2025年9月14日日曜日

子ども同士の対話の質を問い直す「発表的会話」と「探索的会話」

 東京大学の一柳智紀さんから「コミュニケーションの質」について学ぶ機会があり、その内容は今後の自分のワークショップ授業におけるピア・カンファランスの質を高めるうえで大きな示唆となりました。ここでは、その学びを整理して共有してみます。

 

私たち教師は、授業中に「間違ってもいいよ」と言いながらも、「できた人は?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかけてはいないでしょうか。この問いかけは無意識のうちに「できた子」に焦点を当ててしまいます。その結果、いままさに考えの途中にいる子や「わからない」と感じている子にとって、「間違ってもいいよ」という言葉は空語になってしまいます。授業は誤りを資源として扱いながらゴールへ向かう営みです。しかし、1時間単位で成果を求められる圧力の中では、つい「わかった人に説明してもらう」ことで授業を前に進めがちです。そのとき置き去りになっているのは、「もっと考えたい」「じっくり悩みたい」と願う子どもたちです。

 

ここで、教室の対話を二つの型で捉え直す必要があります。一柳さんの研究によると、整理され磨かれた考えを明瞭に伝えるやりとりを「発表的会話」と呼びます。たとえば「ここは76を足す。繰り上がりを直せば13だよ」というように、筋道だった説明を一方向に提供する場面です。思考の整理や共有、まとめには大きな価値がありますが、子ども同士のやりとりが「正答の発表会」にとどまり、思考のプロセスを共に辿らないと、学びが浅くなりやすいという側面があります。

 

一方で、未完成の考えを試し合い、互いに補い合いながら進むやりとりを「探索的会話」と呼びます。「うーん、違うかな」「ここ72でかけるんじゃない?」「ここを16にして」「これ埋めるんだけど」「そうそう、埋めてそれで戻すときに引く?」といった、言い淀みや仮説的な表現を含みつつ、プロセスを共有し合う会話です。結論より過程が往復し、根拠を出し合い、誤解が修正され、新しい見方が立ち上がります。探索的会話があるとき、子どもたちの思考は豊かに広がり、深まっていきます。

 

重要なのは、どちらが優れているかではなく、役割の違いを踏まえて意図的に併用することです。発表的会話は思考を整え、伝える力を育てます。探索的会話は考えを生み、共に創る力を育てます。ところが多くの教室では、時間的制約や評価の枠組みの影響で発表的会話に偏りがちです。だからこそ、授業デザインの中に「未完成の考えを出してよい時間」と「まとめて伝える時間」を明確に位置づけ、行き来できるようにすることが大切だと考えられます。

 

このとき土台となるのが「聴く文化」です。聴くとは、単に相手を見て頷く作法ではなく、相手の言葉に応答し、問い返し、言い直しを支える実践です。「わからない」とつぶやいた声に、隣の子が「こういうこと?」と代弁し、さらに別の子が根拠を足す。こうした経験が重なるほど、子どもたちは安心して未完成の考えを口にできるようになります。教師もまた、子どもの発話に即座に評価を与えるのではなく、「いまの『わからない』はどこから来ているの?」と問い、プロセスを一緒に確かめる聴き手でありたいと思います。

 

理解の到達を子どもと共有する指標として、「わかる」のスケールを次のように示すことができます。

1 わかっている

2 わかっていることを説明できる

3 わかっていることを教えることができる(多くはここで止まりがちです)

4 わかっていることで、わからない人の問いに応じて援助できる

 

この「4」に届いたとき、教室の学びは真に協働的になります。小さな声や不安な声が仲間に支えられ、代弁や言い直しを通して言葉になっていく場面を、意図的に設計していきたいのです。

 

発表で思考を整え、探索で思考を広げる。この往還を授業に組み込み、聴き合う文化を育てることで、子どもたちは互いの考えに働きかけながら学びをつくっていけます。評価や時間の制約に押されて「できた人」中心の進行に戻りそうになったときこそ、「未完成の考えが歓迎される時間」と「まとめて伝える時間」の二つを思い出し、両輪で授業を設計していくことが大切なのです。これが、ピア・カンファランスの質を底上げし、教室全体の学びを一段深める道筋になると考えられます。

