前回の最大の問いは、「なぜ、カリキュラム開発能力を教師につけてあげないのですか?」でした。
答えは単純です。
文科省にも、大学にも、そして教育委員会にも、それをできる人がいないからです。したがって、いくら待っていても提供されない構造になっています。
誰も情報を提供(研修)はしてくれませんが、カリキュラムは学校の専権事項ですから、学校がやるしかありません。
教科書や指導書をなぞるだけでは、残念ながら子どもたちが学べるカリキュラムになりませんから。ここでいう、カリキュラムとは「何をどう教えるか」(=子どもたちからすれば「何をどう学ぶか」)です。
そうなると、カリキュラム開発を、校内研究・研修の柱にすえる必要があります。それは、従来の授業や単元開発をはるかに超えたものです。もちろん、教材が先にありき★の「指導案づくり」とはまったく次元が違います。(願わくは、センター研修も移行してほしいですが。)
教師は、教材や授業や単元レベルで子どもたちに責任を負っているのではなく、年間を通した子どもたちの学びに対して責任を持っています。(学習指導要領とは、そういうものです。教科書をカバーしたからといって、学習指導要領の内容を押さえたことにはなりません!!)
基本的に、教師が本当にいいと思ったもの以外は扱わないことが原則です。教師が「お付き合い」で教科書の内容を扱っていると、子どもたちはそれを見抜いてしまいますから、本気で学べるはずがありません。(私たちが研修を受ける時を思い出してください。講師がいいと思って紹介しているものの多くも、私たちに残ったり、ましてや使いこなせたりするようなものはほんのわずかです!)それほど、「何を、どう」扱うかは大切です。それを年間で考えないといけないのですから、容易ではありませんが、本来、それをしない限りは、みんなで「お付き合い」の授業を続けることを意味します。
「カリキュラム開発」は、今からでも決して遅くありません。彼これ50年はやられていないのですから、今から取り組んでも前進あるのみです。
教師は、教えたいことが教えられるようになり(もちろん、学習指導要領を中心にしながら、それなりに教科書で使いたいところは使いますが)、子どもたちは、今よりもはるかによく学べるようになります。なんと言っても、教師の意気込みが違いますから。管理職も生き生きしている教師や子どもたちを見られる方がうれしいです。保護者も、今よりは学ぶことが好きになり、かつ学力がつく子どもを見られてうれしいでしょう。学力さえつけば、教育委員会だって文句は言わないでしょう。
いいこと尽くめです。
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★ 学習指導要領には、教材のことは一切触れられていません。
教科書編纂・執筆者たちが、ある意味では「勝手に」選んでいるだけです。(よく、言えば「良かれと思って」選んだものですが、子どもたちのことは知りませんから、それが適した教材かというと、かなり疑わしいわけです。子どものことを考えるよりも、自分の好みの方がはるかにウェートが大きいのではないでしょうか? 個々の子どもたちが受け入れられる幅は極めて広いにもかかわらず!!
そんなものに「お付き合い」する必然性は、どこにもありません。
目の前にいる子どもたちの方がはるかに大事ですから。教科書よりも。
そして、それができるのは教師であり、教科書ではありません。
どうも、この優先順位が狂っているので、子どもたちの学びの質も量も極めて低いレベルが続いています。
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