2025年10月12日日曜日

まちがいや途中の考えを歓迎する教室づくり

  アマンダ・ヤンセン博士が提唱する「ラフドラフト思考」は、数学の授業を「正解を出す場所」から「考えを生成し、練り上げていく場所」へと変える新しい視点を与えてくれます。博士はデラウェア大学の教育学者であり、著書『Rough Draft Math(未邦訳)』★の中で、「生徒が未完成の考えを安心して共有できる場」をどうつくるかを問い続けてきました。その背景には、博士自身の経験があります。体育の授業で人前で失敗することを恐れ、恥ずかしさから授業を避けた時期があり、その体験が「間違うことが怖い」数学の授業への見直しにつながったと語っています。博士は、数学の教室を「人が自分らしくいられる場所」に変えたいと願っているのです。

 

ラフドラフトとは、いわば途中の考え「下書き」のことです。まだ完成していない、確信を持てない、自信のない考えをあえて表現する行為そのものが学びの出発点になります。博士は、教育心理学者ダグラス・バーンズの提唱した「exploratory talk(探究的な対話)」に影響を受けたと述べています。この理論は、ラフドラフト思考の根底にも流れています。ラフドラフト思考が「書くことで考える」学びであるならば、探索的会話は「話すことで考える」学びであると言えるでしょう。どちらも「未完成を大切にする」「他者とともに考えを練り上げる」「言葉を媒介にして理解を深める」という共通の哲学をもっています。

 

ヤンセン博士は、教師が「未完成でいいから話してみて」と呼びかけることが大切だと言います。授業のはじめに「今日はみんなのラフドラフトを聞かせて」と呼びかけることで、子どもたちの発言の空気が変わります。正解を言わなければならないという緊張がほぐれ、思考の途中を出すことが歓迎される文化が生まれます。この「安全な空間」は、探究的な対話が成り立つための条件でもあります。間違いや曖昧さを受け入れ、互いの思考を尊重しながら対話を続けることで、学びは「評価する/されること」から「共につくりあげること」へと変わっていくのです。

 

博士の実践では、授業中に「考えの修正(リビジョン)」を組み込むことが重視されています。ある教師は、授業の最初に問題を解かせ、授業の終盤でもう一度同じ問題に取り組ませました。最初は鉛筆で書き、二回目はマーカーで書く。そうすると、生徒は自分の思考の変化を視覚的に確認でき、「できた・できない」ではなく、「考えがどう変わったか」を振り返ることができるようになります。ヤンセン博士はこれを「学びの成長を可視化する営み」と呼びます。理解とは瞬間的に獲得されるものではなく、修正と生成を繰り返す過程そのものだという考え方です。

 

こうした実践は、小学校にも応用できます。博士が紹介する三年生の授業では、「分数とは何だと思う?」という問いから始まりました。子どもたちは「半分に分けること」「二つに分けること」と自由に答え、それを黒板に貼り出します。授業を重ねるうちに、「分数は二つとは限らない」「等しい大きさで分ける必要がある」といった新しい気づきが生まれ、クラス全体で定義を何度も書き換えていきました。教師が初めから「正しい定義」を与えるのではなく、子どもたちが自らの経験をもとに定義を生成していく。まさにラフドラフト思考が探究的会話へと発展していく姿です。

 

博士は、こうした授業によって生徒のアイデンティティが変わると言います。正解を言える子が評価される教室ではなく、「あなたの考えがみんなの理解を助けたね」と教師が言葉をかける教室では、子どもたちは自分の声に価値を感じるようになります。博士の研究プロジェクト「SMILES」では、高校生を対象に、教師が生徒の発言を肯定的に取り上げる場面が多いほど、生徒全体の自信と集中度が高まることが示されています。誰かの思考を認めることは、そのクラス全体のエネルギーを上げる行為なのです。

 

ラフドラフト思考は、「学びを共同的に生成する文化づくり」と深く関係しています。ラフドラフト思考では、個人が書くことで自分の思考を可視化し、整理し、成長させます。その後、クラスで共有されることで、探索的な対話へと発展します。対話を通して他者の視点に触れ、自分の考えを再び書き直す。書くことと話すことの往還が生まれ、学びが循環していくのです。これが、ヤンセン博士のいう「ラフドラフトを歓迎する教室」の核心です。★★

 

人は新しいことを理解すると、それを昔から知っていたように感じてしまいます。けれども、思考の変化を記録し、振り返ることで、学びが時間をかけた成長のプロセスであることを自覚できるのです。未完成の考えを共有する勇気、そして他者の考えを聴く姿勢。その両方があるとき、教室は「間違いを恐れる場所」から「ともに生成する場所」へと変わります。数学の授業におけるラフドラフト思考は、単なる指導法ではなく、学びそのものを捉え直す哲学なのです。ヤンセン博士の言葉を借りれば、「数学の教室を、正解を競う場から、考えを育て合う共同体へ」。その実現の鍵は、声に出す勇気と、書いて考え続ける粘り強さにあるのではないでしょうか。

