以下は、ある出版社の編集者とのやり取りです。
私が1番今、気になっているのは「深い学び」という言葉についてです。
この部分があいまいになっているような気がしてなりません。
このままだと色々な「深い学び」が生まれそうです。
という内容のメールをもらったのがきっかけでした。
これは、今回の学習指導要領の改訂で、「主体的、対話的、深い」学びの3つを打ち出していることを踏まえての発言です。★
これに対する私の反応は、
悩み多いですね。
文科省が得意の中身のないキャッチーな言葉のひとつです。
私に言わせると「深い学び」など、存在しようがありません。
「深い教え」をしているという教師(や学習指導要領の改訂に関わった人たちや教科書執筆者)サイドの錯覚はあり得ても。
「学び」というのは、一人ひとり固有なものなので、同じものが起こりえるはずがありません。
私がお勧めできる子どもたちが学びやすい方法は、
1) ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップなどの作家や読書家になりきる学ぶ=作家や読書家のサイクルをまわし続ける学びと、その各教科への応用です。
これによって、好きになる子どもたち、救われる子どもたちがグーンと増えます。
(それだけでなく、知識やスキルをしっかり身に付けられる子どもたちが!)
子どもたちには、繰り返しこそが大切なんです。その中で、自由に選択して、自分のものをつくり出し始めます。
子どもたちが、繰り返しの中で主体的に取り組んでいるのを、教師は観察したり、確認したり、サポートしたりすることができますから、一斉授業から脱することも可能になります。
個別ないしグループ対象のコーチングやカンファランスが可能になります。
(逆に、自分ががんばって授業をしている限りは、一人ひとりに対応することはできませんから、一斉授業をやり続ける選択肢しかありません!)
一人ひとりが違うところからはじめない限りは、救われない子どもを生産し続けることを意味します。
教科書をカバーするアプローチとは、そういうものです。
翌日の追伸: 3番目の方法を思いつきました。
(ベースの部分では、1番目や2番目と同じなのですが・・・・)
それは、教師に操られた学びではなくて、子ども一人ひとりが心底大切さや必要性を実感して、何か成果物を作り出すような学びです。その過程で試行錯誤することで、たくさんのことを深く広く学べます。
それを探究学習と言ったり、PBL(プロジェクト学習と言ったり、本当にある問題を扱う学習)と言ったりします。
これは、前に触れた「主体軸」と大いに関係があります。
日本の場合は、「主体軸」が一番弱い部分です。
そもそも、教師が主体的なモデルを示せるような状況になっていないことが致命的です。
そうは、思われませんか?
●●さん周辺の執筆者たちに、同じ投げかけをしてみたら、面白いかもしれません。
どういう反応ができるかで、その人を判断できてしまう恐ろしい質問です。
★ 質問者は、すでに「主体的、対話的な学び」の方は十分という認識があるので、まだ不十分な「深い学び」に頭がいっているのだと思います。
が、本当にそうでしょうか?
ここ数年出版されたアクティブ・ラーニング関連の本で、真の意味で「主体的、対話的な学び」を実現できているのを、どのくらいあげられますか?
上に書いた「深い学び」と同じで、教えるサイドの錯覚や思い込みがほとんどではないでしょうか? つまり、生徒の側からすれば、主体性や対話を強要されている、というものです。必然性など、まったく感じられないのに。(それだって、教師の一方的な授業を聞かされるよりはマシなので、受けはいいはずです!)あるいは、あくまでも活動としてやらされているだけ、というか。それをする限りは、生徒たちは教師の顔色を伺う授業が続くだけです。あるいは、「ごっこ遊び」としての授業が。
このブログで繰り返し紹介してきた「学びの原則」を無視し続けています。
と同時に、「理解する」ということに関する理解もです。
「学びの原則」を押さえることや「理解する」とはどういうことで、それをどう実現するかの理解と実践なしに、「主体的、対話的、深い」学びを語ることはとてもおかしいです。
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