2013年10月20日日曜日

隠れたカリキュラム

 カリキュラム続きで・・・

 私たちは往々にして「見えるカリキュラム」しか見ませんが、子どもたちが学校で学んでいることの多くは見えにく「隠れたカリキュラム」の方です。

 「見えるカリキュラム」の代表は、なんと言っても教科書です。
 よく見えるので、それをカバーしていれば、教師は(管理職も、教育委員会や文科省も、保護者も、そして子どもたちも)安心できます。その大半が、忘れ去られる運命にあることは誰もがうっすら気づいてはいるのですが・・・「自分は少なくともカバーした(教えた)。学べなかったのは、子どもたちの責任だ」と添加することで納得もできます。

 しかし、カリキュラムとはやっかいなもので、「子どもたちが学校にいる間に、体験したり、学んだりすることの総体」です。その中には、多分に学校側が意図しないものも含まれてしまいます。(従って、意図したものが「見えるカリキュラム」で、意図しないものが「隠れたカリキュラム」とも言えます。)

 「隠れたカリキュラム」の方は見えない、ないし見えにくい分、注意しないとその存在すら気づけません。しかし、子どもたちに与える影響は、おそらく「見えるカリキュラム」の比ではありません。

 隠れたカリキュラムの中には、
     ある教科への苦手意識の芽生え
     いじめの存在
     習熟度別指導
     一斉授業や個別学習中心で、グループ学習が行われない
     校長や教師たちは「思いやり」や協力の大切さは強調するのに、実態としてそれらをモデルとして示せていないことを子どもたちが見抜いている
などなど、あらゆるところに存在し、しかも、それらの多くは「見えるカリキュラム」とコインの裏表の関係にあるというか、問題の原因が「見えるカリキュラム」にある場合がほとんどです。要するには、現行のカリキュラムが、小学校であれ、中学校であれ、高校であれ、大学であれ、単純すぎるし、退屈だし、おもしろくないし、意味も自分との関連も感じられないという問題です。そのようなものを一日中そして毎日押しつけられて、教師の思うように振舞っていればいいと言われても、それは無理だし、反発する生徒がいてもおかしくない状況をつくり出していると言ってもいいわけです。

 さらには、そういう状況を感知して、対応できない教師集団ないし教育制度という問題にも至ります。

 「見えないカリキュラム」に興味のもて方は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の第Ⅲ部、とくに147~155ページを参照ください。いまでは、「見えないカリキュラム」ないし「潜在的カリキュラム」で検索すると、相当数の情報が得られます。

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