 

 

    ヤンセンのラフドラフトマスについては、度々、ポストしてきました。

答えよりも考え方へ 下書きアイディアを共有するラフドラフト思考

https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html

 

子どもの「間違う権利」を尊重した数学的対話のつくり方

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/08/blog-post_10.html

 

 ★★

以下のYouTube動画でヤンセンをゲストにラフドラフトマスのマインドについて語られています!

Rough Draft Thinking for the Math Classroom: An interview with Dr. Amanda Janson

https://www.youtube.com/watch?v=N5-i-kitUpQ

 

2025年10月5日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則2 共感的態度で応じる

生成AIは実にパワフルなツールです。多様な考え方を世界中から収集して、それを完全な文章でまとめてくれます。これまで我々が苦心してやっていたことを、瞬時に、こともなげにやってくれるのです。

AIが、秀逸で、完璧な答えを準備してくれるとなると、我々の知的営みのあり方が変わってきそうです。我々人間は、AIの出した回答を受けて、それに対する創造的で、独創的な発想が求められるようになるのかもしれません。人間の思考や考え方そのものを見つめ直すきっかけを与えてくれるのかもしれない。

そして、このようなAI時代においては、人間関係の構築といったテーマも、再び焦点が当たることになると思います。人間的な営みが、逆に焦点化される。

前月から、サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんの著書から、教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則を紹介しています。★ 第2回めの今日は、原則2「共感的態度で応じる(原著では”Be Empathetic”)」です。

共感的というのは、よく使う言葉ですが、具体的にはどのような態度を指すのでしょうか。原語である “empathetic”という単語の定義は、”showing an ability to understand and share the feelings of another”(New Oxford American Dictionary)となっています。「他者の感情を理解し、共有する能力を示していること」となるでしょうか。

前掲書には、「つまり、共感とは、他者に同意することではなく、他者を理解しようとすることにほかならない」と書かれています。しかも、「理解しよう」の部分にはルビが振られています。理解しようとする態度を示そうというニュアンスが含まれていそうです。

次のような、共感的スキルを伸ばす方法も、紹介されています。

・ボディーランゲージやジェスチャを読み取ることを意識的に努力する。

・学習者の年齢層のことが書かれた文学作品を読む。

・判断留保的な態度で傾聴をする。

・コミュニケーションスキル向上に励む。

やはり、共感的であるには、それなりの努力をする必要があると言えそうです。

その重要な一つが傾聴でしょう。学習者の声に耳を傾ける努力をするということです。

同書では、傾聴する能力を高めるためには、「学習者の話をさえぎらないこと」と「教師が待つ時間をもつこと」の二つが必要であると述べています。

生徒の良き理解者でありたいと、いつも心に止め、真面目で、情熱あふれる先生はたくさんいると思いますが、一方で、そのような思いが強すぎるあまり、ついつい、話をきかせ、諭そうとしがちな先生は多いのかもしれません。

話を遮るつもりはなくても、生徒の話を聞いているうちに、アドバイスしたいこと、伝えておきたいことが、次から次に浮かんできて、気がついてみると、先生の独演会が始まっている。そんな場面を目にしたことのある人は多いのではないでしょうか。

共感的であるためには、子どもたちを、受動的に話を聞く存在、大人の言うことを素直に聞いて成長する存在といった捉え方を、根本から改める必要があるのかもしれません。

同書では、生徒を「双方向の対話に積極的に参加するパートナーとみなす(p.95)」べきでないかとの提言を紹介しています。日本社会の中で育った我々にとっては、ここまでの意識をもてるには、かなりの意識改革が必要なように感じます。


★ サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.

「教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則」

原則1 近づきやすさ 

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律(立)性を支援する

原則6 教師の情熱を示す

注)原則5の「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。

2025年9月28日日曜日

良いことや良さそうなことはやめて、もっとも良いことに集中する! (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom ③)

 https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=Co-Constructed+Classroomの続きです。まだ、本論に入る前の序章の部分が続きます。

 ディラン・ウィリアム(2000年前後に、形成的評価というか「学びのための評価」の効果をイギリスから全世界に発信したメンバーの一人です。これについては、評価の大幅な転換の可能性を書いた『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書、2006年)で紹介しています)の主張を引きながら次のように書いています(Co-Constructed ClassroomKindle版の位置162177)。

