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2018年10月28日日曜日

読書会は江戸時代にもあった

「批判的な読み」の大切さはいろいろな場面で指摘されているわけですが、それを実践する場の一つとして「ブッククラブ」があります。人は所詮自分の視点でものを見たり、書いたりするわけですから、偏りがあります。そのバランスを取るための方法の一つが、「ブッククラブ」のような場で、自分以外の多様な意見に接することです。
「『学び』で組織は成長する」(光文社新書2006)にも紹介されていますが、「ブッククラブ」(読書クラブ)は組織内での研修手法として効果的なものです。忙しい職場でも、今はオンラインでやり取りできますし、離れたところに住むメンバーでもコメントのやり取りはSNSやメールでできるわけですから、非常に便利になったものです。
最近『江戸の読書会』(前田勉・平凡社ライブラリー2018)を読んだのですが、そのタイトルにもあるように江戸時代に「読書会」が盛んにおこなわれていたことを知りました。
同書の「はじめに」には次のように書かれています。

明治の自由民権運動の時代は「学習熱の時代」であった、と評したのは、民衆思想史のパイオニア色川大吉である。1880年代、現在、名前が判明しているだけでも、2000社を超えるという全国各地の民権結社では、演説会や討論会が催され、国会開設の政治的な活動をするばかりか、定期的な読書会も開かれ、政治・法律・経済などの西欧近代思想の翻訳書を読み合い、議論を闘わせた。この時代の民権結社のほとんどは「学習結社的な性格」を備えていたのである(色川大吉『自由民権』岩波新書1981)

2000社を超える民権結社があったことも驚きですが、著者の前田さんはさらに続けてこう書いています。

討論会などは、はたして本当に、明治になってから始まったものなのであろうか。
ここで、示唆を与えるのは、蛙鳴群(現在の岡山県にあった結社)の午前中に設定されていた「法律書会読」をするという読書会である。この「会読」は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読み合う共同読書の方法であって、江戸時代、全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。

「会読」(かいどく)が共同読書であり、あらかじめ決めておいたテキストを読んで、それをもとに討論が行われ、しかも全国の藩校や私塾で一般的に用いられていた学びの手法であったということです。私たちの感覚からすると、日本では民主主義社会になって初めて「討論」することが始まったのではないかと考えて当然だと思いますが、実は江戸時代から共同読書があったという事実は意外です。これが自由民権運動以降、下火になってしまったのは残念です。先ほどメールでの読書会も可能という話もしましたが、できれば対面でやれればさらによいのかもしれません。『江戸の読書会』のあとがきには、著者の大学時代の友人が職場の同僚と30年以上も読書会を続けているという話が紹介されていました。校内で、同僚と、あるいは保護者や地域の方たちも含めて、このような読書会を開けたら素敵だと思います。(『ペアレント・プロジェクト』J.ボパット/新評論2002にもそのような実践に役立つ情報が掲載されています。)

このような人とのコミュニケーションやネットワークが、新しいアイデアづくりやイノベーションに大きく作用しているという話が『ソーシャル物理学』A.ベントランド/草思社文庫2018に紹介されています。この著者はMIT(マサチューセッツ工科大学)教授でメディアラボの創立に関わった人で、様々なビックデータをもとに数式を駆使して、集合知やアイデアを生み出す組織のあり方などを研究しているこの分野の第一人者のようです。興味のある方はぜひそちらもご参照ください。
 

2016年12月25日日曜日

エビデンスとは


Evidenceとは

 
最近あちこちで見かける言葉に「Evidence(エビデンス)があります。たとえば、文部科学省のホームページに掲載されている『次世代の 学校指導体制在り方について(中間まとめ)』(2016/04/22)の中に次のような一節があります。
   
さらに,教育政策について質の向上を目指し,学校やその周辺環境に関する数量データ,事例等を調査・分析し,いわゆる「エビデンス」を活用した政策形成についての取組を一層推進することが重要である。
   
