「最新の教え方」「うまくいくステップ」「成績が上がる手続き」——こうした言葉に私たち教員はつい惹かれてしまい、手法やノウハウに注目しすぎてしまうことがあります。新しい教材、流行のプログラム、SNSで話題の実践など、「よさそう」と感じたものを、深く考えずにすぐ試したくなる。そして、うまくいったように思えると、そのやり方がまるで“正解”であり“真理”であるかのように思い込んでしまうこともあります。
教育現場では、こうした「方法信仰」がしばしば見られます。しかし、そのとき私たちは立ち止まり、「そもそもその実践は何のために行っているのか?」という根本的な問いを忘れていないかを見直す必要があります。
オランダの教育学者ガート・ビースタは著書『よい教育研究とはなにか』の中で、教育研究を行う際には「なぜその研究を行うのか」という目的を最初に問うべきだと述べています。
教育現場で日々実践を積む教員、特に子どもの学びと成長を願う教員は、よりよい教育の実現を目指して取り組んでいます。しかし、その過程で、気づかぬうちに方法やテクニックに焦点を当てすぎてしまうことがあります。もちろん、それ自体が悪いわけではありません。ただ「正しい方法さえ見つかれば教育はうまくいく」と考えてしまうと、教育における本質的な問題と向き合う視点をつい見失いがちです。
ビースタは、現代の教育研究において、新しい手法やデータ分析の技術が自己目的化してしまい、研究が教育の現実や子どもとの関係から乖離してしまう危険を指摘します。だからこそ重要なのは、「どの理論が使えるか」ではなく、「その理論を使って何を目指すのか」という、目的への立ち返りです。ビースタはこう言います。
「理論を信じるのではなく、教育的目的のために理論を使え」
The point is not to believe in theory, but to use theory for educational purposes.
この指摘は、教育に関する専門書や研究会で見かける「信条的告白」への批判ともつながります。「私は構成主義者です」「○○メソッドを信じています」と語ることは、現実の教育課題への応答ではなく、むしろ個人的な信念の表明にとどまり、学術的な責任の所在を曖昧にしてしまうのです。
ビースタは、教育における研究の目的を大きく三つに分類しています。「説明(explanation)」「理解(understanding)」「解放(emancipation)」です。
「説明」は、教育現象の因果関係を明らかにすることを目指します。たとえば「協同学習を導入するとテストの成績が上がる」といったように、特定の取り組みと結果の関係を数量的に示す研究です。これは主に量的研究の領域に位置づけられ、教育現象を予測・制御可能なものと見なします。
「理解」は、教育の現場で何が起きているのかを、その場にいる人々の意味づけや視点を通して捉えようとするものです。たとえば、ある子どもが授業中に発言を控える背景を、その子の体験や教室内の関係性から読み解こうとする姿勢がこれに当たります。質的研究で重視されるアプローチです。
「解放」は、教育に潜む抑圧や不平等な構造を明らかにし、それを乗り越える可能性を探ることを目的とします。たとえば、ある評価制度が特定の子どもに不利に働いているとき、その構造を問い直し、より公正な在り方を模索する研究がここに含まれます。批判的教育学やアクションリサーチと深く関係しています。
ビースタは、こうした研究目的を方法論の違いとして単純に分けるのではなく、研究が「何のために行われるのか」という本質的な問いに基づいて区別すべきだと述べています。つまり、「どの方法を使えばうまくいくか」ではなく、「その方法は子どもにとって何をもたらすのか」と問い続けることが、教育実践において求められる姿勢なのです。
研究が、教育の意味を問う営みとして行われるとき、そこには「教育的な負(ネガティブな課題)が投げ返される場」が生まれます。それは、他者に対して「私はなぜこれを行うのか」と説明責任を持つことであり、教育という営みに公共性を与える行為でもあります。
「私はこう信じているからこうする」ではなく、「教育の場としてこれはどうあるべきか」を共に考える。その共有可能な問いの存在こそが、教育研究の価値と信頼性を支えているのです。