2026年1月11日日曜日

謎めいた教師こそが、学習者の自学自習を育てる

 先日、思想家であり武道家でもある内田樹先生の話を、直接うかがう機会を得ることができました。私は教員になって以来、内田先生の著作を読み続けてきた一人で、何が語られるのか楽しみにしていました。

 

講演では、「教員の役割とは何か?」という問いでした。内田先生は、教育の本質は自学自習にあり、教師の仕事は「教えること」ではなく、子どもたちの「学びが発動する環境を整えること」だと語られました。教師は知識を与える存在ではなく、学びが起こる条件を準備する存在である、という考え方です。この言葉は、日々授業改善や授業法に悩む私たちにとって、根本から立ち止まって考え直す契機になるものでした。

 

その話の中で紹介されたのが、「張良」の逸話です。能楽にもなっているこの話は、中国・漢代の武将である張良が、黄石公という老人から兵法の奥義を授かるまでの出来事を描いています。黄石公は奥義を授けると言いながら、長い間、何一つ教えません。ある日、張良の前でわざと靴を落とし、「拾って履かせよ」と命じます。さらに別の日には、両足の靴を落とさせます。張良は内心の葛藤を抱えながらも、それに従います。そしてその瞬間、張良はすべてを悟り、兵法の奥義を会得した、という不思議な話です。

 

内田先生は、この逸話を通して、学びが起動する瞬間について語られました。師匠の行為は偶然ではなく、すべてがシグナルであり、弟子は「これは何を意味しているのか」と問い続ける中で、自ら学びを深めていく。師匠がすべてを説明してしまえば、弟子は考える必要がなくなります。だからこそ、真の師弟関係では、師はあえて謎めいた存在である必要があるのだ、と。

 

私たちはつい、「わかりやすく教えること」「丁寧に説明すること」を善としがちです。しかし、あまりにわかりやすく整えられた授業は、子どもたちから「考える余地」を奪ってしまう可能性があります。先生が何を言いたいのかを即座に理解できてしまう状況では、自分で問いを立てる必要がなくなるからです。

 

ここで内田先生は、精神分析家ジャック・ラカンに触れて師弟関係を語られました。学びは一人で完結する営みではない。たとえ一人で考えているように見えても、そこには必ず言語や評価、教師、共同体といった「他者」の場が介在している。自主学習とは、他者を排除することではなく、他者との関係の中で自分の問いを立てていく営みです。教師の役割は、答えを与えることではなく、「問いが続く場」を支えることにあるのです。

 

 

わかりやすく教える弊害について、合気道の道場でのエピソードも示唆的でした。初心者と経験者の力量差を考慮し、初心者だけを集めてわかりやすく教える場を用意したところ、逆に初心者が次々と辞めてしまったという話。人は、自分にはまだ理解できない複雑な世界が目の前にあるからこそ、そこに惹きつけられる。わかりやすさは、ときに世界を狭く規定してしまう。教師が「ここまでが君にわかる範囲だ」と先回りしてしまうことで、学びの地平を閉じてしまうことがある、という指摘は、少人数指導や個別最適化を進める今だからこそ、重く受け止める必要があると感じています。

 

教師の仕事は「説明上手」になることではなく、子どもが「自分で考えたくなる」状況をどうつくるか、という一点に尽きるということです。すべてをわかりやすく整えるのではなく、あえて複雑なまま差し出す勇気を持つこと。子どもが問いを抱え続けられる場を守ること。そのための環境づくりこそが、私たち教員に求められている専門性なのだと、強く感じさせられる時間でした。

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