「教科書の存在」で気づいたことを、3つほど。
①
教科書を教えていて、自分が楽しんでいるか、退屈しているか、見極められることがまずあげられます。一人ひとりの教師が、です。③で紹介する事例は、ちゃんとそれができていた事例です。
しかし、教科書はカバーするものという価値観をマスコミも含めて社会が煽り立てていますから(文科省も言うように、教科書は「あくまでも主たる教材」に過ぎず、教師が義務づけられているのは指導要領を押さえることであるにもかかわらず)、多くの教師はすでにマヒしてしまっていて、楽しむとか退屈しているとかの感覚さえもてない状況にあるようです。
②
従って、すでに11月11日に書いたあえて「問いかけること」が必要になります。
学校の中では、当たり前すぎる教科書という存在を問わない限りは、その利点と欠点に気づけませんし、その存在がもっている利点よりもはるかに多い欠点にも目を向けることができません。
同じように、学校の中で存在し続けている「当たり前なもの」には、時間割、職員室というスペース、部活、教師と生徒の関係、管理職と教師の関係、PTA(学校と親の関係)などなど、数え出したら切りがありません。
一つひとつのプラスとマイナスを明らかにすることは、私たちがどういう授業やどういう学校をつくりたいのかに直結しています。
もちろん、全部を一緒くたに変えることはできませんから、何を優先するかの判断は極めて大事です。(しかし、すべてはつながってもいますから、一つ二つを改善することは、残りの改善に波及します。白鳥さんが書いていたように、数年かけてそれを確実に変えようと踏ん切りがつけば。)
③
教科書に関して思ったことの3つ目は、『奇跡の教室』(伊藤氏貴著、小学館)を読みました。あの東大受験で有名な灘校で中学校3年間『銀の匙』だけで戦後の30年間、国語を教え続けた橋本武という先生の実践と、その授業を受けた生徒たちを追いかけて著した本です。
その橋本さんが一冊の本だけで、3年間教える決意をするきっかけは、自分が生徒時代も、戦前の国語教師時代を振り返っても、「寄せ集めの教科書では残らない」「生活の糧になるテキストで授業をしなければ」という強い思いでした。要するには、教える側に扱う内容に対する「情熱」と「愛」がないものは、生徒たちに通じるはずがない、というのです。
この本には、教科書のこと以外にもいいことが書いてありますので、ぜひご一読を。
別に、私立の灘校だからできる実践ではありません。
教師一人ひとりの、そして教師集団の「情熱」と「愛」が問われているんだと思います。
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