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2012年10月21日日曜日

指導計画


 指導計画は、何をどう教えるかのプランです。
 以下は友人の教師が、指導計画の現状について説明してくれました。
「それは学校単位で作ることが明記されています。しかし、教育委員会や教科書会社はモデルを示してきます(その後ろには文部科学省がいる??)。そこまではいいのですが、学校は忙しく、先生たちも指導計画/カリキュラムを作った経験がないので、教科書配列をそのまま順守している学校がほとんどです。学校はそれをほとんどコピーペーストしてカリキュラムをつくり出します。つまり、学校によってカリキュラムに個性があるはずなのに、それがまったくない没個性的なカリキュラムができあがっているわけです。それが僕の印象です。もっと、個性的であっていいはずなのに」

 彼これ30年前になりますが、数人の教科調査官と親しくさせてもらっていました。その中の一人(高校の世界史担当)が、「例えば、フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか」という一つの質問で年間教えてもらっても一向に構わないのです」と言っていたことを今でもよく覚えています。しかし、そのあとに以下のようにも付け足していました。「日本の教育で一番欠けているのは、教師のカリキュラム開発能力かもしれません。養成課程でも、現職研修でも、それは扱いませんから」と。
 ここでいう「カリキュラム開発能力」は、教師の「授業力」とほぼイコールなものと捉えることができます。それは、例えば『奇跡の教室』で紹介されているような。


 教育委員会も、教科書会社も(そして、文部科学省も)良かれと思ってしているのでしょうが、結果的にはそれが画一化の原因になっていることはこれまでの歴史が証明してくれています。最も大切な教師のカリキュラム開発能力を無視したまま、教科書をカバーする授業(その大半は身につくことなく、テストのために暗記され、そして忘れ去られる運命?)が続いています。

出発点は「良かれ」なのですが……、実際に起こっていることは「悲劇」です。しかし、みんな「良かれ」ないし「当然」と思ってやり続けていますから、実際にしていることが「悲劇」とは思えません。その間、子どもたちの学びの質と量は極めて低いレベルに抑えられた状態が続いています。教科書をカバーする(=教師自身が心底必要性と面白さを感じていない)レベルの授業が子どもたちにとって楽しいはずはありませんから。こういう状態に数か月~数年おかれると、ほとんどの教師は「マヒ」状態というか「思考停止」状態に陥ってしまいます。以前、「蝶を蛾にする」文化をもってしまっている学校および教育システムと書いたことと関連します。


 このような悲しい状況を回避するために、
・     学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例
・     教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み
・     子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例
・     授業改善のために指導案を中心にした研究授業+研究協議に代わるものを模索している事例
・     その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試み
などを、ぜひ下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛にお知らせください。

2014年6月8日日曜日

30年以上も抱え続けている大きな課題


先日、私のマルチ能力に10年前から関心をもち続けている人からメールがありました。
 
ずっとなぜ日本ではマルチ能力(MI)が認知されないのか不思議でしょうがなかったのですが、その原因を書いた論文「H.ガードナーのMI理論のアジアにおける需要と展開」を発見しました。日本で広がらなかった理由として、


1.研究現場をフィールドとする研究者が少ないことと現行の教育課程の硬直性がMIを適用したカリキュラム研究の展開を難しくしている。

2.教育課程編成における学校の自由裁量枠が狭く、学校及び教員のカリキュラム編成経験がない。

3.悉皆的な教員研修の在り方が教員の自立性や柔軟性を発揮することを拒んでいる。★

が挙げられていました。

これに対する、私のフィードバックは、以下の通りでした。

マルチ能力が日本で普及しない3つの理由は、まさにその通りだと思います。
ERICを私が始める準備段階で、文科省の教科調査官などと話して、すでに把握していたことではありましたから★★、もう30年近く(以上?)、まったく改善が図られていません。学校教育に関係する人たちは、改善する気もありません。
要するには、単にマルチ能力の普及を阻む要因になっているだけでなく、「日本の教育が膠着したままである理由」であり、○○さんが尻拭い的にさまざまな活動(不登校やいじめ問題への対応など)をしないといけない要因でもあり続けています。
子どもたちも、教師も、そこに関わるほかの大人たちも元気になれない、自分を出せない世界ですから。みんなで仮面をかぶることを強要された世界ではないでしょうか。それが社会に出る前段階での練習の場になっているわけですから、学校が社会の縮図化しています。凝縮しているというか。(それこそが、『ギヴァー』を再刊し、普及したかった私の理由でした。『読書家の時間』も同じ目的で出したので★★★、読まれたらぜひ感想聞かせてください。ということで、私の中ではすべてつながっています。)


★ 中教審の答申のたびに、「教員の資質向上」の必要性には言及していますが、文科省にその方法を知っている人はいません。従って、「それは、都道府県教委の責任です」と逃げてしまいます。それで、自分たちは制度整備(改悪?)と教科書づくりで、教育を管理することが役割だと思い込んでいるようです。 では、都道府県や市教委に教員の資質向上のノウハウをもっている人がいるかというと、いません。それでは大学にいるかというと、教員免許更新制の研修を見てもわかるとおり、いるとは言えません。従って、教員の資質向上はお題目に過ぎない状態が続いています。教員研修のプロが一人もいないのですから。

★★ たとえば、世界史の教科調査官は「フランス革命はいつ始まり、いつ終わったのか?」という一つの質問で年間を通して教えてもらってもいっこうにかまわないのです、と言い切っていました。しかし、その後に以下のように補足しながら、「もちろん、それができる教師がいれば、です。養成課程でも、現職研修でも、カリキュラム開発能力をつけることを日本ではやっていませんから、基本的には無理です。」
 これは、30年前のやり取り(おそらくそれ以前からわかっていたこと)ですが、いっこうに現状を改善する形での努力が行われる気配はありません。要するには、先生たちにカリキュラム開発能力は身につけてほしくないのです。教科書を大人しくカバーしてくれている存在でいいと思っているのですから。

★★★ 年間計画を自分で立てること(=カリキュラム開発能力)は、『読書家の時間』を実践する際に欠かせない力量です。教科書をカバーするやり方ではないので。結果的に教科書の内容をカバーするアプローチではありますが。(教科書をそのままカバーする授業をしていては、少なくとも半分以上の子どもたちがこぼれ落ちてしまうことがわかっていますから。教師にとっても、学びはないし!!)

