2024年8月25日日曜日

授業観の転換

 

あなたの授業力はどのくらい?』(JC・マーシャル/教育開発研究所/2022p.72

によると、すべての生徒に力をつけるために長年次のような方法が用いられてきたことが述べられています。

長年にわたって試みられてきた解決策は、教えて、模範を示して、練習させて、そしてテストをすることでした。この教師中心のアプローチでは、教師が教え、教師が模範となり、生徒が真似をします。そして、テストでは基本的に、教師が生徒に教えた知識を生徒が繰り返します。

これは、今でもわが国の多くの教室で見られる光景であろうと思います。それを変えていく必要性は何でしょうか。

前掲書によると、まず「生徒のニーズがこれまでの世代とは大きく異なっていることです。」とあり、また時代の変化により、これからの学習者には「クリティカルな思考、コミュニケーション、協働する力、創造力を発揮する」ことが求められているからだと指摘しています。この21世紀に求められる4つの力は、文部科学省の文書にも盛んに登場しますが、なかなか現場で実現するにはさまざまな困難があるように思います。

そこで、このうまくいかない理由を考えることが、教育を変えていく第一歩ではないかと考えます。

まず手がかりとして、近年日本で出版された授業論をテーマとした本のなかで、『授業づくりの深め方』(石井英真著・ミネルヴァ書房・2020)を取り上げます。この本は、20206月に初版が出て、4年余りで9刷となっていますので、現場の先生方も多く買っていることがうかがえます。この本の「はじめに」で、著者はこの本の狙いとして「日本の教育現場や教育実践研究が蓄積してきた「現場の教育学」を包括的に整理・統合すること」をあげています。

そして、この本の第1章・第4節「授業づくりにおける卓越性の追求」において、「創造的な一斉授業」(練り上げ型授業)が取り上げられています。その授業を取り上げる理由として、「個々人の思考が組織化され思考が質的に深まっていく「練り上げ」のイメージ」(同書23ページ)を引き継ぐことで、形式的な参加型授業を超えて、「創造的なコミュニケーション」をつくり出すことが可能であると述べられています。

この「練り上げ」という言葉は50代以上の先生方には懐かしい言葉だと思います。私が指導主事をしていた90年代終わりから2000年代にかけて、教育委委員会の学校訪問などで盛んに授業に関する指導・助言の一つとして語られたものだからです。「練り上げ」は、学級全体で一つの課題について、さまざまな角度から意見を出し合い、決して一人ではたどり着けないような考え方や見方がそこから生まれるというダイナミックな指導方法です。これがうまくいくと、子どもたちに発見の喜びをもたらしたり、ものの見方の変容まで見られたりしたものです。

ただ、たとえ素晴らしい結果を生み出したとしても、これは「集団」による「一斉」授業であることに変わりありません。日本の授業研究はこのような、言わばこうした「名人芸」のような授業に価値を認め、授業研究などではそれを目指すことを目標としていた時代でした。私自身もそう考えていました。

しかし、その後欧米の授業に触れる機会が多くなり、その考え方を変えました。それは冒頭で紹介した『あなたの授業力はどのくらい?』の第2章「生徒中心の学習方法」に書かれているように「ベンチに座り続けた状態から、生徒を試合に参加できるようにする」ことを大切にするということです。これは、単に参加型授業という、ともすると形式的なものに陥りがちな方法論にとどまることではなく、授業観の転換というべきものです。たとえば、探究型の授業であれば、「教師が説明したり手本を見せたりする前に、生徒が探究するテーマについての理解の共有を行うことが必要」(前掲書80ページ)になります。また同時に、探究の主導権を子どもたちに「譲り渡す」ことが求められます。

「譲り渡す」は、アメリカンフットボールの司令塔・クォーターバックが他のバックの選手にボールを直接手渡すことなどを指します。(同様にビジネスでも仕事を次の人に引き継ぐ際にも使われるようです。)

これは授業観の転換として、大変重要なことです。もっとも、先ほどの『授業づくりの深め方』においても、「ここ一番の場面で、グループ学習を用いて子どもたちに大きくゆだねヤマ場をつくる」(同書144ページ)と、「ゆだねる」という単語が出てきますが、あくまでも授業の方法論の範疇だけの話です。なぜそこを限定的にしてしまうのか、もっと「譲り渡す」を学習の中心にすえてよいと考えます。

「譲り渡す」ことは教師が指導を放棄して、放任することではありません。もちろん教師の指導も入りますが、「生徒の興味関心が学習体験を主導」することが重要なのです。日本の授業論では「教師主体から子ども主体へ」とスローガンは掲げられていても、実際は「伝統的な練り上げ授業」というイメージにとらわれていることが大きな問題です。大学の教職課程の実務家教員たちも自分が現場でやってきた「練り上げ型授業」のイメージを捨てきれないので、当然学生にもそのような授業イメージで指導し続けます。

結果として、この10年くらいの大量退職・大量採用で学校に配属された新規採用の先生方は昔のままの授業スタイルを踏襲しているのではないでしょうか。

『学びの中心はやっぱり生徒だ!(べナ・カリック+アリソン・ズムダ/新評論・2023)の第1章に次のような文章があります。(同書9ページ)

いまだに私たちは、すべての人にたった一つのカリキュラムを与え、同一年齢・学年の生徒を集めて一斉に教え、たった一つのテストで学んだことを測るといったような文化に留まっています。

アメリカにおいても、こうした授業が行われていると思いますが、同様にわが国の多くの教室で続いています。先ほどの文の訳注には、この本の翻訳協力者からの次のようなコメントが掲載されています。(同書9ページ)

一人一台の端末を与えられても、紙の代替としての利用で留まっているケースが多いのが現状です。ICT能力の差もありますが、根本には、自分自身がされてきた『支配』を止めることができないという、心理的な問題が大きいように感じています。

教師自身がかつて子どもであったときに、教師によって学びを『支配』されてきた体験から、その『支配』の構造から抜け出すことができないという『連鎖のような教育現象をどこで断ち切るか、転換するかが大切』(同書9ページ)だということです。

先生方には、ぜひこのマインドセットの転換を早急に行っていただくことが重要です。そのための校内研修ならとても意味があります。おざなりの授業研究や研修は必要ありません。これが授業改革の第一歩です。今、「政治・経済・社会」のさまざまな局面で、「変われない・変わらない」ことによる弊害が噴出していますが、まず「教育」がその先鞭をつけて、時代の変化に合わせた「新しいステージ」に入ってほしいと思います。

※次回より私の担当は、都合により3か月に1回となります。

0 件のコメント:

コメントを投稿