これまでに、このブログで「カリキュラム」をテーマに何回も書いてきました。
ある意味で、それこそが教師にとってもっとも大切なものだと思っているからです。
と同時に、これこそが日本の教育で弱い部分ではないかと思っているからです。
しかし、
「現
実的に、わたしにとってのカリキュラムは、すでにもう決められてあるものです。どの学校でもそうですが、学年ごとに指導要領と教科書をベースに年間に学習
内容を割り振り、立てた年間計画になります。このカリキュラムは、個人で変えられるものではなく、学校で定めて、当該学年はどのクラスも同じく実行するも
のです」
このカリキュラム観をもっている先生が圧倒的だと思います。99%?
私が教育に関わり始めた1980年代の初頭、オーストラリアの指導主事は、「教科書の位置づけは、自分でカリキュラムをつくる能力のない教師のためにあります」と言っていました。
「目の前にいる子どもたちと教えるべき内容や入手できる学習材等を踏まえて、ベストのプログラムを考えるのが教師の仕事で、教科書をカバーする教師は、残念ながら子どもたちがよく学べる授業をできない先生たちだ」とも。
スッキリしますね。
(以前にも紹介した教科調査官と私とのやりとりです)
1980
年代の末、高校の世界史担当の教科調査官は、「いっこうに“フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか”という一つの問いで、年間教えていただいても
結構です」と言い切っていました。もちろん、本人が書いた手前、「学習指導要領に書いてあることを、すべて押さえてくれれば」ですが。
それを受けての私の質問: そんな授業をつくれる教師は日本にいるんですか?
教科調査官: いないでしょうね。
私: できるようになるのですか?
教科調査官: 無理でしょうね。養成過程でも、現職研修でも、教師にカリキュラム開発能力を身につける、という視点が丸ごと欠けていますから。
私: それが分かっていて、文科省は何もやる気がないのですか?
教科調査官: 越権行為になってしまいますから。養成過程は大学の、現職研修は都道府県の教育委員会の役割です。
私: そうなると、いつまでたっても教科書をカバーする授業が続くわけですね?
教科調査官: まあ、そういうことです。
なんという理想と現実のギャップ!!
教育公務員である教師は、学習指導要領を押さえる義務はあっても、教科書をカバーする義務はありません。教科書は、欧米と同じで、あくまでも「主たる教材」でしかありません。しかし、いつのまにか「学習指導要領=教科書」になっています。
マスコミが、それを煽動しています。官僚等とグルになって??
でも、上の教科調査官の言っていたこととは大きなズレがあると思いませんか?
(それとも、教科調査官は、単に「本音と建前」を使い分けていただけ?)
年
間計画(カリキュラム)は、学校レベルで決定できるのですが、実際にしていることは、学習指導要領はほとんど見ないで、教科書会社が作ってくれている年間
計画を教育委員会に提出して、教科書どおりに授業をするという例年通りのお決まりのパターンを繰り返すだけと思います。
子どもたちが主体的に学べるか、ということはあまり気にもせずに。
親たちも、教科書どおりの授業をしてくれているのかは気にしていますから。
次の2つについて
・カリキュラムは、個人で変えられるものではなく
・当該学年はどのクラスも同じく実行するもの
どう思われますか?
教師が主体的に教えるという考え方をどう思いますか?
教師がお付き合いで(仕方なく)教えていたら、それは間違いなく子どもたちに伝わってしまいます。
教師がワクワクしないで教えていて、いいのでしょうか?
ワクワクよりも、教科書をカバーする方が大事なのではないでしょうか?
学習指導要領を押さえるのでいいなら、上記の教科調査官が言っていたように、教師も(そして子どもたちも)ワクワクする授業はいくらでも作り出せます。
でも、それが教科書をカバーする授業になってしまうと、面白いワクワクする授業からは遠ざかってしまいます。暗記することが中心になってしまいかねません。
選択は、誰にありますか?
0 件のコメント:
コメントを投稿