 ひとつの方法は、新しいものを加えることばかり考えるのではなく、むしろ何を減らせるかを考えることです。

 ウィリアムは、新しい取り組みを増やす必要はなく、むしろ今あるものの中で最も影響力のあることに集中すべきだと主張しました。

 彼はその後、形成的評価の実践を牽引しました。形成的評価の核心には、生徒の夢中な取り組み(エンゲージメント)と主体性(エイジェンシー)があり、自己評価や相互評価の共同構築、評価基準の理解、評価能力の育成が求められます。

 学校で最も重要な問いは「なぜ?」です。もし私たちが何かをする理由を問い続けて、その答えが生徒の学びに関するものでないなら、それは手放すべきもののサインかもしれません。

 「共に構築する授業」とは、制度(や過去の習慣・慣例)に振り回されるのではなく、私たちが制度を動かし、生徒のニーズに応じて適応・変化させていく場のことです。

 この部分には、とても大切なことが書いてあります!!

 増やすのではなく、減らすことが大事、というのは、まさにその通り!

 教師は、成績づけに翻弄されています。なんの成果も生み出さないのに。単に、過去の習慣・慣例というだけで。前回紹介した「What if?」https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/06/teachable-momentco-constructed-classroom.htmlや、今回紹介している「Why(なぜ)?」を考えられない状況に陥っています。これらが問えたら、通知表も指導要録も、ほとんどのテストも消えてなくなるのに!

 そして、「今あるものの中で最も(効果があり)影響力のあることに集中すべき」というのも、ごもっともです。日本の教育界は、その判断ができないことを証明し続けているようなものです。その最たるものが、教科書をカバーしてテストをするという流れ!(いつまで、それをし続ければ気が済むのでしょうか?)。

 当事者である生徒が夢中で取り組めるようにしないと、学びの質と量を向上することは期待できません(教科書をカバーしてテストで成績をつける授業は、教師と生徒の「従順、服従、忖度」の練習が中心です)。

 さらに進むと、(同上、位置196

 それは教師主導でかっちり構成されたやり方をやめて、生徒やその場の状況に自然に応じられるようにすることが特徴です。

ウィリアムが言ったように、「良いことをやめて、もっと良いことのための余地をつくる」のです。と同時に、https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/09/responsive-teaching.html のテーマそのものです!

 思い出してください。teachable momentのことを! 指導案通り、教科書通りに授業をすることは、教師だけがコントロールしている授業であり、葬り去らないと、生徒たちはいつまでたってもよく学べない状態が続きます。苦役以外の何物でもないので。「テストのために暗記して、その数日後にはほとんどを忘れる」の繰り返しです(先生たちの多くは、残念ながら、それを「教えること」と錯覚して傾向が見られます。Why? Why? Why? 一度だけでなく、最低でも3回は問うてみてください。

 また、「教師たちは本能的に、生徒のニーズに応じることが良い学びにつながると分かっています。けれど残念ながら、その教師の本能は、柔軟性のない制度化や、すでに述べた一貫性への欲求によって押しつぶされてしまうことが多いのです」(同上、位置204)と書かれています。これを続けることは、悲劇です! どうしたら一貫性の名のもとに幅を利かせ続ける、柔軟性がない制度を葬り去ることができるのでしょうか? それを要求しているのは、いったい誰でしょうか? なぜ? その中に、教師も含まれていませんか?

第1章に入る前の最後で、本の3本の柱(カリキュラム、教え方・学び方、そして評価)についての簡単な紹介が書かれています。

 

カリキュラムについて(Co-Constructed ClassroomKindle版の位置212

私たちは、誰に教えるのかに基づいて、何を教えるかを計画します。

私たちの教室には、どんな文化があるでしょうか? どんなアイデンティティーがあるでしょうか? どんな興味があるでしょうか?

生徒たちが何者であるのかを、私たちはどうすれば知ることができるでしょうか?

そして、どうすればその声をもとに、生徒たち一人ひとりにとって魅力的で、彼らが「自分自身になっていく」こと、そして彼らが生きていく世界の一部となっていくことを支えるようなカリキュラムを作ることができるでしょうか?

 カリキュラム(年間指導計画)について、こんなことを考えている日本の教育行政に携わっている人、研究者、そして先生はどのくらいいるでしょうか?

 教科書や指導書ありきで、これは実現できるでしょうか?

 見取りと子ども理解が、すべてのはじめてであることが明らかになっています。見取りと子ども理解をしている先生は、どれくらいいるでしょうか? その方法を知っている/もっている先生は?

