新型コロナウイルスデルタ株の猛威により新学期のスタートは、首都圏を中心に分散登校、時差登校が続いています。すでにクラスを二分し、半数の子どもたちをリアル登校、もう半数をオンライン参加としたハイブリッド授業が再来週まで続く小学校もあります。
子どもたちはもの珍しさもあり、デジタル機器を使った授業に楽しく取り組んでいるようです。とはいうものの、今後も続くとなると子どもの集中力は持たず、このような遠隔学習で本当に理解が進むのでしょうか。
教員の負担を考えると、登校している子どもたちが使った道具や教室への消毒作業、そしてリアル授業の準備と併せてオンライン参加をしている子どもたちに向けての資料作り、感染予防で休んでいる子どものケアなど、さらなる準備に悲鳴も聞こえてきそうです。
コロナ禍におけるGIGAスクール構想により、これまでICT後進国だった日本としては一人一端末が完備されることは大変好ましいことです。環境場整備されると一見、一人ひとりの学習が保障されるように映りますが、本当にこういったデジタルテクノロジーが子どもたちにとってよりよい道具となっているのでしょうか。
オンライン授業による子どもたちの生活リズムや心身に与える影響への問題、長時間の画面視聴による視力の低下が8歳〜10歳に多いことなどは常々、指摘されています。小学生の発達段階において言語認知ひとつとっても、果たしてどのような影響が与えているのか不安が残ります。デジタルテクノロジーを使っていれば良いのではなく、その使い方の質が問われているのです。
バトラー後藤裕子『デジタルで変わる子どもたち 学習・言語能力の現在と未来』(ちくま新書)に、そのよりよい使い方のヒントが紹介されています。
本書では、言語習得や言語使用における身体の果たす役割の大きさが説かれています。ジェスチャーやうなずき、話し手に視線を合わすなどの言語非言語行動もスムーズに会話を進めるための重要な役割を果たしています。また、読書においては手が重要な役割を果たしていて、紙の媒体で読む場合には、効率よくめくれるように手で準備したり、手の位置が読みの視線を誘導する役割を果たしているなどの手の果たす役割は大きく、身体行為が読みの深さに影響を与えるのであると教えてくれます。だからこそ、学校で使っているデジタルテクノロジーも子どもにとって身体化されなければ、思考や学習には直接結びつかないことが指摘されています。
"デジタルテクノロジーは人間の認知機能の一部を肩代わりするものであることから、うまく使えば人間の認知機能を拡大する魅力的な道具にはなるが、明確なビジョンがないまま盲目的に依存すると、脳の分析能力や一つの物事を論理的に批判的に熟慮する力を低下させる可能性がある。(Restal,2012)"(位置No.3028/3538)
子どもがデジタルテクノロジーをうまく使いこなすには、まず教師が適切なデジタルリテラシーを身につけることです。
“デジタルリテラシーとは、①自分の目的に合ったデジタルコンテンツを見つけ出し使えること、②目的に応じて自分でデジタルコンテンツを作ることができること(例えばブログを作ったり動画を作成するなど)、そして③デジタル機器アプリを使ってコミュニケーションや情報交換ができることだと言われている。教師が常に新しいアプリケーションやソフトに精通している必要はない。しかし、授業の目的に応じてふさわしいデジタルコンテンツを自信を持って使えるだけの最低限の知識とスキルは不可欠である。そして児童生徒の言語コミュニケーション能力を促進するために、言語習得の本質である身体性、社会性、感情情緒の伝達をどのようにフォローしながらデジタル機器を有効に使うべきかを模索する必要がある”(位置No.3157/3538)
このコロナ禍における現在、デジタル機器の扱いでは、家庭学習における漢字や計算練習などの記憶タスクを繰り返させるものが多くあります。これに対して本書では、「英語学習者の小学生に自らを紹介する動画を英語で作成し、安全性を確保したサイトへアップする課題を出したところ、子供達は少しでもいい動画にしたくて自ら何度も何度も練習を繰り返したり友達のアドバイスを得たりしながら動画を作成した」といった実践事例も紹介されていました。まさに、なんのために学習するのか目的を考えることです。
デジタルテクノロジーは両刃の剣であることを忘れてはいけません。ちょうど一年前にもコロナ禍におけるオンライン授業やICTデバイスの扱いに懸念を持って、「「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない」投稿しました。併せてご覧ください。
https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/10/blog-post_11.html
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