2013年9月8日日曜日

カリキュラム

カリキュラム開発の大切さが、8月25日のPLC便りで強調されました。

 「カリキュラム」は、基本的に学校レベルの専権事項なのでは?
 教育委員会の承諾を得て、という前提つきですが。
 (でも、基本的に、良し悪しの判断ができる人は、そうたくさんいるとは思いませんから、出したものは通ると思っていいと思います。)

 大切なのは、教科書(ないし指導書)どおりのを提出するのか、それとも自分たちが考えたカリキュラムを提出するのかの違いです。

 私が教育に関わり始めた80年代の半ばに、学習指導要領を書いている教科調査官たち数人と話し合ったことがあります。その一人(世界史担当)が、たとえば「フランス革命は、いつ始まって、いつ終わったのか」をテーマにして1年間授業をしてくれてもいっこうに構わないのです、と言っていたのをよく覚えています。(もちろん、学習指導要領の内容はカバーされるという、前提での話しですが。)そして、教科書は使わなくてもいいのです、とも。(学習指導要領さえおさえられれば。)

 しかし、その後で、こうも付け加えました。
 「大いにやってくれていいのですが、致命的なのは、養成過程でも、現職研修でも、それができるカリキュラム開発能力を教員につけない、ということです」

 私に言わせると、当時から、今も変わりませんが、それがわかっているなら、「なぜ、カリキュラム開発能力をつけてあげないのですか?」です。

 その方が、子どもたちはよく学べるのに。
 教科書をカバーする授業で、よく学べる子は何割ぐらいいると思いますか?

★ 教科書があること(教科書をカバーする授業をし続けること)のプラス面とマイナス面を考えてみてください。そして、ぜひ下のコメント欄に書くか、pro.workshop@gmail.comにお送りください。

 目的は、教科書をカバーすることでしょうか? それとも、子どもたちが学べることでしょうか?

 目の前にいる子どもたちのことを知らないどこの誰かが書いたのかわからないもので、目の前の子どもたちはよく学べるでしょうか?

 秋学期もはじまったのを期に、ぜひ、もう一度「カリキュラム」とは何だったのかを考えてみてください。

2013年9月15日日曜日

カリキュラム開発

前回の最大の問いは、「なぜ、カリキュラム開発能力を教師につけてあげないのですか?」でした。

 答えは単純です。
  文科省にも、大学にも、そして教育委員会にも、それをできる人がいないからです。したがって、いくら待っていても提供されない構造になっています。

 誰も情報を提供(研修)はしてくれませんが、カリキュラムは学校の専権事項ですから、学校がやるしかありません。
 教科書や指導書をなぞるだけでは、残念ながら子どもたちが学べるカリキュラムになりませんから。ここでいう、カリキュラムとは「何をどう教えるか」(=子どもたちからすれば「何をどう学ぶか」)です。

そうなると、カリキュラム開発を、校内研究・研修の柱にすえる必要があります。それは、従来の授業や単元開発をはるかに超えたものです。もちろん、教材が先にありき★の「指導案づくり」とはまったく次元が違います。(願わくは、センター研修も移行してほしいですが。)
 教師は、教材や授業や単元レベルで子どもたちに責任を負っているのではなく、年間を通した子どもたちの学びに対して責任を持っています。(学習指導要領とは、そういうものです。教科書をカバーしたからといって、学習指導要領の内容を押さえたことにはなりません!!)

 基本的に、教師が本当にいいと思ったもの以外は扱わないことが原則です。教師が「お付き合い」で教科書の内容を扱っていると、子どもたちはそれを見抜いてしまいますから、本気で学べるはずがありません。(私たちが研修を受ける時を思い出してください。講師がいいと思って紹介しているものの多くも、私たちに残ったり、ましてや使いこなせたりするようなものはほんのわずかです!)それほど、「何を、どう」扱うかは大切です。それを年間で考えないといけないのですから、容易ではありませんが、本来、それをしない限りは、みんなで「お付き合い」の授業を続けることを意味します。

 「カリキュラム開発」は、今からでも決して遅くありません。彼これ50年はやられていないのですから、今から取り組んでも前進あるのみです。

 教師は、教えたいことが教えられるようになり(もちろん、学習指導要領を中心にしながら、それなりに教科書で使いたいところは使いますが)、子どもたちは、今よりもはるかによく学べるようになります。なんと言っても、教師の意気込みが違いますから。管理職も生き生きしている教師や子どもたちを見られる方がうれしいです。保護者も、今よりは学ぶことが好きになり、かつ学力がつく子どもを見られてうれしいでしょう。学力さえつけば、教育委員会だって文句は言わないでしょう。
 いいこと尽くめです。


   <メルマガからの続き>


★ 学習指導要領には、教材のことは一切触れられていません。
  教科書編纂・執筆者たちが、ある意味では「勝手に」選んでいるだけです。(よく、言えば「良かれと思って」選んだものですが、子どもたちのことは知りませんから、それが適した教材かというと、かなり疑わしいわけです。子どものことを考えるよりも、自分の好みの方がはるかにウェートが大きいのではないでしょうか? 個々の子どもたちが受け入れられる幅は極めて広いにもかかわらず!!

  そんなものに「お付き合い」する必然性は、どこにもありません。
  目の前にいる子どもたちの方がはるかに大事ですから。教科書よりも。
  そして、それができるのは教師であり、教科書ではありません。

  どうも、この優先順位が狂っているので、子どもたちの学びの質も量も極めて低いレベルが続いています。

2015年4月19日日曜日

教科書 = カリキュラム ?

これまでに、このブログで「カリキュラム」をテーマに何回も書いてきました。

ある意味で、それこそが教師にとってもっとも大切なものだと思っているからです。
と同時に、これこそが日本の教育で弱い部分ではないかと思っているからです。

しかし、
「現 実的に、わたしにとってのカリキュラムは、すでにもう決められてあるものです。どの学校でもそうですが、学年ごとに指導要領と教科書をベースに年間に学習 内容を割り振り、立てた年間計画になります。このカリキュラムは、個人で変えられるものではなく、学校で定めて、当該学年はどのクラスも同じく実行するも のです」

このカリキュラム観をもっている先生が圧倒的だと思います。99%?


