2020年10月25日日曜日

集中から分散へ

これまで東京一極集中で進んできた日本社会において、現在のコロナ禍で「集中」から「分散」へという流れができ始めています。これは人口の問題だけでなく、エネルギー政策においても同様の流れが求められつつあるものです。

しかし、政府は東日本大震災に伴う福島原発事故が未だに収束していない現時点においても、原子力をエネルギー政策の中で、「ベースロード電源」と位置付けています。欧州においては、すでに脱原発が常識になりつつあり、しかも太陽光・風力発電が技術的な進歩もあり発電単価が10年前に比して、太陽光は1/10程度、風力は1/3程度になりつつあるのです。これまでは、原子力が他の自然エネルギーよりも安価な電源であると盛んに宣伝された時代もありましたが、全くそれは過去のものになりつつあります。 

先月発売された『メガ・リスク時代の「日本再生」戦略』(飯田哲也・金子勝/筑摩選書)を読むとその辺の事情がよくわかります。かつて、2000年代には日本企業が太陽光パネルなどの技術においても世界の先端を走っていたのですが、その後エネルギー政策が原子力中心に傾斜していったため、今やその分野のトップ10に日本企業は1社も入っていないありさまです。

このような誤ったエネルギー政策も霞が関の官僚制度や政策形成によるものだと先ほどの本に指摘があります。(同書83ページ) 

日本の官僚は、個々人は優秀だとしても、ほぼ2~3年ごとに部署を異動する人事慣習があるため、新しく着任した分野で、海外における政策体系やそのベースにある知識体系に精通することは不可能です。例えて言えば、難しい脳外科手術をインターン医師が執刀するようなものです。しかも、日本の行政における政策や制度設計のプロセスは、とても閉鎖的かつ独占的です。審議会の委員も、役所や業界の都合で選ばれることがほとんどです。その審議会も形ばかりのもので、政策・制度の実質的な部分は、事務局を担う役所がすべて決定します。日本の環境エネルギー政策が「2周遅れ」「ガラパゴス」「聞く耳をもたない」などと批判される一因は、こうした政策・制度のプロセスにあるのです。 

これは、教育政策を担う文部科学省にも当てはまることです。この30年間様々な教育政策が打ち出されてきましたが、ことごとく失敗であったことはご承知のとおりです。カリキュラム・マネジメントを現場に押し付ける政策立案者自身が自分たちの作った政策のマネジメントを全くしていないというわけです。最近の大学入試改革をめぐるドタバタは悲劇を通り越して、喜劇にも見えてしまいます。それに振り回される現場の先生方や高校生には心の底から同情します。

ヨーロッパの官僚たちはその分野の博士号の取得者であることが多く、10年、20年と同じ部署の仕事を続けることが多いそうです。そうしたやり方をしない限り、素人が政策決定をすることになるわけです。 

世界は今や「エネルギー分野」「情報通信」「バイオ医薬」といった産業分野において、歴史的な転換点を迎えていると言われます。ところが、そのどの分野においても「周回遅れ」の状態になっているのがわが国の現状です。(教育分野でも「ICT」における決定的な遅れは今回のコロナ禍で露にされました。)

もはやこうしたことでは、挽回不可能にも思えてしまいますが、これまでのような中央集権ではなく、それぞれの地方主権の教育へと回帰することが唯一の改革の方法のようにも思えてきます。要するに、国としての大枠の縛りは緩やかにしておいて、地方ごとに、教育で言えば自治体や学校ごとにその責任者が任された裁量の中で、創意工夫していく、そのようなやり方こそが再生への近道のように思います。そしてそれは、学校経営だけではなく、教員研修や授業づくりにおいても同様に通じるものであると考えます。

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