私たち教師は、子どもたちに、ワクワクするような学びの体験をしてもらいたいと思っている。少なくとも、そう思って教職を志したはずだ。志望動機に多少の違いはあっても、子どもたちがイキイキ学ぶ姿を思い描いて教壇に立ってきたはずである。
一方、現在の我が国の学校教育は一つの転換点に立っていると言える。21世紀型スキルといわれたりするものだ。それには、創造的に問題を解決する力、クリティカルな思考力、コミュニケーション力、協働する力、メディア・リテラシー、テクノロジー、多文化理解の力などが含まれる。講義やワークシート、記憶、暗記などを中心とした教え方では、立ち行かなくなっていく危険性をみな感じているのだ。
「退屈した生徒は、ソーシャル・メディアを使うことで、脳のドーパミンの噴出量を引き上げているかのようだ。考え事をしたりして気を紛らわすことでは太刀打ちできるものではない。教室で学ぶことの、魅力的な代替物となってしまっているのである。それらと、同等に魅力的な教育を提供できなければ、生徒たちは見向きもしてくれないだろう。」(p.47) ◆
というマーサ・ラッシの指摘は強烈だ。教科書を使った、知識の切り売りの授業を続けていたら、日本の学校は本当に大変なことになるかもしれない。
しかし、まだまだ我々が向かうべきところは視界が十分とは言えない。アクティブ・ラーニングという言葉の定義すら、まだ明確とは言えないだろう。伝統的な授業からの脱却を図るうえで、考えておくべき課題を、マサー・ラッシュが整理している。◆
1 意味のある、しっかりとした学習課題に向かわせることのできるエンゲイジメントがあること。
アクティブ・ラーニングといえば、グループワークをしたり、ディスカションをしたり、児童生徒が活発に動く活動を思い浮かべるだろう。エンゲイジメント(ある仕事や活動に夢中になって取り組んでいる状態)を作り出したいのである。しかし、重要なのは、単なるエンゲイジメントではなく、意図がはっきりしたエンゲイジメントである。生徒に迎合するようなお楽しみとは異なるということだ。
2 テクノロジーは答えではない。
ICTは重要だが、テクノロジー自体が重要なわけではない。ラッシュの言葉を借りれば「ノートの代わりにアイパッドを使わせるといったことだけでは、生徒たちを学びに向かわせることはできないのだ。基礎的な知識や語彙を単純に覚えるドリルであれば、コンピューター上でやろうが、紙の上でやろうが、退屈であることには変わりはない。」ということだ。
3 必要な知識はある。
振り子の両端に触れすぎない。基礎的な必須ともいえる内容を落とさずに、新しい学びに挑戦しなければならない。
4 小さくスタートする。
講義型授業とアクティブ・ラーニングを、単純に対立するものとして見てしまいがちであるが、極端に走らないことが重要。「すべての時間でディスカションをする」のように極端に走らず、できることから始めるという姿勢が必要だ。
5 教師自身が、アクティブな学びを体験すること
あなたは、ワクワクするような学びを体験しているだろうか。ワークショップに参加したり、友人とブッククラブを開くなどして、本当に意味のある学びを体験したい。
学ぶことは本来はとても楽しいことだったはずだ。学校をワクワクする学びのあふれる場所にしよう。そのようなビジョンをぶれずに持ち続けたいものだ。
◆ 『退屈な授業をぶっ飛ばせ-学びに熱中する教室』新評論 マーサ・ラッシュ著(長﨑政浩,吉田新一郎 訳) (2020), pp. 50-54
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