません。

同書では、生徒を「双方向の対話に積極的に参加するパートナーとみなす(p.95)」べきでないかとの提言を紹介しています。日本社会の中で育った我々にとっては、ここまでの意識をもてるには、かなりの意識改革が必要なように感じます。


★ サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.

「教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則」

原則1 近づきやすさ 

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律(立)性を支援する

原則6 教師の情熱を示す

注)原則5の「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。

2025年9月28日日曜日

良いことや良さそうなことはやめて、もっとも良いことに集中する! (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom ③)

 https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=Co-Constructed+Classroomの続きです。まだ、本論に入る前の序章の部分が続きます。

 ディラン・ウィリアム(2000年前後に、形成的評価というか「学びのための評価」の効果をイギリスから全世界に発信したメンバーの一人です。これについては、評価の大幅な転換の可能性を書いた『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書、2006年)で紹介しています)の主張を引きながら次のように書いています(Co-Constructed ClassroomKindle版の位置162177)。

 ひとつの方法は、新しいものを加えることばかり考えるのではなく、むしろ何を減らせるかを考えることです。

 ウィリアムは、新しい取り組みを増やす必要はなく、むしろ今あるものの中で最も影響力のあることに集中すべきだと主張しました。

 彼はその後、形成的評価の実践を牽引しました。形成的評価の核心には、生徒の夢中な取り組み(エンゲージメント)と主体性(エイジェンシー)があり、自己評価や相互評価の共同構築、評価基準の理解、評価能力の育成が求められます。

 学校で最も重要な問いは「なぜ?」です。もし私たちが何かをする理由を問い続けて、その答えが生徒の学びに関するものでないなら、それは手放すべきもののサインかもしれません。

 「共に構築する授業」とは、制度(や過去の習慣・慣例)に振り回されるのではなく、私たちが制度を動かし、生徒のニーズに応じて適応・変化させていく場のことです。

 この部分には、とても大切なことが書いてあります!!

 増やすのではなく、減らすことが大事、というのは、まさにその通り!

 教師は、成績づけに翻弄されています。なんの成果も生み出さないのに。単に、過去の習慣・慣例というだけで。前回紹介した「What if?」https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/06/teachable-momentco-constructed-classroom.htmlや、今回紹介している「Why(なぜ)?」を考えられない状況に陥っています。これらが問えたら、通知表も指導要録も、ほとんどのテストも消えてなくなるのに!

 そして、「今あるものの中で最も(効果があり)影響力のあることに集中すべき」というのも、ごもっともです。日本の教育界は、その判断ができないことを証明し続けているようなものです。その最たるものが、教科書をカバーしてテストをするという流れ!(いつまで、それをし続ければ気が済むのでしょうか?)。

 当事者である生徒が夢中で取り組めるようにしないと、学びの質と量を向上することは期待できません(教科書をカバーしてテストで成績をつける授業は、教師と生徒の「従順、服従、忖度」の練習が中心です)。

 さらに進むと、(同上、位置196

 それは教師主導でかっちり構成されたやり方をやめて、生徒やその場の状況に自然に応じられるようにすることが特徴です。

ウィリアムが言ったように、「良いことをやめて、もっと良いことのための余地をつくる」のです。と同時に、https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/09/responsive-teaching.html のテーマそのものです!

 思い出してください。teachable momentのことを! 指導案通り、教科書通りに授業をすることは、教師だけがコントロールしている授業であり、葬り去らないと、生徒たちはいつまでたってもよく学べない状態が続きます。苦役以外の何物でもないので。「テストのために暗記して、その数日後にはほとんどを忘れる」の繰り返しです(先生たちの多くは、残念ながら、それを「教えること」と錯覚して傾向が見られます。Why? Why? Why? 一度だけでなく、最低でも3回は問うてみてください。

 また、「教師たちは本能的に、生徒のニーズに応じることが良い学びにつながると分かっています。けれど残念ながら、その教師の本能は、柔軟性のない制度化や、すでに述べた一貫性への欲求によって押しつぶされてしまうことが多いのです」(同上、位置204)と書かれています。これを続けることは、悲劇です! どうしたら一貫性の名のもとに幅を利かせ続ける、柔軟性がない制度を葬り去ることができるのでしょうか? それを要求しているのは、いったい誰でしょうか? なぜ? その中に、教師も含まれていませんか?