 実は、今月初めにNSTAという全米の理科教師の集まりに参加したのですが、そこであるワークショップに参加しました。参加者は数名のグループに分かれ、簡単な物理実験を通して、「Claim—Evidence—Reasoning」という一連の理科学習の進め方を体験するというものでした。「Claim—Evidence—Reasoning」は、簡単に言えば、仮説を立てて、観察・実験を行い、データを集め、それをもとにして筋道立てた論理構成を行うというものです。

そのとき、講師が強調していたのは、「データとエビデンスの違いは何ですか?」ということでした。そう言われれば、データとエビデンスを混同している例が結構あります。上記の文部科学省の中間まとめの中の一文も、どうみてもエビデンスをデータとしか捉えていません。
   
最近、今井むつみさんの『学びとは何か』(岩波新書2016)を読んでいて、エビデンスを解説している文章に出会いました。次のような解説です。(同書p.164)

evidence」という語は個別の「事実」ではなく、「さまざまなピースを論理的に整合性がとれるように組み立て、構成した論理の不可分な全体」を指すのである。

 
そして、さらに続けて「批判的思考」(critical thinking)についても次のように述べています。(同書p.164)

 
批判的思考とはつまり、前項で述べた科学的思考と基本的に同じで、ある仮説、理論、あるいは言説を、証拠にもとづいて論理的に積み重ねて構築していく思考のしかたのことを言う。単に「感情にとらわれず客観的にものごとを考える」とか「多角的に物事を検討する」ということではないのだ。

 
「深い学び」という言葉もこれからの学習のキーワードとして、さまざまなところで使われていますが、せいぜい「多角的に物事を検討する」レベルを指して使われている場合が多いのではないでしょうか。「深い学び」に直結する「批判的思考」が意味する「証拠にもとづいて論理的に積み重ねて構築していく思考」にはなっていないことが多いように思います。

「批判的思考」については、『「読む力」はこうしてつける』(新評論2010)や『理解するってどういうこと?』(新曜社2014)などを読んでいただくと一層よくわかると思います。
 
この記事が今年最後となりますが、来年は今年以上に多くの先生方が「一人ひとりをいかす教室」づくりに励まれることをお願いしたいと思います。

 

 

 

 

2016年6月26日日曜日

アクティブ・ラーニングの続き


先週のテーマは「アクティブ・ラーニング」でした。

パートナーから「アクティブ・ラーニングの度合い」を測る目安として13項目の質問が提示されました。その部分を引用します。

 
あなたの授業のアクティブ・ラーニング度=生徒の主役の学び度は、次のような質問に答えることで明らかにすることができます。対象が、小学1年生であっても大学生であっても(さらに言えば、幼稚園児でも教師を含めた社会人であっても)。
   
・クラスの生徒たちは、敬意をもって接せられ、大事にされていると感じ、クラスの一員という感覚をどの程度もっているか?

~ 以下12項目が続く

 
    この13項目を読んで、みなさんはどのような感想を持たれたでしょうか。

私は子供自身が学級の運営や授業に関与できる部分を可能な限り広げていくこと、それこそがまさにアクティブ・ラーニングの大前提であるということです。それによって、学級への帰属意識や授業に対するオーナーシップが生まれてくるわけです。

この前提が理解されていないと、アクティブ・ラーニングは子供たちが活動できる手法だけを授業に持ち込めばよいという形式主義に陥る危険性が大いにあります。

かつて、わが国での「総合的な学習の時間」の導入時に同じような過ちが散見されたではありませんか。スキルを身につけさせればよいのだと言わんばかりに、架空の設定で手紙を書いたり、話し合いをする事例もありました。そうではなくて、現実の身近な問題を取り上げて、それを子供たちが自分の力で解決していくなかで、結果としていろいろなスキルが身についていくというのが正しいやり方だったのです。