私が教育に関わり始めた1980年代の初頭、オーストラリアの指導主事は、「教科書の位置づけは、自分でカリキュラムをつくる能力のない教師のためにあります」と言っていました。
「目の前にいる子どもたちと教えるべき内容や入手できる学習材等を踏まえて、ベストのプログラムを考えるのが教師の仕事で、教科書をカバーする教師は、残念ながら子どもたちがよく学べる授業をできない先生たちだ」とも。
スッキリしますね。

(以前にも紹介した教科調査官と私とのやりとりです)
1980 年代の末、高校の世界史担当の教科調査官は、「いっこうに“フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか”という一つの問いで、年間教えていただいても 結構です」と言い切っていました。もちろん、本人が書いた手前、「学習指導要領に書いてあることを、すべて押さえてくれれば」ですが。

それを受けての私の質問: そんな授業をつくれる教師は日本にいるんですか?
教科調査官: いないでしょうね。
私: できるようになるのですか?
教科調査官: 無理でしょうね。養成過程でも、現職研修でも、教師にカリキュラム開発能力を身につける、という視点が丸ごと欠けていますから。
私: それが分かっていて、文科省は何もやる気がないのですか?
教科調査官: 越権行為になってしまいますから。養成過程は大学の、現職研修は都道府県の教育委員会の役割です。
私: そうなると、いつまでたっても教科書をカバーする授業が続くわけですね?
教科調査官: まあ、そういうことです。

なんという理想と現実のギャップ!!


教育公務員である教師は、学習指導要領を押さえる義務はあっても、教科書をカバーする義務はありません。教科書は、欧米と同じで、あくまでも「主たる教材」でしかありません。しかし、いつのまにか「学習指導要領=教科書」になっています。
マスコミが、それを煽動しています。官僚等とグルになって??

でも、上の教科調査官の言っていたこととは大きなズレがあると思いませんか?
(それとも、教科調査官は、単に「本音と建前」を使い分けていただけ?)


年 間計画(カリキュラム)は、学校レベルで決定できるのですが、実際にしていることは、学習指導要領はほとんど見ないで、教科書会社が作ってくれている年間 計画を教育委員会に提出して、教科書どおりに授業をするという例年通りのお決まりのパターンを繰り返すだけと思います。
子どもたちが主体的に学べるか、ということはあまり気にもせずに。
親たちも、教科書どおりの授業をしてくれているのかは気にしていますから。


次の2つについて
・カリキュラムは、個人で変えられるものではなく
・当該学年はどのクラスも同じく実行するもの
どう思われますか?

教師が主体的に教えるという考え方をどう思いますか?
教師がお付き合いで(仕方なく)教えていたら、それは間違いなく子どもたちに伝わってしまいます。
教師がワクワクしないで教えていて、いいのでしょうか?
ワクワクよりも、教科書をカバーする方が大事なのではないでしょうか?

学習指導要領を押さえるのでいいなら、上記の教科調査官が言っていたように、教師も(そして子どもたちも)ワクワクする授業はいくらでも作り出せます。
でも、それが教科書をカバーする授業になってしまうと、面白いワクワクする授業からは遠ざかってしまいます。暗記することが中心になってしまいかねません。

選択は、誰にありますか?

2017年6月4日日曜日

学習指導における教師の役割とは?~新学習指導要領の移行措置から考えたこと~


 5月25日(木)の新聞報道によれば、2020年度に実施される次期学習指導要領では、「外国語活動」が小学校3・4年生から行われ(年間35コマ、週に1コマ:45分)、また、小学校5・6年で英語(年間70コマ、週に2コマ)が教科になることに伴い、文部科学省は、2018年度から2年間の移行期間において、授業時数確保のため、「総合的な学習の時間」の一部を外国語活動・外国語(英語)に振り替える措置を容認することに決めました。学校現場では「時間割は目いっぱい」の状況で、文科省は授業時数を増やせないと判断したようです。さらに、2020年度の英語の教科化後も、「総合的な学習の時間」の見直しを検討するとのことです。 

 私の知り合いの小学校の若い教員で、「総合的な学習」に熱心に取り組んでいる人が、次のように嘆いていました。 

「総合的な学習」が大切にしてきたのは、子どもたち自身の「問い(なぜだろうという疑問や取り組んでみたいと思う課題)」です。その「問い」を基本にして、総合的な学習のカリキュラムを、子どもたちと教師とが協同して創造してきました。総合的な学習は、正に次期学習指導要領がねらっている「主体的・対話的で深い学び」を実現するための学習なのです。それなのに、総合的な学習の時間を外国語活動(英語)に振り替えることは、本末転倒ですよ。まったく困ったものです。★ 

 今年の3月31日に告示された新学習指導要領では、現在よりも年間の総授業時数が小学3年生~6年生で35コマ増え、週に1時間授業が多くなります。外国語活動が小学校3年生から始まり、小学校4年生では、先週のPLC便りでも話題になった「プログラミング教育」も行われます。「道徳」も特別の教科になります。あまりにも盛りだくさんの内容で、まったくと言ってよいほど「ゆとり」がありません。 

 穿った見方をすれば、国語教育、算数・数学教育、理科教育、…といった従来からの教科学習を担う学会・団体などの「授業時数の確保というせめぎ合い」と「政治的・社会的な要請」によって、授業時数もパンパンに膨らんだ状態、内容的にも「てんこ盛り」の状態というのが2020年度からの学習指導要領ではないでしょうか。 

 これまでも、学習指導要領の改訂において、子どもたち自身の「問い」を生かした主体的な学びを実現するために「選択教科(中学校)」や「総合的な学習の時間(小中学校)」が創設されてきました。 

しかし、選択教科も総合的な学習も、教科書をカバーする(教科書を使って、教科書の内容を教える)ことが学習指導・授業の中心になっている多くの学校・教師にとっては、「負担・お荷物」だったと思います。だって、選択教科や総合的な学習には、教科書がありませんから。子どもたちの「問い」を生かした主体的な学習、探究的な学習、プロジェクト学習を行うために、具体的に「何を」、「どのように」、「なぜ」進めていけばよいのか、よくわかっていなかったというのが、実態だと思います。★★ 

このような状況に陥っている学校の問題点は、「カリキュラム開発力」が乏しいということと、「形成的評価」がきちんと行われていないことだと思います。カリキュラムを創造するための道筋や手立てを知らない、あるいは教師によっては知ろうともしない。そんな面倒くさいことは、先進的な取組を行っている国立大学の附属の学校などでやればいい。私たちにはそんな余裕はない、といったところでしょうか。また、様々な貴重な情報を与えてくれる「形成的評価」を丁寧に行い、子どもたち一人一人の学びや教師の指導に生かすことに対して、エネルギーを注がずに、「教えること」だけに汲々としているのかもしれません。 

 今回の新学習指導要領の移行措置ということを契機に、私たちが本物の学習指導に回帰して、目の前にいる子どもたちの学習状況(興味関心、レディネス、学ぶスピード、学習スタイル、才能etc.)に応じたカリキュラムを開発し、学ぶことと教えることにとって重要な情報を提供してくれる形成的評価を行うという、教師本来の魅力的で創造的な役割に取り組むことが求められているのだと思います。 

