2013年10月13日日曜日

カリキュラムも教科書も手段

カリキュラムも、教科書も、学校経営も、教員研修も、あくまでも手段です。

では、目的は何かというと、子どもたちが、教師が、保護者が、地域が、社会が、ハッピーになり、学び続けること。

その手段であるものが、目的化してしまうことは本末転倒。
そういえば、そもそも「子どもたちのため」にある学校が、「大人のため(教師のため)」だったり、「文科省や教育委員会のため」に、いつの間にか摩り替わっている現実もなきにしもあらず、です。

授業の多くも、前にも書いたように、子どもたちのために行われているというよりは、教師のため(主役が誰になっているのか見れば、明らかです!)だったり、教科書(=教育委員会や文科省や教科書会社)だったりしています。

「自分たちのため」と思って授業に出ている子どもはいったいどのくらいいるでしょうか? 

残念ながら、小学校から大学まで、「自分のため」と思えた経験を、私はもっていませんでした。あくまでも、「義務感」でそこにいたに過ぎません。従って、残っているものというか、身についているものも、思いつかないぐらいです。

この「ボタンの掛け違い」、なんとかできないものでしょうか?
「主従の関係の逆転」というか?

そもそも教えるものは何か? 教えられるものなのか? 
それをテストなどで測っていい(測れる)ものなのか? 
と、考えざるを得ないような気がしています・・・・

教える側からではなく、「ハッピーになり、学び続けるため」の側から考えることで。
それが、本来の教師、授業、学校の役割ではないでしょうか?


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