手法だけに焦点を当てすぎると、このような間違いをしてしまうわけです。

今回はぜひ総合導入時での失敗を教訓に、アクティブ・ラーニングの本質を理解した上で、実践に取り掛かりたいものだとつくづく思います。どうもこの国の教育実践は振り子が極端に振れすぎるきらいがあります。

「流行」に流されすぎず、「本質」のところをしっかりと見つめたいものです。欧米には、すでにこのことについての、実績のある理論と実践があります。

このブログで紹介している文献を手掛かりに、ぜひこれからもみなさんとともに、考えていきたいと思います。

2016年2月28日日曜日

みんなの学校


今月7日のこのブログで、2冊の本が紹介されましたが、その一つ、『「みんなの学校」が教えてくれたこと』木村泰子/小学館2015を読んだ感想を書きます。
   
この本で紹介されている大阪市立大空小学校は、ドキュメンタリー映画「みんなの学校」で紹介されたので、映画をご覧になっている方もいらっしゃると思います。

実は、映画になる前に、NHKEテレ(教育テレビ)でも1時間番組で紹介されました。たまたまタイトルにひかれて、録画をしておいたので、しばらくして学生たちと一緒に見ました。インクルーシブ教育の素晴らしいところを指摘する声と、反面なかなか大変な教育だという受け止めが多かったように思います。
   
この本と映画のなかで、おそらく多くの小学校で手のかかるということで、居場所がなくなり、学校に行けなくなった子供たちが、この大空小学校に受け入れられ、育ちあえるところにまで成長していく姿が描かれています。

 
この本のプロローグに校長だった木村さんが次のように書いています。

「みんながつくる みんなの学校 大空小学校は 学校と地域が共に学び 共に協力しあいながら「地域に生きる子ども」を育てている学校です。」

 
「地域とともに」は公立の小中学校に欠くことのできない経営の視点だと思いますし、この大空小学校でも地域の人々が登下校はもちろん、授業のなかでもかかわっている姿が描かれています。
   
また、授業についても、特徴的な実践があります。

大空小学校では毎週月曜日の1時間目に「全校道徳」を展開しています。ここでは、1年生から6年生までの混合グループを作り、テーマに関して話し合いをするそうです。職員や保護者の有志(サポーター)や地域の人々もこの授業に参加し、大人は大人だけのグループを作るようです。ここで、子供たちは話し合うことの大切さや面白さを学びます。これが、「学校の基幹」を築いたと校長の木村さんは書いています。
   
この大空小学校で用いられている手法は、「効果10倍の教える技術」などで紹介されている「学びの主役は子供」という考えが根底にあるので、うまくいくのだと思います。教師が一生懸命に教え込むというスタイルを捨てて、子供の主体的な学びを大切にしているのです。校長の木村さんは、このことを『「自分の電車」を自分で用意させる』と表現しています。

 
このように学ぶところがたくさんある本ですが、注文をつけるとすると、子供の主体的な学びがもっと具体的に数多く描かれていると、さらに説得力のあるものになったと思います。また、「みんなの学校」の映像でも感じたことですが、校長ががんばっている様子はよくわかるのです。しかし、あまりにもその場面が多すぎて、これではこの校長がいなくなったら、おそらく、この学校はうまくいかなくなるだろうということです。研究学校などでせっかくよい実践ができるところまでいっても、研究指定が終わり5年も経てば、その成果も跡形もなくなるという姿をこれまで幾度となく見てきたからです。そうならないための工夫がもしあるのだとすれば、そこまで紹介して欲しかったと思います。

もう一冊の「イギリス教育の未来を拓く小学校」もこの後、ぜひ読んでみたいと思います。

出版元の大修館書店のホームページには、この本の各章のタイトルが掲載されていました。

第1章 成長への新たな指針

時代の流れに逆らう:研究の前提とするもの
もう一つの方法があること
次へのステップ:限界なき学びの創造
物語の展開

第2章 基礎を築く

ありし日のロックザム校
サークル・グループ・ミーティング
ラーニング・レビュー・ミーティング
専門領域チーム
学校全体の継続的な専門職開発
学習を生き生きとさせる
結論