第1章に入る前の最後で、本の3本の柱(カリキュラム、教え方・学び方、そして評価)についての簡単な紹介が書かれています。

 

カリキュラムについて(Co-Constructed ClassroomKindle版の位置212

私たちは、誰に教えるのかに基づいて、何を教えるかを計画します。

私たちの教室には、どんな文化があるでしょうか? どんなアイデンティティーがあるでしょうか? どんな興味があるでしょうか?

生徒たちが何者であるのかを、私たちはどうすれば知ることができるでしょうか?

そして、どうすればその声をもとに、生徒たち一人ひとりにとって魅力的で、彼らが「自分自身になっていく」こと、そして彼らが生きていく世界の一部となっていくことを支えるようなカリキュラムを作ることができるでしょうか?

 カリキュラム(年間指導計画)について、こんなことを考えている日本の教育行政に携わっている人、研究者、そして先生はどのくらいいるでしょうか?

 教科書や指導書ありきで、これは実現できるでしょうか?

 見取りと子ども理解が、すべてのはじめてであることが明らかになっています。見取りと子ども理解をしている先生は、どれくらいいるでしょうか? その方法を知っている/もっている先生は?

 そこから、何を教えるのか(生徒たちからすれば、何を学ぶのか)、どう教えるのか・学ぶのか、そしてどう評価するのかが始まるのですが、日本の授業はそのように考えられているでしょうか? 「教材研究」という発想が、どれだけズレているかを、その言葉を使う人たちはこれまで考えたことがあるのでしょうか? 一つの教材が、目の前にいるすべての生徒に等しく通用する(届く、興味を沸かせる)ことがあり得るのでしょうか? 

 教科書教材が、「生徒たち一人ひとりにとって魅力的で、彼らが「自分自身になっていく」こと、そして彼らが生きていく世界の一部となっていくことを支える」ようなことはできるでしょうか?

 ここの内容について参考になる本には、『言葉を選ぶ、授業が変わる!』『私にも言いたいことがあります!』『SELを成功に導くための五つの要素』『教科書をハックする』そして、来月刊行される『ほんものの学びに夢中になる』(ローレン・ポロソフ著、北大路書房)などがあります。

 

教え方について(同上、位置218

教師は、生徒がどのように学ぶのかに関心をもっています。

教師は生徒の学習行動を観察し、分析し、すべての生徒が前進できるように、その場その場で教え方を柔軟に調整します

うまくいっていないときに、無理に授業計画に固執することはなく、教室で生徒から受け取っているフィードバックにリアルタイムでやり方を修正していきます。

 生徒の学び方に関心をもっている教師って、どのくらいいますか? それこそが、教えることのベース/基本だと知っている人は?

 下線の部分は、まさに「見取り・子ども理解」=形成的評価 = 文科省が25年前から言い続けている「指導と評価の一体化」と言えませんか?

 通常の教科書(指導書)をカバーする授業でも、これは行われていますか?

 

評価については(同上、位置224

標準化されたテストが当たり前のこの時代において、「柔軟に生徒の理解や進度に応じて行う評価(responsive★ assessment)」は難しく聞こえるかもしれません。しかし、学校での私たちの仕事が、生徒同士を比較して評価することではなく、一人ひとりの生徒が継続的に成長できるよう支えることなのだと気づいたとき、私たちは標準化された状況の「ルール」(外部試験以外の評価において)を手放し、標準化されていない生徒たち一人ひとりにとって公平なアクセスを実現する方向へと進むことができます。

このresponsiveについては、上で紹介したhttps://projectbetterschool.blogspot.com/2025/09/responsive-teaching.html をご覧ください。

 ちなみに、自由進度学習は、responsive teachingないしカリキュラム、教え方、そして評価について、真剣に考えた末の実践といえるでしょうか?

 「序章」の最後には、以下の問いが読者に投げかけられています(最近、こういう問いを提供している教育書が英語では多いです。よく考えて行動を期待しているからだと思います。それに比して、日本語の教育書には依然としていい問いが欠落したままです。そのために、読者は受け身で内容を理解するだけにとどまりがちです。授業でしていることと似ていませんか? そしてそれが、実践につながる度合いが低い理由かもしれません。読者のエイジェンシー/主体性を求めていないので!?)。

 