 その際に役に立つのが、『たった一つを変えるだけ~クラスも教師も自立する「質問づくり」~』ダン・ロススタイン&ルース・サンタナ(著)[新評論]と『ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ―「違い」を力に変える学び方・教え方―』C.A.トムリンソン(著)[北大路書房]です。 

『ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ』には、5つの「一人ひとりをいかす教室の原則」が掲載されています(p.104の表6.1)。 

1.生徒を招き入れる学びの環境が,学力向上には極めて重要である。

2.質の高いカリキュラム★★★が,効果的に一人ひとりをいかす基礎をなす。

3.形成的評価が,教えることと学ぶことに情報を提供し続ける。

4.指導は,形成的評価の情報や生徒たちのレディネス,興味関心,学習履歴に基づいて行われる。

5.教師のリーダーシップと柔軟なクラス運営が,一人ひとりをいかす環境における生徒の理解,参加,そして学力向上をもたらす。 

 教科の学習であれ、総合的な学習であれ、「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、教師同士が連携・協同して、目の前の子どもたちと一緒に「質の高いカリキュラム」を開発し、「形成的評価」を丁寧に行うことが重要になってくるのです。 



★ この若い教師は、「ピンチは、チャンス!」と言いながら、総合的な学習の時間と外国語(英語)そして他の教科も含めて、教科の枠を取り払った、正に「総合的な」学習を行うためのカリキュラムを開発すると意気込んでいました。 

★★ 文科省や都道府県の教育委員会は、先進的な取組を行っている学校の実践を掲載した「事例集」などを各学校に配付しましたが、フォローアップがありませんから、各学校に普及・定着するわけはありません。「総合的な学習の時間」は、多くの小学校では熱心に取り組まれ、その学校独自のカリキュラムも開発されました。しかし、中学校では、キャリア教育や修学旅行などの学校行事の事前学習などに充てられています。

★★★ これは、与えられたカリキュラムではなくて、自分たちがつくり出すカリキュラムを指しています。教室内に存在する能力差に応じるために一人ひとりをいかす教え方を行う努力に限らず、よく教えようとするときは、教科書のような与えられたカリキュラムをこなすのではなく、目の前にいる生徒を中心に据えた自分たちでつくり出すカリキュラムが不可欠です(『ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ』p.104の脚注より)。

2017年8月13日日曜日

カリキュラム・マネジメントがどういうことか分かる本


『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』の第5章までを読んだ、綾瀬市の小松先生と横浜市の冨田先生がメモを送ってくれました。これらを読むだけでも、いま多くの学校が取り組んでいるカリキュラム・マネジメントでも、この本が役立つことがわかります! (第6章以降は、それを授業で具体的にどう実現するか=多様な教え方が書いてあります。)

A
カリキュラム・マネジメント、どの学校でも(?)始まっているんじゃないかと思います。

カリキュラムは、学年の年間計画として、ほぼ教科書通りに並べたものに過ぎませんでした。
でも、進度を揃えるための、よりどころとして、無視できないもの、と言う感じかなと思います。

私にとっても、そうです。と言うか、そうでした。
でも、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』を読んで、カリキュラムは、ただ、単元名を教科書通りに並べたもの、
と思っていてはいけないと、思いました。

カリキュラムは、教材名(単元名)を並べるのではなく、(いや、並べてもいいんだけど)、
学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するものだと
思いました。

勤務校では、校長が中心となって、カリキュラム・マネジメントに今年度取り組んでいます。
勤務校の実態を良さも課題もみんなで出し合い、把握し、
児童に身につけさせたい力を学校全体で共通理解しました。
その上で、今、教科横断的に、地域を活用しながら、これまでの学年年間計画を見直しているところです。

しかし、このカリキュラム・マネジメント、なんか、私自身、しっくりこないな〜と思っていました。
最近、10年研(今年から中堅研と言う)で、カリキュラム・マネジメントを実際にやってみるという演習をやってきましたが、
その時もなんか、しっくりこなかった。
その違和感は、上記したような、「学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するもの」と言う視点が抜けていたからだ〜と気がつきました。

この題材とこの題材が似てるから、この題材で使うこの道具や素材がこっちの教科のこの題材で使えそうだから、
と言う、なんだか、上っ面だけをすり合わせている会話ばかりだったのです。
大事なのは、P90〜92に書いてあった、「学習レベルの典型」というところの、P91中盤「それに対して、ある別の教師は」以降に書かれている部分なんじゃないかと思いました。
「ある別の教師は、理科の四つの鍵となる概念、つまり、変化、パターン、システム、そして相互関係を中心に据えて、1年間の計画を精密に立てました。」★
これこそが、カリキュラム・マネジメントじゃないかと思いました。

このレベルでちゃんとカリキュラム・マネジメントは取り組まないと、意味がないんじゃないかな、と。
年間計画の教材名とにらめっこするだけではダメで、その裏側にある、「事実」「概念」「原理」を基本としてカリキュラム・マネジメントすることが最も大事なんじゃないかと。 


B

カリキュラムの捉え方を、自分の学校と『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中に出てくる学校を比べて考えています。5章まで読んできて、カリキュラムの捉え方が今の自分や学校にとって大切だと思うからです。

 うちの学校にとって、カリキュラムとはまさに子どもが通るべき道です。カリキュラム通りに授業ができた方がいいという価値観があると思います。もちろん、一斉指導において、その通りに進まないのですが(カリキュラム通りに一斉指導で進めてしまう先生は、子どもを大切にしていない先生と言っていいと思います。)できるだけ、子どもの実態がどうあれ、カリキュラム通りに行いたいという気持ちが強いです。

 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中のカリキュラムは、基本の道で、実はこの通りに学ぶ子どもはほぼいないという前提で作られてるように思えます。内容、方法、成果物を構成して、意味のある学習になる目標設定や構成を作るための支援ツールといった感じでしょうか。大切なことは、教師がカリキュラムをたどるようにして教えることが大切なのではなくて、子ども一人ひとりに応じて、カリキュラムをもとに学習内容、方法、成果物を適応させて、子どもたちがいちばん能力を発揮できる学習にするということです。
 カリキュラムがないと、一人ひとりを生かす授業の収拾がつかなくなり、目標も評価も意味のないものになってしまいます。子どもたちがたくさん頑張っても、結果的にまったく違うことを学んでしまい、目的と違うものが学べなかったり、教師がほぼ子どもたちの活動を把握することができなくなったり、よいカンファランスができなくなったりするかもしれません。結果的に、子どもたちはがんばったのにもかかわらず、よい最終評価がもらえないで、がっかりするようなことになるかもしれません。 
子どもたちが、いろいろな学習を展開するからこそ、学習の方向性を示すカリキュラムが必要ということでしょう。