第3章 学びへの自由を広げる

選択の機会を与える
子どもたちの声を聴く
共に学ぶこと
開かれたカリキュラムの経験
子どもたちに自分の学びを評価させる
学びへの自由を広げる

第4章 学びの人間関係を再考する

挑戦、調和そして「ナチュラル・バランス」
共通の理解に向けて
受容の構築とその伝達
共感することの大切さ
確固とした目的を維持する
つながりを結ぶ

第5章 学びを第一に:学校全体で学びの文化を創造する

学校全体で学びの文化を構築する際のリーダーシップの役割
安定した環境
優れた学習者としての専門職共同体を創る
すべての人が学校の学びの文化に関わる
道徳的要請

第6章 集団的行動がもつ力

学ぶ力を変容する力
学校改善に向けた特徴的なアプローチ
現実的関連性、応用可能性、そして示唆
待ち受ける未来:ここからどこへ向かうのか
最後に

これを見ると、大空小学校との共通点もありますが、違いもあります。イギリスのほうがよりシステム思考的なものが多いかなと判断できます。そのあたりはぜひ、次の機会に紹介したいと思います。

2015年6月21日日曜日

知識社会の学校と教師


先週ここで紹介された「知識社会の学校と教師」を引き続き、話題にしたいと思います。

パートナーの指摘にもありましたが、訳文の読みにくさはかなりのものですが、それでも読む価値はある本です。

 1章の「知識社会の発展」の項では、こんな文章があります。

 
「教育は労働者にとって鍵となる資質である。つまり、情報化された資本主義における新たな生産者とは、企業や国と地域の経済に最も価値ある貢献をもたらす知識の生成者たちであり情報処理の担い手なのである。」

    ICT教育もわが国の学校教育の現下の課題の一つですが、まさに世界共通の大きな課題でもあります。この文章の後に、シンガポールのこの方面での先進的な様子が語られていますが、この点でもわが国はかなり遅れを取っているようです。(もっとも国のサイズということも関係しているとは思いますが)

  2章の「知識社会を乗り越える学校と教師」では、次のような箇所があります。

 
「知識経済の学校と教師は、標準テストの成績や、他者が描いたカリキュラムをただ単に実践するよりも、より高度なスキルと判断を必要とする。」
   
 まさに教師とは、「高度なスキルと判断」が必要とされる職業だと思います。専門職と呼ばれる所以です。「学び続けること」の大切さが求められる理由でもあります。

 この文のすぐ前に「知識経済を乗り越える学校と教師」には、次のものが必要だと書かれています。
   
 ・人格

 ・コミュニティ 

 ・安心

 ・包摂

 ・誠実さ

 ・地球市民としての自覚

 ・思いやり

 ・民主主義

 ・人間性と専門性の成熟

 
 このどれもが大切な項目でしょう。「誠実さ」「思いやり」はこの本でも紹介されているダニエル・ゴールマンのEQにも通じるものです。また、「研修」などでは養っていくことが難しいものでもあります。

 最後の「人間性と専門性の成熟」は、やはり、所属している学校を中心とした「学びの共同体」で、日々の協働を媒介として養われていくものでしょう。
 

2015年1月4日日曜日

考えるということ


新年おめでとうございます。

 
   この休みの間に何冊かの本を読みましたが、その中の一冊に「路地裏の資本主義」(平川克美・角川SSC新書)があります。平川さんが書く文章はいつも納得してしまうものが多いのですが、今回もそうでした。

108ページに次のようなくだりがあります。
   
「わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、かつて大学院での卒業式の祝辞において、「大学は考える『技法』を習得する場所であり、『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だ」と述べられました。・・・(中略)・・・教育をいじくり回したい人は、人間は教育によって改鋳できると考えているようです。」
   