 そこから、何を教えるのか(生徒たちからすれば、何を学ぶのか)、どう教えるのか・学ぶのか、そしてどう評価するのかが始まるのですが、日本の授業はそのように考えられているでしょうか? 「教材研究」という発想が、どれだけズレているかを、その言葉を使う人たちはこれまで考えたことがあるのでしょうか? 一つの教材が、目の前にいるすべての生徒に等しく通用する(届く、興味を沸かせる)ことがあり得るのでしょうか? 

 教科書教材が、「生徒たち一人ひとりにとって魅力的で、彼らが「自分自身になっていく」こと、そして彼らが生きていく世界の一部となっていくことを支える」ようなことはできるでしょうか?

 ここの内容について参考になる本には、『言葉を選ぶ、授業が変わる!』『私にも言いたいことがあります!』『SELを成功に導くための五つの要素』『教科書をハックする』そして、来月刊行される『ほんものの学びに夢中になる』(ローレン・ポロソフ著、北大路書房)などがあります。

 

教え方について(同上、位置218

教師は、生徒がどのように学ぶのかに関心をもっています。

教師は生徒の学習行動を観察し、分析し、すべての生徒が前進できるように、その場その場で教え方を柔軟に調整します

うまくいっていないときに、無理に授業計画に固執することはなく、教室で生徒から受け取っているフィードバックにリアルタイムでやり方を修正していきます。

 生徒の学び方に関心をもっている教師って、どのくらいいますか? それこそが、教えることのベース/基本だと知っている人は?

 下線の部分は、まさに「見取り・子ども理解」=形成的評価 = 文科省が25年前から言い続けている「指導と評価の一体化」と言えませんか?

 通常の教科書(指導書)をカバーする授業でも、これは行われていますか?

 

評価については(同上、位置224

標準化されたテストが当たり前のこの時代において、「柔軟に生徒の理解や進度に応じて行う評価(responsive★ assessment)」は難しく聞こえるかもしれません。しかし、学校での私たちの仕事が、生徒同士を比較して評価することではなく、一人ひとりの生徒が継続的に成長できるよう支えることなのだと気づいたとき、私たちは標準化された状況の「ルール」(外部試験以外の評価において)を手放し、標準化されていない生徒たち一人ひとりにとって公平なアクセスを実現する方向へと進むことができます。

このresponsiveについては、上で紹介したhttps://projectbetterschool.blogspot.com/2025/09/responsive-teaching.html をご覧ください。

 ちなみに、自由進度学習は、responsive teachingないしカリキュラム、教え方、そして評価について、真剣に考えた末の実践といえるでしょうか?

 「序章」の最後には、以下の問いが読者に投げかけられています(最近、こういう問いを提供している教育書が英語では多いです。よく考えて行動を期待しているからだと思います。それに比して、日本語の教育書には依然としていい問いが欠落したままです。そのために、読者は受け身で内容を理解するだけにとどまりがちです。授業でしていることと似ていませんか? そしてそれが、実践につながる度合いが低い理由かもしれません。読者のエイジェンシー/主体性を求めていないので!?)。

 

序章の内容の振り返りのための質問(同上、位置233

  • あなたの教育現場では、どのようなシステムが確立されていますか? それらのシステムは、どの程度硬直的(rigid)または柔軟(flexible)ですか?
  • 生徒とともに学びを「共に構築する(co-construct)」という考え方に対して、あなたはどのように感じますか? エネルギーが湧いてワクワクしますか? それとも、不安や挑戦を感じますか?
  • なぜそのように感じるのか、考えてみてください。多くの人にとっては、統制された、きっちりと構造化された計画に従うことが、安全や安心をもたらします。一方で、それが窮屈でストレスになる人もいます。教育において、あらかじめ決められたやり方や計画に従うことについて、あなたは安心感を覚えますか? それとも、窮屈さや抵抗感を感じますか? ~安心感をもっているからといって、そのままにしてしまっていいのでしょうか? 窮屈さ、抵抗感ないし違和感をもっている場合は、どうしたらいいでしょうか? 何ができるでしょうか?
  • 教育における「一貫性(consistency)」の重要性について、今の段階でどのような考えをもっていますか?(このテーマには今後何度も立ち返ることになるので、今の気持ちを整理しておくとよいでしょう)~ 日本では、この一貫性が殊の外大事にされていますが、「Why?」は考えられていません。それは、子どもたちのためというよりは、大人のため、ないし制度のためなのではないでしょうか? 

しかし、一貫性も悪いことばかりではなく、子どもたち/学習者にとって大事な(いい)面もあります。授業においても、学級経営においても、どんないい点があるでしょうか?

 この後、第1~3章で詳しく、これらカリキュラム、教え方、そして評価について紹介されていますが、これらを紹介し始めたら膨大の量になってしまうので、興味をもたれた方はぜひ原典に当たってください。

2025年9月21日日曜日

Responsive Teachingとは、どういう教え方か?

