2017年8月13日日曜日

カリキュラム・マネジメントがどういうことか分かる本


『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』の第5章までを読んだ、綾瀬市の小松先生と横浜市の冨田先生がメモを送ってくれました。これらを読むだけでも、いま多くの学校が取り組んでいるカリキュラム・マネジメントでも、この本が役立つことがわかります! (第6章以降は、それを授業で具体的にどう実現するか=多様な教え方が書いてあります。)

A
カリキュラム・マネジメント、どの学校でも(?)始まっているんじゃないかと思います。

カリキュラムは、学年の年間計画として、ほぼ教科書通りに並べたものに過ぎませんでした。
でも、進度を揃えるための、よりどころとして、無視できないもの、と言う感じかなと思います。

私にとっても、そうです。と言うか、そうでした。
でも、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』を読んで、カリキュラムは、ただ、単元名を教科書通りに並べたもの、
と思っていてはいけないと、思いました。

カリキュラムは、教材名(単元名)を並べるのではなく、(いや、並べてもいいんだけど)、
学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するものだと
思いました。

勤務校では、校長が中心となって、カリキュラム・マネジメントに今年度取り組んでいます。
勤務校の実態を良さも課題もみんなで出し合い、把握し、
児童に身につけさせたい力を学校全体で共通理解しました。
その上で、今、教科横断的に、地域を活用しながら、これまでの学年年間計画を見直しているところです。

しかし、このカリキュラム・マネジメント、なんか、私自身、しっくりこないな〜と思っていました。
最近、10年研(今年から中堅研と言う)で、カリキュラム・マネジメントを実際にやってみるという演習をやってきましたが、
その時もなんか、しっくりこなかった。
その違和感は、上記したような、「学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するもの」と言う視点が抜けていたからだ〜と気がつきました。

この題材とこの題材が似てるから、この題材で使うこの道具や素材がこっちの教科のこの題材で使えそうだから、
と言う、なんだか、上っ面だけをすり合わせている会話ばかりだったのです。
大事なのは、P90〜92に書いてあった、「学習レベルの典型」というところの、P91中盤「それに対して、ある別の教師は」以降に書かれている部分なんじゃないかと思いました。
「ある別の教師は、理科の四つの鍵となる概念、つまり、変化、パターン、システム、そして相互関係を中心に据えて、1年間の計画を精密に立てました。」★
これこそが、カリキュラム・マネジメントじゃないかと思いました。

このレベルでちゃんとカリキュラム・マネジメントは取り組まないと、意味がないんじゃないかな、と。
年間計画の教材名とにらめっこするだけではダメで、その裏側にある、「事実」「概念」「原理」を基本としてカリキュラム・マネジメントすることが最も大事なんじゃないかと。 


B

カリキュラムの捉え方を、自分の学校と『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中に出てくる学校を比べて考えています。5章まで読んできて、カリキュラムの捉え方が今の自分や学校にとって大切だと思うからです。

 うちの学校にとって、カリキュラムとはまさに子どもが通るべき道です。カリキュラム通りに授業ができた方がいいという価値観があると思います。もちろん、一斉指導において、その通りに進まないのですが(カリキュラム通りに一斉指導で進めてしまう先生は、子どもを大切にしていない先生と言っていいと思います。)できるだけ、子どもの実態がどうあれ、カリキュラム通りに行いたいという気持ちが強いです。

 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中のカリキュラムは、基本の道で、実はこの通りに学ぶ子どもはほぼいないという前提で作られてるように思えます。内容、方法、成果物を構成して、意味のある学習になる目標設定や構成を作るための支援ツールといった感じでしょうか。大切なことは、教師がカリキュラムをたどるようにして教えることが大切なのではなくて、子ども一人ひとりに応じて、カリキュラムをもとに学習内容、方法、成果物を適応させて、子どもたちがいちばん能力を発揮できる学習にするということです。
 カリキュラムがないと、一人ひとりを生かす授業の収拾がつかなくなり、目標も評価も意味のないものになってしまいます。子どもたちがたくさん頑張っても、結果的にまったく違うことを学んでしまい、目的と違うものが学べなかったり、教師がほぼ子どもたちの活動を把握することができなくなったり、よいカンファランスができなくなったりするかもしれません。結果的に、子どもたちはがんばったのにもかかわらず、よい最終評価がもらえないで、がっかりするようなことになるかもしれません。 
子どもたちが、いろいろな学習を展開するからこそ、学習の方向性を示すカリキュラムが必要ということでしょう。

 うちの学校の場合、学習の優先順位は、「一人ひとりの学習 < カリキュラム」に近いのでしょう。だから、カリキュラムに追い付かない子は、支援の必要な子というレッテルを貼られてしまう。本当は、学校や教師の教え方、考え方、捉え方がよくないのに。
 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の学校の場合は、「一人ひとりの学習 > カリキュラム」なのでしょう。カリキュラムは、子どもにとっても、教師にとっても、一人ひとりの学習を迷わないで進んでいけるための、地図でもある。やっぱり大切なのは子ども個人。学習が伸びない子は、その子の実態に合わない教え方、学び方、内容など、なにかに問題があり、教師・学校・子どもみんなで改善をしていく状態にある子という意味なのでしょう。

 僕自身の問題ですが、学校のカリキュラムに、自分のオーナーシップを感じていません。ただそこにあるもの、という軽薄な認識です。自分から改善しようとか、もっとよいものを提案しようとか、そういう気持ちは薄いです。  

 第5章に登場するジョンソン先生は、神話の授業を担当しています。ジョンソン先生は神話の授業を通して、どのような内容を生徒に学ばせたいか(鍵となる概念・基本的な原理・関係のある態度やスキル・必要な知識)は明確です。また、それを身に着けさせるために、どのような活動を開発すればいいか、内容や方法、成果物などの具体的な選択肢や選択できる幅について考えています。最終成果物の必要条件も明確に設定しています。 
  決して、子どもたちを好きなように無責任に学ばせているわけでもなければ、子どもたちから責任を取り上げて自分の管理下のもと学びを強制しているわけでもありません。意味のある学びに到達できるように、教師が選択肢や選択の幅を設けて、子どもたちが学習に責任を持てるように校正しているのです。
けれど、第5章のジョンソン先生からも感じますが、カリキュラムは他の誰でもなく、教師自分自身の責任のもと、大切に扱われ、改善に改善を重ねて磨かれていくものというイメージです。それが、僕を悪い代表とする日本の学校の先生と大きく違う。そば職人が創業以来継ぎ足し継ぎ足し引き継がれているスープのイメージ。伝統工芸の職人が、毎日研ぎ澄まし洗練させていく道具のイメージです、僕が、そういう自分の責任のもとで大切に磨き上げているカリキュラムを持ててなく、どこかの誰かが作ったカリキュラムが、いつも机のいちばん下の引き出しにしまわれているのは、問題ですね。子どもはもちろん誇りに思っている。指導法もある程度身に付けている。けれど、これが私の大切にしているカリキュラムですという責任もったカリキュラムがないと、本物にはなれないような気がします。


★ この部分をもっともよく表しているのが、いい学校や授業のつくり方が書いてある『いい学校の選び方』(中公新書)の127~130ページです。もし、それを一冊の本で読みたければ、『ひみつの山の子どもたち』富山和子がお薦めです。



0 件のコメント:

コメントを投稿