2025年7月13日日曜日

鈴木大裕さんが警鐘する新自由主義が教育を壊すとき 「構想と実行の分離」に抗うためにできることとは何か

 先日、「崩壊する公教育」というテーマで、教育研究者であり土佐町議会議員でもある鈴木大裕氏の講演を拝聴する機会がありました。鈴木氏は、新自由主義が教育にもたらしている深刻な影響について強く警鐘を鳴らし、ICT機器の活用や教員の働き方の変化が、経済効率を優先する分業体制へと移行するなかで、教師たちが専門職としての自信を失いつつある現状を指摘されました。今回は、その講演で私が学んだことを共有するとともに、そこから考えをさらに深めていきたいと思います。


講演の内容については、昨年末に出版された鈴木大裕さんの著書『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)に詳しく書かれていますので、ぜひご一読ください。この前著である『崩壊するアメリカの公教育』の姿が今、日本で起こってしまっていることに驚きを隠せません!



「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限した上で、その中で活発な議論をさせることだ」


講演の冒頭で、鈴木さんはノーム・チョムスキーのこの言葉を引用しました。これは、現代の新自由主義がいかにして教育現場を狭い価値観の枠に閉じ込めているかを端的に示しているものです。新自由主義とは、あらゆる物事を市場の価値基準で評価しようとする思想であり、その影響は教育にも深く及んでいます。新自由主義的な価値観が教育に入り込むと、子どもは「将来の労働力」として投資対象となり、学校や教員は「サービス提供者」、児童生徒や保護者は「消費者」として位置づけられるようになります。


こうした構造のもとでは、教育の本来の目的である子どもたちの人格形成や全人的な成長は後回しにされ、「学力向上」といった表面的な成果や、保護者満足度を意識したサービスの質ばかりが重視されるようになってしまいます。その結果、教育の塾化が進み、外部委託が広がる(たとえば、千葉県では塾講師を招いて算数の授業を行うというニュースも記憶に新しい)なかで、教員の役割は「教育者」から「サービス提供者」へと矮小化されている現実が浮かび上がってきました。


鈴木氏がとりわけ強調していたことは、「構想と実行の分離」という問題です。ここでいう「構想」とは、教育内容や指導方法を自ら考え抜く営みを指し、「実行」とは、それを教室で具体的に展開する行為を意味しています。本来、この二つは不可分であるはずですが、いま多くの教員は、自身で授業を設計するゆとりを奪われ、文科省や教育委員会が示すカリキュラムやマニュアルを忠実にこなすだけの「実行者」へと追いやられてしまっています。その結果、教育の本質について深く思索する時間や機会が失われ、仕事に対する疎外感が増し、職業的誇りの喪失が深刻化している。鈴木氏はこの点に強い危機感を示していました。


また、こうした構想と実行の分離を加速させているのがGIGAスクール構想からはじまるICT化などの教育改革であるとも言及されていました。一見、効率的で先進的に見えるタブレットやICT教材の活用が、個別最適化という名の下、実際には教師の子どもを見取る教育的判断や授業作りの構想力を奪い、教育を単なる技術的な作業に変えてしまう危険性があります。教師の役割が機械やシステムに置き換えられることは、子どもの微妙な変化に気付く人間的な関わりや、個々に応じた柔軟な対応が失われる恐れがあるのです。


一見すると、タブレットやICT教材の活用は効率的で先進的に見えます。しかし、「個別最適化」という言葉のもとで進められているこうした改革は、実際には教師が子どもを見取り、授業を構想する力、つまり教育的な判断力や創造性を奪いかねない危うさをはらんでいます。


こうした状況の背景には、政府や行政が進める「働き方改革」の問題点もあります。現在の働き方改革は、主に勤務時間短縮や業務の効率化に重点を置いています。しかし、鈴木氏はこうした改革が、むしろ教員の仕事からの疎外感を増幅させる可能性があると指摘します。残念ながら、この改革の本質が単なる時間の削減に終始しているため、教育の本質的な意義を問い直すことを阻害しているからです。この問題を克服するためには、教育現場に再び「構想」を取り戻すことが不可欠だと提唱されました。教員が自らの教育観に基づいて授業を設計し、実行できる余地を取り戻すことこそが重要なのです。教育委員会や文部科学省が教育の質を「学力向上のパフォーマンス指標」だけで評価するのではなく、教員がどれだけ主体的に子どもと向き合い、全人的に創意工夫しているかという「構想力」を評価する仕組みを取り入れることが求められています。


これには教員が自発的に行うとされる業務の見直しも必要です。勤務時間外に当たり前のように発生している授業準備や生徒指導、保護者対応などの業務を正式な勤務として認め(これらはなんと、教員の自発的行動と見解が文科省によって示されていた!)、それに見合った対価や評価を提供することが重要です。これにより、教員の働きが正当に評価され、仕事への誇りややりがいが回復することが期待できるからです。




新自由主義的な教育観に流されるのではなく、私たち自身が主体性をもって教育を構想し、実践していく姿勢が、今まさに求められています。教員一人ひとりが、学力向上という目先の成果だけにとどまらず、教育の本質的な意義を問い直し、「人格の完成」という教育の究極的な目的に向かって日々の実践を積み重ねていくことが不可欠です。新自由主義に支配される教育の流れに対して、私たちが自らの手で教育を構想し、実行する力を取り戻すことこそが、真に豊かな教育を実現するための第一歩ではないでしょうか。そのためにも、教育現場における「構想と実行」の在り方をともに問い直し、教育が本来持っている多様で豊かな可能性を再発見していく対話を重ねていきたいと思いました。


みなさんの学校現場では、教員が自ら考え、構想し、実行することがどれだけ保障されているでしょうか? 私たち一人ひとりが現場を振り返り、教育の姿をともに描いていく機会にできればと願っています。


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