2012年11月18日日曜日

はるかに望ましい授業・研修のあり方


オーストラリアの理科教育への反応を、白鳥さんのを含めて、数人からいただきました。
その中の一つを紹介します。

毎回PLC便り拝読しております。
 今回記述の3点とも賛成です。
 特に
 興奮したり、発見できることが大事。
 唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切。
 教師が学び続けることが大切。
 の部分に共感します。
 2007年の資料ということは,5年前にかかれたものということでしょうか。
 きっと今は実践が進んでいるんでしょうね。
 現在,本課では,問題解決能力向上のための授業デザインモデル,パフォーマンス課題とルーブリック評価を用いたパフォーマンス評価等の研究をしています。

 以下は、返信です。
メール、ありがとうございました。
オーストラリアは、私が最初に教育に足を踏み入れた1980年代の初頭からすでに、「教科書を使う先生は能力のない先生」と出会った指導主事が言っていたのでビックリしたことをいまでもよく覚えています。
「じゃ、教科書は何のため?」という私の質問に、「能力のない先生、自分で勉強しない先生のためにある」との答えでした。
その意味では、2007年に新たに言い始めたというよりは、長年言われ続けてきたことを、改めて強調したという感じだと思います。

その教科書も、1990年ぐらいには、私が1991年に訳した『ワールド・スタディーズ』という本をベースにしたものを社会科でつくってしまいました。
要するに、正解がない、生徒主体に学ぶ方法で教科書をつくってしまったのです。著者たちに聞くと、別に教科書をつくりたかったわけではなかったそうなのですが、オーストラリアは本のマーケットが小さいこともあり、生徒主体の学び方(興奮したり、発見できること 唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動を実現するには、その方が手っ取り早いと考えたからだそうです。

問題解決能力向上のための授業デザインモデル,パフォーマンス課題とルーブリック評価を用いたパフォーマンス評価等の研究をしています。
 これにも、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップがそのまま使えてしまうのですが・・・
    国語で? とお思いでしょうが、できてしまうのです。

  <メルマガからの続き>



日本の授業は、子どもたちが学ぶことよりも、教科書に書いてあることをカバーする(教えること)が優先されています。「学ぶ」ということを吹っ飛ばして、「教える」ことが横行している状態にある、とさえ言えると思います。それが、子どもたちがよく学べない最大の理由です。そこで、「学ぶ」とはどういうことかを考えていただいたわけです。

いくつかいただいた反応の中に、以下のものがありました。
野球とスキーがそれなりうまくなった理由
・継続した
・自分よりうまい人の真似をした
・うまいやり方をイメージして、それに近づけるように練習した
・自分自身ではわからないところを見てもらい、アドバイスを受けた
・もっと上達したいという気持ちがあった
・練習することが楽しかった
・家族や仲間がいた
などを思いつきました。

共感できる方は、多いのではないでしょうか?

私が、いい学校のつくり方を書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の中で紹介したのは、料理がうまくなった先生の事例です。
       料理を学ぶことは自分が選んだ。興味があった。やる気になっていた。
       どうしたらいいか、それなりの予想がついていた。計画が立てられた。
       誰も私を急かせる人はいなかった。十分な時間をかけることができた。
       料理のうまい人たちを何人か知っていて、アドバイスをもらうことも含めて、その人たちとのやり取りを楽しんだ。

ちなみに、この先生の場合、自分が料理の作り方がうまくなった要因を書き出す前に、子どもの学びに必要なものについても書き出すように言われていたのですが、ほとんど書き出せませんでした。しかし、自分のことについてはスラスラ書けてしまいました。そして、その違いについて考えました。年齢に関係なく、私たちも子どもたちも両方が学習者でありながら、なぜ与えられている条件がこんなにも違うのか、と。そして、子どもたちは、
       自分の興味・関心に合わせた選択を提供されているか?
       予想や計画が立てられるか?
       十分な時間が提供されているか?
       アドバイスをもらえる人や相互に助け合える環境が提供されているか?
と。
以上は、この本の133ページに書いてあることです。

この先生が発見したことは、まさに「目からウロコ」としか言いようがありません。学校で行われている学ぶ/教えるという極めて当たり前の行為が、実は「人はどう学ぶのか」という基本的なことを踏まえることなく日々展開されている、という事実を浮き彫りにしてしまったのですから。

皆さんは、「人はどう学ぶのか」という基本的なことを考えられたことがありますか?
上で紹介したこと以外に、何か大事な要因を考えられますか?

このことがライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップとどう関係するのかまで紹介したかったのですが、長くなってしまったので次回にします。

今回のテーマに関連するようなご意見・ご質問は、下のコメント欄かpro.workshop@gmail.comぜひお寄せください。

2012年11月11日日曜日

小中一貫教育を考える


ここ数年、小中一貫教育を施策として取り入れる自治体が全国的に増えています。

私の勤務する地区でも、今年から市内全校での本格実施となりました。

 

まだ一年経過していませんので、全体的な評価はできませんが、ここまでの感想を述べます。

 メリットは、小中学校教員が相互に訪問する機会が増えて、お互いにどのような教育をやっているのかが、以前よりはよく見えるようになったということです。これまでは、確かにすぐ傍にある異校種の学校にどんな教師がいるのか、どんな教育活動をしているのかはほとんど見えてきませんでした。そのあたりを自覚して、小中連携を意図的に取り入れてきた学校(地区)は素晴らしいと思います。

 また、小中の9年間を一体のものとしてカリキュラムを考えたり、「教育の質保証」を考えたりすることは大切なことです。


 この小中一貫教育では、不登校対策等もその目的に含まれることが多いのですが、そこはそんなに簡単な話ではないと思います。「中1ギャップ」とよく言いますが、小学校と中学校のシステムの違いや学習内容などがその要因に挙げられています。確かに、教科担任制や定期試験など、中学校に入学して初めて出会うものがいろいろあります。ただ、それらによって不登校が引き起こされているとするのは、一面的な感じがあります。


 ここ数年の経験では、次のような傾向が見られます。

小学校時代に欠席がちの生徒は、中学校に入学して、夏休み前まではその多くがなんとかこれを機会にがんばろうという気持ちで、ほとんど休まずに来ることがあります。

しかし、夏休みを過ぎると、休みがちになり、そのうちほとんど欠席する傾向があります。これは、一つにはやはり学力問題が深く関係していると思います。小学校時代に欠席がちの生徒は学力面でも他の生徒よりも到達度が低く、授業そのものが理解できないということが多く見られます。やはり、授業がわからないというのは、だれにとっても苦痛なことです。きっかけは、友人との人間関係のつまずきだったりすることがありますが、その本当の要因は「学力問題」ではないかと考えます。

そう考えると、不登校生徒を減らすためには、少なくとも小学校卒業までに習得すべき学習内容をできる限り「おおむね満足」のレベルに引き上げることが重要です。そうだとすれば、小中一貫教育も、そのあたりに人もお金もかけるような方策が一番効果的と言うことになります。中学校の教員がたまに小学校に出かけて行き、授業をやってもそれで「学力向上」という成果はあまり期待できないということです。

中学校教員が小学校の学力向上に協力するという理念には大賛成ですが、それをやるには今の中学校は忙しすぎます。いろいろな○○教育が様々なところから要請されて、それをこなしていくだけでも大変な労力です。それにプラスして、「部活動」です。この部活動が今のように教員のボランティアによって支えられているにも拘わらず、そのことが正当に評価されていない現状は、いかにも日本的なことです。

そのあたりの整理がなされるには、まだしばらく時間がかかるでしょう。

それまでは授業以外の様々なことはできるだけ取捨選択して、できるだけ授業に優先して職員が向かい合えるような体制作りを管理職がやる必要があります。


今回のテーマに関連するようなご意見・ご質問など、pro.workshop@gmail.comぜひお寄せください。

2012年11月4日日曜日

先週の記事についてのコメント


先週の吉田さんの「オーストラリアでの教育の動き」について考えてみたいと思います。


「学校における理科教育に大切なことは3つある。

    理科教育は、教師(教科書)のシナリオ通りに行われるべきではない 〜 興奮したり、発見できたりすることこそが大事。

    唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切 〜 生徒たちは自分の身のまわりの世界について理解し、重要な問題について考え、そして意思決定ができるようにしてあげるべき。

