新年おめでとうございます。
108ページに次のようなくだりがあります。
「わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、かつて大学院での卒業式の祝辞において、「大学は考える『技法』を習得する場所であり、『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だ」と述べられました。・・・(中略)・・・教育をいじくり回したい人は、人間は教育によって改鋳できると考えているようです。」
小・中・高校の学習指導要領が目指す「思考力・判断力」も、最終的にはこの『考える』という営みにつながるものだと思いますが、中教審や教育再生実行会議の人々からこのような話を聞くことはありません。要するに、今、この国の目指している教育の方向は、「英語ができて、自分の利益にのみ敏感で、他人を出し抜く技に長けた人間を養成する」もしくは「礼儀正しく、安い賃金でも文句も言わずに働く、愛国心に富んだ人間を養成する」ことと言ったら、言い過ぎでしょうか。
わが国は同調圧力の強い社会です。そこに必要以上の競争原理が教育に持ちこまれことが「いじめ問題」をこれほどまでに深刻化させたと言えるのではないでしょうか。
ここにきて、「競争原理」の圧力は弱まるどころか、「学力テスト」などの形で強まる一方です。しかも、「説明責任」の名のもとに、結果を公表する自治体も増加中です。中には、平均以上の結果を出した学校の校長名を公表するという自治体まで現れる始末で、こうなるともはや悲劇を通り越して、喜劇にすら見えてきます。
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