 小・中・高校の学習指導要領が目指す「思考力・判断力」も、最終的にはこの『考える』という営みにつながるものだと思いますが、中教審や教育再生実行会議の人々からこのような話を聞くことはありません。要するに、今、この国の目指している教育の方向は、「英語ができて、自分の利益にのみ敏感で、他人を出し抜く技に長けた人間を養成する」もしくは「礼儀正しく、安い賃金でも文句も言わずに働く、愛国心に富んだ人間を養成する」ことと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 
もう一か所引用させてもらいます。107ページの後半です。

 
「教育に問題があるとすれば、その教育のカリキュラムや、授業時間や、授業内容よりも、必要以上の競争原理を教室に持ち込んだために、いじめや自殺につながる問題が起きていることのほうを問題視すべきであるように思います。」

    わが国は同調圧力の強い社会です。そこに必要以上の競争原理が教育に持ちこまれことが「いじめ問題」をこれほどまでに深刻化させたと言えるのではないでしょうか。

  ここにきて、「競争原理」の圧力は弱まるどころか、「学力テスト」などの形で強まる一方です。しかも、「説明責任」の名のもとに、結果を公表する自治体も増加中です。中には、平均以上の結果を出した学校の校長名を公表するという自治体まで現れる始末で、こうなるともはや悲劇を通り越して、喜劇にすら見えてきます。

 
   教育者にできることは、子どもとともに、よりよい学びの姿を追究すること、これにつきるでしょう。そのための教師の仕事、研修のあり方、校内の組織など、「学びの共同体」にまつわる様々な課題について今年もまた考えていきたいと思います。

2014年7月13日日曜日

聞くことの大切さ


教師たちは「聴くこと」が大切であると生徒には言いますが、自分自身がしばしば生徒の声を聴こうとしていないことがあります。

これによってクラスにはどんなことが起きるのでしょうか。

 

教師が、生徒から正解を引き出すことだけに熱心であると言うことは、生徒たちには「あなたたちの考えに私は興味がありません」というシグナルを送ることです。結果として、生徒は「自分の本当の考えや理解していることを話すことよりも、教師の頭の中にあることを推測する」ようになります。いわゆる「正解当てゲーム」が授業のなかで進行することになります。

 

前回、「質問すること」の大切さを話題にしましたが、「浅い質問」「深い質問」という区別で言うと、「表面的な浅い質問」や「Yes or No」で答えられるような質問が授業時間のほとんどを占めることになるわけです。これでは、「思考力・判断力」など養うことができません。


そこで、「質問」の質を問うと同時に、教師が児童生徒の発言を「聴く」ということが重要になるわけです。児童生徒に発問しながら、子どもたちに考える時間を十分に与えずに、すぐに答えを要求してはいないでしょうか。だれしも、「沈黙の時間」を嫌う傾向がありますが、ここはじっくりと子どもたちに考える時間を与えることが大切です。

 

最近、このブログのパートナーの薦めで、質問に関することや「考えること」に関する本を読んでいますが、読めば読むほど、「よい問いを作るにはどうすればよいのか」ということや、「子どもたちの思考をどう高めていくか」ということが授業づくり(学びの場)の中心であること、さらにはそれらが「よく学べるようにするにはどうしたらいいか」ということに分かちがたく結びついてくるのだと痛感しています。そこに、もちろん「聴くこと」が密接に結びついてくるということなのです。

 

そして、この「聴くこと」が学校のなかで大切にされれば、教師や子どもたちの関係が確実によい方向に変わります。そうなれば、教師も子どもも、人として尊重され、信頼関係で結ばれるような共同体に近づくことができるのだと思います。

2014年2月2日日曜日

学びで組織は成長する


先週の金曜日、1月31日の読売新聞「くらし教育版」に次のような記事が掲載されました。

 