    子どもたちの学習材と同じレベルで教師が学び続けることから得られる自信が大切である。」


以下は、それぞれの項目について私が考えたことです。


     これは問題解決型・課題解決型授業、プロジェクト型授業の提言です。これは、教師が教え授けるという旧来の授業イメージしかない人にとっては、「基礎・基本」が大切であって問題解決など、「後回しでいい」という発想しかないようです。でも、その両方をバランスよくやることが今のわが国の教育に求められているものだと思います。例のPISA2003ショックによる学力向上の全国的な流れから、ドリル学習やらプリント学習ばかりがもてはやされた時期がありましたが、この国の特徴として、どうもどちらか両極に振れ過ぎることが欠点だと思います。


     「意味が感じられる」というのも、大きな課題ですね。

これまでは吉田さんがよく言われるように、教科書をカバーする授業ばかりでしたので、「なぜ学ぶのか」という必要感や自分の生活に身近に感じられるということが少なかったと思います。

 以前、中学校教育研究会、いわゆる中教研(理科)の県大会で、私の所属する地区が研究発表をする割り当てになった年がありました。そのときに、研究テーマをどうするかという話し合いをして、この「学ぶ意味が感じられる」ということを取り上げることにしました。その「意味が感じられる」という一つの方向として、「日常生活に関連があること」「自分たちの生活に身近なもの」を教材とすることに取り組みました。

 ほぼ半年間、このテーマで様々な教材を作りました。その結果、生徒はどう変わったか。やはり、以前より理科の授業に積極的に取り組む生徒が増えました。アンケート調査などでも、「理科が好き」と回答した生徒の割合も増えました。これは、「学ぶ意味が感じられる」ということがそのような変化を生み出した直接的な要因だと思います。そうなると、物事はうまい方向に働いていくもので、その後「科学クラブ」が設立されたり、そのクラブ員たちが「ロボットコンテスト」に参加したりして、全国でも優秀な成績を収めて、海外の大会にまで参加するようになりました。このような地道な種まきが結局はよい教育を支えるのだと今でもそのことを思い出します。�の「学び続けられる教師の自信」も今のことに関連しているのですが、当時の私以外の担当教師のなかに、この取組以降、次々といろいろな財団の研究助成を自分から見つけてきて、積極的に応募して、自分の勉強を継続させていく人が出てきました。それによって教師としての自信も一段と深めることができたのではないかと思います。このことも、実にうれしいことでした。


 校内研修も「研究授業/授業研究」以外のスタイルを取り入れるという話が以前ありましたが、放課後の時間にゆとりがなくなっている今、各自が時間を見つけて、数人規模での学びを続けていくことがますます求められていると思います。


 知り合いのある大学の先生が、学校訪問の感想を次のようにおっしゃっていたことがありました。

「これは憶測にすぎませんが、先生方は、教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのという感覚なのでしょうか。だから、自分で教材を探し、自分のメッセージを込めて生徒たちと向かい合うなどいう経験はほとんどないのかもしれません。それでは、この仕事は何ともつまらないと思うのですが。・・・・」


 「教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのでしょう」

 まさに、ここに問題があるわけですね。

 ここを転換していくことが、どんな教育改革よりも優先されると言ったら、言い過ぎでしょうか。


前々回の吉田さんの記事にありました

・学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例

・教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み

・子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例

・授業改善のために指導案に代わるものを模索している事例

・その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試みなど



ぜひ、白鳥ないし吉田(pro.workshop@gmail.com)にお知らせください。

2012年10月28日日曜日

オーストラリアの理科教育


前回の投げかけと関連するオーストラリアでの動きを見つけました。

Three key ideas I believe to be important in school science:
•  Science education shouldn’t be prescriptive – it is about the ‘spark of excitement’ that stems from discovery
•  Open-ended tasks and relevance are vital – students need to understand the world around them and make rational decisions on important issues
 Teacher confidence and professional development is just as important as the students’ learning materials.

出典: Re-imagining Science Education: Engaging students in science for Australia’s future, by Russell Tytler, Australian Council for Educational Research, 2007

最初から英語ですみませんでした。これを、日本語に訳すと、以下のような感じです。

学校における理科教育に大切なことは3つある。
・理科教育は、教師(教科書)のシナリオ通りに行われるべきではない ~ 興奮したり、発見できることこそが大事。
・唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切 ~ 生徒たちは自分の身のまわりの世界について理解し、重要な問題について考え、そして意思決定ができるようにしてあげるべき。
・子どもたちの学習材と同じレベルで教師が学び続けることから得られる自信が大切である。

以上は、オーストラリアで理科教育の新しいあり方を提案する報告書の中に書かれていた一節です。ですから、まだ実践されているというよりは、目指す方向性を示した、と言えます。

 あなたは、上に書かれていることに賛成ですか?

