2019年5月26日日曜日

形式主義からの脱却

しばらく前から小学校を訪問して授業を見せていただく中で気がかりなことがありました。その気がかりは私だけのものかと思っていましたが、同じような問題意識をもっている人がいることを知りました。
それは、『深い学びを紡ぎ出す』(グループ・ディダクティカ編・勁草書房2019)の中の森脇健夫さん(三重大学教職大学院教授)の「授業における目標の構造・機能と授業づくり」です。サブタイトルに「あらたな形式主義」からの脱却とあります。

「以前は、授業のテーマらしきものやタイトルを表すことはあっても授業の冒頭にめあてが示されることはなかった。現在では、反対に、めあてや課題の示されない授業はほぼないという状態である。全国学力・学習状況調査の児童・生徒質問紙、また学校質問紙の経年比較によれば、ここ数年で顕著に実施率、児童生徒の認知度がともに上がってきている。
 めあてやねらいの提示は近年の授業改善の方策として、広範にわたって実施されたという意味において最も影響の大きなものの1つであることに間違いない。」(同書138ページ)

どうも学力調査のクロス集計分析で「めあて」を示した学校のほうが、テストの結果がよいということから、各都道府県の教育委員会やその研修機関である教育センターが授業づくりのマニュアルの中に「めあて」やねらいの可視化を入れたことがこの「めあての提示」が全国的に広がった原因のようです。ペーパーテストが人の能力のほんの一部しか測定できないことはこのブログで何回も述べてきたことなので繰り返しませんが、そのテストの点数アップのためのマニュアル化の結果とは悲しいことです。

「学びの原則」からしても、人それぞれ得意な学び方やスタイルがあるわけですから、授業の流れも、たとえ単元は同じでも、教える教師と子どもの組み合わせによって、それぞれ違うのが当たり前です。それをすべての学級は同じ構成員から成ると考えて、授業の展開までも一つの流れに沿って拘束するというのは、土台無理な話です。以前、ここでも取り上げましたが、学年一斉の授業参観で、同じ教科を公開していた複数のクラスは、板書の文言も教師の話す内容も全く同じという信じられないことが今、小学校で起きているのです。
 
このような形式主義が学校教育には入り込みやすいのだと思います。上から言われるので仕方なく表面的にはその通りにやっても、自分で納得してやっているわけではありませんから、形だけのものです。そのような取組がどれほど多いことでしょうか。それをやることで、本来やらなくてもよいことに時間を使わされているわけですから、イノベーションなど起こせません。

そういえば、全国各地で「〇〇スタンダード」が散見されますが、これも形式主義の1つであることは間違いありません。〇〇には自治体や教育委員会名だったり、学校名が入ったりするわけですが、自分たちが決めたことではないことを「やらされる」教師や児童生徒の身にもなってほしいものです。そんなことに時間をかけるぐらいなら、本気で教師や児童生徒の「学び合い」を実現するには何が必要なのかを考えてほしいものです。

各学校にも目標が掲げられていますが、それも形式的なものになっていないでしょうか。せめて、その年度の努力点については、職員全員で話し合い、決めていくという自主性・独自性がほしいものです。これ以外にも学校の中で行われていることを改めて見直してみてはどうでしょうか。その効果がどうなのかが検証されずに、ただ習慣化して続いている「悪習」とでも言えるようなことがないでしょうか。巷では、「断捨離」が流行っていますが、学校教育でも思い切った「断捨離」が実行できなければ、話題の「働き方改革」も、ただの掛け声で終わってしまうことは目に見えています。

個人レベルでできることで、先月出版された『宿題をハックする』(新評論)は宿題を切り口に私たちにこれまで当たり前のようにやってきた宿題を鍵に、ここまでできるという新たな視点を与えてくれます。そこから、イノベーションが始まります。何かが確実に変わっていくことでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