2018年6月10日日曜日

判で押した同じ授業


 この6月に発行された本で、『教育現場の7大問題』(前屋 毅・KKベストセラーズ)を読みました。著者はフリーのジャーナリストで教育問題と経済問題を主たるテーマにしている方です。

その7大問題とは、全国学力テスト、教員の過重労働、受験と格差、いじめ、グローバル人材の育成、アクティブ・ラーニングなどであり、現在の体制の問題点等を批判する立場から書かれています。最後の7つ目の問題というのが、「最も大きな問題」として取り上げられているのですが、簡単に言うと、現場の教員の個性を放棄した授業のことです。同書の177ページには次のようなくだりがあります。
    都内在住の保護者が、小学生の息子の授業を参観してきたときの話を、半分おもしろそうに、半分あきれたように話した。
  「同じ学年の教室は廊下沿いにありますから、隣のクラスでは、どんな授業をしているのか気になって、廊下から窓越しに覗いてみたんです。

     そうしたら同じ教科の授業をやっているクラスでは、まったく同じことをやっていました。教員が黒板に書いていることも同じなら、しゃべっている内容も同じ。生徒にとって平等といえば平等なのでしょうが、教員の個性を感じられない授業って、子どもたちにおもしろくないだろうな、と思っちゃいましたね」
     この話を元小学校教員にすると、彼は真剣な表情で頷いた。彼自身も、そうした最近の学校の様子は「おかしい」と感じているらしい。


同じ教科書を使えば、判で押したような授業内容になる?

そんなことは本来ありえないでしょう。目の前の子供の実態がクラスによって違いますし、教える教師自身がそれぞれ違う個性の持ち主のはずです。いくら学校としての各教科等の指導計画にしたがって授業をやるにしても、授業展開は異なってくるものです。

それを、だれがやっても同じ授業で良しとしたら、授業名人の映像さえあればいいということになってしまいます。そうなったら、教員定数を減らしたくて仕方がない財務省あたりに、定数削減のための格好の口実を与えてしまうことになります。
同書の180ページには都内のある小学校教員の次のような嘆きを紹介しています。 


学習指導要領に書かれている内容を教えるだけでも手いっぱいで、そのほかに自分の個性を活かした授業を入れるなど、とても無理ですよ。


このような事態が多くの学校で進行しているとすれば、これは深刻な問題です。


授業というものは、おそらく同じものが世の中に二つとしてない、その場限りの「生き物」だと思います。そこで、語られたこと、学んだことこそが人を人らしく成長させてくれるものになる。私はそう信じます。いろいろな意味で危機的な状況にあるわが国の進路を切り開いていく力の源は、何と言っても「教育」であると思います。

特に若い先生方、まず『たった一つを変えるだけ』(新評論)を読んでみてください。


授業で何気なく使っている質問をちょっと変えるだけで、授業が変わっていきます。

そうなれば、授業展開のバリエーションがどんどん広がっていくはずです。

当然、教師自身も面白いし、何よりも子供たち自らが「学びに向かう力」を発揮してくれるはずです。これこそが改訂された学習指導要領で最もねらいとしているものではないでしょうか。

 

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