これを、あなたの得意な教科に当てはめると、同じことが言えると思いますか?

 少なくとも、過去10年ほど私が興味をもっている、読むこと、書くこと、話すこと・聞くこと、つまり国語には当てはまります。(ちなみに、国語は私の得意な教科ではありません。)そして、教科に固有なことなんて、いったいどれほどあるのかとも思わされました。扱う内容はともかく、少なくとも学び方・教え方に関しては!

 わが国において主流であり続ける教え方(=教師のシナリオ通りに行われる/唯一の答えが存在する/教師が学び続けていないので自信がないなど)は、オーストラリアが向かうべきだと主張している方向性とは逆さまな気がします。

 いったい、なぜそういう現象が起こり続けているのでしょうか?

 書かれてはいませんが、上記の3点の延長線上にあるのは、「評価はテストなどで測れるはずがない」ということです。従って、テスト以外の評価を中心に据えることが必然になります。

 少なくとも、国語の教科で効果的なライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップ(WW&RW)は、上記の3点と評価をしっかり押さえた形で行われています。

前回のテーマだった、①(年間)指導計画の作成、②教師のカリキュラム開発能力と授業力の向上、③子どもたちが主体的かつ活き活き取り組む授業の実践、④授業改善を阻む指導案+研究授業・研究協議に代わるものの実践、⑤「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試みのすべてにも参考になるので(実は、学校経営やPLCという観点からも、WW&RWは極めて参考になるので)、近いうちにWW&RWを紹介する予定でいます。

 今回の書き込みに対する疑問・質問、意見、提案等がありましたら、下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛にお願いします。

2012年10月21日日曜日

指導計画


 指導計画は、何をどう教えるかのプランです。
 以下は友人の教師が、指導計画の現状について説明してくれました。
「それは学校単位で作ることが明記されています。しかし、教育委員会や教科書会社はモデルを示してきます(その後ろには文部科学省がいる??)。そこまではいいのですが、学校は忙しく、先生たちも指導計画/カリキュラムを作った経験がないので、教科書配列をそのまま順守している学校がほとんどです。学校はそれをほとんどコピーペーストしてカリキュラムをつくり出します。つまり、学校によってカリキュラムに個性があるはずなのに、それがまったくない没個性的なカリキュラムができあがっているわけです。それが僕の印象です。もっと、個性的であっていいはずなのに」

 彼これ30年前になりますが、数人の教科調査官と親しくさせてもらっていました。その中の一人(高校の世界史担当)が、「例えば、フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか」という一つの質問で年間教えてもらっても一向に構わないのです」と言っていたことを今でもよく覚えています。しかし、そのあとに以下のようにも付け足していました。「日本の教育で一番欠けているのは、教師のカリキュラム開発能力かもしれません。養成課程でも、現職研修でも、それは扱いませんから」と。
 ここでいう「カリキュラム開発能力」は、教師の「授業力」とほぼイコールなものと捉えることができます。それは、例えば『奇跡の教室』で紹介されているような。


 教育委員会も、教科書会社も(そして、文部科学省も)良かれと思ってしているのでしょうが、結果的にはそれが画一化の原因になっていることはこれまでの歴史が証明してくれています。最も大切な教師のカリキュラム開発能力を無視したまま、教科書をカバーする授業(その大半は身につくことなく、テストのために暗記され、そして忘れ去られる運命?)が続いています。

出発点は「良かれ」なのですが……、実際に起こっていることは「悲劇」です。しかし、みんな「良かれ」ないし「当然」と思ってやり続けていますから、実際にしていることが「悲劇」とは思えません。その間、子どもたちの学びの質と量は極めて低いレベルに抑えられた状態が続いています。教科書をカバーする(=教師自身が心底必要性と面白さを感じていない)レベルの授業が子どもたちにとって楽しいはずはありませんから。こういう状態に数か月~数年おかれると、ほとんどの教師は「マヒ」状態というか「思考停止」状態に陥ってしまいます。以前、「蝶を蛾にする」文化をもってしまっている学校および教育システムと書いたことと関連します。


 このような悲しい状況を回避するために、
     学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例
     教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み
     子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例
     授業改善のために指導案を中心にした研究授業+研究協議に代わるものを模索している事例
     その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試み
などを、ぜひ下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛お知らせください。