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.html にある表の一番右側に、responsive teachingと書かれています。そこでは「(個々の)生徒のニーズに対応した教え方」と訳していますが、より具体的には「教師は、あらかじめ決めた授業計画を一方的に進めるのではなく、一人ひとり生徒の理解度・誤解・関心・感情のサインを読み取り(=見取り)、それに即して教え方を調整する姿勢であり、教え方」です。文科省が目指しているのも、こういう教え方でしょうか?

 「responsive teaching」には、次のような要素が含まれます。

  • 生徒の理解に耳を傾ける ~ 生徒がどう考えているか、どんな誤解をしているかをつかむ。(見取りと子ども理解)
  • 即時の調整 ~ 生徒の発言や表情、活動の様子から判断して、説明の仕方や問いかけを柔軟に変える。(見取りと子ども理解をベースにした教え方)
  • 学びを深めるサポート ~ 生徒の「今の考え」をそのまま否定するのではなく、そこから一歩先に進めるような問いかけをする。ZPDhttps://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPD)を踏まえた教え方!
  • 個の違いへの配慮 ~ 生徒の背景、興味、学習スタイル等に合わせて対応する。(『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』を参照)

 要するには、見取りと個々の違いを踏まえた教え方ということです。その際、大事にされるのは、

  信頼関係を重視 ~ 生徒が安心して自分の考えを出せるように、尊重する姿勢をもち続ける。(これが、すべてのベース!)

多様な学び方を用意する ~ 読む・聞く・話す・書くなど複数の方法でアプローチして、生徒の強みを活かす。(これだけでなく、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『「居場所」がある学級・学校づくり』(特に、第6章、第7章)で紹介されている教え方)

 Responsive Teachingということで、次の図を見つけました。

ダイアグラム

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 この図の特徴は、Responsive Teachingをサイクルとして捉えていることと、OLMOptimal Learning Modelとイコールなものとして捉えていることが挙げられます。OLMは、『Reading Essential』と『Writing Essential』の本のなかで基本に据えている教え方です。それは、Regie Routmanという著者流のリーディング・ワークショップとライティング・ワークショップの運営の仕方とも言えます。

サイクルは、教師が子どもたちにしてほしいことを実際にして見せる(モデルで示す)ところから始まります。

2番目は、一緒に試してみる段階です。ここには、

 - 一緒に試してみる

-アイディアを出し合い、質問する

-対話を通して支える

- 示されたことや話されたことを掲示物の形でまとめる、などが含まれます。

 3番目は、リーディング・ワークショップのときに行われるガイド読み、ないしそれの応用版の実践です。つまり、数人の生徒が教師のサポートと適切なフィードバックを受けながら練習をする段階です。

 4番目は、個別に練習する機会です。ここでは、各自が自立した学び手になるための練習が行われます。

 そして最後が、ふり返りと祝いで、学びの成果を確認し、共に喜ぶ/祝う段階です。

 以上は、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップおよび『「学びの責任」は誰にあるのか』で紹介されている「責任の移行モデル」(https://projectbetterschool.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html)を知っている方にはなじみのあるサイクルと言えるのではないでしょうか?

 同じレベルで大切なのは、その外側に書かれてあることです(右上から順に)。

①全過程を通じて、継続的に評価し(見取り)、必要に応じて修正する。

②生徒の強み、努力、次のステップに気づき、言葉にする。

     生徒による自己チェックと、自立した学び手になることを重視する。

 以上説明してきたことが、「指導と評価の一体化」の理想のあり方に近いのではないでしょうか? 文科省でそれを言い始めた人たちも、そのようなイメージをもっていたのでしょうか?

①~③は、まさに教師が見取りをし続けることを意味するだけでなく、生徒一人ひとりが自立した学び手になることが目的ならば、生徒が自己チェック(=自分見取り→フィードバック→自己修正・改善)できるようになる必要もあります。それは、教師がいつまでも頑張って教えていたり、頑張って評価をしていたりする限りは実現しません!