序章の内容の振り返りのための質問(同上、位置233

  • あなたの教育現場では、どのようなシステムが確立されていますか? それらのシステムは、どの程度硬直的(rigid)または柔軟(flexible)ですか?
  • 生徒とともに学びを「共に構築する(co-construct)」という考え方に対して、あなたはどのように感じますか? エネルギーが湧いてワクワクしますか? それとも、不安や挑戦を感じますか?
  • なぜそのように感じるのか、考えてみてください。多くの人にとっては、統制された、きっちりと構造化された計画に従うことが、安全や安心をもたらします。一方で、それが窮屈でストレスになる人もいます。教育において、あらかじめ決められたやり方や計画に従うことについて、あなたは安心感を覚えますか? それとも、窮屈さや抵抗感を感じますか? ~安心感をもっているからといって、そのままにしてしまっていいのでしょうか? 窮屈さ、抵抗感ないし違和感をもっている場合は、どうしたらいいでしょうか? 何ができるでしょうか?
  • 教育における「一貫性(consistency)」の重要性について、今の段階でどのような考えをもっていますか?(このテーマには今後何度も立ち返ることになるので、今の気持ちを整理しておくとよいでしょう)~ 日本では、この一貫性が殊の外大事にされていますが、「Why?」は考えられていません。それは、子どもたちのためというよりは、大人のため、ないし制度のためなのではないでしょうか? 

しかし、一貫性も悪いことばかりではなく、子どもたち/学習者にとって大事な(いい)面もあります。授業においても、学級経営においても、どんないい点があるでしょうか?

 この後、第1~3章で詳しく、これらカリキュラム、教え方、そして評価について紹介されていますが、これらを紹介し始めたら膨大の量になってしまうので、興味をもたれた方はぜひ原典に当たってください。

2025年9月21日日曜日

Responsive Teachingとは、どういう教え方か?

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.html にある表の一番右側に、responsive teachingと書かれています。そこでは「(個々の)生徒のニーズに対応した教え方」と訳していますが、より具体的には「教師は、あらかじめ決めた授業計画を一方的に進めるのではなく、一人ひとり生徒の理解度・誤解・関心・感情のサインを読み取り(=見取り)、それに即して教え方を調整する姿勢であり、教え方」です。文科省が目指しているのも、こういう教え方でしょうか?

 「responsive teaching」には、次のような要素が含まれます。

  • 生徒の理解に耳を傾ける ~ 生徒がどう考えているか、どんな誤解をしているかをつかむ。(見取りと子ども理解)
  • 即時の調整 ~ 生徒の発言や表情、活動の様子から判断して、説明の仕方や問いかけを柔軟に変える。(見取りと子ども理解をベースにした教え方)
  • 学びを深めるサポート ~ 生徒の「今の考え」をそのまま否定するのではなく、そこから一歩先に進めるような問いかけをする。ZPDhttps://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPD)を踏まえた教え方!
  • 個の違いへの配慮 ~ 生徒の背景、興味、学習スタイル等に合わせて対応する。(『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』を参照)

 要するには、見取りと個々の違いを踏まえた教え方ということです。その際、大事にされるのは、

  信頼関係を重視 ~ 生徒が安心して自分の考えを出せるように、尊重する姿勢をもち続ける。(これが、すべてのベース!)

多様な学び方を用意する ~ 読む・聞く・話す・書くなど複数の方法でアプローチして、生徒の強みを活かす。(これだけでなく、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『「居場所」がある学級・学校づくり』(特に、第6章、第7章)で紹介されている教え方)

 Responsive Teachingということで、次の図を見つけました。

ダイアグラム

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 この図の特徴は、Responsive Teachingをサイクルとして捉えていることと、OLMOptimal Learning Modelとイコールなものとして捉えていることが挙げられます。OLMは、『Reading Essential』と『Writing Essential』の本のなかで基本に据えている教え方です。それは、Regie Routmanという著者流のリーディング・ワークショップとライティング・ワークショップの運営の仕方とも言えます。

サイクルは、教師が子どもたちにしてほしいことを実際にして見せる(モデルで示す)ところから始まります。

2番目は、一緒に試してみる段階です。ここには、

 - 一緒に試してみる

-アイディアを出し合い、質問する

-対話を通して支える

- 示されたことや話されたことを掲示物の形でまとめる、などが含まれます。

 3番目は、リーディング・ワークショップのときに行われるガイド読み、ないしそれの応用版の実践です。つまり、数人の生徒が教師のサポートと適切なフィードバックを受けながら練習をする段階です。

 4番目は、個別に練習する機会です。ここでは、各自が自立した学び手になるための練習が行われます。

 そして最後が、ふり返りと祝いで、学びの成果を確認し、共に喜ぶ/祝う段階です。

 以上は、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップおよび『「学びの責任」は誰にあるのか』で紹介されている「責任の移行モデル」(https://projectbetterschool.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html)を知っている方にはなじみのあるサイクルと言えるのではないでしょうか?