 

 

2025年9月7日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則1 近づきやすさ

ある一人の教師との交流が、生涯にわたってポジティブな影響を持ち続けるといった経験をしたことがあると思います。


私の長年の友人の一人は、中学校時代の音読テストの時に声をかけてくれた教師のことを忘れらないといいます。ある日の音読テストのあとで、その先生が「○○くん、教室の前で今の音読をやってみてくれる。」と声をかけられたそうです。彼は、戸惑いながらも、クラスの前で音読を披露したそうです。そして、その時の高揚感のようなものが、その後の自分自身を支えてくれたとまで言っています。その先生に、評価されたことが、とてもうれしく、自信につながったそうです。その日ことがあったから、彼は英語教員になったのだと言っています。


教師と学習者の人間関係や信頼関係は、学習者のエンゲージメントに大きな影響をもつことは、経験的にも納得できることです。親しく思いやりのある教師との関係や質の高い仲間との関係が、生徒の成長や学業での成功にとって、重要な要因であるという研究は数多くあると言われています。


そこで、数回に分けて、教師と学習者との関わりを深めるための原則について考えてみたいと思います。 あまりに当たり前過ぎて、見過ごしていることがたくさんあるのではないかと思うからです。


サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんは、著書の中で、教師と学習者の信頼関係を構築するには、次の6つの原則があると述べています。★


原則1 近づきやすさ

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律性を支援する

原則6 教師の情熱を示す


まずは、原則1の「近づきやすさ(原著では”Be Approachable”)」です。


一つ目のポイントは、「いつもそこにいるということ」です。大学などでは、オフィスアワーのような時間帯を設けて、気軽に学生が立ち寄ることができるような工夫をしているところもあります。近年では、ソーシャルメディアなどを通じて、学習者とのつながりを維持しようとする教師もいます。教師が発する「たたずまい」や「空気」といったものもあるのでしょう。当然、近づき難いオーラを発している人もいます。生徒と教師の適切な「車間距離」は、どの程度なのか、古くて新しいテーマだと思います。


二つ目のポイントは、「自己開示」です。学習者に対して、趣味、楽しみ、好き嫌い、時には、生き方の哲学といった個人の考え方などを含む、よりパーソナルな情報を、ほどよく開示することが、近づきやすさを生む。開放的にみえることで、信頼感、安心感を生みます。まずは、教師の側からの積極的な自己開示が不可欠となるでしょう。個人情報をあまりに出しすぎることには、抵抗感もあるでしょうし、適切とは言えない場面もあるでしょうから、そのバランスを見極めることが必要です。とはいえ、教師の明るく、前向きな自己開示は、近づきやすさにとっては、不可欠と言えそうです。


三つ目のポイントはユーモアです。人間味を、ストレートに出すことで、近づきやすさを感じるはずです。ただし、これは、人によっては、ハードルが高く感じることかもしれません。同書は「学習者は教師のユーモアのある説明やコメントを望んではいるが、それは学習内容から逸脱しておらず、ユーモアの形式が適切な場合に限られる。」と実に的を射た警鐘を鳴らししてくれています。やはり、「ほどほど」にということでしょう。人の情意フィルターをさげるものは、明るく、前向きな姿勢と笑顔であることに、疑問の余地はないでしょう。


豊かな学びも、夢中になれる瞬間も、その礎は教室内の人間関係にあると言えます。私たちが教室のなかで、どのようにふるまい、どのような言葉をかけるべきか、しばらくの間考えていきたいと思います。



★ サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.