 うちの学校の場合、学習の優先順位は、「一人ひとりの学習 < カリキュラム」に近いのでしょう。だから、カリキュラムに追い付かない子は、支援の必要な子というレッテルを貼られてしまう。本当は、学校や教師の教え方、考え方、捉え方がよくないのに。
 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の学校の場合は、「一人ひとりの学習 > カリキュラム」なのでしょう。カリキュラムは、子どもにとっても、教師にとっても、一人ひとりの学習を迷わないで進んでいけるための、地図でもある。やっぱり大切なのは子ども個人。学習が伸びない子は、その子の実態に合わない教え方、学び方、内容など、なにかに問題があり、教師・学校・子どもみんなで改善をしていく状態にある子という意味なのでしょう。

 僕自身の問題ですが、学校のカリキュラムに、自分のオーナーシップを感じていません。ただそこにあるもの、という軽薄な認識です。自分から改善しようとか、もっとよいものを提案しようとか、そういう気持ちは薄いです。  

 第5章に登場するジョンソン先生は、神話の授業を担当しています。ジョンソン先生は神話の授業を通して、どのような内容を生徒に学ばせたいか(鍵となる概念・基本的な原理・関係のある態度やスキル・必要な知識)は明確です。また、それを身に着けさせるために、どのような活動を開発すればいいか、内容や方法、成果物などの具体的な選択肢や選択できる幅について考えています。最終成果物の必要条件も明確に設定しています。 
  決して、子どもたちを好きなように無責任に学ばせているわけでもなければ、子どもたちから責任を取り上げて自分の管理下のもと学びを強制しているわけでもありません。意味のある学びに到達できるように、教師が選択肢や選択の幅を設けて、子どもたちが学習に責任を持てるように校正しているのです。
けれど、第5章のジョンソン先生からも感じますが、カリキュラムは他の誰でもなく、教師自分自身の責任のもと、大切に扱われ、改善に改善を重ねて磨かれていくものというイメージです。それが、僕を悪い代表とする日本の学校の先生と大きく違う。そば職人が創業以来継ぎ足し継ぎ足し引き継がれているスープのイメージ。伝統工芸の職人が、毎日研ぎ澄まし洗練させていく道具のイメージです、僕が、そういう自分の責任のもとで大切に磨き上げているカリキュラムを持ててなく、どこかの誰かが作ったカリキュラムが、いつも机のいちばん下の引き出しにしまわれているのは、問題ですね。子どもはもちろん誇りに思っている。指導法もある程度身に付けている。けれど、これが私の大切にしているカリキュラムですという責任もったカリキュラムがないと、本物にはなれないような気がします。


★ この部分をもっともよく表しているのが、いい学校や授業のつくり方が書いてある『いい学校の選び方』(中公新書)の127~130ページです。もし、それを一冊の本で読みたければ、『ひみつの山の子どもたち』富山和子がお薦めです。



2012年10月28日日曜日

オーストラリアの理科教育


前回の投げかけと関連するオーストラリアでの動きを見つけました。

Three key ideas I believe to be important in school science:
•  Science education shouldn’t be prescriptive – it is about the ‘spark of excitement’ that stems from discovery
•  Open-ended tasks and relevance are vital – students need to understand the world around them and make rational decisions on important issues
• Teacher confidence and professional development is just as important as the students’ learning materials.

出典: Re-imagining Science Education: Engaging students in science for Australia’s future, by Russell Tytler, Australian Council for Educational Research, 2007

最初から英語ですみませんでした。これを、日本語に訳すと、以下のような感じです。

学校における理科教育に大切なことは3つある。
・理科教育は、教師(教科書)のシナリオ通りに行われるべきではない ~ 興奮したり、発見できることこそが大事。
・唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切 ~ 生徒たちは自分の身のまわりの世界について理解し、重要な問題について考え、そして意思決定ができるようにしてあげるべき。
・子どもたちの学習材と同じレベルで教師が学び続けることから得られる自信が大切である。

以上は、オーストラリアで理科教育の新しいあり方を提案する報告書の中に書かれていた一節です。ですから、まだ実践されているというよりは、目指す方向性を示した、と言えます。

 あなたは、上に書かれていることに賛成ですか?

これを、あなたの得意な教科に当てはめると、同じことが言えると思いますか?

 少なくとも、過去10年ほど私が興味をもっている、読むこと、書くこと、話すこと・聞くこと、つまり国語には当てはまります。(ちなみに、国語は私の得意な教科ではありません。)そして、教科に固有なことなんて、いったいどれほどあるのかとも思わされました。扱う内容はともかく、少なくとも学び方・教え方に関しては!

 わが国において主流であり続ける教え方(=教師のシナリオ通りに行われる/唯一の答えが存在する/教師が学び続けていないので自信がないなど)は、オーストラリアが向かうべきだと主張している方向性とは逆さまな気がします。

 いったい、なぜそういう現象が起こり続けているのでしょうか?

 書かれてはいませんが、上記の3点の延長線上にあるのは、「評価はテストなどで測れるはずがない」ということです。従って、テスト以外の評価を中心に据えることが必然になります。

 少なくとも、国語の教科で効果的なライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップ(WW&RW)は、上記の3点と評価をしっかり押さえた形で行われています。

前回のテーマだった、①(年間)指導計画の作成、②教師のカリキュラム開発能力と授業力の向上、③子どもたちが主体的かつ活き活き取り組む授業の実践、④授業改善を阻む指導案+研究授業・研究協議に代わるものの実践、⑤「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試みのすべてにも参考になるので(実は、学校経営やPLCという観点からも、WW&RWは極めて参考になるので)、近いうちにWW&RWを紹介する予定でいます。

 今回の書き込みに対する疑問・質問、意見、提案等がありましたら、下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛にお願いします。

2012年1月29日日曜日

学校評価 その2

先週に引き続いて、22年度の市教委学校訪問の際に私が「学校評価」に基づいた改善策を述べたくだりを引用します。



2 授業改善について




授業に関しても、「教師が一方的に話をする」従来型の授業から「生徒の発言、互いの学びあい」に耳を傾ける授業へと転換することが求められています。残念ながら、本校の授業レベルはまだまだ改善の余地のあるレベルです。授業時間中に校内を歩いていて、いつも感じていることですが、相変わらず、教師が一人でしゃべり続けている授業、生徒の主体的な活動がほとんど見られない授業、1時間の授業のねらいがはっきりしない授業など、改善の余地のある授業が多く見られます。本日の教科部会の中では、ぜひ指導主事の先生方には授業の改善点をはっきりとご指摘いただき、質の向上につながる大切な機会にできればと思います。


