先日ある小学校の公開研究会に参加してきました。
研究内容はICT教育、いわゆる情報教育です。
ICT教育は世界の潮流であることは間違いありません。ただ、これまでのアナログの部分で大切にされてきたものまで捨ててはいけないと思います。
たしかに、タブレットパソコンを子どもたちに持たせて学習させることで、たとえば子ども同士のコミュニケーションが活発に図られるようになったとか、お互いの考えを出し合い、それを練りあって、より高いレベルの思考にたどり着くことができたとか、成果はいろいろあります。
でも、それらの多くはアナログ時代にもできたことなのです。時間の短縮とか、実践後の記録保存などの点ではデジタルが優れていることはもちろんです。ただ、そのようなことよりも、たとえば、子どもたちが探究する「課題の質」「問いの質」はどうなのかということが優先されるべきでは?と考えてしまいます。
「デジタル社会の学びのかたち」(A・コリンズ&R・ハルバーソン著・稲垣 忠編訳、北大路書房)の冒頭の部分に「日本語版への序」という文章があるのですが、次のような内容です。
「新しいテクノロジは、これまでの学校のあり方に疑問を投げかけています。何世紀にもわたり、教育とは、専門家や知識、スキルに対するアクセスが制限されていること、つまり情報の欠如によって定義されてきました。」(同書・日本語版への序ⅲ)
まさにその通りです。これまでは学習者は勝手に知識にアクセスできず、必ず教師という先導者がいて初めて知識にふれることができたわけです。ですから、教師の教え方も当然「教授型」となるわけです。しかし、インターネットを始めとして、コンピュータの進化によって、様々な知識のデジタルアーカイブにだれもがアクセスできるようになった今、教師の手を経ずしてもだれにとっても手の届く存在になったわけです。
でも、学校はなかなか変われません。
「生徒たちは、自分自身の関心より、学校の教育内容は価値があるものだと信じることが求められています。」(同書・日本語版への序ⅳより)
「何のために学ぶのか」が納得できないまま、受験のために必要だからというような理由で多くの生徒は授業に向き合っています。
「一方、新たなテクノロジは、子どもたち自身の手で学習環境をつくり出すことを促します。」また、こうも述べています。
「一方で新しいメディア・テクノロジは、学習者一人ひとりのニーズ、目標、スタイルを支援します。」(同書・日本語版への序ⅳ・ⅴより)
要するに、これまで教師主導の教授型授業の時代は、すべて教師のおぜん立てによる授業で済んだのかも知れませんが、コンピュータというテクノロジが入ってきたことにより、いやでも授業スタイルは学習者主体に変わらざるを得ないわけです。ただ、一つ危惧することがあります。
もし、この新しいテクノロジを基礎・基本の定着と称して、ドリル型の授業で知識を詰め込むために使うのだとすると、何も変わらないことになります。
このあたりのことを同書は次のように分析します。
「多くの教育現場で説明責任のプレッシャーの増すなかで、スキルの練習と、必要とされる学習内容をカバーすることに、労力の大半が費やされています。伝統的なスキルと内容理解を測定することばかりが強調されているところで、イノべーティブな授業実践が広がることはないでしょう。」
この分析もその通りでしょう。かつて、アメリカのラリー・キューバンという教育社会学者が1990年代のアメリカでのコンピュータ教育の実態調査を行って、結局はコンピュータという技術革新が教室の学びを変えることはなかったと結論付けています。
今のICT教育がこの轍を踏まないようにするには、このブログで取り上げている「学び」を実現することです。方向性が見えたら、あとは実践あるのみです。
0 件のコメント:
コメントを投稿