2025年8月30日土曜日

生成AIと教育

現在、私たちが日常的に見聞きする「AI(人工知能)という言葉が初めて使われたのは、1956年です。その後、いくつかのブームを経て今日に至るわけですが、第2次ブームの1980年代に「エキスパートシステム」という特定の専門領域に特化したAIに注目が集まりました。代表的なものは、「マイシン」と呼ばれた医療診断システムです。しかし、このシステムもすぐに壁にぶつかりました。その理由は教え込む知識の「質と量」があまりにも膨大であったからです。当時のコンピュータの性能、半導体の能力では実用的な診断システムの完成は不可能でした。それを超えられたのは、その後の半導体の性能の飛躍的な向上と、ニューラルネットワーク型手法による深層学習の実用化のおかけでした。

それによって、オープンAI社の開発したChatGPTによる「生成AI」が出現しました。これはコンピュータが画像や文章などのデータをつくり出すという画期的なものです。そこで、今回のテーマは「生成AIによって学校教育はどう変わっていくか」です。

 すでにマスコミ等の報道にもあるように、企業では、稟議書や報告書、会議録など、これまで社員が時間をかけて作成していた文書を生成AI(以下、「生成AI」を「AI」と書くことにします。)に任せることが可能になりました。数時間かかっていた会議録なども数十分で完成するというそのパフォーマンスは圧倒的です。こうした状況をふまえて、企業では自律的に作業する「AIエージェント」の活用が急速に進んでいるようです。同様に今後、学校内の事務的な仕事や作業も効率化が図られていくでしょう。(しかし、そのための機器やソフトウェアの整備に国や自治体がどれだけ本腰を入れるかで実現の速さが変わるものと予想されます。)

 さて、本題は「授業」です。もうこれまでの「教科書による知識の切り売り」の授業では時代に取り残されるばかりです。そもそも教科書だけを頼りに授業を展開すること自体が問題なわけですが、まだこのレベルにとどまっている教師が少なくないことも事実です。

すでにオープンAIが開発に着手した「AIコンパニオン」は、スマホのように持ち歩きのできるディバイスです。『週刊ダイアモンド』掲載の記事(2025614日号,94ページ「KEYWORDで世界を読む」牧野洋)によると、このディバイスの特徴は、「ユーザーの環境を理解する、ユーザーの邪魔にならない、ポケットに収まる」という特徴を有する計画です。これが実現すれば、生徒一人ひとりに専属の先生がつくようなものです。その使い方も、単に記憶すべき事柄を教えてくれるレベルから、探究のヒントを与えてくれるものまで、さまざまでしょう。こうなると、一斉授業は意味がなくなります。

教師が生徒に向けて話をするのは授業開始直後に授業の目標や内容の確認、注意事項の伝達、終了時刻の確認だけで済むことになります。こうなれば、教師は教室内を移動して、生徒からの個別の質問に答えたり、進捗状況を確認したり、成果物の評価も可能になります。

さらに、授業に関しては、「授業名人」の授業記録を生成AIに読み込ませて、深層学習をさせれば、「授業名人AI」が誕生するかもしれません。そうなれば、授業づくりの相談相手として教師が活用することも可能です。そうなると校外での教員研修はほとんど不要になります。  

さて、持ち運びのできる携帯AIが実現するまでは、どうしたらいいのでしょうか。それには、現在の「一人一台端末」を使い、そのなかに搭載されているグーグルやマイクロソフトなどに組み込まれているAI(CopilotGeminiなど)を利用していくことです。それにより、文章作成をしたり、語句の意味を調べたり、課題追究の方向性に関するヒントをもらったりすることも充分にできると思います。

すると、いわゆる「基礎・基本」の習得はどうしたらいいかという質問が当然出てきます。たとえば、算数・数学の計算ですが、これはAIを利用したドリル式のコンテンツがすでにいくつも開発されていますが、これがさらに進化するでしょう。あるいは国が「算数・数学AI」のようなものをつくり、データセンター(クラウド)から国内のすべての学校がアクセスできるような形も考えられます。他教科も同様に考えれば、これが教科書の代わりになると言っても良いかもしれません。(ただ、教科書会社やそれに連なる企業の既得権益を考えるとハードルは高いかもしれません。)

英語などは生徒が個別にAIを手にすることになるわけですから、「AIコンパニオン」を相手に会話や英作文の練習が個別にできることになります。(すでに自分の相談相手として、友だちのようにAIを利用している10代の若者が増えているという報道もあります。)