2025年9月14日日曜日

子ども同士の対話の質を問い直す「発表的会話」と「探索的会話」

 東京大学の一柳智紀さんから「コミュニケーションの質」について学ぶ機会があり、その内容は今後の自分のワークショップ授業におけるピア・カンファランスの質を高めるうえで大きな示唆となりました。ここでは、その学びを整理して共有してみます。

 

私たち教師は、授業中に「間違ってもいいよ」と言いながらも、「できた人は?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかけてはいないでしょうか。この問いかけは無意識のうちに「できた子」に焦点を当ててしまいます。その結果、いままさに考えの途中にいる子や「わからない」と感じている子にとって、「間違ってもいいよ」という言葉は空語になってしまいます。授業は誤りを資源として扱いながらゴールへ向かう営みです。しかし、1時間単位で成果を求められる圧力の中では、つい「わかった人に説明してもらう」ことで授業を前に進めがちです。そのとき置き去りになっているのは、「もっと考えたい」「じっくり悩みたい」と願う子どもたちです。

 

ここで、教室の対話を二つの型で捉え直す必要があります。一柳さんの研究によると、整理され磨かれた考えを明瞭に伝えるやりとりを「発表的会話」と呼びます。たとえば「ここは76を足す。繰り上がりを直せば13だよ」というように、筋道だった説明を一方向に提供する場面です。思考の整理や共有、まとめには大きな価値がありますが、子ども同士のやりとりが「正答の発表会」にとどまり、思考のプロセスを共に辿らないと、学びが浅くなりやすいという側面があります。

 

一方で、未完成の考えを試し合い、互いに補い合いながら進むやりとりを「探索的会話」と呼びます。「うーん、違うかな」「ここ72でかけるんじゃない?」「ここを16にして」「これ埋めるんだけど」「そうそう、埋めてそれで戻すときに引く?」といった、言い淀みや仮説的な表現を含みつつ、プロセスを共有し合う会話です。結論より過程が往復し、根拠を出し合い、誤解が修正され、新しい見方が立ち上がります。探索的会話があるとき、子どもたちの思考は豊かに広がり、深まっていきます。

 

重要なのは、どちらが優れているかではなく、役割の違いを踏まえて意図的に併用することです。発表的会話は思考を整え、伝える力を育てます。探索的会話は考えを生み、共に創る力を育てます。ところが多くの教室では、時間的制約や評価の枠組みの影響で発表的会話に偏りがちです。だからこそ、授業デザインの中に「未完成の考えを出してよい時間」と「まとめて伝える時間」を明確に位置づけ、行き来できるようにすることが大切だと考えられます。

 

このとき土台となるのが「聴く文化」です。聴くとは、単に相手を見て頷く作法ではなく、相手の言葉に応答し、問い返し、言い直しを支える実践です。「わからない」とつぶやいた声に、隣の子が「こういうこと?」と代弁し、さらに別の子が根拠を足す。こうした経験が重なるほど、子どもたちは安心して未完成の考えを口にできるようになります。教師もまた、子どもの発話に即座に評価を与えるのではなく、「いまの『わからない』はどこから来ているの?」と問い、プロセスを一緒に確かめる聴き手でありたいと思います。

 

理解の到達を子どもと共有する指標として、「わかる」のスケールを次のように示すことができます。

1 わかっている

2 わかっていることを説明できる

3 わかっていることを教えることができる(多くはここで止まりがちです)

4 わかっていることで、わからない人の問いに応じて援助できる

 

この「4」に届いたとき、教室の学びは真に協働的になります。小さな声や不安な声が仲間に支えられ、代弁や言い直しを通して言葉になっていく場面を、意図的に設計していきたいのです。

 

発表で思考を整え、探索で思考を広げる。この往還を授業に組み込み、聴き合う文化を育てることで、子どもたちは互いの考えに働きかけながら学びをつくっていけます。評価や時間の制約に押されて「できた人」中心の進行に戻りそうになったときこそ、「未完成の考えが歓迎される時間」と「まとめて伝える時間」の二つを思い出し、両輪で授業を設計していくことが大切なのです。これが、ピア・カンファランスの質を底上げし、教室全体の学びを一段深める道筋になると考えられます。

 

 

2025年9月7日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則1 近づきやすさ

ある一人の教師との交流が、生涯にわたってポジティブな影響を持ち続けるといった経験をしたことがあると思います。


私の長年の友人の一人は、中学校時代の音読テストの時に声をかけてくれた教師のことを忘れらないといいます。ある日の音読テストのあとで、その先生が「○○くん、教室の前で今の音読をやってみてくれる。」と声をかけられたそうです。彼は、戸惑いながらも、クラスの前で音読を披露したそうです。そして、その時の高揚感のようなものが、その後の自分自身を支えてくれたとまで言っています。その先生に、評価されたことが、とてもうれしく、自信につながったそうです。その日ことがあったから、彼は英語教員になったのだと言っています。


教師と学習者の人間関係や信頼関係は、学習者のエンゲージメントに大きな影響をもつことは、経験的にも納得できることです。親しく思いやりのある教師との関係や質の高い仲間との関係が、生徒の成長や学業での成功にとって、重要な要因であるという研究は数多くあると言われています。


そこで、数回に分けて、教師と学習者との関わりを深めるための原則について考えてみたいと思います。 あまりに当たり前過ぎて、見過ごしていることがたくさんあるのではないかと思うからです。


