2019年7月21日日曜日

PLC便り マスマティック・ハラスメントしてませんか?



数年前に担任したある女の子から、こんな算数ジャーナルをもらったことがあります。算数ジャーナルとは、その日の算数授業について、感想やふりかえりを書いたノートのことです。

「私は算数は好きなので、できると嬉しいです。けど、もうたくさん!(怒)」

算数ができるのに、なんで怒っているんだろう?まったく!と思いながらも、返事を書き始めてみると、どうも思い当たる節が見当たります。

当時、「作家の時間」のワークシップ授業を学び始め、自立した学び手を育てようと、計算練習やドリルについて、子どもたちに学習の進度を任せてみる、そんな授業に取り組んでいました。その女の子はクラスの中でも、算数が得意なほう。それだけに、どんどん意欲的に問題を解いていく子たちと同様、算数を楽しんでいるものとてっきり思っていました。けれどもそうじゃなかった。その内面には「どうして、こんなわかっていることを何度も、何度も繰り返し練習するの? 算数ってなんのためにあるの?」と叫びを訴えていたことが、分かってきました。

マスマティック・ハラスメントという言葉を、聞いたことはありますか?

略してマスハラ。「数学を用いて特定不特定多数を問わず相手に対し意図的に不快にさせること」だそうです★。この女の子が感じているように、教科書の練習問題や計算ドリルの数々をこなすこと。これって、マスハラなのでは!? 教師から意図的に不快にさせようとしていないその分だけに、よけいに悪質かも!? こういうことは、実に多くの算数授業の場面で今でも行われているかも知れません。よかれと思っての繰り返し練習や、なんのために算数を学ぶのか、算数で考える楽しさを味わう前に、保護者のお金で買った計算ドリルだから、全てやり終えないといけないという、呪いのように囚われていることも!?ありそうです

ジャーナルの返事には、迷うに迷ってこんなことを書いたかと思います。「Aさんが将来、新しい問題に出会ったとき、自分らしく考えてその問題をよりよく解決していくため、しっかりと考える力をつけるために、練習しているんだよ」と、なんともまぁ、苦し紛れの返答でした。その子との関係も良好なこともあり、「そういうもんかなぁ」と納得しているようでもありましたが、今、思えば、その将来のためにむけて学習することとかは子どもにとっては遠い先の話。さらに、わかっていることを繰り返し練習することに、あまり意味がないと訴えているのに、そこに授業で向き合えていなかったんだと思うのです。



子どもたちは、なんのために、算数を学ぶのでしょうか? そして、私たちはなんのために算数を教えているのでしょうか? 国で、学習指導要領で決まっているから? そうかもしれませんが、そんな大人の都合では、子どもたちの学びは発動しませんよね。なにより、人が学ぶって? 日常のおつりの計算で損をしないために子どもたちは、学んでいるはずはありません。子どもたちに「なぜ算数を学ぶのか?」と尋ねてみると、よくこの返答がでてきます。この電子マネーの時代に!

前回のPLC便り★★では、算数を音楽や美術と同じように、「算数・数学はアートするもの」という側面を紹介しました。では、その算数・数学の本質をアートし続けている人たちってどのような人なのでしょうか? 算数・数学を学び続け、その先になにがあるのでしょうか? それに答えるには、この世界で一番、算数・数学をしている人、つまり「数学者」について調べてみましょう。数学者の仕事って、どんなことをしているのか、想像してみてください。

薄暗い部屋に閉じこもって机に向かい、その机上には数式の書かれた紙と分厚い専門書が立ち並ぶ。むっつりと眉間にしわを寄せて、煙草をくゆらせながら、もんもんと考えている。おもむろに、ふと立ち上がって、なにかがひらめいたかと思うと、ペンを走らせ、ナゾの数式を書き始める。きっとそんなイメージが浮かぶのではないでしょうか。

しかし、実際の数学者は全く異なるようです。数学者がどんなことをしているのかについて書かれた『世にも美しき数学者たちの日常』★★★という本。日本の数学者たち(在野で数学に関わり続ける人達も含まれる)がどんなことをしているのか、興味のわくインタビュー本です。

“実際の数学者はよく旅に出るようです。人と会って、自分の考えを交流しているようです。P77”

