2015年1月4日日曜日

考えるということ


新年おめでとうございます。

 
   この休みの間に何冊かの本を読みましたが、その中の一冊に「路地裏の資本主義」(平川克美・角川SSC新書)があります。平川さんが書く文章はいつも納得してしまうものが多いのですが、今回もそうでした。

108ページに次のようなくだりがあります。
   
「わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、かつて大学院での卒業式の祝辞において、「大学は考える『技法』を習得する場所であり、『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だ」と述べられました。・・・(中略)・・・教育をいじくり回したい人は、人間は教育によって改鋳できると考えているようです。」
   

 小・中・高校の学習指導要領が目指す「思考力・判断力」も、最終的にはこの『考える』という営みにつながるものだと思いますが、中教審や教育再生実行会議の人々からこのような話を聞くことはありません。要するに、今、この国の目指している教育の方向は、「英語ができて、自分の利益にのみ敏感で、他人を出し抜く技に長けた人間を養成する」もしくは「礼儀正しく、安い賃金でも文句も言わずに働く、愛国心に富んだ人間を養成する」ことと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 
もう一か所引用させてもらいます。107ページの後半です。

 
「教育に問題があるとすれば、その教育のカリキュラムや、授業時間や、授業内容よりも、必要以上の競争原理を教室に持ち込んだために、いじめや自殺につながる問題が起きていることのほうを問題視すべきであるように思います。」

    わが国は同調圧力の強い社会です。そこに必要以上の競争原理が教育に持ちこまれことが「いじめ問題」をこれほどまでに深刻化させたと言えるのではないでしょうか。

  ここにきて、「競争原理」の圧力は弱まるどころか、「学力テスト」などの形で強まる一方です。しかも、「説明責任」の名のもとに、結果を公表する自治体も増加中です。中には、平均以上の結果を出した学校の校長名を公表するという自治体まで現れる始末で、こうなるともはや悲劇を通り越して、喜劇にすら見えてきます。

 
   教育者にできることは、子どもとともに、よりよい学びの姿を追究すること、これにつきるでしょう。そのための教師の仕事、研修のあり方、校内の組織など、「学びの共同体」にまつわる様々な課題について今年もまた考えていきたいと思います。

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