サラ・マーサーさんとゾルタン・ドルニュイさんは、著書の中で、教師と学習者の信頼関係を構築するには、次の6つの原則があると述べています。★


原則1 近づきやすさ

原則2 共感的態度で応じる

原則3 学習者の個性を尊重する

原則4 すべての学習者を信じる

原則5 学習者の自律(立)性★★を支援する

原則6 教師の情熱を示す


まずは、原則1の「近づきやすさ(原著では”Be Approachable”)」です。


一つ目のポイントは、「いつもそこにいるということ」です。大学などでは、オフィスアワーのような時間帯を設けて、気軽に学生が立ち寄ることができるような工夫をしているところもあります。近年では、ソーシャルメディアなどを通じて、学習者とのつながりを維持しようとする教師もいます。教師が発する「たたずまい」や「空気」といったものもあるのでしょう。当然、近づき難いオーラを発している人もいます。生徒と教師の適切な「車間距離」は、どの程度なのか、古くて新しいテーマだと思います。


二つ目のポイントは、「自己開示」です。学習者に対して、趣味、楽しみ、好き嫌い、時には、生き方の哲学といった個人の考え方などを含む、よりパーソナルな情報を、ほどよく開示することが、近づきやすさを生む。開放的にみえることで、信頼感、安心感を生みます。まずは、教師の側からの積極的な自己開示が不可欠となるでしょう。個人情報をあまりに出しすぎることには、抵抗感もあるでしょうし、適切とは言えない場面もあるでしょうから、そのバランスを見極めることが必要です。とはいえ、教師の明るく、前向きな自己開示は、近づきやすさにとっては、不可欠と言えそうです。


三つ目のポイントはユーモアです。人間味を、ストレートに出すことで、近づきやすさを感じるはずです。ただし、これは、人によっては、ハードルが高く感じることかもしれません。同書は「学習者は教師のユーモアのある説明やコメントを望んではいるが、それは学習内容から逸脱しておらず、ユーモアの形式が適切な場合に限られる。」と実に的を射た警鐘を鳴らししてくれています。やはり、「ほどほど」にということでしょう。人の情意フィルターをさげるものは、明るく、前向きな姿勢と笑顔であることに、疑問の余地はないでしょう。


豊かな学びも、夢中になれる瞬間も、その礎は教室内の人間関係にあると言えます。私たちが教室のなかで、どのようにふるまい、どのような言葉をかけるべきか、しばらくの間考えていきたいと思います。



★ サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.


★★ 「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。

2025年8月30日土曜日

生成AIと教育

現在、私たちが日常的に見聞きする「AI(人工知能)という言葉が初めて使われたのは、1956年です。その後、いくつかのブームを経て今日に至るわけですが、第2次ブームの1980年代に「エキスパートシステム」という特定の専門領域に特化したAIに注目が集まりました。代表的なものは、「マイシン」と呼ばれた医療診断システムです。しかし、このシステムもすぐに壁にぶつかりました。その理由は教え込む知識の「質と量」があまりにも膨大であったからです。当時のコンピュータの性能、半導体の能力では実用的な診断システムの完成は不可能でした。それを超えられたのは、その後の半導体の性能の飛躍的な向上と、ニューラルネットワーク型手法による深層学習の実用化のおかけでした。

それによって、オープンAI社の開発したChatGPTによる「生成AI」が出現しました。これはコンピュータが画像や文章などのデータをつくり出すという画期的なものです。そこで、今回のテーマは「生成AIによって学校教育はどう変わっていくか」です。

 すでにマスコミ等の報道にもあるように、企業では、稟議書や報告書、会議録など、これまで社員が時間をかけて作成していた文書を生成AI(以下、「生成AI」を「AI」と書くことにします。)に任せることが可能になりました。数時間かかっていた会議録なども数十分で完成するというそのパフォーマンスは圧倒的です。こうした状況をふまえて、企業では自律的に作業する「AIエージェント」の活用が急速に進んでいるようです。同様に今後、学校内の事務的な仕事や作業も効率化が図られていくでしょう。(しかし、そのための機器やソフトウェアの整備に国や自治体がどれだけ本腰を入れるかで実現の速さが変わるものと予想されます。)

 さて、本題は「授業」です。もうこれまでの「教科書による知識の切り売り」の授業では時代に取り残されるばかりです。そもそも教科書だけを頼りに授業を展開すること自体が問題なわけですが、まだこのレベルにとどまっている教師が少なくないことも事実です。