また、国語では意味の分からない言葉を教えてくれたり、書いた文章をすぐに校正してくれたりするわけですから誤字脱字の確認もでき、これ以上のサポートはありません。

さらに、テスト問題もAIに作らせることができますから、生徒自身がある単元の終わりに自分がどの程度理解できたかを判定する問題を自作して、その場でフィードバックを受けることができます。これをポートフォリオとして蓄積すれば、成績評価の資料に活用することも可能です。 

要するに、AIをうまく使いこなしていけば、文科省好みのフレーズを使えば、授業はほぼ「個別・最適化」されるということです。神経生理学者の池谷裕二氏は、AIと教師について次のように述べています。

「教える」ことがメインだった仕事が、変化することは間違いありません。AIの指導についていけなかった生徒をフォローしたり、AIが教えた内容を補足したりする仕事へと変わっていくでしょう。それはAIの尻拭いのように感じるかもしれませんが、私はこれこそが人がやるべき重要な仕事だと思います。(『生成AIと脳』扶桑社新書・2024年・198ページ) 

こうした授業が目の前に迫ってきているわけですが、課題もあります。一つは、AIにどのような質問をするかによって、AIからの回答が異なってくるということです。子どもの発達段階に応じて、どのような質問をしたらよいかをアドバイスしていくのは、教師の役割になります。この役割を担うためには、教師が「AIプロンプター」(プロンプターとは「質問者」の意味)になれるようにしていく必要があります。(すでにアメリカでは「AIプロンプター」が職業として確立しつつあるようです。)

また、別な問題点として、AIがどれほど大量のデータをもとに学習をしても、「誤情報」が含まれてしまうことです。データ自体に誤情報が含まれてしまう可能性があるからです。この点も教師のフォローが必要になるでしょう。

こうした問題点を踏まえて、メリットとデメリットを整理したうえで、AIを適切に使用していくことがこれからの学校に求められるものだと思います。

このようにAIは今の学校教育を根本から変えていく可能性を有する技術ですが、この潜在能力を充分に発揮していくのは、やはり「教師」の力です。未来志向で考えれば、すでに周回遅れになってしまった日本の教育に訪れた新たなチャンスと言うこともできます。こう考えると、実に面白い時代がやってきたとも言えるでしょう。

 先生方には、この面白さを味わいながら、素敵な実践を創りだしていってほしいと願っています。 

2025年8月24日日曜日

教員を導くリーダーシップ ー 増幅型リーダーとは?

 「リーダーシップ」ということばで、ネット検索をかけると、驚くほど多くの結果が返ってくるようです。やはり、世界中の人にとって、重要なテーマであるのでしょう。今、我々が望んでこなかったようなリーダーたちが、世界を席巻しているようで、やや暗澹たる気持ちにならないでもありません。

学校における教員の業務は、多様化、複雑化しています。次々に新しい課題が生まれ、その多忙さは半端ではありません。教員の働き方改革は待ったなしの状況であり★1、休職する教員の数も増加の一歩をたどりっています。★2

一つの解決策として、メンタリングの導入があります。職場の中で、同僚同士のメンタリングが成果あげている例も少しづつでてきているようです。★3 今後は教員のサポートを専門的に担う「インストラクショナル・コーチ」が学校にとって欠かせない存在になると思っています。★4

教師を導くリーダーに必要なアプローチとして、増幅型リーダーという考え方があります。★5

増幅型リーダーは、周りの人の知性、エネルギー、能力を向上させ、人々を以前よりも何倍も効果的な存在にする人のことを指します。また、増幅型リーダーは、聞き上手であり、相手の強みを見抜き、他者のアイデアに対してもオープンで、相手のニーズや利益に応じた行動を取れる人です。

一方、その対極にあるのが、消耗型リーダーと言われる人たちです。消耗型のリーダーは、人々の自信、エネルギー、モチベーション、自己効力感を減少させます。また、自分が話すことが多く、相手の強みよりも、弱点を見抜き、人のアイディアには否定的です。

やっかいなのが、「無自覚の消耗型リーダー」という存在でしょう。最善を尽くしてくれる、善意のリーダーではあるのですが、その姿勢自体がメンバーを消耗させてしまうのです。「無自覚の消耗型リーダー」の特徴は次のようなものです:

  • メンバーを無言にしてしまうほどリーダーが多くのアイデアを出してしまう。
  • 常にエネルギッシュで周りの人を疲れさせてしまう。
  • 苦労している人を手助けしてしまって、依存心や反感を無意識に生んでしまう。
  • ものごとを急に進めようとしすぎる。
  • あまりに楽観的すぎて、課題を矮小化。努力で解決できると思い込んでしまう。

日本社会、日本の学校には、この「無自覚の消耗型リーダー」の方が多いのかもしれません。学校には、真面目で、献身的、時に、滅私奉公的でな人が多いように感じるからです。

これは、教員の子どもたちへのアプローチともパラレルの関係にありそうです。教員の無自覚な「配慮」や「やさしさ」が、子どもたちが自分の足でしっかり立って、前を進むことを阻害しているとは言えないでしょうか。

人を真に生かし、成長させるリーダーシップとはどのようなものなのか、考え続けたいですね。


★1 「教員の働き方改革が必要な理由 教育専門メディアが解説」 https://www.kyobun.co.jp/article/2024083099


★2 「うつ病などで休職した教員 初の7000人超 過去最多 文科省調査」 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241220/k10014673801000.html


★3 熊本県教育センターの報告書 他多数 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/sankou/__icsFiles/afieldfile/2018/10/05/1408491_02.pdf


★4 「学校の危機を救うインストラクショナル・コーチング」PLC便り2024年6月2日 https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/06/blog-post.html


★5 Wiseman, L., with McKeown, G. (2010). Multipliers: How the best leaders make everyone smarter. New York: HarperBusiness. /関美和 訳(2015)『メンバーの才能を開花させる技法』海と月社 →『インストラクショナル・コーチング』(ジム・ナイト著、図書文化社、まもなくハ発刊予定) の第3章で紹介されています。


2025年8月21日木曜日

試験って何?

 ドラマ「僕達はまだその星の校則を知らない」 の第6話 秀才にカンニング疑惑!?

https://tver.jp/episodes/epu7ykc3sr?p=0 の18分あたり(+35分、41分も? 25日(月)までしか見られません!)です。これは、教育界でも受け入れられている捉え方でしょうか? 

2025年8月17日日曜日

頑張らない/力を抜く子育て(教育)のすすめ

 『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』を読んだ熊本県の松永先生(小学校)が感想/紹介文を送ってくれたのでそのまま載せます。

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 みなさんは子育てにおいて、「力を抜く」という視点を持ったことはありますか? 双子の父であるぼくは反対に、力を入れて子育てすることを望んでいました。二人分の子育てを一度にやるのですから、我が子のことを思うと、二倍いや、それ以上に頑張らなくてはいけないと思っていました。しかし、うまくいかないことばかりの毎日に、だんだん疲弊していき、これまで経験したことの無い感情のアップダウンに頭を抱えたことは、一度や二度ではありません

 『「しない」が子どもの自力を伸ばす 叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(築地書館)の著者であるマイケリーン・ドゥクレフも、同じように頑張って子育てをしているにも関わらず、子どもの激しい癇癪によって母親としてどん底に落ちる経験をしています。そんな彼女が行きついたのは、狩猟採集民の子育てです。それは、(誤解を恐れずに言うと)頑張らない子育てです。

 頑張らない子育ては、ぼく(のような親)や著者のような人たちを、どう助けてくれるのでしょうか。

 

 本書で紹介されている事例の一つに、家事分担表に関することがあります。

もし家事分担表が、火曜日は皿洗い、水曜日は掃除、金曜日はゴミ出しをするように指示していたら、子どもはこれらの仕事だけが自分にとって必要な仕事だと思い込んでしまうかもしれません。そうなると、子どもはそのとき以外には注意を払う必要がなくなったり、分担表に書かれていない家事を無視するようになったりします。分担表が子どもにアコメディードの正反対を教えてしまうことになるのです。つまり、「あなたの責任は表に書いてあることだけ」ということです。

子どもたちが自分の周りの世界に注意を向け、特定の家事がいつ必要なのかを学ぶこと

 家事分担表をつくって、家事に参加させようと頑張る必要はないのです。子どもたちの心には、「貢献したい気持ち」があることも本書は教えてくれます!