先日も、私の知り合いの大学の先生に2日間に渡って授業を見てもらいましたが、私と同じような受け止め方をされておりました。実態が把握できたところで、目指すべき方向性が定まったわけですから、私自身決してこの事実を悲観的に捉えてはおりません。一挙に望ましい状態に持っていくのには無理がありますから、本校の実態に合わせた戦略を立てる必要があると考えています。


その方策の一つとして、職員一人ひとりの能力・意欲に合わせて、校長と副校長が協働しながら、職員への個別のアドバイスを行いたいと考えております。本校の規模であれば十分にそれは可能です。


年に数回の校内研修ではおそらく何も変わりません。先生方は年間に700~800時間の授業をやっているわけですから、そのうちの2~3時間を見て、アドバイスをしてみても、それで何かが変わると考えるほうが不思議だと思っています。


むしろ、教材開発、単元開発のほうが教員の力量形成には重要であると考えます。今年はこの教材開発に関しては、単発の勉強会程度で終わってしまうと思いますが、次年度以降は手法や対象者等も十分に吟味して実施したいと考えています。


そこで、今年度は特に、行動規準表の「意欲・態度」の欄に書かれた職員それぞれの自己目標をフォローして、その目標管理をサポートすることをやってみたいと考えています。行動規準表をある種の「自己研修計画」と捉え、あくまで研修の主体は教員自身というところが重要なのです。このやり方は教職員評価と研修という、一石二鳥の取組になると思います。忙しいときは、お互いにメールのやり取りでもいいと考えています。


さて、多くの先生方はちょっとしたアドバイスを与えれば、自分でさらに深めることができたり、自己研修が可能であったり、という人たちばかりです。研修の主役は自分たちなのだという意識を職員全員が持たせることが重要なのです。このレベルの人たちには、「こんなことやってみたら」とか「こんなこと知っていますか」という問いかけが有効です。「〜しなさい」の指示では逆に意欲をそぐことにもなりかねません。


問題は10%~20%くらいの「ほうっておくと何もしない」あるいは「できない」人たちをどうフォローしていくかということです。


これには相当な時間とエネルギーが必要です。その人の年齢やこれまでの経歴などを参考に個別に考えなくてはならないケースです。このタイプの人たちには、「〜しなさい」という指示が有効です。ただ、問題のある教員として排除の論理であたるのではなく、少しでも仕事への意欲が高まるような指導を心がけたいと思います。




さて、先へ進みます。


「道徳授業の指導の充実」も、「道徳の時間の確保」などと言っている時代ではありません。いかに、生徒の心に響く授業を仕組んでいくか、ここがポイントです。


20代,30代の職員を中心に、時には、校長自身が授業を行ったり、指導案づくりや教材開発に一緒に参加したりするなどして、「授業づくりのポイント」を示すことが大切であると考えております。


近々、道徳ではありませんが、3年生の各学級を対象に「対等な人間関係」というテーマで、最近話題になっている「デートDV」という事実にもふれるような学級活動を私がやることになっています。これは生徒とのふれあいという目的もさることながら、職員への校内研修であると私自身は捉えております。


人はそう簡単に変わるものではありませんが、そのきっかけとなるチャンスはあると思います。そんな淡い期待も込めながら、教室の授業に関わっていきたいと思います。


校長が授業やカリキュラムにかかわることに、そこまででしゃばらなくてもいいと考える校長も多いとは思いますが、私はカリキュラムや授業は学校の生命線であると考えておりますので、ここは譲れないところです。


昔の校長は校長室にいればよかったのですが、時代は変わりました。学校全体の学びの先頭に立つぐらいの気概がこれからの公立学校の校長には要求されると思っております。


そのために、教育関係の情報には校内のだれよりも精通し、校長自身が学び続けていることが大切です。これがないといくら「学びの共同体」などと口先で言ってみても、だれもついてきません。


若手には学習指導・生徒指導で役に立つ書籍や資料の紹介をし、時には宿題を出すことも必要だと思います。また、ベテランには、たぶんこれまでその人が見向きもしなかったような情報を提供したり、本を紹介したりすることで、刺激を与え、本人の知的好奇心に火をつけるような、そんなかかわり方が校長には求められていると常々感じており、自分の能力の範囲で、そのような日々の実践を心がけでいるところであります。




このように「生徒も教師も学べる学校づくり」が共通のビジョンとして定着したときに初めて「学びの共同体」という一体感あふれる、生き生きとした学校が実現するものと思います。


さらにその先の目指すものは、地域協議会を核とした「保護者・地域住民」など、大人が学べるしくみ作りであります。これによって「コミュニティスクール」が現実のものになると考えます。幸いにして、本地区は小中学校PTAも緊密な連携を取りながらPTA主体の様々な行事を実施し、地域の方々も学校の活動に協力を惜しまない地域でありますので、校長として、これら組織との連携・協力を積極的に推進する体制を整えて参りたいと思います。




学校経営方針の具体策で、「生徒理解の充実」がありますが、これも今後の重点になる項目であると考えます。学校経営の方針の二番目でも、「生徒理解」を項目として取り上げておりますが、教師の仕事の基本の一つはこの「生徒理解」であると思います。さきほども述べましたが、職員との面談のなかで「生徒指導上の大きな問題がないので、それに甘えている部分がある」という問題点が浮かび上がりました。これまでは、生徒をよく見ていなくてもたいした問題が起きなかったのかもしれませんが、「生徒理解」が教師の仕事の大半を占めるといってもよいと思います。そのためには日ごろの観察、生徒の話に耳を傾ける姿勢など様々な要素がありますが、スタンダードノート等を利用した日記指導も有効な手法であります。本校においても、各学年数名の不登校生徒もしくはその傾向にある生徒がおります。その生徒たちにも学校が居がいのある場所、自分の心が落ち着く場所となるように、教育相談からのアプローチも大切にしていきたいと思います。


本校は運動部活動が盛んな学校でありますから、運動の苦手な生徒にとっては自分の居場所がないことにもなりかねません。


そのような生徒にも、この学校でよかったと思えるようなしかけが必要だと感じています。この点については、今後担当職員とも協議しながら、具体策を講じていきたいと考えているところであります。