2012年10月14日日曜日

学校組織について


日本教育新聞(平成24108日号)に次のような記事が掲載されていました。
 

 「現場の本音」というタイトルで、ある民間人校長のコラムです。

 「当初、学校にはヒエラルキー型の組織が必要だと考えていましたが、今は違います。実は一般企業では、どんどん中間管理職を削っています。命令伝達のスピード化、経営効率の追求などが目的です。
  会社によっては、社長が直接、電子メールで、関係する社員に連絡します。担当取締役、本部長、部長、課長、係長と何層にもわたって伝達すると、途中で、情報に色眼鏡がかかる可能性もあります。そんな仕組をやめる会社が増えています。要は教育界で否定的に見られてきた「鍋ぶた型」組織に移りつつあるのです。・・・・」

 教委は一般に、民間人校長導入の理由として、「民間で培ったマネジメント能力を発揮して、組織化された学校経営を実現する」と言いますが、実は手本とする会社経営自体が変わってきているようです。

 私事で恐縮ですが、私の長男はある機械部品専門の商社に勤めています。そこでも事業ごとのグループ制を敷いています。グループ長は社長からの直接の指示で動き、中間管理職の数は非常に少ないそうです。

 昔の学校は校長が部下職員に対して「よきに、はからえ」で済んでいた部分もあったのでしょうが、今は校内のできごとの多くに対して校長が指示を出さなければならない場面が増えているように思います。
 

 私の現在勤務する学校は生徒指導面でそんなに苦労する学校ではありませんが、それでも毎日いろいろあります。生徒のけが、生徒同士のトラブル、親も巻き込んだトラブル、生徒の登下校の自転車の乗り方に対する苦情など、その対処法を間違えると、大きな問題になることもあります。

 <メルマガの続き>

私は事件・事故の最初の報告で、これは丁寧に処理したほうがいいか、ある程度担当者任せにしていいか、副校長と協議することにしています。その段階でおおまかな指示を出すことにしています。とにかく、早い段階で情報が管理職に届くことが重要です。
 
ですから、いつも「悪いことほど早く知らせてほしい」と職員には話しています。そして肝心なことは、報告がきたら、その場で職員を叱責したり、責めたりしないことです。この段階で叱責したりすれば、二度とその職員は情報を上げてこないでしょう。もし指導の仕方がまずかったりしても、やり方のまずいところは、後でゆっくりと指導すればいいのです。
 
 保護者との話し合いも、校長がすぐに出て行けば、解決が早いと判断したものは、面倒でも私が直接話し合いに出ることにしています。自分が出るか、任せるか、そのバランス感覚も非常に大切であると考えています。
 
そして、学校の対応がまずかったと判断できれば、すぐに謝ることにしています。これは、屁理屈をつけて、自己正当化しようとすると、簡単に収まるものも、こじれることを経験的に学んできたからです。こちらに手落ちがあったときの謝罪は早ければ早いほどよいのです。
 
1年ほど前に、個人情報の取り扱いについて配慮に欠けた対応になってしまったことがありました。そのときは、ある保護者からクレームがあり、事実確認をすると、こちらに非があることがわかりました。そこで、すぐに関係する学年の保護者あてに、謝罪文を出しました。
すると、そのクレームを寄越した保護者から、対応の早かったことに後日、感謝されてしまいました。そのとき、こうした問題の対処の仕方によって、保護者を批判者から支持者へ変えることもできるのだと、つくづく実感した次第です。
 
学校にクレームを寄越す保護者はそれだけ学校への関心が高いのだと考えることにしています。そして、排除しようとするのではなく、こちらの活動ややり方を理解してもらえるように、学校の諸活動やPTA活動に参加してもらうように仕組んでいくことも必要だと思います。これは前任校での話ですが、ある母親はわが子かわいさのあまり、些細なことが心配で度々、学校にクレームを寄越しました。このときは、そんなに心配なら、安心してもらえるように、授業参観日以外に学校の様子が気軽に見られるようにと考えて、「学校通信リポーター」という試みを実践してみました。
これは、学校通信(学校だより)の原稿を作ってもらうことを目的に、校内の授業を見たり、行事に参加してもらったりして、ボランティアとして活動してくれる方を募集するというものです。その母親にもこちらから参加を呼び掛けて、入ってもらうことになりました。
 