 同じレベルで大切なのは、その外側に書かれてあることです(右上から順に)。

①全過程を通じて、継続的に評価し(見取り)、必要に応じて修正する。

②生徒の強み、努力、次のステップに気づき、言葉にする。

     生徒による自己チェックと、自立した学び手になることを重視する。

 以上説明してきたことが、「指導と評価の一体化」の理想のあり方に近いのではないでしょうか? 文科省でそれを言い始めた人たちも、そのようなイメージをもっていたのでしょうか?

①~③は、まさに教師が見取りをし続けることを意味するだけでなく、生徒一人ひとりが自立した学び手になることが目的ならば、生徒が自己チェック(=自分見取り→フィードバック→自己修正・改善)できるようになる必要もあります。それは、教師がいつまでも頑張って教えていたり、頑張って評価をしていたりする限りは実現しません!

2025年9月14日日曜日

子ども同士の対話の質を問い直す「発表的会話」と「探索的会話」

 東京大学の一柳智紀さんから「コミュニケーションの質」について学ぶ機会があり、その内容は今後の自分のワークショップ授業におけるピア・カンファランスの質を高めるうえで大きな示唆となりました。ここでは、その学びを整理して共有してみます。

 

私たち教師は、授業中に「間違ってもいいよ」と言いながらも、「できた人は?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかけてはいないでしょうか。この問いかけは無意識のうちに「できた子」に焦点を当ててしまいます。その結果、いままさに考えの途中にいる子や「わからない」と感じている子にとって、「間違ってもいいよ」という言葉は空語になってしまいます。授業は誤りを資源として扱いながらゴールへ向かう営みです。しかし、1時間単位で成果を求められる圧力の中では、つい「わかった人に説明してもらう」ことで授業を前に進めがちです。そのとき置き去りになっているのは、「もっと考えたい」「じっくり悩みたい」と願う子どもたちです。

 

ここで、教室の対話を二つの型で捉え直す必要があります。一柳さんの研究によると、整理され磨かれた考えを明瞭に伝えるやりとりを「発表的会話」と呼びます。たとえば「ここは76を足す。繰り上がりを直せば13だよ」というように、筋道だった説明を一方向に提供する場面です。思考の整理や共有、まとめには大きな価値がありますが、子ども同士のやりとりが「正答の発表会」にとどまり、思考のプロセスを共に辿らないと、学びが浅くなりやすいという側面があります。

 

一方で、未完成の考えを試し合い、互いに補い合いながら進むやりとりを「探索的会話」と呼びます。「うーん、違うかな」「ここ72でかけるんじゃない?」「ここを16にして」「これ埋めるんだけど」「そうそう、埋めてそれで戻すときに引く?」といった、言い淀みや仮説的な表現を含みつつ、プロセスを共有し合う会話です。結論より過程が往復し、根拠を出し合い、誤解が修正され、新しい見方が立ち上がります。探索的会話があるとき、子どもたちの思考は豊かに広がり、深まっていきます。

 

重要なのは、どちらが優れているかではなく、役割の違いを踏まえて意図的に併用することです。発表的会話は思考を整え、伝える力を育てます。探索的会話は考えを生み、共に創る力を育てます。ところが多くの教室では、時間的制約や評価の枠組みの影響で発表的会話に偏りがちです。だからこそ、授業デザインの中に「未完成の考えを出してよい時間」と「まとめて伝える時間」を明確に位置づけ、行き来できるようにすることが大切だと考えられます。

 

このとき土台となるのが「聴く文化」です。聴くとは、単に相手を見て頷く作法ではなく、相手の言葉に応答し、問い返し、言い直しを支える実践です。「わからない」とつぶやいた声に、隣の子が「こういうこと?」と代弁し、さらに別の子が根拠を足す。こうした経験が重なるほど、子どもたちは安心して未完成の考えを口にできるようになります。教師もまた、子どもの発話に即座に評価を与えるのではなく、「いまの『わからない』はどこから来ているの?」と問い、プロセスを一緒に確かめる聴き手でありたいと思います。

 