『学校改革 東京から指南役 ※高知』

「高知県の公立小中学校で、東京都の元小学校長が授業や校内運営の改革に活躍している。「指南役」として招いた県教委は、児童生徒の学力アップにつなげたい考えだ。

 この元校長は西留安雄さん(64)。2004年、東京・東村山市立大岱小の校長に就くと、職員会議を廃止し、教師が児童と向き合う時間を増やした。授業では、問題の解き方を自分で考え、グループで教え合った上で、発表する方式を取り入れ、思考力を伸ばすようにした。・・・・」

 

ちょうど、先週のこの「PLCだより」で取り上げられた「学校常識からの脱却」の著者の西留さんです。高知県教委は西留さんの考え方を全面的に取り入れて、改革をしようという意向のようですが、それだけではなく、もう少しその考え方を分析してみたらいいと思います。自分たち(県教委)がこれまでやってきたことの方向性やあり方を再検討するということです。

先週のブログの執筆パートナーの文章を引用します。

 

「最初の章の「学校常識からの脱却」は、見事なぐらいに学校が抱えている課題を明らかにしてくれています。(現職の校長や教師で、課題をこれだけ明確に言える人はどれだけいるでしょうか? 西留さんもこの本を書いたのは、公立の校長を退職してからです。在職中には、書けない内容でしょうか? 校長会あたりからメンバーの総意として、こういうのを教育委員会に指摘し、かつ提案として出すようなことはできないものでしょうか?)」

 

⇒「校長会の総意として」は全く同感です。本来そうあるべきなのです。校長会とはそのような目的で組織されるべきものなのでしょうが、実際はそうなっていないのです。高い会費を取られて、単なる親睦団体ではどうしようもないですね。

やはり、現職中は書きにくいのでしょうね。

 

 後半では、教員の力量向上の話が出てきました。たびたびこのブログでも取り上げるテーマですが、PLCの考え方を理解して、できるところから学校づくりをやれば、3年で変わりますね。

 

また、先週の記事を引用します。

「日本の国語教育には、この題材集めや選書という考え方がありません。同じように、教員研修や研究にも。すべて上から(誰かから)与えられるものとして、それらは存在し続けています。それでは、残念ながらよく学べません。よくて、「お付き合い」のレベルが続くだけです。」

 

⇒「上から与えられたもの」では子どもも大人もよく学べないということです。学び続ける組織をどう作るのか、ここに力を注ぎたいものです。


その方法については、ぜひ『「学び」で組織は成長する』 (吉田新一郎・光文社新書)を読んでください。ここに書かれていることをもとに、各自がその持ち場で取り組めば、学校は確実に変わります。

2013年4月28日日曜日

大学の大衆化



先日、帰る途中に書店に立ち寄ったところ、「大衆化する大学」という本を偶然見つけました。これは、岩波書店から発行されている「シリーズ大学」の第二巻にあたります。
 

 このなかで、「マージナル大学における教学改革の可能性」という論文に目がいきました。ここでいう「マージナル大学」とは、偏差値で輪切りにされた個々の大学を指すのではなく、あくまでも「非選抜型大学」(非選抜とは、AO入試や推薦入試により一般的な学力試験を経ずして入学する学生が多くを占める)において生じている、これまでの伝統的な大学・学生像の範疇に入らない「周辺部」において生じた変化をとらえる概念として、著者の居神 浩(いがみ こう・神戸国際大学教授)さんが提唱したものです。私は言いえて妙のネーミングです。

 

 私が今月から働き始めた大学も、どちらかと言えば、このマージナルのほうに属する部分があると思います。非選抜型で入学する学生が全体の3〜4割ぐらいとのことなので、はっきり言って受験勉強はしていません。まあ、受験のための勉強などやっていたからどうだというわけではありませんが、ただ、高校生時代、あるいはもっと遡って、中学校時代、小学校時代に「よい学び」を経験していない学生が多いのも事実です。

 ですから、学びへの意欲、モチベーションが低い学生が少なからずいることもまた否定できない事実です。

 

