2013年11月3日日曜日

「朝の読書」=今の学校が抱える課題



いまはかなり広範に行われている「朝の読書」について考えたことを書き出していきます。

1.その前に、いまも1学年10学級というマンモス校は存在するのでしょうか?
  基本的には、校長が生徒たちの顔と名前が一致できるぐらいの規模が理想とされています。子どもたちのことを知らないで管理職は勤まりませんから。(海外のある私立校の校長は、親の顔まで覚えている規模、と言っていました。そこまで対人関係を大切にしています。それに比べて、日本の公立や私立校はいかに保護者を軽視・無視していることでしょうか!!)そうなると、「学校の中の学校」というアプローチが可能です(『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』の239ページで紹介)。10学級の中学校だったら各学年3~4クラスずつ3学年で、300人強という生徒数です。そのぐらいなら、生徒たちにとっても、教師たちにとっても一体感を感じられる規模なのではないでしょうか? さらには、学校をこの一体感の持てる単位にして運営している例は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』★の「いい学校のイメージ」(5~14ページ)の中に紹介しました。

2.「朝の読書」は小学校から高校まで、いまとなってはかなり普及しています。しかし、そもそもその紹介の仕方もあって、朝、登校してから勉強が始まる前のあいだに、静かな時間をもって集中すること、おとなしくすることに重きがあるようです。もちろん、本に親しみ、読む力をつける、ということも目的に掲げられていると思いますが、それはどちらかといえば、二の次の目的です。(よく言えば、一石二鳥。悪く言えば、本音と建前の使い分け、です。)
 もう10年以上前になりますが、秋田のあるグループに招かれたオーストラリアのある州の教育委員会の指導主事が、訪ねた学校のすべてで朝の読書が行われていて、東京に戻って私とその体験を振り返って、怒り出しました。「あれは、教育活動とは言えない!」というのです。「何も教えていないじゃないか。ただ、読ませているだけというのは無責任だ」と。私は、一応、上のようなことを説明しましたが、まったく受け入れてくれませんでした。要するに、学校で行うことは「教育活動」であるべきだ、というわけです。しかし、朝の読書はどう考えてもそういうふうにはなっていないと。

3.私も実際に、朝の読書風景をいくつかの教室で観察したことがありますが、このオーストラリアの指導主事が言うことは否定できないと思います。
 約10分間、読みたい本を読む時間です。教師も一緒に読んでいることは少なかったように記憶しています。
 読むのが好きな子や、朝の読書に慣れて、その価値を見いだせている子たちは、それでもいいのですが、読むのが嫌いな子、苦痛な子、自分にあった本が見いだせていない子(いったい、この種の子たちが何割を占めていると思いますか?)たちにとっては、この約10分間は、ひたすら耐える/我慢する/おとなしくしている時間以外に何物でもありません。いったい、どういう教育的価値があるのでしょうか? これは、最たる「隠れたカリキュラム」です。学校側はよかれと思って子どもたちにやらせているのですが、その意図とは違うことを子どもたちは学んでいるのですから。この場合学んでいるは、「読むのは、退屈、面白くない、我慢する時間、意味のない時間」です。
 そして、それを改善しよう、そういう子たちを救済しようという仕組みがまったくありませんから、「無策」以外の何物でもありません。ただひたすら時間さえ提供すればOKというのです。オーストラリアの教育者が怒り出すのも無理はありません。日本人の教育者で怒り出す人がいないのが不思議なぐらいです。どなたか聞いた方いますか?? この取り組みは、はっきりおかしい、という人を。


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4.アメリカなどの欧米でSustained Silent Reading(ひたすら静かに読む)という形で実践されていたことを、日本で導入・普及する段階で朝の授業前の時間に行うというように、すり替えられました。アメリカなどでは、単に読むのではなく、読むことが指導される時間の中にこれが位置づけられて行われている場合がほとんどです。
下の表は、日本の朝の読書と読むことに特化した授業の一つであるリーディング・ワークショップのアプローチの違いを整理したものです。(表を左クリックし、黒い画面が出たら、今度は右クリックを押して「画像だけを表示」を左クリックすると、+のサインが出て、それをもう一度クリックすると画像が拡大されて、見やすくなります。画面左上の元に戻る「←」をクリックするとブログ画面に戻ります。)
あまりの違いに愕然としてしまうのではないでしょうか。オーストラリアの指導主事は、右側が読むことを教えることだと思っていますから、日本で朝の読書を見せられて、「こんなのを教育活動と捉えて実践していることはおかしい」と思い、憤慨したわけです。

5.要するに、朝の読書をやり続けていては、読むのが嫌いな子たちにとっては拷問的な部分が無きにしも非ず、ということです。好きになれる要素や、読む力をつける要素が皆無なのですから。
 それに対して、リーディング・ワークショップではそれがふんだんに設けられています。
 まずは、教師のサポートが得られます。選書の。具体的な読み方の。そして読んだものをどう扱うかの。(この辺については、『「読む力」はこうしてつける』をぜひご覧ください。)
 読むことは、決して個別な作業ではないことも、友だちと読み合ったり、ブッククラブなどをして体感していきます。読むのが得意でない子や嫌いな子ほど、読むという行為をソーシャルなものにした方が好きになる可能性は高まります。一人で黙々と読むアプローチは、最初から好きではないのですから。それを、時間を設定して強いたところで、好きになれるはずがありません。(この辺については、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』をぜひご覧ください。)

6.国語の読む領域(一般的には、読解教育)と、朝の読書や図書の時間をどう関連づけるかが大きく問われています。まったく関係ないもの、別の物と捉えて取り組んでいる限りにおいては、おそらく子どもたちには矛盾したメッセージを送り続けている部分があります。そもそも、国語の読解と読書をわける必要性があるのでしょうか?
 似たようなことは、各教科に読むということがあまりにも少ないこととも関連します。算数・数学、理科、社会の主要教科を考えただけでも、教科書だけでそれらの教科を学んだ時と、教科書以外の多くの関連した本や資料を使って学ぶ時につくられるイメージはまったく異なったものになります。「教科書をカバーするだけで忙しい」などと言っていられるでしょうか? 読むのを好きになり、かつ読む力を身につけるのと同じように、子どもたちがその教科を好きになり、その教科で身につけるべき力を身につけることがテーマなのですから。 教科書をカバーすることに固執することは、目的と手段を捉え違えているとしか思えません。

7.根本は、自立した読み手、学び手に育ってもらうために、朝の読書、読解教育、国語、算数・数学、理科、社会等がどう寄与しているのかを問わなくてはなりませんが、私たちは日々の授業のこなすことに忙しいあまり、そもそもの目的を忘れてしまいがちです。

 以上7点、少しは、習慣でやり過ごしていることを見直すきっかけになったでしょうか?


★ 日本ではまだ、『いい学校のつくり方』というタイトルではニーズがない、ということで、このタイトルにせざるを得ませんでした。出版界では、一番本を読まないのが学校関係者ということになっています。(教科書をカバーしていればいいのですから、読まなくなります。)保護者の方がはるかに本を読むと思っているので、こういうタイトルになってしまいます。

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