 

 「力を抜く」視点の欠落は、何も子育てに限った話ではありません。学校教育でも同じようなことがよくあります。つまり、よかれと思って生徒たちのために頑張りすぎているということです。その頑張りは一体、誰の何のためになっているのでしょうか。子どもたちの自立を促すものになっているでしょうか。先の家事分担表に関する事例で言えば、本書ではこのように書いてあります。

(狩猟採集文化では)子どもが歩き始めるとすぐに、親は小さなお手伝いを頼み始めます。時が経つと、子どもは家の中で何をしたらいいかを学び、そうして、子どもが大きくなるにつれて頼みごとの数は減っていくのです(増えるのではありません)。子どもが九歳から十二歳になる頃には、すでに何が必要かを知っているので、大人はもはや多くのことを要求する必要はありません。逆に、九歳から十二歳の子どもにお手伝いを頼むことは、かなり失礼だと言えます。それは、彼らが成熟していない、学んでいない、そして、幼稚であることを意味するからです。

 学校教育で、掃除当番表や係活動一覧表などを積極的につくってはいないでしょうか。掃除や係活動をしなかった生徒たちがいたときは、「責任をもって行動できないと、社会に出てから困るよ!」と別のあれこれを頑張るようなこと(別の時間に掃除をさせるなど)をしてしまってはいないでしょうか。これらが子どもたちの自立を阻むことになってしまうと考えないままに!

 つまり、頑張らない/力を抜くということは、これまで正しいと思い込んでいた子どもとの関わり方を手放し、よりよい子どもとの関わり方を知ることです。そして、頑張り続けているのにも関わらず、自分にとっても子どもたちにとっても何も残らない(どころか、子どもの自立を阻害してしまっている!)という負のサイクルから脱出することです。

 

 しかし、実際に家事(や学校の中での様々な仕事)に参加させるとなると、時間も労力も忍耐力も必要です。狩猟採集文化の人たちは、一体どうやっているのでしょうか。その答えの一つはやはり、頑張らないと言えるかもしれません。(ただし、「頑張らない=何もしない」ではないことは、改めて強調しておきます!)具体的な考え方や方法は是非、本書を読んでみてください。そのどれも納得してしまいます。なぜなら、本質的によい関わり方を知ることができるからです。(世界中の六つの大陸で何千年もの間試されてきたことです!)つまり本書は、親だけでなく教師にとっても、読む価値が大きいです!

 

 さて、本書で得られる別の視点も書いておきます。

頑張ってしまっていること

阻んでしまっていること

代わりにすること

ほめる

内発的動機づけ・協力

子どもの貢献を承認するなど

叱る

親子関係・よい行動を教えること・感情のコントロール

口を閉じる・その場から離れる・子どもの行動を捉え直す・待ってから修正するなど

コントロールする

内発的動機づけ・親子関係・自分で考え、決定する機会

子どもを励ます・ストーリーテリング・ドラマなど

 よかれと思って、ほめたり叱ったり、コントロールしたりしていませんか?代わりにすることは、第10章「子育てに役立つツールの紹介」もご参照ください。役立つものばかりです。

 

 親も教師も、頑張り過ぎるほどに頑張っています。日々、必死に闘っています。苦しいのは、こうした頑張りが実を伴わないことです。ですから、少し肩を力を抜いてみませんか?そして、力を入れるところ・入れないところを見直すことで、実を伴うことがあるかもしれません。少なくとも、ぼくにとっては力を抜く機会になりました。そして、親や教師として子どもたちと関わるヒントをもらうことができました。それは、「練習・モデル・承認」と「TEAM」です。「TEAM」はTogetherness(共に過ごすこと)・Encourage(励ますこと)・Autonomy(自立)・Minimal interference(最小限の干渉)の頭文字をとったものです。