すでにオープンAIが開発に着手した「AIコンパニオン」は、スマホのように持ち歩きのできるディバイスです。『週刊ダイアモンド』掲載の記事(2025614日号,94ページ「KEYWORDで世界を読む」牧野洋)によると、このディバイスの特徴は、「ユーザーの環境を理解する、ユーザーの邪魔にならない、ポケットに収まる」という特徴を有する計画です。これが実現すれば、生徒一人ひとりに専属の先生がつくようなものです。その使い方も、単に記憶すべき事柄を教えてくれるレベルから、探究のヒントを与えてくれるものまで、さまざまでしょう。こうなると、一斉授業は意味がなくなります。

教師が生徒に向けて話をするのは授業開始直後に授業の目標や内容の確認、注意事項の伝達、終了時刻の確認だけで済むことになります。こうなれば、教師は教室内を移動して、生徒からの個別の質問に答えたり、進捗状況を確認したり、成果物の評価も可能になります。

さらに、授業に関しては、「授業名人」の授業記録を生成AIに読み込ませて、深層学習をさせれば、「授業名人AI」が誕生するかもしれません。そうなれば、授業づくりの相談相手として教師が活用することも可能です。そうなると校外での教員研修はほとんど不要になります。  

さて、持ち運びのできる携帯AIが実現するまでは、どうしたらいいのでしょうか。それには、現在の「一人一台端末」を使い、そのなかに搭載されているグーグルやマイクロソフトなどに組み込まれているAI(CopilotGeminiなど)を利用していくことです。それにより、文章作成をしたり、語句の意味を調べたり、課題追究の方向性に関するヒントをもらったりすることも充分にできると思います。

すると、いわゆる「基礎・基本」の習得はどうしたらいいかという質問が当然出てきます。たとえば、算数・数学の計算ですが、これはAIを利用したドリル式のコンテンツがすでにいくつも開発されていますが、これがさらに進化するでしょう。あるいは国が「算数・数学AI」のようなものをつくり、データセンター(クラウド)から国内のすべての学校がアクセスできるような形も考えられます。他教科も同様に考えれば、これが教科書の代わりになると言っても良いかもしれません。(ただ、教科書会社やそれに連なる企業の既得権益を考えるとハードルは高いかもしれません。)

英語などは生徒が個別にAIを手にすることになるわけですから、「AIコンパニオン」を相手に会話や英作文の練習が個別にできることになります。(すでに自分の相談相手として、友だちのようにAIを利用している10代の若者が増えているという報道もあります。)

また、国語では意味の分からない言葉を教えてくれたり、書いた文章をすぐに校正してくれたりするわけですから誤字脱字の確認もでき、これ以上のサポートはありません。

さらに、テスト問題もAIに作らせることができますから、生徒自身がある単元の終わりに自分がどの程度理解できたかを判定する問題を自作して、その場でフィードバックを受けることができます。これをポートフォリオとして蓄積すれば、成績評価の資料に活用することも可能です。 

要するに、AIをうまく使いこなしていけば、文科省好みのフレーズを使えば、授業はほぼ「個別・最適化」されるということです。神経生理学者の池谷裕二氏は、AIと教師について次のように述べています。

「教える」ことがメインだった仕事が、変化することは間違いありません。AIの指導についていけなかった生徒をフォローしたり、AIが教えた内容を補足したりする仕事へと変わっていくでしょう。それはAIの尻拭いのように感じるかもしれませんが、私はこれこそが人がやるべき重要な仕事だと思います。(『生成AIと脳』扶桑社新書・2024年・198ページ) 

こうした授業が目の前に迫ってきているわけですが、課題もあります。一つは、AIにどのような質問をするかによって、AIからの回答が異なってくるということです。子どもの発達段階に応じて、どのような質問をしたらよいかをアドバイスしていくのは、教師の役割になります。この役割を担うためには、教師が「AIプロンプター」(プロンプターとは「質問者」の意味)になれるようにしていく必要があります。(すでにアメリカでは「AIプロンプター」が職業として確立しつつあるようです。)

また、別な問題点として、AIがどれほど大量のデータをもとに学習をしても、「誤情報」が含まれてしまうことです。データ自体に誤情報が含まれてしまう可能性があるからです。この点も教師のフォローが必要になるでしょう。

こうした問題点を踏まえて、メリットとデメリットを整理したうえで、AIを適切に使用していくことがこれからの学校に求められるものだと思います。

このようにAIは今の学校教育を根本から変えていく可能性を有する技術ですが、この潜在能力を充分に発揮していくのは、やはり「教師」の力です。未来志向で考えれば、すでに周回遅れになってしまった日本の教育に訪れた新たなチャンスと言うこともできます。こう考えると、実に面白い時代がやってきたとも言えるでしょう。

 先生方には、この面白さを味わいながら、素敵な実践を創りだしていってほしいと願っています。