 
 年間に6回くらい活動したでしょうか。活動するたびに、その母親も先生方の努力の様子などが理解できたとみえて、最後には学校のよき応援団になってくれるまでに変化しました。
 
 この経験は今の学校経営にも生きています。かつての「学校評議員制」が発展した「地域協議会」という組織がありますが、現任校ではこのメンバーには意欲的な人たちが集まっています。
 
 私はこの人たちから出てきた建設的な意見は、検討してみて、「やる価値がある」と判断できたことは必ずやることにしています。
 すると、不思議なもので、一つがうまくいくと、また次のアイデアが出てくるものです。このようなプラスのスパイラルになったときは、実に気分のいいものです。そんな学校経営ができるように、今日もまた「次の一手」を考えているところです。
 


 

2012年10月7日日曜日

PLC便りの第2段階のスタート



 スタートしてから約1年後の「見直し」というか「振り返り」をしたことで、自分たちの大切にしたいことや目標を鮮明にすることができました。

 まず、私たちは「PLCを、教師の継続的な学びを通して授業改善と学校改善を実現すること」と捉えていますが、このことをこれまで以上に意識した情報発信をしていきます。

 2番目は、教師の継続的な学びを通して授業改善と学校改善を実現すること ねらいですから、単なる情報発信だけではそれが達成されないことも痛感しました。そこで、実際にアクションに移そうとする方をコンサルテーション/コーチ ング/カンファランス(+研修やワークショップ等)の形でサポートしていきます。目的の実現には、かなり密度の濃いコミュニケーションが不可欠と考えま す。
授業改善、学校改善および教師の学び(=教員研修)の分野で、ご自分の目標達成や悩みや課題の克服・改善のために相談してみたいという方は、pro.workshop@gmail.comに気軽にご連絡ください。ベストを尽くして相談に乗らさせていただきます。

3番目は、PLC(プロの教師集団として学び続けるコミュニティとしての学校)の輪を広げることに協力してくださる方を募ります。
「PLC 便りは参考になるから、読んでみたら」と、興味の持てそうな方にぜひ紹介していただきたいのです。そのためには、中身が紹介に値するものでなければなりま せん。まずは、より良い内容のPLC便りにするためのアドバイスをお願いします。(アドレスは上記と同じです。)


  <メルマガからの続き>


 今回のテーマ(やりたいことを実現する)に関連した情報提供は、The Knowing–Doing Gap(原題=知っていることと実際にしていることのギャップ)について書かれた本です。 

一度は、『変われる会社、変われない会社 知識と行動が矛盾する経営』というタイトルで出た本が、いまは『実行力不全 : なぜ知識を行動に活かせないのか』(ジェフリー・ペッファー他著、ランダムハウス講談社, 2005)で再刊されて出回っています。
 
  知っていることと、それを実行に移せないギャップは、学校だけでなく、多くの組織が抱えている問題です。優秀で勤勉な社員が揃っているのに知識を実行に移せずに業績が低迷している会社もあれば、平凡な人々が行動することによって成果を上げている会社もあります。いったいどこが違うのでしょうか? PLC(教師集団が学び続けるコミュニティとしての学校)づくりに参考になる本です。読まれたら、ぜひ感想等をお聞かせください(下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛で)。 

  ちなみに、PLCづくりを考えた場合、教育書よりもビジネス書(や最近では動物行動学)など教育書以外の文献の方が参考になるかもしれないぐらいですから、ぜひアンテナの張り方をこれまでとは変えてみることをお奨めします。

  また、学校の場合は、「知っていること」だけをとっても英語圏で流通している情報量と日本語で流通している情報量には100対1とは言わないまでも、 100対2か3の情報ギャップがあります。これだけの情報格差が存在するのですが、逆に捉えれば2か3で今の教育レベルを維持しているというのはすごいこ とです。これが、4か5、さらには10か20になるだけでも、さらにすごいことになりますから。(しかし、今のままでは「衰退の一途」をたどることは確実 です。)
  それほど、英語圏の情報を知ることは大切であるということになります。フィンランドをはじめ北欧諸国やオランダなどが評価される教育を行っている背景に は、この豊富な情報量があります。なんと言っても、教師の9割以上が英語を解し、直接情報を入手して活かしていますから。(もう一つの理由は、すでに上で 紹介した知識を行動に移せる柔軟な仕組みを教育の各レベルで作り出していることです。)