最後に、本校には生徒指導部を中心に作成した「スタンダード」があります。これは人としてぜひ身につけてほしいという事項、たとえば、「あいさつをしよう」「身の回りを整理整頓しよう」など35項目にわたる中学生としての行動規範があります。これも、「守らされている」「やらされている」というレベルでは決して本物ではありません。何事も、自分自身が主役、主体でなければ「いきいき」とは生活できません。


「主体となる」いわゆる「オーナーシップ」が重要であると考えます。そのためには生徒会活動、学校行事あるいは学級活動という特別活動に力点を置きながら、道徳や各教科とも連携を図りながら学校づくりを進めたいと思います。


この「オーナーシップ」は実は職員にも言えることであります。


校長から言われたからやるのではなく、「自分が必要だと思ったからやる」「みんなのためになるからやる」というレベルになってこそ学校という組織の強みが出てくるものと思います。そこで、50代のベテランの先生方に、どう意欲をもって仕事をしてもらうかということも経営上の大きなポイントであります。


定年まであと数年しかないという職員にとって、新たな試みに挑戦したり、組織として動いたりすることは時に苦痛であると思います。しかし、ベテラン職員は実はさまざまなことに気づいています。


その気づきをこちらが受け止めて「ぜひこのようにやってください」と頼めば、たいていはそのように仕事をしてくれます。そして、やってくれたことを正当に評価すればだれも悪い気はしません。


ちょっとくせのあると言われてきた職員も「私はあなたの力を十分に認めていますよ」という姿勢をこちらが忘れなければ、実に生き生きと、時には若手の見本となるような働きをしてくれます。これから十年くらいはこのような超ベテランが意欲をもって仕事ができるような学校づくりが求められます。


 


同時に20代,30代の若手、中堅をどう育てていくのか、これは実に大きな課題であります。本校におきましても、4~5人の20代,30代でありますが、この若手を対象に年齢の比較的近いメンターをつけて、日ごろの仕事のなかで互いに学べるような環境を作っていきたいと思います。


以上、大まかではありますが、本校の課題と今後の取組について説明申し上げました。今後とも、ここにおいでの皆様のご支援ご鞭撻をお願いして、説明を終わらせていただきます。




(引用 終わり)




その後、1年が経過したのですが、改善が進んだ部分は「授業改善に対する意欲の向上」でした。


また、職員相互の学び合いも機会が増え、意欲も高くなったと思います。




ただ、職場における「オーナーシップ」に関してはまだ不十分ですし、人任せのところがあります。


現状に満足せず、校長が学びの先頭に立って経営を進めたいと思います。


2012年11月4日日曜日

先週の記事についてのコメント


先週の吉田さんの「オーストラリアでの教育の動き」について考えてみたいと思います。


「学校における理科教育に大切なことは3つある。

�    理科教育は、教師(教科書)のシナリオ通りに行われるべきではない 〜 興奮したり、発見できたりすることこそが大事。

�    唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切 〜 生徒たちは自分の身のまわりの世界について理解し、重要な問題について考え、そして意思決定ができるようにしてあげるべき。

�    子どもたちの学習材と同じレベルで教師が学び続けることから得られる自信が大切である。」


以下は、それぞれの項目について私が考えたことです。


�     これは問題解決型・課題解決型授業、プロジェクト型授業の提言です。これは、教師が教え授けるという旧来の授業イメージしかない人にとっては、「基礎・基本」が大切であって問題解決など、「後回しでいい」という発想しかないようです。でも、その両方をバランスよくやることが今のわが国の教育に求められているものだと思います。例のPISA2003ショックによる学力向上の全国的な流れから、ドリル学習やらプリント学習ばかりがもてはやされた時期がありましたが、この国の特徴として、どうもどちらか両極に振れ過ぎることが欠点だと思います。


�     「意味が感じられる」というのも、大きな課題ですね。

これまでは吉田さんがよく言われるように、教科書をカバーする授業ばかりでしたので、「なぜ学ぶのか」という必要感や自分の生活に身近に感じられるということが少なかったと思います。

 以前、中学校教育研究会、いわゆる中教研(理科)の県大会で、私の所属する地区が研究発表をする割り当てになった年がありました。そのときに、研究テーマをどうするかという話し合いをして、この「学ぶ意味が感じられる」ということを取り上げることにしました。その「意味が感じられる」という一つの方向として、「日常生活に関連があること」「自分たちの生活に身近なもの」を教材とすることに取り組みました。

 ほぼ半年間、このテーマで様々な教材を作りました。その結果、生徒はどう変わったか。やはり、以前より理科の授業に積極的に取り組む生徒が増えました。アンケート調査などでも、「理科が好き」と回答した生徒の割合も増えました。これは、「学ぶ意味が感じられる」ということがそのような変化を生み出した直接的な要因だと思います。そうなると、物事はうまい方向に働いていくもので、その後「科学クラブ」が設立されたり、そのクラブ員たちが「ロボットコンテスト」に参加したりして、全国でも優秀な成績を収めて、海外の大会にまで参加するようになりました。このような地道な種まきが結局はよい教育を支えるのだと今でもそのことを思い出します。�の「学び続けられる教師の自信」も今のことに関連しているのですが、当時の私以外の担当教師のなかに、この取組以降、次々といろいろな財団の研究助成を自分から見つけてきて、積極的に応募して、自分の勉強を継続させていく人が出てきました。それによって教師としての自信も一段と深めることができたのではないかと思います。このことも、実にうれしいことでした。


 校内研修も「研究授業/授業研究」以外のスタイルを取り入れるという話が以前ありましたが、放課後の時間にゆとりがなくなっている今、各自が時間を見つけて、数人規模での学びを続けていくことがますます求められていると思います。


 知り合いのある大学の先生が、学校訪問の感想を次のようにおっしゃっていたことがありました。

「これは憶測にすぎませんが、先生方は、教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのという感覚なのでしょうか。だから、自分で教材を探し、自分のメッセージを込めて生徒たちと向かい合うなどいう経験はほとんどないのかもしれません。それでは、この仕事は何ともつまらないと思うのですが。・・・・」


 「教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのでしょう」

 まさに、ここに問題があるわけですね。

 ここを転換していくことが、どんな教育改革よりも優先されると言ったら、言い過ぎでしょうか。


前々回の吉田さんの記事にありました

・学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例

・教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み

・子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例

・授業改善のために指導案に代わるものを模索している事例

・その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試みなど



ぜひ、白鳥ないし吉田(pro.workshop@gmail.com)にお知らせください。

2018年2月11日日曜日

理科における探究学習


 ふしぎだと思うこと これが科学の芽です
 よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です
 そうして最後になぞがとける これが科学の花です 