 以前ぼくは、お腹が空いて「まんま!まんま!」と泣き叫ぶ我が子たちに「準備してるからあっちで待ってて!」と言っていました。しかし、素直に待ってくれるはずもなく、お互いに声のボリュームは大きくなっていました。しかし、本書を読んでからは(半分騙されたと思って)「これ、もっていこうか!」と提案し、一緒に配膳しました。すると、我が子たちは大喜びです!次から次へと準備を助けてくれましたし、互いに大きな声なんて出さずに済みました。また、時に羽交い絞めまでしていた歯磨きは、「自分からやるように伝えて」と言い、歯磨きをするタイミングを子どもたちに委ねたり一緒に隣で歯磨きをしたりしました。二人とも、泣き叫ぶことはありませんでした。最も驚いたのは妻です。普段、ぼくが本から学ぶことが多いのを知っている妻が、「何かいい本あったの?」と聞くばかりではなく、(読書嫌いにも関わらず)「その本貸して!私も読みたい!」と言ってきました。効果は絶大です。穏やかな就寝を迎えることまでできました!

 

 エピローグからは、著者の我が子に対する捉え方が変わったことが伺えます。きっと、優しさに満たされた親子関係が築かれていくのだろうと、心が温かくなりましたし、ぼく自身もそんな親子関係を築けると実感を伴って感じます。

 間違った方向にエネルギーを使ってエネルギーを奪い合うという負のサイクルを脱し、優しさとあたたかさ、そして尊重を伴ったエネルギーのサイクルを回せるようになれば、それはこの上なくステキなことだと思います。是非、そのきっかけづくりに、本書を読んでみてはいかがでしょうか。

 *****

実は、松永先生、こちらの本の紹介文を先に送ってくれました。これを読んですぐに「頑張らない子育ての授業版というか学校版はどんなものだと思いますか?」という質問をしたところ、8月3日に掲載した「教師が『頑張らない』のは、自分のためだけじゃなく、生徒のためにも!」を早速送ってくれました。それには、夏休み中に先生たちが読める本のおススメ・リストが紹介されていたので、こちらと紹介する順番を変更して先に掲載したという経緯がありました。

2025年8月10日日曜日

子どもの「間違う権利」を尊重した数学的対話のつくり方

 アメリカの教育実践を見ていると、「権利を主張する」場面がよく見られます。授業のはじめに教師と子どもが「権利と責任の契約」を交わし、学習の土台を明文化する光景は珍しくありません。一方、日本の教室では、こうした文化はあまりなじみがありません。私自身も、授業の中で子どもが発言しやすくなるのは、あらかじめ権利を掲げたからというより、むしろ「気付いたらその権利を自然に使えていた」という瞬間だと感じています。子ども同士の対話が成立し、「間違ってもいい」「考えを変えていい」ことを実際に経験したとき、はじめて「あれは自分の権利だったのか」と事後的に理解する。その過程こそが大切なのでは。そう考えて改めて手に取ったのが、Amanda JansenRough Draft Math』(未邦訳)でした。 

答えよりも考え方へ 下書きアイディアを共有するラフドラフト思考

https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html

 

以前のPLC便りの記事でも紹介したように、正解を重視する授業から、思考の過程を重視する授業への転換を提案しています。「ラフドラフト思考」では、子どもが未完成の考えを共有し、比較や議論を通して理解を深め、最終案にまとめるプロセスを重視しています。教師は誤りではなく思考の変化に注目し、安心して意見を出せる協同的な学びの場をつくることで、子どもたちは主体的かつ探究的に学ぶようになるのです。

 

ランディ先生は『Rough Draft Math』第2章で、子どもが「思考途中のドラフト(下書き)」を安心して出せる教室づくりを最も大切にしています。彼女が目指しているのは、子どもたちが自分の考えを出すことを恐れず、他者の考えにも耳を傾け、そこから学び合える場です。ここでは「正解を早く出す」ことよりも、「考えを広げたり深めたりするプロセス」にこそ価値があります。

 

そのために、ランディ先生は授業で次のような環境を整えています。

・意見が異なっても評価的に否定しない。

・途中の推論や不完全な考えを歓迎する。

・相手の意見に質問や提案を重ねて対話を発展させる。

・「間違ってもいい」「考えを変えていい」という権利を子どもが自然に行使できるようにする。

 

