2022年5月8日日曜日

PISAテストも、全国学力テストもいらない

先月の19日に全国学力・学習状況調査、いわゆる全国学力テストが実施されました。算数ではプログラミングに関連した論理的思考を問われる問題が出されていましたが、あたかもプログラミング教育の実施状況を問われるかのような出題(その実施の質ではなく!)でもありました。

 

これまでも繰り返し訴えてきましたが、あのようなテストで測れるものはないだけではなく、教育における弊害を改めて指摘しておきます。全国学力テストを実施し続ける限り、新自由主義における公教育の商品化が加速され、数値におけるコントロールによって、様々な地域における特色ある教育が失われてしまいます。目の前の子どもの姿を無視して、テストの数値を挙げようと教育のテクニック化が始まっています。

 

このことは、日本のみにおいてではなく、OECD(経済協力開発機構)が3年ごとに世界規模で実施してきたPISA(国際学習到達度調査)でも同じことがあてはまり、私たちはPISAテストからもすでに同じ失敗をしてしまっています。どうしてこのようなことが繰り返し起こってしまうのでしょうか。PISAテストが、これまで世界規模で公教育に与える負のインパクトについて再検討し、日本における標準テストである全国学力テストについてそのあり方を考え直す必要があります。

 

それを端的に示しているのが鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育』岩波書店であり、そこには経済力を優先とする新自由主義におけるアメリカの公教育の失敗から、日本が学ぶべきことが示唆されています。

 




「知識を実生活に適用する能力」の評価してきたPISAテストは、日本において受験を前提とした詰め込み教育からの一線を画すものとなり、容易に受け入れられてきました。

 

“真の問題はPISAが助長する新自由主義の流れであり、PISAを通してOECDが世界中の公教育システムを遠隔評価し、監視、競争させ、政策誘導し、世界教育市場の拡大化を促進している現在の新自由主義的な構図そのものにあると痛烈に批判されています。

 

市場経済の成長を目的とするOECDが、世界統一学力標準を示すことによって、世界の公教育の権力の中心となりました。そこでは、人種、言語、文化などの多様性の壁を乗り越え、様々な地域の学力標準を統一して世界を一つの規準で見定めようとしてしまっています。

 

教育とは、本来極めて主観的で地域や環境に左右されやすい人間的な営みだったはずです。しかし、PISAテストはその環境の多様性をそぎ落とし、ペーパーテストによって数値を集め、客観的に数値測定し比較することで、教育をPISAテストによって操作することを可能としてきました。数字で要約できるものは非常に少ないにもかかわらず!

 

市場拡大にむけて単位を統一化し、簡略化すること、このことは資本主義の拡大には必須の条件です。テストの点数を通過としてグローバルスケールの教育市場が生まれてきました。世界代々の教育出出版社ピアソンがその権益を得て、PISA関連の教材出版、模擬テスト、データシステム提供、コンサルティングからピアソンが得る利益は果てしなく大きいものとなりました。OECDの教育局次長でありPISAディレクターのシュライヒャーがピアソン社の顧問の地位にあることがそれを物語っています。

 

数値化にともない教育の商品化に現れる問題は、教えるという行為のテクニック化でもあります。数値を挙げるために学校は進学塾化し、教えるという行為はもはや点数を上げるためのテクニックに成り下がってしまいます。「最高の授業」として、最も効率よく点数を上げる実践が取り上げられ、誰でもどこでもすぐに使えるテクニックにスキル化され、動画となり拡散されています。商品化され、販売されていきます。日本では足立区教育委員会が新人教員研修のために大手進学塾のeラーニング教材を導入したことに象徴されているのではないでしょうか。

 




これらの問題をPISAの学力テスト批判のみにとらわれてしまうのではなく、私たちの心の中にゆっくりと浸透してきている経済競争力の増強を目的とした新自由主義を見直すべきときです。全国学力テストで目の前の子どもを測ろうとすればするほど、数値による統一化、教えるスキルに細分化され、子どもと教師が影響試合ながら創造していく教育の姿が失われてしまいます。

 

狭く偏った学力観を無批判に受け入れてしまっている政府、疑う事もせずに受け入れ推進しようとしている教育に、私たち自身の問題として捉え直し、学力とは何かを考え直す機会なのです。PISAテスト、ましてや全国学力テストもいりません。現場に本当に必要なこと、ものは何ですか? ぜひ、みなさんの声をきかせてください。

 

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