「プログラミング教育」「外国語教育」「道徳教育」「言語能力の育成」「理数教育」
「伝統や文化に関する教育」「主権者教育」「消費者教育」
これらの用語は文部科学省のホームページに、学習指導要領の解説として載せられたもので、「新たに取り組むこと、これからも重視することは?」というタイトルが付けられています。これを見ると、学校現場の先生方がこれをやっていくためにどれだけ準備の時間を必要とするだろうかというのが率直な思いです。これで、「働き方改革」とはよく言ったものです。このなかで、20年前も存在していたのは、「道徳教育」でしょうか。しかも、その道徳教育も領域ではなく、「特別の教科」になりました。この教科化については、「いじめ問題」への対策という政治からの要請が強くありました。要するに、学校が道徳教育をしっかりやらないから、いじめ問題がいつまでもなくならないという、短絡的な思考が背後にあるのでしょう。
このように、社会における様々な問題の解決のために教育を利用するという状況を「教育依存症候群」とアメリカの教育学者D.ラバリーが名付けています。(『教育依存社会アメリカ』岩波書店2018)アメリカのいろいろな仕組みを取り入れ続けてきたわが国も、まさにそうした状況に陥っているわけです。
『「生存競争」教育への反抗』(神代健彦・集英社新書2020)にそのあたりの経緯などが述べられています。関心のある方はお読みください。
そのなかの次のような一文を紹介しておきます。
教育改革が喧しいが、英語教育やプログラミング教育、道徳教育をいくら充実しようと、学校教育の負担が増えるだけで、少なくともそれだけで社会が望ましく変わることはあり得ない。このことはいくら強調してもしすぎることはない。たとえ善意からだったとしても、教育に期待しすぎてはいけない。(同書64ページ)
IT技術者が不足するから、小学校からプログラミング教育を導入するという話がありました。しかし、考えてみれば、技術者養成の問題はほとんど高等教育以降の問題です。しかも、技術者の待遇が悪いから、意欲のある人はどんどん海外に出て行ってしまう。わが国の大卒初任給はこの二十年以上ほとんど変わらない状態です。しかも、契約社員・派遣社員と若者を使い捨てにしているこの国の産業構造が変わらなければ何も解決しない問題です。それを最後の砦とばかり教育に、しかも義務教育にそれを押し付けているのが現状です。
大学改革についても、同様です。これについては、以前『大学改革の迷走』(佐藤郁哉・ちくま新書)で紹介したように、矢継ぎ早の改革続きで、十分な結果の検証もできずに、改革自体が目的になってしまっているのが、今日のわが国の教育行政の姿です。
われわれができる改革の一歩目は授業をどうするかということであり、この視点からこれまでも考えてきました。先ほどの『「生存競争」教育への反抗』では、まず何をしたらよいかということで、社会への適応に子どもたちを追い立てることではなく、「世界」に出会わせることであると説いています。
算数・数学の授業を通して、抽象的な数や形の世界に出会わせる。
理科の授業を通して、自然や科学の世界に出会わせる。
社会の授業を通して、子どもたちを人間の歴史的・社会的な営みに出会わせる。~
(同書166ページ)
このような学びを、子どもたちが学びのオウナーシップをもつ機会へとつなげていくことができれば、その成果は単にペーパーテストの点数を上げることに終始している授業を大きく変えていくことになるでしょう。「生徒が自分の学びのオウナーシップをもったとき、何が起こるか?」を知りたい方には、『あなたの授業が子どもと世界を変える』(新評論2020)が参考になります。あなたの進むべき方向が必ず見えてくるはずです。
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