多くの数学者は、自分の解釈や理論をもって、色々な分野の人たちと話をするそうです。そのほうが、多様な視点で考えがひらめく。仙人のような暮らしをしているようだと思ったのですが、かなりアクティブに生活していることも分かります。しかし、その一方でまるで数学者たちの嘆きのように、算数・数学をつまらないものにしてしまっている張本人は、学校教育の数学や受験数学と批判されています。

“数学嫌いの理由として答えががっちり決まっているのが嫌いと言う人がいるじゃないですか。それはね、数学じゃなくて受験数学なんですよ。本当は数学ってものすごく自由なんです。P80”

 “受験数学だと短時間でひらめく力、計算力が必要ですが、研究には制限時間がないので。計算力がなくてもチェックする時間は十分にある。だから別に途中で計算して計算ミスしても良い。正しいルートを、この道で行けそうだというのを見抜く数学的センスの方が大事。僕は美的感覚の1種だと思ってるんですけど。P86

自由に考えてもいいし、計算ミスしてもいいんだ!数学者でさえも計算ミスがある。そんなことよりも、どのように解けそうなのか、予想をひらめくセンスのほうが大切なんですね。そのセンスを「美的感覚」と表現しているのがなんともいいと思うのです。

“一般的には、数学の問題は与えられると言う先入観が強いですよね? でも1番面白いのは問題を作ることなんです。問題を起こすと言い換えてもいいかな。新しい問題を作ると、色々と真剣に考え始めるでしょう。そのうち他の誰も考えていないものを見つけると、これが非常に楽しい。さらにこれに関してはどうも人類の中でまだ自分しか考えていないようだ、と言うものがあると、それはもうほとんど死んでもいい!と言う位なんです。なるほど数学の喜びとは創造の喜びなのだ。P40

“問題を作る、その延長線上に要素を作るということがあるわけです。そして未解決問題のような、優れた予想もその中で生まれてくる。予想解決するのも、また問題を作ることで成されるんですね。こういうふうにしたら解けるんじゃないか? と言う問題の積み重ねなんです。だから問題を作ると言うことが、数学の本当に基本的な作業なんです。数学はこれをとけ!の積み重ねではなかった。なぜ?の積み重ねなんだ。なぜ? には正解がない。素朴で個人的な疑問を、好きなだけ突き詰めて良いのである。だから数学を考える事は人生を考えることにつながる。P40”

なるほど、数学者のやっていることは、誰も考えたことのない新しいものをつくりだす喜びでもあり、人生を考えること。なんとも壮大な学問であり、学びです。



現在、算数ワークショップ「数学者の時間」の授業実践に取り組んでいるメンバーたちは、問題づくりにこだわって取り組んでいます。問題づくりは、その問題そのものの理解を深めるためにも、発展的に単元末に取り組むことをおすすめします。1人ひとりがつくった問題をお互いに解き合って、おもしろさやまちがいも含めて交流してみる。その取り組みの中に、創造するおもしろさや、考える魅力、いろんな人と交流して解決しようとするコミュニケーションから生まれる理解があります。まるで本物の数学者と一緒ですね。

子どもが、教師が、なぜ算数・数学をしなくてはいけないのだろう? ふと疑問を持てるのなら、何か少しずついつもの授業を変えていく必要があります。子どもたちからの感想や辛辣なフィードバックは、その授業をより意味のある物へと変えるシグナルかもしれません。もうたいくつな授業、修行のための算数数学はオサラバです。マスハラ禁止!

今だったら、あの当時の計算ドリル地獄からとよりよい距離をとり、もっと算数の持つアートの側面や、創造性を引き出す問題づくりなど、そういった算数・数学を楽しむ時間を一緒に作り出せたかも知れないな、と思うのです。申し訳ない気持ちと、少しの希望をもって、また日々の授業を準備するのです。

★「マスハラとはMathematical harassment の略で数学を用いて特定不特定多数を問わず相手に対し意図的に不快にさせることである。マスハラとは(マスハラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科」 新しい造語なのでしょうか。あまり一般的に使われているようではないです。

★★
なんのための算数・数学? 覚えるから美しさへ、「算数・数学をアートする」こと

★★★
二宮 敦人()『世にも美しき数学者たちの日常』(幻冬舎)2019/4/11

0 件のコメント:

コメントを投稿