 先ほどの居神さんの論文でも指摘されていることですが、学力面で困難を抱えていたり、無気力で生気を感じられなかったりする学生を「よき職業人」「よき市民」に育て上げるためには、大学の組織を挙げての教学改革が必要だという点については全く同感です。それには、大学教員同士の「協同」が必要になるという指摘ももっともだと思います。ただ、それを実現する道のりは決して平たんなものではないでしょうが。

 

 大学の授業は基本的に担当教員に任されている部分が大きいので、同じタイトルの科目でも、全く異なるアプローチから展開していることも珍しいことではないようです。これまでの「研究者」としての位置づけが「教育者」としてのそれよりも優先されてきた歴史的な部分もあるかと思いますが、当然のこととしてこれからは「教育」と「研究」の両輪がうまく回っていかないといけないのでしょう。
 

「学びの共同体」の話をこのブログでも1年以上にわたって取り上げてきていますが、大学こそ「学びの共同体」を志向しなければならない存在であると感じます。

2013年3月31日日曜日

学びのための評価


 年度末の話ということで、評価の話で締めくくりたいと思います。

一番下の表は吉田さんの「テストだけでは測れない」(NHK生活人新書)に掲載されているものです。
 
 
 ときどき私もこの表を見返すのですが、「学びのための評価」がどれくらい日常の活動の中で行われているかが、「よい学びが展開されている」学校だと感じます。評価規準一つとっても、学習者である生徒たちが関わっていくように授業を変えていくことが求められているのだと思います。通知表という形で、学びの結果だけを半ば義務的に通知しても何も変わらないというのが現状です。
本気になって、学力向上を目標とするのならば、まず「評価」から変えなくてはならないでしょう。まず、指導目標から評価法を考えることを当たり前のこととして行えるようにする必要があります。
 「形成的評価」も私が30代のころはよく耳にしたのですが、最近はあまりこのことを強調する人も少なくなりました。でも、この形成的評価、いわゆるプロセス評価にもっと注目していいと思います。
 そのためには、「教師ががんばる一斉授業」から「生徒ががんばる授業」へ転換することが必要です。教師が系統だって記録を取り、生徒への適切なフィードバックをしていくためには、教師ががんばる授業では不可能です。
「生徒ががんばる授業」が実現できれば、生徒とのやり取りを通じて適切に生徒をサポートしていくこともできるようになります。そのような授業では、学習のねらいを明確にして、評価の基準も明らかにした上で、生徒たちに課題を提示して、学習活動に入ることになります。
このような授業がどの学校でも当たり前のように行われることが大切です。そのために、PLCの考え方をもっと広めていく必要があります。
 
 私事ですが、この3月末で公立中学校の校長を退職しました。
 4月からは東京の私立大学で教育方法論などを教える予定です。
 今後は、教員養成の様子についてもお知らせしていきたいと考えています。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 
学んだことの評価
学びのための評価
目 的
平均、目標、教師が決める
学力を伸ばすため
生徒の成長のため
評価の焦点
テストをしているという事実
平均点
教科書の中の知識
学習のねらい、生徒の目標
使いこなせること、できること
評価基準
平均、目標、教師が決める
生徒が基準にかかわる
意 義
説明責任
改善
特 徴
正解は一つ
過去志向
競争
たくさんの答えがある
未来志向
協力
性 格
公式
非公式
方 法
テスト
多様な評価方法
表示の
しかた
わかりやすい数字による成績。
具体的なことば
改善のための具体的な手立てを提供
動 機
アメとムチ
努力すればできる
時 期
授業が終わったあと
学習が行われている間
情報の使い手
教師、保護者など、どちらかと言えば学習活動に関係ない人のためにしているというニュアンス
生徒と教師
教師の役割
事務的な管理者
プロとしての教育者
授業改善
生徒を評価に巻き込む
生徒の役割
テストのための勉強
学ぶのは自分
自分の得意な学び方の把握