理解の到達を子どもと共有する指標として、「わかる」のスケールを次のように示すことができます。

1 わかっている

2 わかっていることを説明できる

3 わかっていることを教えることができる(多くはここで止まりがちです)

4 わかっていることで、わからない人の問いに応じて援助できる

 

この「4」に届いたとき、教室の学びは真に協働的になります。小さな声や不安な声が仲間に支えられ、代弁や言い直しを通して言葉になっていく場面を、意図的に設計していきたいのです。

 

発表で思考を整え、探索で思考を広げる。この往還を授業に組み込み、聴き合う文化を育てることで、子どもたちは互いの考えに働きかけながら学びをつくっていけます。評価や時間の制約に押されて「できた人」中心の進行に戻りそうになったときこそ、「未完成の考えが歓迎される時間」と「まとめて伝える時間」の二つを思い出し、両輪で授業を設計していくことが大切なのです。これが、ピア・カンファランスの質を底上げし、教室全体の学びを一段深める道筋になると考えられます。

 

 

2025年9月7日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則1 近づきやすさ

ある一人の教師との交流が、生涯にわたってポジティブな影響を持ち続けるといった経験をしたことがあると思います。


私の長年の友人の一人は、中学校時代の音読テストの時に声をかけてくれた教師のことを忘れらないといいます。ある日の音読テストのあとで、その先生が「○○くん、教室の前で今の音読をやってみてくれる。」と声をかけられたそうです。彼は、戸惑いながらも、クラスの前で音読を披露したそうです。そして、その時の高揚感のようなものが、その後の自分自身を支えてくれたとまで言っています。その先生に、評価されたことが、とてもうれしく、自信につながったそうです。その日ことがあったから、彼は英語教員になったのだと言っています。


教師と学習者の人間関係や信頼関係は、学習者のエンゲージメントに大きな影響をもつことは、経験的にも納得できることです。親しく思いやりのある教師との関係や質の高い仲間との関係が、生徒の成長や学業での成功にとって、重要な要因であるという研究は数多くあると言われています。


そこで、数回に分けて、教師と学習者との関わりを深めるための原則について考えてみたいと思います。 あまりに当たり前過ぎて、見過ごしていることがたくさんあるのではないかと思うからです。


サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんは、著書の中で、教師と学習者の信頼関係を構築するには、次の6つの原則があると述べています。★


原則1 近づきやすさ

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律(立)性★★を支援する

原則6 教師の情熱を示す


まずは、原則1の「近づきやすさ(原著では”Be Approachable”)」です。


一つ目のポイントは、「いつもそこにいるということ」です。大学などでは、オフィスアワーのような時間帯を設けて、気軽に学生が立ち寄ることができるような工夫をしているところもあります。近年では、ソーシャルメディアなどを通じて、学習者とのつながりを維持しようとする教師もいます。教師が発する「たたずまい」や「空気」といったものもあるのでしょう。当然、近づき難いオーラを発している人もいます。生徒と教師の適切な「車間距離」は、どの程度なのか、古くて新しいテーマだと思います。


二つ目のポイントは、「自己開示」です。学習者に対して、趣味、楽しみ、好き嫌い、時には、生き方の哲学といった個人の考え方などを含む、よりパーソナルな情報を、ほどよく開示することが、近づきやすさを生む。開放的にみえることで、信頼感、安心感を生みます。まずは、教師の側からの積極的な自己開示が不可欠となるでしょう。個人情報をあまりに出しすぎることには、抵抗感もあるでしょうし、適切とは言えない場面もあるでしょうから、そのバランスを見極めることが必要です。とはいえ、教師の明るく、前向きな自己開示は、近づきやすさにとっては、不可欠と言えそうです。


三つ目のポイントはユーモアです。人間味を、ストレートに出すことで、近づきやすさを感じるはずです。ただし、これは、人によっては、ハードルが高く感じることかもしれません。同書は「学習者は教師のユーモアのある説明やコメントを望んではいるが、それは学習内容から逸脱しておらず、ユーモアの形式が適切な場合に限られる。」と実に的を射た警鐘を鳴らししてくれています。やはり、「ほどほど」にということでしょう。人の情意フィルターをさげるものは、明るく、前向きな姿勢と笑顔であることに、疑問の余地はないでしょう。


豊かな学びも、夢中になれる瞬間も、その礎は教室内の人間関係にあると言えます。私たちが教室のなかで、どのようにふるまい、どのような言葉をかけるべきか、しばらくの間考えていきたいと思います。



★ サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.


★★ 「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。