 これは、今回紹介する『探究する資質・能力を育む理科教育』小林辰至(編著)[大学教育出版]★に掲載されているノーベル物理学賞を受賞した朝永 振一郎 博士の有名な言葉です。 

 この本は、理科教育における「骨太の研究」を目指してきた小林氏が、氏の教え子である学校現場の教師たちと協同して創り上げたものです。理論編と実践編、漫画編の3部構成で、B5版サイズで420ページ余りもの読み応えのある正に骨太の本です。 

 この本で紹介されている「探究する資質・能力を育むための具体的なアプローチ・手立て」は、次の6つです。 

■自然と触れ合う「原体験」(理論編:第2章、第3章)

■仮説を立てる力を育む指導方略“The Four Question Strategy(4QS)”とこれを生かした仮説設定シート(理論編:第4章、第5章、第9章、第14章,実践編:第3章、第4章、第5章、第6章、第8章)

■日本版プロセス・スキルズ「探究の技能」(理論編:第7章、第13章)

■観察と実験の「問い」の立て方(理論編:第8章)

■小学校中学年(3・4年生)の子供を対象とした仮説を立てる力を育む指導方略“The Two Question Strategy(2QS)”とこれを生かした仮説設定シート(理論編:第10章,実践編:第1章)

■探究の過程の8の字型モデル(理論編:第11章,実践編:第2章、第4章、第6章) 

 それぞれの実践的研究や研究的実践についての詳細は、本を読んでいただきたいと思います。どれも理科における探究学習を進めていくうえで役に立つと思いますが、これらの中から、ここでは「4QS(フォークス)仮説設定シート」と「探究の過程の8の字型モデル」について紹介します。  

◆【4QS仮説設定シート】〈図1〉





4QS仮説設定シートは、STEP1からSTEP4の4段階の「問い」で構成されています。
STEP1では、変化する事象から従属変数を同定して簡潔に記述します。STEP2では、従属変数に影響を及ぼすと考えられる要因、独立変数を挙げます。STEP3では、STEP2で挙げた独立変数を実験条件としてどのように変化させるのかを考えて、それを記入します。STEP4では、STEP1で挙げた従属変数をどのように測定したり数量として表したりするのかについて、その手立てを考えて記入します。そして、最後にSTEP3とSTEP4とを関係づけて一つの文にすると、「・・・すれば、・・・は、・・・になる」というように、どのように条件を変えると、結果がどのようになるのかを見通した「作業仮説」を設定することができるのです(理論編48~49ページ)。★★
 4QS仮説設定シートの具体的な事例もいくつも紹介されていて、シートの活用の仕方が理解しやすくなっています。以下は、小学校5年の単元「電流のはたらき」における小学生による記入例です(256ページ)。4つのSTEPを経て、作業仮説を立てるプロセスがよくわかります。

【記入例】〈図11〉 



◆【探究の過程の8の字型モデル】〈図5〉


   

 これまで理科における探究の過程(問題解決の課程)は、「自然現象へのはたらきかけ」→「問題の把握・設定」→「予想・仮説の設定」→「検証計画の立案」→「観察・実験」→「結果の整理」→「考察」→「結論の導出」というような直線的なモデルが多く使われていました。小林氏らは、観察と実験との探究の過程の違いに注目し、実際の学校での観察・実験を中心とした理科学習に合った「探究の過程の8の字型モデル」を開発・作成したのです。図に示されているように探究の過程を、「観察による問題解決」のサイクルと「実験による問題解決」のサイクルの2つのサイクルに分けて表現してあるところがこのモデルの特徴です。★★★ このモデルは、理科だけでなく、社会科の課題研究や問題解決学習、総合的な学習の時間などでも使えるものです。 

 この本の実践編では、特に、探究学習によって仮説を設定する力や実験計画を立てる力、分析・考察する力など子どもたちの資質・能力や理解度、学習意欲がどのように変容するのかを調べる・分析する方法論も具体的に紹介されていて、小中学校・高校の先生が学校現場で探究学習の研究的実践を進めていくうえでとても役に立つと思います。子どもの変容を探る方法論については、どの教科でも、道徳や特別活動、総合的な学習の時間でも活用できるものです。 

 そのほか、アメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science;AAAS)が開発した初等理科コースのカリキュラム“Science-A Process Approach”(SAPA)の教師用解説書で示された13のプロセス・スキルズとそれぞれの下位目標群を参考にしながら小林氏が開発・作成した日本版プロセス・スキルズ「探究の技能」について詳しく紹介されています(理論編65~84ページ)。これは、子どもたちと共に探究学習を進めていくうえで極めて重要な「ルーブリック」として活用できるもので、この本には探究学習を実践していくために必要なものが数多く詰まっています。 

 ただこの本を読んで物足りなさを感じたのは、具体的な「問い」の立て方についてです。理論編の第8章(85~97ページ)で解説されているのですが、実践への応用として今一つよく理解できませんでした。その原因が、この本では理科の教科書に載っている観察・実験を基にして「問い」の立て方を考えているところにありました。学習者である子どもたち一人一人の「不思議に感じたこと」「疑問に思ったこと」「もっと調べてみたいこと」など子ども自身の疑問や興味・関心から「問い」を立てることは、探究の過程の中で最も重要なプロセスの一つです。 

 この「問い」の立て方に関して参考になるのは、『たった一つを変えるだけ~クラスも教師も自立する「質問づくり」』[新評論]です。教師による「発問」ではなく、学習の主体者である子どもたち一人一人の「疑問」や「調べたいこと」が、本物の探究学習の出発点なのですから。 



★  小林辰至氏は、神戸市で中学校の理科の教師として15年ほど学校現場で理科教育に関する実践・研究をされた方で、平成4年に大学に移り、現職の先生方と共に理科における探究学習について実践的研究や研究的実践を25年以上された方です。理論編は全部で15章からなり、実践編は8章から構成されています。 

★★  4QS仮説設定シートは、実験での作業解説を設定するのに適しています。しかし、小学生、特に小学校中学年(3・4年生)の子供たちには4QSの活用はむずかしく、中学年の子供たちにも作業仮説を設定しやすくするために4QSを簡略化した「2QS仮説設定シート」を小林氏らは開発しました(112~113ページ) 

★★★  この8の字型モデルは、日高敏隆(著)『新編 チョウはなぜ飛ぶか』[朝日出版社]の12ぺージに記載されている観察から生じた疑問から「説明仮説」を発案し、それをさらに「作業仮説」に作り替えて、実験で探究(問題解決)する場面からヒントを得て小林氏らが作成したものす(理論編59ページ)。