このような文化があると、子どもたちは単に答えを求めるだけでなく、数学的な概念をより深く理解するための対話に踏み出せるはずです。この「学習者としての権利」は、紙に書かれた規約として存在するのではなく、まさにこうした日々のやりとりの中で生きていくものだと、ランディ先生は示してくれています。

 

この第2章には、子ども同士が評価的にならず、思考途中のアイデアを出し合う場面が描かれています。

 

【問題】

ある店主は万引きを防ぎたいと考えています。店の天井に防犯カメラを設置することにしました。カメラは360°回転することができます。店主はカメラを店の角にあるPの位置に設置します。上から見た図には、店内に10人の人が立っている場所が示されています。

① Pのカメラから見えない人は誰ですか? その理由を図に示して説明してください。

② 店主は「店の15%はカメラから見えない」と言っています。これが正しいことを、はっきりと示してください。

 





カメラ位置は壁によって死角ができるという設定です。この課題をめぐる対話は、正解を一気に求めるのではなく、途中経過を共有しながら進んでいきました。今、読んでいる読者の皆さんも、ご自分で考えてみてから以下の子どもたちのやりとりを読んでみてください。

 

子ども1:「カメラをここ(角)に置いてあるから、ほとんど全部見えるよ。」

:「ほんと? FHは見えないはず。それはカベが邪魔になっているから」

子ども2:「僕も、同じように考えた。こうやって線をひくと。。。」

先生:「2人に質問はありませんか?」

子ども3:「もしこのカベがガラスのカベだったとしたら?2人はみえるよね。どうやってガラスじゃないって判断したんですか?」

子ども2「もしそこがガラスのカベだとしたら、こんな問題にはならないはずだと、考えたんだ」

先生:「そうだね、このカベは透明で向こうが透けて見えないものではないんだね」

先生:「他に質問はありませんか?」

 





このやりとりの価値は、単にカメラ位置からみえる人物を特定することではありません。子どもたちは互いの考えから問題を整理し始め、修正し合い、現場検証をしながら理解を深めていきます。ここでは「自分の考えを途中でも出せる」「間違ってもいい」「質問してもいい」という権利が自然に機能していました。

 

教師の役割は、このような途中の対話を価値あるものとして認め、教室文化に定着させることです。算数・数学はとくに問題解決の結果をプレゼンテーションのように発表してしまいがちです。完成度や正答の速さではなく、途中の試行錯誤や他者とのやりとりそのものを学びの中心に置くことが大切です。そのために教師は、

・誰かの発言をきっかけに新しい見方が生まれたら、それをクラス全体で共有する

・意見の違いを衝突ではなく発展の種として扱う

・「間違い」を失敗ではなく思考の過程として位置づける

といった姿勢を持つ必要があります。

 

Rough Draft Math』では、このような学びの文化を支えるために「学習者の権利」が示されています。以下はその一例です。

 

・間違う権利

・途中の考えを出す権利

・他者の考えにのって変える権利

・納得いくまで考える権利

・質問する権利

 

ただし、これらは固定的なリストでは決してありません。授業の場で実際に使われ、加筆修正され続けるべきものです。特に、子ども自身が「今日、自分はこの権利をこう使った」と発表することは、権利を形骸化させず、生きたものとして根づかせる上で効果的です。

 

ここで、ぜひ読者の先生方にもお勧めしたいことがあります。セキュリティカメラの問題を実際にやってみてください。途中の段階でも、近くにいる誰かと話し合ってみましょう。その際、正答を求めるための会話ではなく、相手の見方や新しい気づきを引き出すことを意識してみてください。そのプロセスこそが、数学的対話の価値であり、概念理解を深める活動なのです。

 

正答を求めるのではなく、理解に重きを置いた数学的対話を行うこと。その文化があってこそ、子どもたちは安心して途中の考えを共有し、他者とのやりとりを通して学びを豊かにしていきます。そして、そうした場においてこそ、学習者の権利は「あるもの」ではなく、「使われるもの」として輝いていきます。